彼女のアダ名は『ひっつき虫』。 学校中の共通認識だ。 「今日……暑い……」 「そうね」 「暑いし……胸元でも……はだけてみよう……かな……」 「何やってんの」 「……うふーん」 「いや似合わないし。棒読みだし。あと女同士だし」 性格は根暗。背が小さい。顔もパッとしない。ボソボソとした喋り方。弱々しい態度。成績は悪くないようだけど、運動なんてもってのほか。団体行動があればいつでも足を引っ張る、絵に描いたようなイジメられっ子属性。 「誘惑……されない……? ムラムラ……しない……?」 「しない」 「そっか……。もっと……頑張る……」 「何をだ」 それでも、イジメられているという話は聞かない。 というより、彼女と積極的に関係を持とうとする人間なんていない。 それは何故か。 ひとえに、気持ちが悪いから。 薄気味悪いと言い換えてもいい。 「頑張る……」 「……あっそ」 別に見た目がってわけじゃない。 挙動が不審なわけでもない。 ただ、『ひっついて回る』。それだけ。 「あのさ」 「あ、な、何……?」 「トイレ」 「……うん、トイレ……」 「いや、だから」 「……?」 「トイレ入るから」 「うん……」 「いつまでついてくんの」 「……最後まで?」 「お馬鹿」 たったそれだけなのに。 その一点だけで、彼女は皆から猛烈に嫌われている。 ▼ イジメられるのだって相当つらいだろうけど。 イジメられているわけでもないのに嫌われまくるのも、なかなかつらいだろうと思う。 どちらも経験がないから憶測だけど。 でも、大して可哀想に思えない。 それはおそらく彼女の人柄のせいなんだろう。 ……私が薄情なせいじゃない。 「出す時……耳塞ぐ……から……」 「そういう問題じゃない」 「目も塞ぐ……?」 「どんな教育を受けてきたんだ。親の顔が見たい。一言言ってやりたい」 「親……挨拶……結婚……?」 「お馬鹿」 特定の誰かを無差別に選び、激しく拒絶されるか自分が飽きるまで『ひっつく』。 そんな鴉間生(からすまお)が、次に選んだターゲットは、御園菜生(みそのなお)。 つまり私だ。 「出てけ」 「まだ……入ったばっかり……もったいない……」 「もったいないの意味が分からん。ここは遊園地か」 「このアトラクション……ずっと楽しみにしてた……」 「ほーたーるのーひーかーぁりー」 「いじわる……」 「いじわるちがう」 どうして便座を前にコントをしなくてはいけないのか。 狭い個室に二人。より狭い。当たり前だ。 身体と身体が触れ合う距離。爆発寸前の男女なら、よろしく始めちゃう距離。 視線を正面にするだけで、お互い見つめ合ってしまう距離。 ……あれ、近くで見ると、意外と……? そんなこともあるかもね。男女ならね! 「もう……逃さないぞ……」 「怖い。二重の意味で怖い」 急にストーカーというか変質者というかそれっぽいやつ全般当てはまる怪しい人物に成り果てる間生。 まずい。先に入った私は便座側。対する変態はドア側。逃げられない。 それにトイレに入った当初の目的を思い出した。駅に着いて定期と財布を忘れた時のような焦燥感が私を襲う。 ちょっと違うか。 「それ……」 「……え?」 「菜生ちゃん……考え事すると……いつもそれ」 「どれ……あ」 間生の指摘に気付いて、慌てて口元から手を離す。 考えこむと、無意識にしてしまう、私の悪い癖。 唇の皮を、めくってしまう。それも、血が出るまで。 やめなきゃと思っていても治らない癖。 「ダメ……痛いよ……」 「まぁ、うん……」 「ぁむ……。おいし……」 「って、おい」 珍しく真っ当な指摘、と心安らいだ瞬間。視界に映るのは、私の指を咥える間生。 正確に言えば、私の指に付いた唇の皮を食べる間生。軽く鳥肌が立つ。 「ちょ、きたな……」 「汚くない……。キスだって同じ……」 「そういえばそう……なわけあるか」 「ちぇ……」 ちゅぷ……という音を立てて、彼女の口から指が開放される。 真新しい蛍光灯に照らされた粘り気のある糸が、ぷつりと切れた。なんだか無駄に艶かしい。 唾液にまみれた先端が冷やりとする。