シングルファーザーの子であった私は、お世辞にも良い家庭環境とは言えなかった。
父から受けていた躾のことを世間では虐待というのだと理解したのは、随分と経ってからだった。
酒、女遊び、ギャンブル。月並みなものに片っ端から手を出せば、必然的に家計は困窮し、やがて私は児童養護施設に預けられた。
幸いにも里親候補はすぐに見つかったけれど、父は頑として親権を譲らず、それは病室で言葉にもなっていない虚言を呟きながら息を引き取るその時まで続いた。
私は施設の職員の方々に良くしてもらい、どうにか”人間らしい”暮らしを学んだ。
里親候補の家族は書類上正式に里親になってくれたみたいだったけれど、”家”という閉鎖空間を極度に恐れる私を見てか、彼らは無理に施設から連れ出すことをしなかった。足繫く顔を見に来てくれていたけれど、無理やり家に引き取られることもなく経済支援だけを受けるという”あしながさん”のような関係がしばらく続いた。
義務教育の半分くらいの年数を使い、ようやく表面上は普通の女の子として振舞うことができるようになった。でも友達と遊ぶということがほぼなく、ファッションやショッピングの楽しさもよく理解できなかった。その代わり勉強だけはしていたから、遅れていた分はすぐに取り戻せた。そんな私を、職員さんは少し同情するような目で見ていた。
そんな中、隷光女学院への入学という話が降ってわいた。
生半可な家庭では受けることすらできないといわれるお嬢様学院だったけれど、里親はそれなりに成功している実業家だったらしく、受験を認められた。どうにか普通の人間として生きていけるようになった程度の私には相応しくない、格の高い学院。それでも及第点ながら入学することができたのは、私を気に掛けてくれる人たちが後ろ盾となってくれたのだろう。職員さんが、泣きながら喜んでくれたのを覚えている。
そうして私は、ようやく”米塚陽子”として生きることを許されたのだ。
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