クモノイトカゴメセンヤ1

 押し潰されそうな人の波を縫って、一人歩く。
 今日の天気は良くもなく悪くもなく。
 ただ朝方降った雨のせいで湿度は高く、雲とビルで覆われたこの街は籠もるような蒸し暑さで私の肌から汗を引き出そうとする。

「あっつ……」

 出てきたばかりだというのに、もうホテルの冷房が恋しい。
 普段家では滅多に付けない冷房も、これも料金のうちの一つだと考えると使わなければ損だというようにフル稼働させてしまう。
 所詮私のエコ意識などこんなものだ。
 すれ違う男性の鞄を避けながら自嘲する。

 世界はすっかり夜の帳が下りたというのに、この街は明るく、鮮やかだ。
 太陽のある時間とはまた違う人たちがたむろし、田舎者である私の神経をいちいち過敏にさせる。
 通りの信号を待っている時間さえ、落ち着かない。
 あちらこちらに配置された客引きから距離を取り、なるべく森の中の木を演じ、足が痛くなるほどの早さで進む。

「ちょっと、怖いかも……」

 周囲全てが敵に見える、そんな被害妄想を抱えながら歩く。
 もちろんそれが自意識過剰だと分かってはいるのだけど。
 サッカーの代表選手は、敵地ではこんな状況でプレイしているのだろうか。
 なんて、比べるのもおこがましいか。

「……ここ、かな」

 狭まった視界の中、やがて目的の場所にたどり着く。
 思ったより近くて助かった。自慢じゃないけど土地勘は全くない。
 化石のような携帯電話を取り出し時刻を確認する。お子さまは出歩けない時間。
 ディスプレイに映るお気に入りの写真が、少しだけ私に勇気をくれる。
 明りに誘われた虫を払いのけ、それをポケットにしまい、顔を上げる。

 無心で足を動かした、その先。
 たどり着いた場所は、私と歳が変わらなそうな、小さなビル。
 お世辞にも綺麗とは言い難いけど、それが逆に雰囲気を出しているようにも感じる。
 目的の場所は、五階。
 エレベーターがあるのに階段を使った理由は、自分でもよく分からない。
 無意識に、時間を稼ごうとしていたのか。
 それとも、運動によって心臓の鼓動を誤魔化そうとしていたのか。
 いつまで経っても整わない息が、白々しいと私を嘲笑う。

「すぅー。はぁー」

 『dulcis(ドルキス)』と書かれたプレートを横目に扉の前で一人、古典的な深呼吸で気を紛らわせる。
 緊張しているのだろうか。
 自分でもよく分からない、変な感覚だ。

「これで、いいのかな」

 目の前にあるインターフォンは、一般家庭のそれだ。
 私の乏しい人生経験の中では、それが『お店』に付いていた記憶はない。
 お店とは、勝手に扉を開けて入るもの。
 その常識になぞらえて、扉を開けてしまいそうになるのをぐっとこらえ、私は数回逡巡して泳ぎに泳いだ人差し指をそこに押し込んだ。

 ピーン、ポーン。

「押しちゃった……」

 目的からかけ離れたおかしな後悔を抱きながら、呼び鈴の音とともに一歩踏み出したことを知る。
 思えば、この時のためにこの街まで来たのだ。
 逃げ出しては、何にもならない。

 一瞬のうちにそんなことを考え、「大げさだな」と苦笑したところで、その扉は開いた。

 ……私にとっての夜が、始まる。

▼

「あら、いらっしゃいませ~」
「こ、こんばんは」

 開けた扉を支えながら、迎え入れてくれる扇情的な格好をした女性。
 定まらない視線できょろきょろしながらもなんとか返事を返し、促されるがまま室内へと身を滑らせる。

 初めて訪れる、フェティッシュバーという空間。
 そこは決して広くはなく、『店内』というよりは『一室』という言葉が似合いそうな気がした。

 照明は所々で妖しく光り、部屋の中を薄暗く灯す。
 壁面に並ぶお酒のボトルやカウンターがバーとしての側面を見せながら、至る所に配置された仮面やちらりと覗く縄、拘束具、天井からぶら下がる鎖などがこのお店のコンセプトをよく表していた。

「あちらへどうぞ~」
「ど、どうも……」

 おっかなびっくり、勧められたソファへと腰を下ろす。
 そもそもバー自体ほとんど経験のない身だ。
 落ち着きなくそわそわしていると、近くに座っていた男性客が声を掛けてくれた。

