「……碧」 声を掛けてから、しまった、と思った。 なんと声を掛けていいか分からない。 碧からすれば、最初これは誘拐だと思っただろう。 そして行われた非人道な行為に、憤りを感じただろう。 もしかしたら、その中であたしに助けを求めてくれたかもしれない。 そして、唯一の味方であるあたしに出会ったとき、どう思っただろう。 こんなひどい目に遭った親友に駆け寄るでもなく。 こんなひどい目に遭わせた人間を非難するでもなく。 こんなひどい目に遭った内容を頷きながら黙って聞くあたし。 碧は賢い。 だから、悟ったと思う。 『ああ、これは菫ちゃんが望んだことなんだ……』 そう碧が考えていると思うと、訳の分からない痛みが、身体の内側を容赦なく抉る。 だから、言葉がなかった。 声のかけようがなかった。 『久しぶり』 『体調はどう』 『ごめんね』 『だけど、あたしは……』 バカか。 頭に浮かんだ言葉を一蹴する。 言えるわけない。 そんな言葉、許されない。 それを口にすれば、世界中にいるどんなに正義心あふれる聖者があたしを罰そうとしても、その刃があたしに届く前に、自己嫌悪があたしの命を刈り取っていくだろう。 ただ一つ幸いなことは、声を発することができたこと。 いつまでもここにボーっと突っ立っているわけにはいかない。 いつかは声をかけなければいけない。 そのことに気付き、余計に声が出なくなる前に、きっかけを作ることができたこと。 そして今そのチャンスを、逃すわけにはいかない。 「……ついてきて」 かろうじて声を出して、手綱を引く。 意識して前を向いて、碧を見ない。 微かに息が漏れる音がするけど、それを確かめない。 ただ手に感じる重みが、碧がちゃんとついてきていることを知らせる。 玄関前を通り過ぎ、家屋が周囲を囲む、いわゆる中庭に足を踏み入れる。 そこには、かつて見たことのある、いや、体験したことのある、傘のような骨組。 歩行を強制させる装置が、鎮座していた。 「碧、おいで」 千歳さんは、碧のその耳の形状から、声が聞き取りづらいだろうと言っていた。 だから、普段より少し大きな声を出す。 幸いにして周囲にご近所さんなど存在しない。 念のために手綱を少し引く。 そこでようやく碧を見る。 引きづられ、勝手が分からないのだと思わせる ぎこちない足運びで近づいてくる碧。 悲しみと、困惑と、茫然を混ぜ合わせた顔が、あたしを見返す。 今すぐ抱きしめて全てをぶちまけたい気持ちを死ぬ気で押し留めて、あたしは感情から色を抜いた。 「……。ミドリ。あんたは、あたしのポニーになったの。だから、あたしを楽しませる、良い子になってね」 詰まりながら、何とか口にする。 こんなに言葉が喉に引っ掛かることがあるなんて思わなかった。 だから、一気に言った。 「今から歩行訓練をするわ。ミドリの今の歩き方じゃ恰好悪いから直すの。それと今後はいろんな歩き方を教えるからそれも覚えて」 これからどんな扱いをされるか分かったのか、1歩2歩と後ずさって悲しげに首を振る碧。 その数瞬後、碧は身体を跳ね上がらせた。 バチン! 「ヒャ……! ヒ、ヒッ……!」 出ない声を必死で出して、悶える碧。 倒れこみそうな身体を、震える四肢で必死に支えている。 ぼろぼろと涙をこぼすその眼前に、あたしは手に持った鞭を見せる。 「言うことを聞いて、ミドリ。あたしもあんまり酷いことはしたくないの」 ことさらに不本意であることを強調しながら、悪役でいえば3流もいいとこのセリフを口にする。 それでも効果はあったようで、碧は怖がった表情を見せながらコクコクと頷いた。 実際、なるべく酷いことをしたくないのは本心で、物分かりのいい碧の態度に正直ほっとした。 碧からすれば白々しいことこの上ないだろうけど。 「じゃあ、今日は常歩を教えるから。あたしの言った通り肢を動かして」 コク、と頷くのを確認した後、手綱を持ったまま碧から少し距離をとる。 「まず、右後肢」 あたしの声に、おずおずと右後肢を持ちあげ、前にトス、と下ろす。 「次に、右前肢」 同じように、元は右腕だった右前肢を持ちあげ、前に下ろす。 「次、左後肢」 上げて、前に下ろす。 「最後、左前肢」 上げて、下ろす。 「それが1サイクルよ。後ろ、前、後ろ、前、それを左右交互に繰り返すの。分かった? じゃあ続けていくよ」 軽く手綱を引いて誘導しながら、碧が四肢を動かすのを見守る。 右後肢、右前肢、左後肢、左前肢。 ゆっくりではあるけど、確実に歩を進めるその姿に感動すら覚える。 そして同時に、碧が人を辞めたんだという、背徳感も。 ひとしきり歩かせたところで、碧を立ち止まらせる。 そして髪の無くなって剥き出しの頭皮を、優しく優しく撫でた。 「よしよし。よくできたね」 「ヒ……ヒ……」 頭も気持ちいいのだろうか。 ハミの隙間から声が漏れるのが聞こえる。 