クモノイトカゴメセンヤ２

　しばらくして、縄を解いてもらった。
　ゆっくりと腕を前に戻し、何となく身体を抱くように腕を重ねる。
　あれだけしっかりと私の身体を拘束していたそれは瞬く間にただの束に戻り、役目を終えたと言わんばかりに棚の中に帰っていった。

　窮屈さから解放され、無意識に「はふ」と溜息が出る。
　体感はともかく時間としては短い間だったからか、特に身体が痛むということもない。
　でもきっと短い時間でも、やりようでいくらでも痛みを伴うのだろう。
　こういうところも技術なのかなと頭の片隅で思った。

「どうだった？」

　片付けを終えたママがそう問いかけながら、私の肩にそっと手を置く。
　それは自然な仕草で、だからか反射的に身構えることもなくて、いつの間にかそれに違和感を感じなくなっていたことに驚いた。

「あまり上手く言えないですけど……。こんな感じなんだ、とか、感心する気持ちが強くて」
「勉強になった？」
「はい。とても」

　今まで画面越し、紙面越しにしか見たことのない、『縛られる』という行為。
　もちろんいつか見たそれらのように、実際に監禁や調教をされたり、ましてやグラビアのように写真を取られているわけでもないけど、それでもお触り程度とはいえ貴重な体験ができたという思いに嘘はなかった。

「でも、それだけ？」
「……え？」
「うふふ。何でもなーい」

　だけど、離れ際にママが発した言葉。
　「それだけ？」という問いかけは、しばらく私の中でふわふわと踊った。

　後学のために、経験の一つとして、縛られてみた。ただそれだけ。
　それだけ、のはず……。

　もやもやとした感情は口に出すことはなかったけど、それとどう向き合っていいのか分からなくて、持て余して。
　結局心の隅っこで保留扱いになった。

　誤魔化すように擦った手首は、この短い時間でもしっかりと縄の跡をつけていた。

「おかわり、いかがですか」
「はひっ!?　あ、はいっ、さっきと、同じので……！」
「かしこまりました」

　ボーっとしているところにケイカさんから声を掛けられ、飛び上がる。
　どうやらケイカさんとお話していた男性はすでに帰ったようだった。
　そんなことに気付かないほど入り込んでいたのだろうか。
　程なくしてグラスを運んできてくれたケイカさんに、「どうも……」と聞こえるか聞こえないかといった声でお礼を言い、そっと口をつける。
　店内の空調は変わらないはずだけど、やけに冷たく心地よい感じがした。

「あれ、そういえば今日はミツバちゃんは？」
「ミツバ？　シフトには入っているから、もう来るはずだけど……」
「時間的にはすでに遅刻確定ですが」

　ミズサワさんの口から、新たに人の名前が出てくる。
　その様子に、やっぱり常連さんなんだ、という変な感慨を覚えながら、私は今聞いた名前の行方を追うことにした。

「……ミツバ、さん？」
「そう。スタッフの一人なのよ。来たら紹介するわね」
「……噂をすれば、のようですよ」

　私の問いにママが答えようとした時、ケイカさんがすっと立ち上がる。
　どんな人なんだろうと思う暇もないくらいのタイミングだった。
　遅刻をするくらいだから、とんでもなくチャラい人なんじゃないか。
　そんな人が来たらどうしよう、そういう人に免疫がないし……。
　なんて余計なことを考えている間に、呼び鈴が鳴り響いた。

「すみませ～ん！　遅くなりました～！」
「本当よ！　お客様もいらっしゃるのだから、早く着替えてきなさい」
「は～い！」

　開けられた扉からパタパタと入ってきた女性は、私の下らない予想に反して可愛い声で謝罪しながらの登場だった。
　ママのお叱りを受けながらも、いつものことなのか堪える様子もなく、そのままお店の奥の部屋へと吸い込まれていく。
　あっという間の出来事に、私は反応できずにポカンと眺めるばかりだった。

「……あの子がミツバ。まだまだ未熟だし、遅刻も多いし、オーナーとしてはもう少ししっかりしてほしいのよねぇ」
「はぁ……」
「ですがあれでいて男性からは受けがいいんですよ」
「そうなのよね～。若いし。調子に乗らないの！　って躾けないと……」
「あはは……」