「初めまして。よろしく」
「あ、は、初めましてっ。よろしくお願いします……!」
「うん、よろしく。こういうお店初めて? そんなに緊張しなくていいよ」
「あ、その、すみません。ありがとうございます……っ」

 言われたそばから挙動不審だけど、どうしようもない。
 慣れた様子から、きっと常連さんなのだと感じた。
 どうやらこの時間のお客さんはこの男性と私の二人だけらしい。
 人が多くて騒がしいのは嫌いだけど、少ないのもそれはそれで変に緊張してしまう。

「お飲み物はどうされます?」
「え、あっ、そう、ですね……じゃあ、何か甘いカクテルを……」
「ではピーチフィズなどは」
「あ、じゃあそれで、お願いします」

 「かしこまりました」と言って女性がカウンターへと向かう。
 さっき扉を開けてくれた女性とはまた別の人だけど、この人もこの人で女性を強調するような艶めかしい恰好をしている。

 向かいに座る女性。
 胸が零れ落ちそうなトップスに、隠す気のないようなミニのスカート。
 グラスを運ぶ女性。
 くびれを強調するコルセットにTバックなどは、表通りを歩けば捕まってしまいそうだ。
 でも、それらは本当に似合っていて、きれいで……。
 だからか必要以上にいやらしく感じられず、そのことが何だか不思議に思えた。
 もし自分が着たら、という想像は悲しくなるのでやめた。

「お待たせしました」
「どうも……」
「それじゃあ、乾杯しましょうか」
「そうね、乾杯~」
「じゃあ僕も。乾杯」
「あ、乾杯、です」

 運ばれてきたグラスを手にそれぞれ乾杯をして、そのまま口に運ぶ。
 汗をかいた身体に、冷たいそれがスッと染み渡るのを感じる。

 甘くて、美味しい。

 それと同時に、思っていた以上に口の中が乾いていたことに気付く。

「さて。初めまして、ね、あなた」
「あ、そう、です。初めまして……」
「ん~? 緊張してる? もっとリラックスしていいのよ」
「こういうところ、初めてで……」
「そっか。まぁそのうち慣れるから大丈夫。堅苦しいお店じゃないしね。ところで、お名前とお歳は? すごくお若そうだけど」
「ありがとう、ございます。あ、私、ナカバ、です。歳は、二十五、です」
「ナカバちゃんね。……って、うそ、二十五? わかーい! そんな若いのにこんなところ来ちゃったの?」
「あ、はは……」

 会話の勢いに任せて、情報交換を済ませる。
 名刺をいただいて、髪の長い女性がこのお店のママ、短い女性がスタッフのケイカさんと認識した。
 あと、お世辞でも若いと連呼されて少しくすぐったい思いをした。
 もしかしたら私みたいな若年層はお世辞でも何でもなく
 業界的に本当にマイノリティなのかもしれないけど、それを判断する知識は私にはなかった。

「でも、ここに来るってことは、『そういうこと』に興味があるってことね」
「は、はい、まぁ……」
「どちらですか? エス、それともエム?」
「あの、よく分からないんです。どちらでもあって、どちらでもないような……。ただそういう行為というか、関係全体に興味があって……、曖昧ですみません」
「あら、謝る必要なんてないわよ。人の嗜好はそれぞれなんだから」

 自信なさげな私の言葉に、細い煙草に火を付けながらママが朗らかに笑う。
 「いろんな考えがあるから面白いんですよ」と、ケイカさんが賛同してくれる。
 その言葉と笑みだけで、無駄に入った力が少し抜ける。

「狭い世界だけど、千差万別よ。十人十色とも言うわね」
「何となく興味があって、で入ってくる子も多いですしね」
「そうなんですか……」
「もちろんすごい経歴の子もいるし、逆にいろいろ勘違いしている子もいるけどね。優劣や上下というより、単に種類が違うだけよ。まぁ勘違い野郎はこの店には居着かないけど」

 からからと笑うママを見ながら、私は目から鱗が落ちる思いをした。

 少し前までの自分は、にわか者扱いされて疎まれるのではと怯えていた。
 浅いこの自分を拒否されそうで、怖かった。
 それは自分がフワフワと地に足がついていない状態だと自覚していたからで、もしかしたら緊張していたのは、そんな自分がバレることに対してだったかもしれなくて……。