「じゃあ、それが身体に染み付くように、訓練しようか」 少し荒くなった息を吐く碧を牽き、かつてあたしも経験した歩行訓練装置に手綱をくくり付ける。 「今日は初めてだしゆっくり回すから大丈夫だと思うけど、もし歩くのが遅れたら、痛くなるからね」 首を、ひいては埋め込まれたマイクロチップを指さしながら、言う。 碧もさっきの千歳さんが言った『懲罰用』という言葉を聞いていたはずだ。 あたしに恐怖を植え付けた電撃地獄。 それらを思い出したのか、碧がブルッと震えたのが分かった。 「それじゃ、スタート」 碧の第一歩が、踏み出された。 ▼ ぐるぐる。ぐるぐる。 あれから30分。 碧はひたすら歩いている。 速度がゆっくりなおかげか、今のところ電撃は発動していない。 着実に、そして無意味に、碧は円を描き歩き続ける。 同じようなことをしたあたしだから分かる。 ああやって意味もなく歩いていると、だんだん溜まる疲れと相まって、頭の中がぼやけて何も考えられなくなる。 かろうじて頭にあるのは、ちゃんと歩くことだけ。 なんたって痛いのは嫌だ。必死になる。だからそれだけになる。 今碧の頭の中はきっと、「右後肢……右前肢……」と正しい肢運びを繰り返しているだけだろう。 もちろんこのわずかな時間で完璧に身に付くとは思っていない。 元々が人間という生き物。 二足歩行で生きてきたこの二十余年はそう簡単には覆らない。 だから、繰り返し、繰り返し、訓練を重ねる。 少しずつ、根気強く、時間を掛けて、上塗りを繰り返し、上書きする。 「……」 たまにチラ、チラ、と、碧の視線がこちらを捉える。 そこに秘められた思いは、あたしには馴染みのあるものばかり。 だからあたしは、その度にニコ、と笑みを返す。 それを見た碧は、また歩行に集中する。 実際碧がどう思っているかは知らない。 ただ、真っ白になりそうな頭の中湧き上がる感情、不安や疑問や悲しみに対して、あたしが返す笑みはどう映るか。 安心と絶望、どちらの比率が大きいか。 想像すること、そのものに趣があるように思う。 そして、今日の歩行訓練、時間にして1時間ほどのそれが、今終わろうとしていた。 ゆっくりと回転を止める装置。それに合わせて立ち止まる碧。 近寄り眺めた碧の身体。 玉のような汗が身体中から噴出し、雫となって流れ落ちる。 その姿がやけに艶めかしく、淫らに映る。 それに加え口を大きく開け、舌を出して荒い息を繰り返している。 白く立ち上る湯気は、寒空の下とはいえかなりの熱量を体内に秘めているのだと伺い知れた。 観察もそこそこに、1時間近く慣れない歩行を終えた碧をねぎらう。 「よくできました。良い子だったね」 「ハヒ……ヒッ……!」 汗でべとつくのも気にせず、首や背中など手の届く範囲で何度も撫でた。 荒い息をさらに荒くさせて、碧が過敏に反応する。 きっとまだその皮膚感覚になれないのだろう。 だけど、その感覚は快楽だと千歳さんも言っていた。 その言葉を信じて、この反応は喜んでいるのだと思うことにした。 しばらく撫で続けると、それを証明するかのように秘部からブシュッと愛液が吹き出る音が聞こえたので、 その思いを確かなものにした。 「ちょっと、待ってて」 自分が満足するまで撫でた後、庭の隅に置いてあったホースを引っ張ってくる。 ついでに干してあったバスタオルもひったくってきた。 「少し落ち着いた? 汗まみれで気持ち悪いだろうから、水浴びしようか」 先ほどよりは息も落ち着いた碧にホースを見せる。 こんな寒い日に外で水浴びなど、正気の沙汰じゃない。 でも、今の碧の肌はそんな寒さにも耐える強さを持っている、らしい。 碧自身もそれは聞いて知っているだろうし、今までの間に実感もしているだろうけど、さすがに不安なのかためらう表情を見せた。 「大丈夫だから。ね」 そう言って安心させようとするあたしの言葉に、それでも微かに首を横に振り拒否する碧。 水浴びもそうだけど、だんだんぼやけた頭が覚醒してきて、今の自分の状況を思い出したんだろう。 きっとその分も込めた態度をとっているのだ。 だからあたしは鞭を振るった。 バチッ! 「ヒギャッ!」 喉奥から何かが潰れ弾けたような声が漏れ聞こえた。 ブルブルと震えだす身体。しかし赤くはなれど皮膚が破れることはない。 涙目の碧に向けて、言う。 「あんまり酷いことしたくないって言ったのは、本当だよ」 その目を見つめて、言う。 「あたしはお仕置きされて嫌々従う弱虫も、全てをあきらめて従う人形も要らない」 身勝手な本音を込めて、言う。 「ただ、碧のままのミドリが欲しいの。それ以外は要らない。……それ以外は要らないの」 そう言って、じっと碧を見つめ続ける。 碧がぐるぐる考えているのが分かる。 あたしの言葉を噛み砕き、真意を取り出そうと必死になってる。 それだけで嬉しかった。 そうやってあたしのことを考えてくれてるのが、嬉しかった。 あたしが欲しいのは、まさにそれだった。 