　本人がいないところでの二人の評価に苦笑いで曖昧に濁す。
　ただその言葉はそれほど険のあるものではなくて、どこか後輩やお弟子さんに対するような感じがしたので、きっと可愛がられているのだろうな、と受け取った。

「着替えてきました～」
「ほら、お客様のお隣に座って」
「はい！　あ、ミズサワさんこんばんは～！」
「うん、こんばんは」

　やがて出てきたミツバさんは、ママに指示され私とミズサワさんの間に座る。
　やっぱり馴染みなのだろうミズサワさんにパッと笑顔を咲かせ、それはお店のスタッフとしての顔を見せながらどこか子どもっぽさも感じられて、その様子を見ながらさっきまでの脳内下馬評はどこかへ捨てた。

「ナカバちゃん、改めて紹介するわ。この子がミツバ」
「初めまして！　ミツバっていいます」
「初めまして、ナカバ、です」

　ママやケイカさんを『綺麗』に分類するなら、ミツバさんは『可愛い』だろうな、と挨拶をしながら思う。
　さっきケイカさんが言っていた、「男性から受けがいい」という理由も、何となく分かる気がした。
　私が抱いた、小柄で明るくて人懐っこそうな第一印象は、きっとお店に来る男性も抱くものなのだろう。
　そのくせ、白いコルセットに加え下半身を透け感のあるレース地のみで覆う扇情的な姿は、ギャップもあってつい目が行ってしまう。
　私が着たらどうなるか、という想像はやっぱりやめた。

「ナカバちゃんも若いけど、この子も若いわよ。いくつになったんだっけ」
「あたしですか？　２３です～」
「えっ!?　年下……」
「あ、そうなんですか？」
「ナカバちゃん２５歳なんだって」
「わ、先輩ですね！」
「先輩……とは言わないような……」

　お店柄からか恰好からか、想像していたよりずっと若くて驚いた。
　そりゃあ成人には違いないけど、まさか年下の子がいるなんて……。
　もちろん偏見なんてないし、自分も似たようなものだけど。
　だからこそ、どうしてこの世界に入ったのか、気になる。

　でも、今はそれ以上に興味を惹かれるものが、目の前にあった。

「Ｍ女だから、可愛がってあげてね」
「えへへ」

　初めて見た。Ｍ女さんと、貞操帯。

▼

「それじゃあ、今度は僕の番かな」

　ミズサワさんがそう口にしたのは、ミツバさんが登場して浮足立った空気が落ち着いて、思い思いに話に華を咲かせながら四杯目のグラスが半分ほどに減った頃だった。

「おいで、ミツバちゃん。ナカバちゃんも」
「はい！」
「は、はい」

　中肉中背、だけどしっかりとした体格のミズサワさんがすっくと立ち上がり、さっき私を縛った縄がしまわれた棚へと近づいていく。
　今度は何が出てくるんだろう。
　ミツバさんはすでに空いたスペースへと移動している。
　ママは何も言わず楽しそうに眺めながら煙草をふかし、ケイカさんはカウンターの向こうで何やら作業していた。洗い物だろうか。

　そういえば、今何時だろう。
　腕時計をしない主義の私が時刻を知るには携帯電話を見るしかないけど、今それをすることはどこか無粋な気がしてやめた。
　ただ、何時であろうとまだ帰る気すらしないのは、きっと思った以上にこの場この空気に価値を見出しているのだろうと思う。

「ナカバちゃんはさ」
「あ、は、はいっ」
「何か、好きな拘束具はある？」

　棚を漁りながら振り向くことなく声を飛ばすミズサワさん。
　何の躊躇いもなく出てくる拘束具という単語に、微かに心臓が跳ねた。
　だけど、それはもう今更だ。
　お店の空気にのぼせた頭は、どこまでも境界を曖昧にする。

「どれも、それぞれ気になりますけど……。私は……首輪、です。拘束具、という括りに入れていいのか分からないですけど」
「へぇ。どうして？」
「何というか……。身体以上に、心が、閉じ込められるような……。自分の身体を明け渡す。ひいては自由を手放す。そういう、象徴みたいなものだと思うんです。だから」
「……なるほどね」
「何だか、抽象的ですね。すみません……」
「いや、よく分かったよ」