 もちろん誰しもが最初は初心者で、こんな思いをしているのはきっといろいろと段階を飛ばしているからなのだけど、それに気付くのはもう少し後になってからだった。

 ともかく。
 内心でどう思われているかは分からないし、単にお店のお客様へのサービスなのだとしても。
 拒否されなかった事実は、それだけでガチガチに固めた防御壁の一つを剥がしていった。
 自分の立ち位置を知れたことは、感じていた引け目を少しだけ和らげてくれた。

「そういえば、こういうことに興味を持ったきっかけとかは何かあるの?」
「そう、ですね。元々ぼんやりと知ってはいたんですけど……。はっきりと興味を持ったのは、とあるウェブサイトを見てからですね。普段から小説が好きでよく読んでいるんですけど、いつかたまたま訪れたサイトで公開されている小説が面白くて……」
「へぇ~。そこからハマっちゃったんだ。なんていうサイト?」
「『ただそこに在るアシヴ』っていうんですけど……」
「あ、そのサイトの管理人僕だよ」
「えっ……うえええっ!?」

 思わぬ横からの告白に、素っ頓狂な声を出してしまった。
 自分の告白がどこかに飛んでいってしまうような衝撃に、一瞬頭が真っ白になる。
 まさか、自分がこの世界に足を踏み入れるきっかけそのものがここに……?
 魚のように口をパクパクさせる私を尻目に、ママはもう一人のお客さんである男性に話しかける。

「あら、そうなの? ミズサワさん」
「同じサイト名を見たことがないし、内容的にも多分間違いないよ。まぁ趣味の一つというか、そんな大それたものじゃないけど」
「あ、あのっ! いつも、拝見してます! 新作も面白かったですっ」
「……趣味でこんな若い子を引きずりこんじゃうんだから、罪な人ね」
「まいったな。はは……」

 さっきまでの借りてきた猫のような態度はどこへやら。
 私はすっかり舞い上がってミズサワさんに質問を投げつけ始める。
 そんな私に苦笑しながら、それでも丁寧に質問に答えてくれた。

 画面越しに見える、作品の数々、取り巻く環境、それらを生み出す、人。
 テレビとパソコンという違いはあれど、私にとってそれは有名人に会うのと同じ感覚だったから、ママが子供を見守るような目になるくらい浮ついてしまったのも仕方のないことだと思う。
 いくらかお酒も入って、次第に凝り固まった心もほぐれていく。

「どうしてあんなに上手に描写できるんだろうって、不思議で……」
「そりゃあ多少なりとも投資しているからね。時間もお金も。そういう裏付けがあるからじゃないかな」
「そうなんですか……。確かに、想像だけだと限界がありそうですね」
「まぁ中にはそれを感じさせないように上手く描写する人もいるけどね。要は使い分けだよ。想像で書くことが悪いとは思わないけど、いろいろ経験したほうが書ける幅が広がるでしょうってこと」
「……そうですね。私もそう思います」
「ナカバちゃんは書いたりしないの?」
「書きたいな……とは思っているんですけど、なかなか……。どう書いていいかも分からなくて」
「なるほどねぇ。あ、もし書いたら読ませてね」
「うっ! それは、恥ずかしいです……」

 初めはぎこちなかった言葉も、雰囲気に酔わされて滑らかになっていく。
 お店に入るまで抱いていた固定観念が、良い意味で壊されていく。
 もちろん、たまたま良いお店に当たっただけかもしれないけど。
 それでも、自分が思う以上にその空気は柔らかくて。
 お店の人もお客さんも、優しくて大人で。
 こんな私でもちゃんと受け入れてもらえるんだ、と、一人密かに安堵していた。

▼

 その後も、しばらくとりとめのない話で盛り上がった。
 とりとめのないといっても、その内容は何も知らない友人の前ではとてもできないもので、そういう内に抱えたものを吐き出すだけで、安い表現だけど心が軽くなる気がした。
 テーブルの上のお皿に盛られたポテトチップスを齧りながら、ママとミズサワさんが話しているのを眺める。
 ケイカさんは新たに来店した男性のお客さんと乾杯している。
 あの男性も、きっと理解されづらいもどかしさをを抱えながら、そうして燻る火をたまに突きながら、日々を生きているんだ。
 なんて、知ったようなことを考えながら、グラスに口を付ける。