今ここになって、あたしは間違ってなかったと思った。 そうしてしばらく経って、いくつか微妙に表情を変化させながら。 何かを飲み下すように喉を鳴らし、視線を上げあたしを見つめ返した碧に、もう一度言った。 「水浴び、しようか?」 碧は、頷かなかった。 それどころか、首を横に振りもしなかった。 ただ、仕方なさそうな顔で、ふん、と少し鼻を鳴らして、いつか見たような形に口角を上げた。 それは微かに震えていた。瞳も潤んでいた。 それでも構わなかった。 たまらなくなって思わずキスをした。 よく分からない胸の痛みを強引に押し殺して、キスをした。 慌ててしたそれは、きっと今までで一番へたくそなキスだったと思う。 ▼ 水を出す。ホースから飛び出す。 身体にかかる。飛沫が飛び散る。 碧は小さい。すぐに全身が水浸しになる。 頭の代わりにお尻に付いた、尻尾になった髪が水を含みしな垂れる。 水をかけつつも慎重に観察したけど、必要以上に寒がる様子もなく、むしろ敏感な部分を水に嬲られる快感に震えている。 これで皮膚感覚の話を完全に信じた。 ひとしきり汗を落としたところで水を止め、全身を覆うような大きなバスタオルで碧を包む。 身を捩りたたらを踏む身体を押さえつけ、水気を取り払う。 「はい、終わり。じゃ、こっちに来て」 装置に括り付けてあった手綱をとって、テラスへと移動する。 きちんと教えた通りに歩いている。 中庭を横切り、2,3ある段差をカチャ、カチャと蹄で叩き、テラスへ上がった碧の手綱を今度は木でできた塀に括る。 一旦部屋の中に戻り、救急箱などを引っ掴みテラスに戻る。 「横になってごらん」 声とともにくる、と右に半円を描き指示を出すと、意図が分かったのかその場にごろんと横倒しになった。 その足元へしゃがみこみ、U字の蹄鉄を固定するボルトの隙間から消毒用のジェルを流し込む。 流し込むといってもほとんど隙間なんてないから、ボルトの僅かな遊び部分に付いたジェルを、ボルト自体をゆっくり前後運動させて穴の中に塗り広げる。 「慣れない中で歩けばこうなるか」 いくつも開いたボルトが通る穴の周り。 蹄鉄が押し当てられた手のひら。 1時間を超える歩行による負荷を受け、そこは赤く腫れ上がっていた。 そこにもジェルを塗り広げる。 多少の鎮痛効果もあるみたいだから、何もないよりマシだろう。 「こっちもね」 同じように四肢のすべてに消毒を施す。 時折顔をしかめることもあったけど、碧は大人しくじっとしていた。 「よし、完了。一人で立てる?」 手のひらを上に、持ち上げる動作をして指示する。 理解した碧は長くなった前肢に苦戦しながら、ゆっくりと立ち上がる。 そのとき、碧は腕も持ち上げ、後肢だけで立とうとした。 正直この動きは仕方ないと思う。 とっさに立ち上がろうとして、ビシッと四つん這いになる人間は、まぁいない。 バチッ! 「ヒギ……!」 だからこそ、しっかり調教しないといけない。 慌ててポケットに突っ込んだ右手はしっかりとリモコンを操作してくれた。 「人間だった時の癖が出ちゃうのは今は仕方ないけど、碧はもうポニーになったんだから、立つっていうのは四つん這いだってこと、ちゃんと覚えないとね」 身体にも、心にも。 そう言外ににじませながら言うと、碧は叱られた子どものような目でコク、と頷いた。 「いい子ね。大丈夫、ちゃんとあたしが教えてあげるから」 そう言って頬を撫でる。 碧は微かに息を漏らし、今度はその手に寄り添うように頷いた。 ▼ それからしばらく、あたしと碧の奇妙な二人暮らしは続いた。 誰も来ない隔離空間。特にすることもない静かな生活。 食べることや寝ること以外の暇な時間の全ては碧とじゃれあう時間に充てた。 「今から1時間、側対歩の訓練。次に10分休憩して、30分駈足。その後ピアッフェとパッサージュの訓練して、それが終わったら水浴びしよ」 水浴びと聞いて、喜ぶ空気が伝わる。 汗を落とせるのと性的な快感と二重の意味で気持ちいいのか、今やすっかり碧のお気に入りとなっていた。 あれから碧はとても従順で、大人しくあたしの命令を聞いた。 鞭や電撃を振るったのだって、訓練がなかなか上手くいかない時くらいで、不服従や教育目的で振るったのは数えるほどしかない。 今までと同じように懐いてくれるその姿に、あたしはこの計画のかなりの部分が成功したと喜んだ。 そんな碧の頭を一撫で。少し毛も生えてきた。 手綱を訓練装置に繋ぎ、スタートさせる。 「ヒ……フ……」 側対歩は常歩と同じ順番に肢を動かすけど、違うのは右は右、左は左でセットとなって動かすところだ。 ナンバ走りとか思いだすとイメージしやすいかもしれない。 駈足は常歩そのまま「かけあし」で走る。 ピアッフェは走らずその場で、右後肢と左前肢、左後肢と右前肢をセットにし交互に足踏みする。 パッサージュはピアッフェの動きのまま前に進む。 