　上手い言葉が出てこず、ちゃんと説明できているか分からなかったけど、思ったことを素直に、出てくるに任せて口にした。
　こんなことを誰かに話したことなんて、ない。
　だから、つっかえつっかえになりながらも、思う以上に饒舌になったことに自分で少し驚いた。

　私、こんな風に話せたんだ……。

「じゃあまずは首輪にしようか。……はい」

　こちらを振り向き差し出された手には、言葉通りの、首輪。
　ただそれは、犬や猫に使うような革のものではなく、金属に緩衝部のついた、ずっしりと重みを感じる幅広の輪っか。
　まぎれもなく、『人間に着ける』ことを想定した首輪だった。

「ミツバちゃん」
「はい。ナカバさん、お願いします」

　ミズサワさんの声に反応し、ミツバさんが肩まである髪を纏め、持ち上げる。
　そして無抵抗に差し出される、首。
　渡された首輪を両手で持って、ミツバさんの後ろに回る。
　嫌でも目に入る、綺麗なうなじ。

　ここに、……巻くんだ。
　そう思うと、首輪を持つ手に力が入った。

「左右に引っ張れば開くから」
「は、はい……っ」

　言われるがまま、首輪の端と端を持って左右に引っ張る。
　ゆっくりと丸が崩れ、蹄鉄のような形に開いたところで、端が当たらないように首に通す。丸の中に、首を入れる。

「端同士を噛み合わせて、これ」

　追加で手渡される、小さくも重みのあるそれ。
　あるだろうなと思いながらも、実際に出てくると胸がざわつく。
　端同士を合わせて、それらが離れてしまわないように。
　白く細い首を、完全に首輪の中に閉じ込めてしまうために。
　その南京錠は、しっかりとその役目を果たすだろう。

「……ふ、ぅ……」

　微かに、ミツバさんの息遣いが聞こえる。
　震える指が、何度か不器用を発揮しながら、錠を下ろす。
　カチリ、という音は、思う以上にあっけなく、小さく。
　なのにそれはやけに耳に残り、しばらく私の中で反響した。

「……」
「……。次は、これ、いってみようか」

　空気が、粘り気を増したような、そんな錯覚すら覚える。
　視線を移した先に見えるは、黒く縦長の塊。
　ミズサワさんがミツバさんに、後ろを向くように指示する。
　ちらりと編み込みの紐が見え、脳内検索が答えを提出する。

「アーム……バインダー……」
「そう。アームザックとも言うね」

　装着者の手を、腕を、拘束する革袋。
　背中側に伸ばされたミツバさんの腕が、スルスルとその黒の中に飲み込まれていく。
　両の腕をまるで一本にするかのように纏め上げられ、胸を突き出すような姿勢を強要される。
　それもまた、『向こう側』にしか存在しないもの、『だった』。

「は……んっ……」

　私の世界ではブーツのそれとして存在していた編み上げが、すぐ目の前、腕を閉じ込めるそれとして存在している。
　ただそれは一度にしっかり編み上げてしまうのではないようで、ある程度のところで一旦仮結びされた。

「こういうのは、密着度というか、拘束感が大事だからね」

　革袋の口側から生えたベルトが脇下から正面を通り、胸の上で交差して戻る。
　脱落を防ぐそれは、アームバインダーを背負わされているようにも思えた。

　ベルトを仮止めしたところで、さらに入念に『遊び』を潰していく。
　仮結びしていた紐を一度解き、下から順にギリギリまで引っ張り、締め上げる。
　紐同士が交差したところなんてほとんど見えない。
　先端だけでなく、二の腕まで、全部。
　それぞれの紐穴が隣り合うまで絞り上げられた。
　それだけきつく、密着するまで編み込まれているのだと分かる。

　文字通りくっつくほどに寄せられた腕。
　可動域限界まで後ろに引き絞られた肩。
　無抵抗に突き出される胸。極端なカーブを描く腰。微かに漏れる、苦悶の声。

　仮止めのベルトを一穴、一穴と絞り込んでいくたび、絶望的に締め上げられた一本の革袋が身体に固定されていく。
　少しの緩みも許さないというように。
　少しの自由も許さないというように。
　念入りに、念入りに。拘束していく。