 それぞれが何かを秘めていて、折り合いをつけていて。
 このお店に来て、それを吐露して、解放して。
 そうしてまた日常に戻っていくんだ。
 それはあの男性に限らず、他のお客さんも、きっと隣のミズサワさんも。
 そして、私も。
 ここは、そういう場所なんだ。
 醜い欲望も、儚い願望も、秘すべき本音も、全てが剥き出しとなって混ざり合う。
 それができる空間なんだ。
 だからこそエネルギーがあって、でもどこか柔らかいのかもしれなくて。
 それを美しいと思うのは、まだ若いと笑われるだろうか。

「そういえば、本気で何か書こうと思っているのならさ」

 思考の海に溺れて、少しぼんやりとしていたのかもしれない。
 ミズサワさんの一言で、私はハッと我に返った。
 口に付けていたグラスをコースターの上に戻し、続きを促すように視線を合わせる。

「体験してみるべきだよ。せっかく『本物』が目の前にいるんだから」
「そうね~。せっかくだし」
「……えっ?」

 新参者が生意気なことを考えていたせいだろうか。
 急に矛先が私に向き、完全に現実に戻された頭がついていけずに混乱する。

「あの、……えっと?」

 二人とも笑顔なのが、何故か怖い……。
 そして立ち上がったママが棚からごそごそと取り出したものを見て、私はこのお店がどういうコンセプトだったかを改めて思い出した。

「良い経験になると思うよ。本物の女王様に『縛られる』のは」
「強制はしないけど、どうする?」
「あぁ……」

 それは蛇のように私の心を縫い止め、絡みつき。
 しゅるしゅると踊る縄を見ながら、胸がトクンと一つ跳ねる。

 ……夜が、静かに深まっていく。そんな気がした。

▼

 私は割と雑食だ。
 恋愛小説ももちろん好きだけど、ミステリー小説も好きだし、ファンタジー小説も好きだ。
 そしていわゆる、SM小説と呼ばれるものも。

 絶対者であるご主人様や女王様に縛られる、奴隷の女の子。
 その無力で惨めな姿に、胸は知らず知らず高鳴る。
 それはその姿を見ての嗜虐感? 支配感?
 それともその姿に自分を投影しての被虐感? 陶酔感?

 自分はどちらか分からないと、いつも曖昧に答えているけど。
 きっと『どちらでもある』というのが自分の答えなのだと思っている。
 人それぞれ解釈はあれど、SとMは、本質的には同じものだと私は考えているから。

「おいで、ナカバちゃん」
「……はい」

 縄を持ったママに誘われ、背の低いボックスチェアに腰掛ける。
 事ここに至って、否はない。
 そもそもこういうことに興味があって、このお店に来たのだから。
 いわゆるSMクラブにだって行ったことのない私にとって、これは貴重なお誘いなのだと理解したから。

「縛られるの初めてよね? ちょっと触ってみる?」
「あ、はい……。わ、柔らかい……」
「ちゃんと手入れして使い込んでいくとね、こうして柔らかく馴染んでくるのよ。綿ロープでもいいんだけど、せっかくだから、ね」

 自分の中にある麻縄のイメージよりも、しっとりとした肌触り。
 これがこれから自分の身体の自由を奪うのかと思うと、少し怖い。
 だけど、ディスプレイ越しや本の中でよく見知ったそれは、ようやくこうして目の前に現れ、不思議と親近感さえ湧いてくる。

「とりあえず後ろ手に縛ってみましょうか」
「は、はい……」
「緊張しなくてもいいわよ。服も着たままでいいし。リラックスリラックス」
「す、すみません」
「うふふ」

 肩に乗せられたママの手が温かい。
 強張った肩の力を抜くと、優しい笑い声が漏れ聞こえた。
 それはまるで子供をあやすようでもあって。
 「頑張って縛られましょうね」とあやされている姿を想像したらお腹の奥がキュンとしてしまった。

「じゃあ、後ろに手を回してくれる?」
「はい」
「ん。……そうそう。やっぱり柔らかいわね~。若さね」
「そ、そうですか……?」
「そうよ。歳をとるとだんだん固まってくるんだから。大変よ~」

 しゅる、ぱたぱたっ、と、縄がたてる音を聞きながら、迂闊に触れにくい経験則に曖昧に笑みを返す。

「じゃあ、縛っていくからね」
「は、はい」

 和んだ空気そのままに、後ろ手に重ねた手首を優しく掴まれる。
 さっき感触を確かめた縄が、二つの手首を纏めるように、一周、二周。
 その自由を奪おうと、纏わりついてくる。