ポニーというよりは馬の調教だけど、何も芸ができないよりはできたほうがいい。 その姿は馬のように雄大で美しい動きではなく、こじんまりとしてチョコチョコ動く可愛らしいものだけど。 ぐるぐる歩き回る碧の姿を、テラスの椅子に腰かけ眺める。 一日見てたって飽きない。 なによりあたしの命令に従って、あの碧が嬉しそうに調教を受けている。 その事実だけでイってしまいそうなほど、興奮した。 その姿を見れば愛しさと感動が胸にあふれた。 1時間が経って、10分のインターバル。 あたしは碧のもとへ歩み寄り、スポーツドリンクの入ったボトルのストローを口に差し込む。 次は駈足。 きっかり10分後、再び装置が動き出す。 そして、懐かしい声が聞こえた。 「お久しぶりです」 装置が動き出し、碧が駈足を開始したのを見届けテラスに戻ろうとした時、玄関の向こうから千歳さんがこちらに向かって歩いてきた。 「千歳さん! お久しぶりです」 「その様子だとお元気そうですね。……碧さんも」 装置にかけられた碧を見ながら、記憶と同じ微笑みを浮かべる千歳さん。 「千歳さんが来たということは、もう1ヶ月ですか」 「あら、ご存じじゃなかったんですか。よほど入れ込んでいたんですね」 「ま、まぁ……、あはは」 なんとなく照れ臭くなって言葉を濁す。 やっぱり千歳さん相手だと焦ってまごついてしまう。 これが大人の女性の威力、もとい魅力なんだろうか。 「あ、もうしばらく時間大丈夫ですか?あといくつか訓練が残ってるので、よかったら見ていってください」 「訓練というと……、もしかして馬場馬術ですか? 徹底的にイチャイチャするか家畜化するかどちらかだと思ってたんですが」 その表情は変わらないまま、視線がどこか試すようなものに変わる。 だからあたしは、今思っている気持ちを、正直に話した。 「最初はそうしようかとも思ったんですけど……。やっぱり、あたしが欲しいのはあくまで『碧』で、『碧のような何か』じゃないんだって。……詭弁ですけどね。だから、無意味に家畜にするんじゃなくて、歩様を教えてるのも、調教される屈辱を感じてほしいなぁっていうのもありつつ、芸ができることで一つ心の拠り所にしてほしいという思いからで。自分がこんな姿になった理由を探すうえでの、落とし所というか」 「……どれにしても詭弁ですね」 「あはは、厳しいな、やっぱり。でも、そうですね。結局何を言っても詭弁にしかならないと思います。だけど、あたしは実際にそう思ってるし、碧も少しはそう思ってくれてると信じてます。それで、いいんです」 「ずいぶんと身勝手な考えですが」 「分かってます。でも、恋ってそういうものじゃないですか?」 呆気にとられたような表情を見せる千歳さんに、苦笑を返す。 「何言ってんだお前」って言わないところがさすが千歳さんだと思う。 それくらいの常識はまだ残っている。 「碧があたしのものになればって、ずっと想ってた。どんな形でもいい。今回はポニーでしたけど、それが犬でも猫でも奴隷でも、なんなら女王さまだって構わない。碧の目にあたししか映らないのであれば。そう思ってごっこ遊びも始めた。その間は碧の前にはあたししかいないから。でも、日常に戻れば碧の前にはいろんな子がいる。それが不安だった」 半ば独白の様相を呈してきたあたしの言葉に、千歳さんはちゃんと応えを返してくれる。 「恋人ではダメだったんですか」 「恋人という繋がりの強さを信じてなかったんです。それよりは、こういった秘密を共有する関係のほうが強いように思えた。……それは間違ってますか?」 「……私には分かりません。イエスでもあり、ノーでもあると思います」 「なら、ノーに賭けたかったんでしょうね」 「なんだか吹っ切れたようにも見えますが」 「そうかもしれないです。時間はたっぷりありましたから」 この1カ月を思い出し、笑う。 「あ、そろそろ終わりますね。少し待っていて下さい。って、そういえば時間大丈夫か答え聞けてなかったですね」 「大丈夫ですよ。……午後は空けてきましたから」 「ならよかった」 おもちゃを見せびらかす子どものように、テンションが上がっているのが自分でも分かる。 碧のもとへ寄り、またスポーツドリンクを飲ませた後、手綱を牽いて千歳さんの近くに移動する。 千歳さんを見ても、碧は特に目立った反応は見せなかった。 「ミドリ、ピアッフェ」 指示を飛ばすと、ミドリがその場で足踏みをする。 この1カ月で訓練した動作。 あたしも碧も詳しいわけじゃないから完璧とはいえないかもしれないけど、その可愛さはあたしに言わせれば100点満点だった。 「ミドリ、パッサージュ」 足踏みする肢を前に出し、ゆっくりと駆ける。 8の字を描くような動線。お尻の上の尻尾もゆさゆさと揺れる。 しばらく走らせた後、あたしの目の前で立ち止まらせ、その身体を撫でる。 