爪の隙間の残骸はもうない。 「でも……汚くないのはほんと……んっ……」 「きゃっ!?」 我ながら、らしくない可愛い声を上げて、便座の上に倒れこむように座る。チャチな蓋が「ここ座るとこじゃねぇから!」と悲鳴を上げた。 何もこれから魅惑の排泄シーンを彼女にご覧遊ばせてあげようと思ったわけじゃない。足を引っ掛けられたのだ。小さく大人しい彼女からは想像しづらい物理的なアタック。 「分泌物……。老廃物……。相手次第で……」 「な、何……」 「それは宝物……。ず、じゅ……ずずず……!」 「ひゃああっ!?」 一ターン行動不能にされた私に襲いかかる追撃は、風邪気味の鼻へ。いつもより量の多い鼻水を、口をつけて直接、思い切り吸われた。全力で鳥肌が立った。 「じゅる……。あ……んむ……。ごくっ」 「あああ……」 「……しょっぱい」 「……殴っていい? ねぇ殴っていい?」 「痛く……しないで……」 「無理」 ゴン。と実際音が聞こえるくらいには強くゲンコツを落とした。でも殴り慣れていないからものすごく手が痛くなった。 そして臭い。ハンカチで拭っても臭い。例えうら若き乙女だろうと唾液は乾くと臭い。悲しいけどこれ現実なのよね。 「どこかの……文豪によれば……」 「いきなりだな」 「マゾヒスト……みたい……」 「誰が」 「わたし……」 トイレの個室に押しかけて人の鼻水を啜るとか、とんだマゾヒストがいたもんだ。その文豪をここに連れて来い。今度は蹴りにするから。ついでに唾を鼻に塗り込めてやる。 「菜生ちゃんの……ものになりたい……一つになりたい……」 「間に合ってます」 「なんでもする……」 「じゃあ出てけ」 「いじわる……」 「いじわるちがう」 しかし困った。きっとこれは自分が納得するまで帰してくれないパターンだ。体格差的に無理やり押しのけて帰ってもいいけど、多分根本的な解決にならない。だって明日も学校くるし。 「菜生ちゃんの……床に吐いた唾も……舐めれる……」 「何それ怖い」 「それくらいの……覚悟……」 ふんす、とはいかないまでも、それなりに決意を持った顔の間生。 なるほど、適当言っているわけではないってことか。よく分かった。 「……ならやるけどね」 でも大人げのない私。もごもごと口を動かして、ペッとトイレの床に唾を吐いた。 さあ舐めれるもんなら舐めてみろ。イケナイことをしているようで気分も昂ぶる。実際イケナイことだけどね。ははは。今の私なら盗んだバイクで走り出せるよ。 「……」 「……」 床に落ちたそれを眺める二人。 我ながら正直ドン引きだった。いたいけな少女に何をさせようとしているのか。もはやこれはイジメではないのか。 様々な後悔が渦巻く中、後戻りできない私は観念して最後まで突き通すことに決めた。 「ほら舐めて」 「……うん」 「やるんかーい」 そこそこ力入れて声を絞り出したのに、対する彼女は割とすんなり行動した。 狭い個室でえっちらおっちら腰を落とし、手をつき膝をついて、四つん這いの姿勢になる。 「……え、ほんとに?」 「……うん。……れぉ……ちゅ……ん……」 私が見下ろす中、間生は確かに床を、唾を舐め出した。本当にするとは思っていなかった。私はどうすればいいのか分からず、空中で手をウロウロさせながらただ座っているだけだった。 「ずずず……じゅる……ん、く……ごく……」 「……」 そして舐めるだけでは飽きたらず、啜りだす音まで聞こえる。泡だった水疱の塊が、小さな口の中に吸い込まれていく。犬が餌を貪るように、四つん這いのまま私の吐き捨てた唾を飲み込んでいく。 静かなトイレの中で、粘着質な音だけが響く。 ……なんだろう。この感覚。 「……覚悟……マゾヒスト……」 よく分からない。どちらも。分からなくなってしまった。 ただ、彼女はそれが出来るのだと。そうであるのだと。それだけは分かった。 私のためならば、そうで在れると。小さな背中はそう言っていた。 「……美味しい?」 そしてそれはほんの悪戯心だった。もしくは吹っ切れた先のやけっぱちだったかもしれない。 