「……思ったより、緩いんですね」
「そうね~。こういうところは特に血行障害とか気を遣うのよ」

 キュッと縛った気配はあれど、肝心の手首はそれほど拘束感がない。
 初めてだから緩くしてくれているのもあるのかもしれないけど、そうでなくても必要以上にきつく固めてしまうわけではないようだった。
 抜けるか抜けないか、といった締め付けに、根拠のない安心感を抱く。

 手首を縛り終えると、今度は二の腕から胸の上を縄が走る。
 一周回ったところで、手首から斜めに出た縄を真ん中に戻すように引っかけて引っ張り、今度は逆回りに一周、縄が巻かれていく。

「……」

 しゅるしゅる、しゅるしゅると、縄が擦れる音が耳朶を叩く。
 次第に店内のBGMが遠ざかり、没入していく感覚を得る。
 俯いた視線はどこを見るわけでもなく、ただ増えていく身体の締め付けをぼんやりと視界に収める。
 身体に縄が触れるたび、可動域が狭まっていくたび、知らず知らず神妙になっていくのがどことなく可笑しかった。

「……っ」

 二本目の縄が追加される。
 さっきの縄を軸に、今度は胸の下を通っていく。
 縄によってくびり出され、強調させられている感じがして、服を着ているのに恥ずかしくて、押し殺した声が出てしまう。
 そのまま上と同じように二周巻かれた後、脇の下を通って、すでに巻き付いた縄を抱え、キュッと後ろへ戻っていく。

「あっ……!」
「ふふ、締め付け感が増すでしょ?留め縄っていうのよ」

 ぐんと引っ張り、浮いた部分が密着するように、余裕を潰すように。
 左に続いて右側も留め縄を施され、縄はより私と一体になる。
 服越しに身体に食い込んだ縄は、いつか写真で見たそれだ。

「ぁ……う……」

 音が止んで、目的が果たされたことを知る。

 そうしてようやく私は理解する。
 ぼやけ始めた頭がそのことを認識する。

 ……もう、自力では、どうにもならないんだ。

「う、ごけ、ない……。本当に、拘束されてる……」
「そりゃそうよ。そのための縄だもの」

 身体を揺すったり、腕を突っ張ろうとしたりして。でもできなくて。
 確かめるように呟くと、ママが笑いながら答えてくれる。
 きっと、初心者の私のために、手加減して縛ってくれているのだと思う。
 それでも、上半身を拘束する縄は私の自由をしっかり奪い、身じろぎすればするほど「逃げられないぞ」と囁いてくる。
 綿に比べて伸縮性に乏しい麻縄が、ママの意図した形に私を固定する。

「ぅ……んっ……!」

 微かに感じる息苦しさから、短い吐息を一つ、二つ。
 巻きついた縄によって二の腕は身体にはりつき、後ろ手に固定されたせいで自信のない胸が強調される。
 緩いと思っていた手首の拘束も、いつの間にか痛くないぎりぎりのところでしっかりと締まっている。
 ともすれば抜けるかもしれないと思っていた手首は、致命的な害を為さないギリギリのところで厳しく固められ、
 たった二本の縄でもって私は無抵抗な羊へと成り下がっていた。

「どんな感じ?」
「何だか、不思議な感じです……。何とかなりそうなのに、どうにもならない、そんなもどかしい感じ、です」
「過度に負担を掛けない程度に『遊び』はあるけど、それぞれ要所は締まっているからね」

 後ろ手に拘束されるというのは、思った以上に不自由だ。
 縛られた経験なんてなかったから、そんな当たり前のことを今更ながら実感する。

「しばらくこのままでいましょうか。解いてほしい時は言ってね」
「は、はい」
「でも、素直に解いてあげるかは分からないわよ」
「こ、怖いこと言わないでください……」

 私の身体を後ろからそっと抱きしめながら不吉なことを口走るママ。
 急に艶を増したその声にゾクリと震え、思考が妄想たくましく回転する。

 ……本当に、もし解いてもらえなかったら、どうなるんだろう。
 現に今私はこうして縛られていて、自分じゃ何にもできなくて……。

「この状態じゃ、ろくに抵抗できないでしょう?」
「ひゃっ!?」

 ママの手がスッと縄で絞り出された胸に重なり、真ん中の突起を探り当てる。
 服越しに触られたはずなのに、それははっきりと存在を主張していて。
 一瞬のうちに甘い刺激を私に送り込んできた。