調教の成果か、すっかり慣れた皮膚感覚と従順な心で、命令をこなす喜び、性的な快感を拾い上げ秘部を濡らす碧。 その様子を見ていた千歳さんは、にっこり笑って拍手をくれた。 「どうでしたか」 「よかったと思います」 ご褒美に水浴びをさせてあげながら、千歳さんに確認する。 碧も暖かくなってきたおかげか前よりも気持ちよさそうにしている。 「これで心置きなく、聞くことができます」 「……え?」 その言葉に、あたしの身体が緊張する。 碧も聞こえていたのか、耳をこちらに寄せた。 「一つ目は菫さんの気持ちだったんですが、それはさっき聞けましたので。世間的には認められないかもしれませんが、気持ちの持ち方を一つ乗り越えておられたので、私としては『資格あり』と、組織に報告しておきます」 それは、合格、ということだろうか。 とりあえず「ありがとうございます」と返しておいた。 「2つ目は、具体的な話になるんですが……。これから、どうなさるおつもりです?現状、組織に対して莫大な借金と、個人的にですが私からここを借り、期日の1ヶ月を迎えたわけですが」 それは、ここで生活する中で、いろいろと考えていたことだ。 「まず、借金ですよね。あらかじめ持ってきたお金は全然足りなかったですし。それについては、きちんと働いて返します。この別荘については、厚かましいお願いになるんですが、このままお借りしたいと思ってます。もちろん家賃は払います」 「そうですか」 おおよそは予想していたのだろう千歳さんは別段責めるでもなく、事務的に質問を重ねる。 もしかしたら仕事モード入ってるのかもしれないと思った。 「私としてはそれでも構わないと思います。ここについては、普段は使っていませんし、むしろここに住んでいただければ、管理のお金も手間も省けますから、よければ使っていただいて構いません。ただ、借金はそう簡単に返せる額ではありません。何か当てはあるのですか」 ひとまず、家の問題はありがたく甘えさせてもらうことにする。 問題は、借金、つまりお金だ。 千歳さんの言う通り、一介のOLでしかないあたしに到底払える額ではない。 ローンなんて組めるのか分からないけど、一生払い続けても払えないだろう。 だからって、あたしができることなんて限られてる。 「身体を売ります。持ってきたお金も、それで稼ぎました」 「!? ヒャガッ……! ヒュ!」 そう言った途端、碧が猛烈な勢いで叫び出した。 突然の豹変に千歳さんと二人茫然としたけど、それがあたしのことを思ってのことだと理解すると、何の前触れもなくポロっと一粒だけ涙がこぼれた。 そして急に申し訳なくなるとともに、そんなにあたしのこと思っててくれたんだ、と不謹慎にも嬉しくなってしまった。 「どのみちあたしはこれ以上今の会社で働けません。碧も退社させますから、あたしのいる意味がなくなりますし。でも、だからといって他の会社で真っ当に働こうという気もないです。ここまでしておいてそれは虫がよすぎるから。だから、あたしもそれなりの痛みを背負います。これはここに来る前から考えていました。男の人苦手だし、あたしなんかじゃどこまでお金になるか分からないけど、少なくとも普通に働くよりはお金が作れる。そのほかにも、あたしでできることなら何でもして、それでもだめなら、最後は、千歳さんの組織に、その、文字通り『買い取って』もらう、そのつもりです」 「……はぁ」 決死の覚悟で考えていたことを吐露したあたしに、ここに来て初めて千歳さんが呆れたような声を出した。 「貴女本当にちぐはぐですね」 「ふぇ?」 予想外の応えを返されて、あたしは何とも間抜けな声を出した。 「確かに、手っ取り早くお金を作ろうとすれば、それも選択肢の一つかもしれません。ただ、そうすると貴女は孫の顔を見る歳になっても身体を売り続けていなければなりませんよ。それも、1日中、365日ずっとです」 お祖母ちゃんになるまで、あと4、50年くらい、毎日、SEXし続ける。 そう言われると、確かに身体を壊しそうな気がする。 計画時にはあった根拠のない自信が、ガラガラと崩れていく音がする。 「それならば、とはあまり言いたくありませんが、覚悟はおありのようですし、まだ組織に『売る』ほうが、早く解放されるかと思います。ただ、楽ではありません。早い分、つらいことも多い。それを受け入れることができれば、ですが。受け入れられるのならば、私が話を付けることはできます」 動くもののない中庭で、千歳さんの声が響く。 とんでもない話だと頭では理解しつつも、それはどこか天啓のようにも聞こえた。 「仮にそのお話を受けたとして、碧はどうなりますか? あたしは、碧と離れ離れにされるんですか?」 「条件とお金のトレードオフです。菫さんが条件を出せばそれだけ見返りも減りますし、組織の条件を飲めば見返りが増える。……結論から言えば、菫さんの望む条件を通すことは可能ですよ。