「顔、見てあげて」

　ミズサワさんの声に、見呆けていた腕の処刑現場から目を移す。

「……っ」

　なんて、顔をしているんだろう……。
　正面に回り、目にしたミツバさんの表情を見て、思わず息を呑む。
　熱っぽい息を吐き出す、半開きの口。
　切なげに寄せられた眉。
　そして、私が目の前に立っても、焦点の合わない、瞳。
　それは、耐えるようでいて。堪えるようでいて。
　だけどそれらをひっくるめて、受け入れた、顔だと思った。
　恍惚、が在った。

「ミツバ、さん……」

　視線を落とせば、こちらに突き出すような胸。
　それと、切り落とされて腕を失くしたような肩。
　無抵抗を強制された姿。なのに……。
　何故それをこんなにも魅力的に感じてしまうのだろう。

「ん……は、ぁ……んぐっ!?」

　私がそんな感慨を得ている間にも。
　湿り気のある声を漏らしているミツバさんの口に、開口具が割り込む。
　金属部が口の中に押し入り、閉じることを許さない。
　鼻下から顎までを覆うバンドが後頭部で締められ、顔の半分が黒で埋まる。
　鎖でぶら下がった排水栓は、その用途を想像するに難くない。

「ぁ、ぐうっ……あ、あ……」

　今はまだ開いた穴から、ピンク色に染まる口腔が曝け出される。
　留めることのできない唾液が、つつ、つつ、と、透明な糸を引きながら開口具を伝い落ちていく。
　人前で涎を垂らす羞恥。それを拭えない不快感。
　荒い息とともに吐き出された苦悶の声は、やけに卑猥に感じられた。

「ナカバちゃん、これ、足に」

　手渡されたのは、想像以上の重さを持った手錠。

「玩具じゃないよ。本物。この鍵使って」

　本物なんだ、すごいな、とか。こんなに重いんだ、とか。
　そんな安直で率直な雑念を切り捨てながら、ロックピンを使い目の前の足首にそれを嵌める。
　腱があるからあまりきつくしないように、という言葉を頭に置いて、カチカチ、カチカチと慎重に。右足、そして左足へと。
　ずしりと重いそれで両の足を繋げることに成功した。

「鍵、そのまま首輪に付けておくといいよ」
「はい……」

　首輪の正面に付いている輪っかに鍵束をぶら下げる。
　ナスカンの下、集まった鍵たちは、この首輪と、足錠と。
　それと……貞操帯のもの。
　ミツバさんの『自由』を唯一取り戻せるそれらが、首の下、胸の上で、揺れている。

　ただナスカンで繋げただけで、誰でも触れる場所に。
　ただナスカンで繋げただけで、ミツバさんだけ絶対に触れない場所に。

　自分を解放してくれる、助けてくれるそれが、自分の身体のすぐそこで揺れているなんて。
　そんな酷い話、ない。

「ナカバちゃん、触ってあげて」
「……え？」
「コツは触れるか触れないか。生殺しのフェザータッチでね」
「ふあああっ!?」

　ミズサワさんの手が、指が、ミツバさんの内腿をさわりと撫でる。
　途端に、ミツバさんから悲鳴のような声が上がる。

「やってごらん」

　にこやかにそういうミズサワさんに誘われるがまま。
　私は正面にしゃがみこみ、自分ができる精いっぱいの優しさで、すすす、と反対側の内腿を撫でた。

「はふぅ！　ふ……っ！」

　漏れ出る声は拒絶か、嬌声か。
　ミツバさんの瞳が、一段と濁っていく。

　私、今、ミツバさんを鳴かせているんだ……。

　自らの手で生み出した刺激が、目の前の彼女を責めているんだ。
　そう考えると、どこか感情が高揚し昂っていくのが分かる。
　その追い風でもって私は水を得た魚のようにその手を動かし始めた。
　ただ目の前の獲物をいたぶることだけを考えて。

「ふ、ぐぅう!?　は、ひ、いぃぃいい……！　ひっ！」

　両脚を蹂躙する、手、指、爪。
　産毛を撫でるように繊細に。内腿から膝裏、ふくらはぎ、足の甲、指まで。
　自分ならこうして触られると背筋に電気が走るだろうな、と思う場所を、そう思う強さで撫でる。想像通りの電気が走っていることを想像しながら。
　上がる鳴き声が私の嗜虐心を満たし、私から遠慮を奪い去っていく。