 そして――。

「ナカバ。あなた今、縛られているのよ」
「っ!?」

 耳元に当たる吐息とウィスパーボイスに、心臓がドクンと跳ねる。
 同時に、バチン!とスイッチが入る音が聞こえた。

 それは、妄想と現実の境界。
 それまでは、ただ縛られているという『事実』だけだったのに。
 強く、認識してしまった。重ねてしまった。

 今の、言われるがまま縛られた私と。
 いつか読んだ、小説の中縛られた奴隷の少女を。

「何をされても、拒否できない」
「うぁ……」
「ただ、主人の好きなように弄ばれるだけ」
「ひゃああっ!?」

 首元にキスをされ、胸を揉まれ、乳首を抓られる。
 それらを払いのけようとして、できなくて。
 甘んじて受け入れなくてはならない事実に、頭の中がドロドロに溶けていく。
 役に立たない指が、所在なさげに握り拳を作る。
 強張った身体は、それでも縄の檻から抜け出せなくて。
 それは肌に食い込み、決して自由を許さない。

「自由を奪われて、他人の玩具にされて、でも逃げられなくて。何とも言えない感覚でしょう?」
「は、ふ……う、ぅぅ……」
「せっかくだから、存分に味わうと良いわよ」

 そう言ってスッと私の身体から離れ、さっきまで座っていたボックスチェアに戻るママ。
 そしてミズサワさんとお話を始める。
 胸に去来するのは、安堵か、寂しさか。

 ふと店の奥に目をやると、後から入ってきた男性のお客さんが、ケイカさんの手によって私と同じように縛られていた。
 いや、私よりももっと厳しい、本当の緊縛だ。
 私と違い脚まできっちりと縛られた男性は、ケイカさんにされるがまま、そのしなやかな指に翻弄されていた。

 お店のギアが静かに上げられた、そんな気さえした。

▼

「……なわけね。なるほど、そんなこともできるのね」
「ええ。設定も簡単ですし。便利ですよ」
「へぇ~。あ、ナカバちゃんも持ってるの?」
「え、と、持ってない、です。まだガラケーなので……」
「仲間ね! あたしもガラケーなのよ~」
「ママは本当に機械音痴ですしね」
「い、いいじゃない! とりあえず電話とメールさえできればいいんだから!」
「メールすら面倒くさがってあまりしないじゃないですか」

 ミズサワさんの持つスマートフォンを中心に、みんなが盛り上がる。
 ママはどうやら機械音痴なようで、ケイカさんに茶々を入れられていた。

 さっきまでと、同じような会話。
 違うのは、私が縛られたままだということ。
 一度入ったスイッチは、何事もなく続けられる『普通』に戸惑い、自分だけが縛られているという『特別』を主張する。
 だけどその特別さえ普通だというように、普通であると馴らすように、ただ残酷に流されていく。
 『私が縛られていること』はなんら特別ではないと、捻じ曲げられていく。

「ナーカバ、ちゃんっ」
「は、はい……っ?」

 不自由な身体を持て余す中。
 少しぼんやりとした視界の先で、ママが含みのある笑みを見せる。

「おつまみもいっぱい用意してるのに、全然食べてないでしょう」
「ま、まぁ……」

 そりゃあこんな恰好じゃ、と言外に主張しながら、恐る恐る返す。
 すでに私の頭の中は嫌な予感でいっぱいだった。

「そうよね。……だから、食べさせてあげましょう」
「むぐっ!?」

 やっぱり、とは言えなかった。
 言う前に私の口にはピーナッツが押し込まれていた。

「美味しい?」

 脚を組んでその上に頬杖をつくママが、悪戯っぽい笑みで聞いてくる。
 別に美味しくないわけではないので、素直に「……はい」と返す。

 私の返事にますます深まる笑み。そこから目を逸らした先に見える縄。
 それは私の中で緩みかけた『不自由の認識』を引き締めるのに十分で。
 相変わらず緩々とお酒を楽しむ周囲との落差が少し忌々しく思えた。