ただあまり長くは待ってもらえないでしょうけど」 ということは、碧とここで暮したままでも、借金を返すことはできる。 その分違うところで組織の条件を飲めばいいということだ。 ……あたしがつらい思いをする分には構わない。 碧と一緒に暮らせるのなら。 そう思うと、何とかやっていけそうだ。現実味を帯びてきた。 「……話を付けてもらって、いいですか?」 「今の案で行くということですか」 「……はい。もともとその可能性も考えてましたし」 「わかりました。では上司に連絡します。ですが、その前にもう一度二人で意思疎通をしてもらえますか」 言われて、碧のほうを見やる。 碧はといえば、あたしの自身を投げ捨てる行為に憤慨している、かと思いきや、もうすでにあきらめたのか、諦観の眼差しであたしを見つめていた。 「……そういうことに、なったから」 どういうことだ、と自分につっこみたい気分だったけど、なんて言っていいか分からなかった。 碧の表情は変わらず、1回だけボスッ、と太ももに頭突きをくれた。 たぶんこれは本気で怒った一撃だったと思う。 顔を上げた碧は、心底「しょうがねぇな」という顔をしていた。 「……ちょっと、電話するから」 もう、引き返せないんだ。 そんなこと、とっくに分かってるはずなのに。 一つ壁を乗り越えるたび、一つ『あたしに向けられる碧』が失われていくような、そんな気さえして、後悔しそうになる。 でも、後悔なんていう自分を許す免罪符を手に入れるような行為は、どうしてもできなかった。したくなかった。 そのはず、だった。 『はい、柳ですが』 「お疲れ様です課長、あたしです」 千歳さんから衛星電話を借り、課長へと電話をかける。 『その声、す、菫君か!? どうしたんだ個人用に掛けてくるなんて……! って、そうじゃない! 今どこだ!? もう帰ってきてるんだろう!? 君がいないと仕事が』 「すみません、あたし、仕事辞めます」 『回らな……へっ!? いや、いやいやいや!? 何言ってんのそんな急に、冗談でも困るよそれは』 「冗談じゃないです。本気です。事情は話せませんが、どうしても戻れない理由ができました。文句は今度そちらに身辺整理に向かう時に聞きますから。あ、犯罪がらみとかじゃないんでご安心を」 果てしなく黒に近いグレーだろうけど。 そんなことを思いながら、何度も何度も手を変え品を変え引き留めにかかる課長をかわす。 『ほ、本気、なのか……! いや、でも……くそっ。……確かにここも君におんぶにだっこなところもあったし、君を良く思わない無能がいて、不愉快だったのは事実だろうが……。……はぁ、君が本気でそう言うなら、……むぅ』 「ありがとう、ございます。課長」 最終的にあたしにとって都合よく解釈して納得する課長。 罪悪感が、チクリと胸を刺す。 『そう言ってくれるなら、最後こっちに来るときに一杯付き合ってもらうからな。あ~くそ! 君よりも辞めてほしい奴がいくらでもいるってのに!』 「あはは……。ありがたいですけど、あんまり人気のあるところでそういうこと言っちゃダメですよ」 『分かってはいるがな。こればっかりは……。まぁ、それが会社であり組織ってやつなんだろうな』 確かに、会社でも学校でも町内でも、およそ形成されたコミュニティの中にはどうしようもない連中は紛れ込んでいるものだ。 そう思うと、こうしてあたしを気に掛けてくれていた課長と仕事ができたのは、とても幸せなことだったのかもしれない。 ……さて、あたしのことはこれでいい。 次は、碧のことだ。 「そういえば課長、同僚の碧のことなんですけど」 さぁどう説明したものか。 いくら仲が良いとはいえ、他人の進退についてどこまで意見できるか悩んでいたけど……。 『おお、そうだ、碧君! 彼女も困ったもんだよ。今の忙しさの原因は、彼女にもある! なんたって君が休暇届けを出したその日に、退職願を出してきたんだからな!』 「…………は?」 え、今なんて? 『彼女も仕事ができる人間だったからな。ある程度引き継ぎはやっていてくれていたから助かったが』 確かに、あたしは引き継ぎをしておいてと頼んだ。 でもそれはあくまで長期休暇を取るためであって、仕事を辞めるための意味合いではなかった。 『しかもどこから聞きつけたのか、金魚のフンみたいにくっついてた奴らが騒ぎまくってな。辞めないでくれ~、とか、それなら自分も~、とか好き放題』 そういえば休みを取る前碧がなにやら揉めていたのは知っていた。 てっきりいつものあたしへの暴言の類いだと思ってたけど、あれは引き留めるために騒いでたのか。 『ん? もしかして……碧君、そこにいるのか? 君が辞める理由、……もしかしなくても、それだろ? はっはーん、分かったぞ。君たち、ついに一線越えちゃったか? それで顔見知りのいる街に居づらくなったんだろ、そうだろ?』 何とも軽い調子で言う課長。 『そうかぁ~。