無心で自分の唾を摂取する矮小な存在を、もっと実感したかった。刻みこんでやりたかった。妙な高揚感に身を任せたくなった。 その頭を、ぐっ、と踏みつける。彼女の動きがピタリと止まる。捻るように足の裏を動かす。髪の毛がグシャグシャになる。床に縫い付けられた頭が少し動き、表情がこちらを見上げる。 「美味しい……」 「……っ」 間生の表情は豊かとは言えない。というよりいつも無表情だ。それでも、はっきりと分かる。 この表情は、恍惚だと。 私の身体中に電流が流れる。もちろん実際に流れたわけじゃないけど、でも流れたのだ。 私の吐き出したものを、嬉々として受け入れる。汚いはずなのに、私のものなら大丈夫なのだと。人としての尊厳を踏みにじるような行為でも、私なら……。 ……なんだろう、この感覚は! 「ごちそう……さまでした……」 「あ、お、お粗末さまでした?」 行為が終わり、再び向き合う二人。 「覚悟……認めてくれる……?」 「あ、あー……」 「まだダメ……?」 「いや、ダメっていうか」 「なら次は……トイレになる……」 「……レベル高いなー」 次、次と、押し寄せてくる間生に、私は曖昧に受け流すのがやっと。この状況だと、次は確実におしっこまでいただかれてしまう。唾をけしかけたのは自分だから、自業自得でもあるけど。 「……だれでも……じゃない……」 「……? ああ、こういうことするの?」 「そう……」 「それがどうしたって感じだけど。こっちからすれば」 「あなたは選ばれし人間……。パチパチ……」 「嬉しくない」 小さい手でろくに音も立たない拍手。こっちが座ってようやく少し見上げるくらいの発育不良な身体。 何でこんなおかしな子に育ってしまったのか。考えたところで答えが出るわけもない。出してあげる義理もない。 「ずっと……側にいたい……」 「唐突すぎる」 「菜生ちゃん……特別……。今までの人と……違う……」 「そりゃどうも」 「だから……ダメ……?」 そのうち、死がふたりを分かつまで、とかおかしな事言い出しそうだ。 「いつまで、なんて分かんないけど……。普通になら……いい」 「ほんと……?」 「でも、さっきみたいなのは……きっとおかしい」 「そうかな……」 「そうよ」 人のこと言えないけど、間生はとんでもなく不器用なんだと思う。人のこと言えないけど。 そりゃあこんな感じで付き纏っていたら、嫌われるに決まっている。気持ちが悪いと思われても仕方がない。何せ、多くの人間にとって間生の主張は『未知』のものだから。未知のものへの感情は『恐怖』だから。 だけど彼女は不器用だから。それを人に押し付けることに疑問を抱いていない。……いや、というより、それ以上に自分の欲求が勝っている。無邪気で素直なのだ。 「でも……」 「でも……?」 「間生のことは……別に嫌いじゃない」 「……。……ほんと?」 「……多分」 「……なんで……自信なさげ……」 「うっさい」 そしてそうカテゴライズできれば、彼女は『未知』ではなくなる。『未知』でなくなれば、恐怖はなくなる。そこに在るのは、ただの小さな女の子だ。ちょっと、いや結構変わってはいるけど。 「だから、もう他の人に付き纏って迷惑掛けるの止めなさい」 「うん……もうしない……菜生ちゃんだけにする……」 「ん。約束」 「約束……」 知らぬ間に私にひっついた『ひっつき虫』。 それは無数の棘で私に食い込み、離れまいとする。 取り払おうとすれば、できたのかもしれない。 でも、そうしなかった。 何故だろう。ただ鬱陶しいだけのはずなのに。 それが、生きていくためにやっていることなのだと知ってしまえば、途端に愛おしく思えて。 一つくらいいいかな、なんて思えてしまうのだ。 「あ、思い出した」 「何……?」 「トイレ。限界。出てけ」 「トイレ……なるよ……?」 「お馬鹿」 いつか、知らぬ間に取れてしまうのだろうけど。 それまでは……。 「……ん、ちょっとしょっぱ苦い……」 「ああああああ……」
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