「次はこれ~」

 そしてそれはどうやらすぐに終わりそうになくて。
 ママは今度はポテトチップスを指に挟んでいた。

「ほ~ら、お口開けて~」
「ははは、意地悪なママだな」

 さっきまで自分の手で食べていたそれが、ママの手によって持ち上げられ、
 私の顔の上方でひらひらと揺れ踊る。
 必然、私は顔を上げ、見上げるようにそれを求め、口を開いた。

「ナカバちゃん、餌を欲しがる雛鳥みたいね」
「あはは、確かに」
「~~~っ!」

 今の私を揶揄する言葉に、客観的な姿が想像できて思わず顔が熱くなる。
 恥ずかしさと、少しの悔しさ。
 それと……。

 それでも伸ばし続けた舌の上に、ようやくお目当てのそれが乗せられた。

「は……む」
「上手上手~! 美味しい? ナカバちゃん」
「は、い……」
「結構『ハマって』ますね、ナカバさん」

 手を叩いて面白がるママの後ろから、ケイカさんも煽り言葉を飛ばす。
 恥ずかしいのに、何故か「やめてください」と言えなかった。

「じゃあ次はこれね」

 私がポテトチップスを食べ終えたのを見計らって、ママが次の獲物を手にした。
 その細長いポッキーの先端が、私の唇にツンと当てられる。

「ほら、口に含んで。まだ食べないでね」
「……ぁむ」

 言われるがまま、それを口に含む。言われたとおり、噛み砕くことはしない。

「これから食べてもいいけど、口から離しちゃだめよ。今度はリスのように可愛いところ見せてね」

 ママの言葉で、意図するところを理解する。
 つまりこれは、羞恥プレイなのだ。
 熱くなった顔が、その効果のほどを知らせてくれる。

「はい、食べてよし」
「ん……ポリ、ポリポリ……」

 言葉通り、リスのように、それを齧っていく。
 どのみち口から離さないで最後まで食べるには、途中で折れても駄目だから、こうするしかない。

「動かすけど、離しちゃだめよ~」
「っ!?」

 ママの言葉と同時に、ゆっくりとポッキーが離れるように動き出す。
 それから口が離れないように、顔を突き出し、上半身を突き出して。
 やがて腰まで浮かせて、必死についていく。

「見てほら、可愛い!」
「何だかポッキーがリードみたいですね」
「そう言われると愛玩犬みたいだね。可愛い顔してるし」

 好き放題言われているのも構わず、無心で目の前のそれを追いかける。
 いや、無心になろうとしているだけかもしれない。
 そうでないと、恥ずかしくてその場を投げ出してしまいそうだったから。

「ケイカちゃん、床にタオル敷いてあげて」
「分かりました」

 中腰の状態まで引っ張られ、そこからまだ下へと誘導される。
 極端に狭まった視界は、ママの手しか見ていない。
 味なんてちっとも感じない。
 縛られて、不自由な身体のままで。
 ただ私はそういう玩具のようにそれを追いかけて。

 やがて気が付くと身体はチェアから降りていて、床に膝をついていて。
 食べ終わる頃にはママの足元で跪いた状態になっていた。

「よくできたわね~。よしよし!」

 頭をポンポンと撫でられる。
 不自由を弄ばれて、羞恥心を煽られて、屈辱すら感じているはずなのに……。
 手放しで褒められて嫌な気持ちはせず、どうにも処理できない感情を抱いた。

「じゃあ、これで最後」

 そんな私の葛藤を知ってか知らずか、ママが最後と言って目の前にお皿を掲げる。
 今まで食べたものが雑多に乗せられたお皿。
 それが、膝をついた私の前、つまりは床に、コトリと音を立てて置かれた。

 私はそれを、グズグズになった視界で見ていた。
 ショートしそうになる頭を押し留めながら、見ていた。

「さぁ、ナカバちゃん。食べられるわね」

 そう言ったママの顔は、間違いなく女王様のそれで。
 そのとき初めて、私の中のスイッチが完全に入ったのかもしれなくて。

 お酒もあったかもしれない。雰囲気もあったかもしれない。
 それでも、普段の自分を思えば、到底踏み出せない一歩だったように思う。

「へぇ……」
「やっぱり、『ハマって』ますね」

 声を上に聞きながら食べるそれは、味を感じられなかった。
 チカチカと明転を繰り返す感情に紛れて、ぼそぼそとしていて。

 それでも――。

「美味しい?」
「……は、い」

 夜に飲み込まれた感覚だけは、しっかりと刻み込まれた。

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