なら分からんでもないな。確かにまだまだ世間の目は冷たい! 外国じゃそういうのを認めてるとこもあるみたいだが……。もちろん俺も偏見なんて持ってないぞ! むしろ好げふんげふん! ……ともかく、本人同士居心地が良いのが一番だ。どこでどう暮らすのかは知らんが、悔いのないようにやれよ』 我が意を得たり、といった様子でまくしたてる課長。 だけど、本当はちゃんと、根っこの部分はあたしを信じてくれている。 だから、その奇しくも当らずとも遠からずな励ましが、妙に胸に響いて、そこから熱いものが込み上げてきた。 「ありがとうございます。課長。あたし、課長の部下で、一緒に仕事できて、本当に幸せでした」 『そうだろうそうだろう! 俺もだぞ!』 「本当に、本当に……!」 『……菫君…………』 「ぐすっ……」 『……』 あんなに明るい声でしゃべっていた課長が、今、この時だけ、なんて言っていいか分からないけど、大人の男性というか、真剣に娘を心配するお父さんのような、そんな包み込むような声で、あたしに、絞り出すように。 『……頑張れ。そんで、あんまり頑張るな』 それだけ、言って、くれた。 「……はい」 そうして、電話を切った。 我がままの代償がこんなところにまで影響するとは思わなかった。 あたしは課長ともう仕事ができなくなることを心底惜しんでいた。 でも、今回のことがなければ、一生この思いに気付くこともなかったかもしれない。 『動かなければ、何も得られない』 昔、思い悩むあたしに課長が、「なんかの本で読んだ」と笑いながらその言葉を教えてくれた。 そんなどこの誰が言ったかも知らない、どうでもいい言葉を、他でもない課長が言ったから大事にしてきた。 それを、今一度思い出す。 そうして電話を千歳さんに返して、隣に視線をやると、そこにはあからさまに「してやったり!」といった顔の碧がこっちを見ていた。 だから髪の毛の短い頭をバシンとはたいて、そして抱きしめて、痛いくらいに抱きしめて、何度も繰り返すように「ごめん」と呟いた。 碧は、気付いていた。 全部、気付いてたんだ。 だから、休暇を取るのではなく、退職願を出していた。 こうなることが分かっていたから。 こんな身体にされて、言ってみればあたしに裏切られたという感情を持ってもおかしくないのに、やけに大人しく言うことを聞いていたのも、そのせいだったんだ。 気付いてなかったのは、あたしのほうだった。 なのに、あたしは、我がままを貫いて、碧の一生を棒に振るような仕打ちをして。 なにより、あたしに自分の命を預けるくらい信頼してくれていたのに、その思いに気付くことができなかった。 碧は、その裏切りをこそ悲しんで、あんな顔をしていたんだ。 そのことに気付くともう、自己嫌悪とか、自己満足とか、考える余裕もなかった。 ただひたすらに、無心で「ごめん」を呟いていた。 ▼ 「……話は、付きましたか」 「はい」 しばらく泣きはらした後、千歳さんに向き直る。 「……後悔、しましたか」 「そうですね。死ぬほど」 そういうあたしの心は、それでも言葉ほど後悔にまみれてはいなかった。 「でも、こうして動かなければ、いろんな思いに気付くこともなかった。それだけはよかったと思ってるんです。他の誰にそれを非難されようと、それだけは」 もちろん、苦しむべきは苦しみ、償うべきは償う必要がある。 だけど、あたしが得たものは、充分にそれらを補える報酬だと思った。 「わかりました。……では、こちらの話も付けましょうか」 そういって千歳さんが携帯電話のボタンをプッシュする。 「千歳です。……はい、例の件です。……いえ、そちらではなく、……ええ、はい、そうです」 おそらく上司と話をしているのだろう。 知らずあたしも緊張しだした。 「はい。……そうですか。ええ、……少々お待ちを、確認します。……菫さん。いえ、碧さん。貴女は、組織に買われる覚悟はありますか?」 「え、それって、どういう……?」 千歳さんの言葉に、二人して顔を見合す。 「上司からの提案ですが、単純に二人で返していけば、返済期間が半分になるだろう、と。むしろ碧さんのほうがコアなニーズを掴めるので、効率がいいのでは、とのことです」 コアなニーズってなんだ。 そう言いたくなるのをグッとこらえて、碧にそんなことさせられない、そう言おうとして。 「ヒッ……! ヒゥッ……!」 いかにも「はいっ! はいっ!」と手を上げて言いそうなニュアンスで碧が身体を跳ねさせていた。 「ちょ、碧!?」 「大丈夫だそうです。ええ。……わかりました。それでお願いします。……はい、個体認証ですね。ミドリのほうはデータベースに入ってます。スミレのほうはこれから送信します。一旦切りますね」 話が通ったことによって「ふふん」と言いたげな、というか実際に鼻を鳴らしている碧。 その姿を見てがっくり肩を落とす。 