「たまらないんでしょ？　ねぇミツバ」
「はふっ！　は……ああ、あぁぁ……！」

　だけどきっと、嗜虐心だけじゃない。
　ミツバさんの要領を得ない呻き声を聞きながら、そんなことを考える。
　もし、私の行為によって少しでも悦んでくれるのだとしたら。
　それは素敵で嬉しいことだと思う。
　ＳＭのＳはサービスのＳ。
　そういう解釈があるのを知ったのはいつだったか。

「よければ、こんなものもありますが」

　しばらく自分の手を羽のように動かしたところで、
　ケイカさんが新たな器具を私に手渡す。
　それは、本来の用途からすっかりかけ離れた利用法で認知された、電気マッサージ器、いわゆる電マだった。

「ありがとうございます」
「いえ。私もうずうずしてしまって」
「あ、や……やあああああっ!?」

　笑顔の奥に女王様を覗かせながら、ケイカさんが電マのスイッチを入れる。
　さっきと同じ場所に、でもさっきと違い強烈な振動に、散々生殺しにされ敏感になったミツバさんが店内に響かせるように声を上げる。

　たたらを踏む足。だけどそれはとても幅の短いもので。
　捩る肢体。だけどそれはとてもささやかなもので。

　自由を奪われた身体は、決して本人の自由になりはしなくて。
　逃げるような動きも、抗うような動きもできず。
　ただ受け入れることを強制され、せめてと声を逃がして。

「ちょっとうるさいかな」
「あ、ぅぅぅ……っ！　んむう！」

　だけど、その声すら。
　ぽっかりと空いた口腔は排水栓によって塞がれて。

「じゃあこれはあたしからのサービス」

　ママの手によってアイマスクを着けられ、視界を奪われて。

「まぁいくらグズったところで、絶対イカせませんけど」
「んふ！　んふ！　んぐぅううっ！」

　一番刺激が欲しいであろうそこは貞操帯に覆われていて。
　そこを意地悪くも電マで弄ばれながら、決定的な快感を得られない気分はどんなものだろう。

「よかったわねぇ。みんなに遊んでもらえて」
「んあっ！　あ！　あ、ぐ！　んんん～っ！」

　でも、今この場は間違いなくミツバさんが主役で。
　悶えるミツバさんを見ながら、ＳＭというものは、本質的にはＭが主役なんだろうとぼんやり考えた。

　こんな風に、不自由に拘束されて、意地悪をされて、弄ばれて。
　ただそれは計算された処置と気遣いの上に成り立っていて。

　だからこそ、四人がかりで責められるミツバさんは、きっと辛くて、切なくて、でも満たされているのかもしれなくて。
　そしてだからこそ、それを見て満たされている私は、もしかしたらミツバさんに自分を投影しているのかもしれなくて。

　縛られ、縄を解かれた後。
　「勉強になった」と答えたあと「それだけ？」と言われた時の気持ち。
　そのときのもやもやの答えが、そのヒントが、そこに在る気がして。

　やがて責めが終わり、頭を撫でられながら労われるミツバさんを通して、私は私の心の在処を探していた。

▼

「もう、床がよだれでべとべとじゃないのよ！」
「すみません～！」

　プリプリ怒るママと謝るミツバさん。
　開口具から溢れ出た唾液が床に滴る、その不可抗力を、Ｍはお咎めを受ける、そんなある種伝統芸能のようなやり取り。
　少し温くなったグラスの中身を喉に流し込みながら、それを眺める。

　床は絨毯など敷物が敷いてあるわけではなく、コンクリートが剥き出しになっている状態なので、そういう意味では掃除が楽だろうなと思った。
　ただ、だからといって汚していい理由にはならないんだろう。
　叱っている様子を見るに、掃除はママがするんだろうか。

「勉強になった？」
「……はい、とても」

　横から訪れる、本日二度目のやりとり。
　だけどそれはさっきよりももう少し実感のこもったものだったように思う。
　その答えをどう受け取ったか、ミズサワさんはただ「そっか」と言い、私の三倍くらいのスピードで摂取中のポッキーにまた手を伸ばした。

「おかわり、よろしいですか？」
「あ、大丈夫です。ありがとうございます」

　……あれから。
　当然のようにミツバさんはイカせてはもらえず、キリのいいところで拘束を解いてもらっていた。
　私も自分が担当した足錠の鍵を外してあげた。
　今になって思えば、玩具の手錠ですら遊んだことがない。
　いきなり本物なんて、ことごとく手順をすっ飛ばしている気がする。

　アームバインダーが外され、アイマスクや開口具が外され、解放されたミツバさんの表情は、やはり疲れたような、呆けたような、でも解放されてほっとしたような、そんな顔に見えた。
　だけどその時間は短くて、汚れた開口具の洗浄を命じられるとすぐに拘束される前のミツバさんが戻ってきて、「はい！」と返事をしながらパタパタと水場へと向かっていった。

　合わせて場の空気もさっきの穏やかなものに戻っていて、それは仮に今お店に入ってきても、今まで何が起こっていたのか分からないんじゃないか、というようなもので。私はその形状記憶雰囲気とでも言えそうなスイッチングの見事さに密かに感心していた。

　もしかしたらそれは『お店』という特殊な空間がそうさせているのかもしれなくて、だけどこういうプレイ自体にそういった特性があるのかもしれなくて。
　どちらにせよズルズル引きずらない潔さは、プレイ中の責め方とはまた違って、どこかスマートに思えた。

「あの……」
「ん？」

　完全に空気が入れ替わってしまう前に、一つだけ。
　そんな思いから、私は「あの貞操帯は、いつから？」と聞いた。
　するとミズサワさんは何ら様子を変えることなく「ああ、半年くらいかな」と軽く答えてくれた。
　軽く眩暈がしそうだった。

　もちろん、いつもいつもエッチな気分になるわけじゃない。
　だけど、半年はきっと、長い。少なくとも私にとっては。
　時にはそういう気分になることもあるだろうし、ましてやこういったお店で働いているのだ。
　さっきのように責められることも、きっと一度や二度じゃないと思う。
　その度、ミツバさんは切なさを内に溜め込むのだ。

　貞操帯を着けたことのない私に、その感覚は分からない。
　もしかしたらエッチな気分以上に、煩わしさとの根競べなのかもしれない。
　もしかしたら本人は意外と堪えていないのかもしれない。
　もしかしたら……毎晩一人でもどかしさに震えているのかもしれない。
　そんな想像だけは生まれて、でもそれは想像の範疇を越えることはない。
　ただ一つ言えるのは、性欲を管理されていることには違いなくて。
　他人に手綱を握られているという事実は、非日常の扉にも見えて。
　それだけで胸は高鳴った。それだけは確かだった。

「ま、何かしら参考になればいいけど」
「……え？」
「書くんでしょ？　小説」

　グラスに刺さった最後のポッキーを口に運びながら、ミズサワさんがにやりと私に笑いかける。
　今さらだけど、いつも読んでいた小説の作者が目の前にいるのだ。
　そして今回の件でも、たくさん勉強させてもらった。
　そのことを改めて思い出して。
　そんな人からの発破に、心なしか声も力強くなって。

「……はい！」

　と、それだけ応えた。

「なになに、何の話？」
「ん、ナカバちゃん、明日の観光どこ行こうかって、悩んでるみたいでさ」
「そうなの？　じゃああそこは？　蝋人形館」
「ああ、あそこ閉鎖するみたいだよ」
「本当!?　ならなおさら行っておいたほうが良いわよ。あとはねぇ……」
「あ、それならあそこは……」

　集まり出した言葉のそれぞれに耳を傾けながら、そのそれぞれに改めて感謝する。

　興味をそそられて、お店に足を運んだ。今回はそれだけの話。
　だけど、私にとっては大きな一歩になった話。
　それは一人では得られなくて、だからこそ得難いものを得られて。
　私にとって特別で、その他大勢には特別でない、ありふれた光景。

　ただ、そこに在ったお話。

「まぁ、回り切れなかったら、また観光に来ればいいわ。……もちろん、ここにもね」

　足を組んだママはまるでキセルを煙草に持ち替えた花魁のように。
　艶やかに煙を吐きながら、誰もを惹きこむ様な瞳で私の姿を捉えて。
　微笑んだ。

「はい。きっと」

　そしてそれは、止まり木に張られた蜘蛛の糸のように私を絡めとっていくのだ。