「身体データを採取しますので、気を付けをしていただけますか」 そんなあたしに構わず千歳さんがそう言ってきたので黙って従った。 「とりあえず簡易で済ませてしまいますね」 詳細は改めて、と言いながら、バーコードを読み取るような機械であたしの全身を照らしていく千歳さん。 なんかスーパーの食品になったみたいだ、と思ったけど、実質境遇は同じようなもんだと気付いたら虚しくなった。 とどめとばかりに内頬をつまようじで擦れとか言われた。 「あとは個人情報になりますが、分かる範囲でいいので入力していただけますか」 そう言われて渡された、バインダーに挟まれた用紙に必要事項を記入。 名前から歳、住所、連絡先その他諸々。 今度は街角アンケートみたいだ。 空きを埋めたところで、裏をめくるように言われた。 「……あ」 上部に『契約書』と書かれている。 頭の中に詐欺の文字が浮かぶ。 「これは言うなれば雇用契約書のようなものです。実際の仕事の条件や賃金などはその都度契約を交わします」 ということは安心、なのか? 今まで労基法もろくに勉強していないからなぁ。 勉強していてもここでは役に立っていなかっただろうけど。 そんなどうでもいいことを考えながら一番下にサササと名前を書く。 「朱肉です」 「ハンコありませんけど」 「親指で結構です」 そうか。と納得して押印。 それを確認して千歳さんは再び電話。 「データ採取完了しました。今転送中です。スキャンデータも送ります。……そうですか。…………」 そうしてしばらく間が空いた後、千歳さんから「組織との契約は無事成立しました」と報告を受けた。 ……これで、言うなればあたし、と碧は、組織の奴隷になったわけだ。 もとより借金まみれで逆らう余地などないわけだけど。 働き口を提供してもらえるだけマシなのかも。 「はい。……ああ、それと、すみません。もうひとつ。これは私の個人的なお願いなんですが。……ええ。失礼な。槍など降るわけないでしょう頭大丈夫ですか」 なんか今すごい発言を聞いた気がする。 けど、そう思うのは少し早かったようだ。 「そうです。……はい。満たしました。……貴方に言われたくありません。では、お願いします。……今の二人の所有権を、組織から私に」 「えっ?」 今日は何度驚けばいいんだろう。 今度こそ、聞き間違いではないか。 もう一度顔を見合すあたしたち。 「……はい? え、ああ、立て替えておいてください。後で払います。……何の心配をしてるんですか杞憂です。では切ります」 電話の向こうで騒がしい声が聞こえたけど、千歳さんは問答無用で通話を切り、電源まで切った。 呆気にとられて言葉も出ないあたしに向き直り微笑みを一つ。 「聞こえていたと思いますが、貴女たち二人の借金、すべて私が代わりに返済しました。なので、二人とも私に対して借金を持つことになります。もちろん、きちんと返済いただければ釈放します。が、当然それまでは私の所有物ということになります」 開いた口がふさがらなかった。 ちらりと横を見たら、碧も同じように引きつった顔をしていた。 あ、碧でもそんな顔するんだ。 そう思うと少し正気を取り戻せた。 「あ、あの……借金、なくなったんですか?」 「なくなったわけではありません。私に対して未だ有効ですよ。ちなみに債権放棄する気はありませんのであしからず。きちんと働いて返して下さいね」 「はぁ……」 あたしの借金、一生かかって返す金額だった。 文字通り、あたしの人生を買ったわけだ。 もちろん「全部なしにして許して下さい」なんて厚顔無恥なことを言うつもりはない。 ただでさえ正体不明の組織から千歳さんという顔見知りに債券保有者が移ったのだ。それだけでも僥倖だ。 きちんとお金と恩は返す。 ただあまりの事態に理解が追いつかないだけだ。 そうやって未だボーっとしているあたしの横から碧が出てきて、千歳さんのふくらはぎあたりに甘い声を漏らしながら頬ずりした。 そしてこっちを見たかと思うと、 あたしに見せつけるように「にやっ」と笑った。 あたしはプッチンした。 急いで千歳さんのもとへ駆け寄り、ジャパニーズ土下座をした。 「一生懸命働きます!よろしくお願いします、ご主人様!」 そして、精いっぱいの大きな声で宣言した。 バサバサとびっくりした鳥たちが飛び立つ音が聞こえた。 「え、あ、はい……こちらこそ?」 今度は千歳さんの困惑した声が聞こえた。 顔を上げて碧と視線が合い、一瞬間があって、そして笑いあった。 それはこんなごっこ遊びを始めようと決めた、あの日の二人と同じ笑い顔だった。 ▼ あの後、あたしは頼み込んで碧の舌を元に戻してもらった。 いくら思いが通じ合うとしても、直接声に出して言ってもらいたい言葉もある。 その機会が永遠に失われるのは、すごくもったいないことだと思ったから。 そのほかの部分は、千歳さんに無理だと言われた。 技術的に無理なのか、許可を出さないだけなのか。 それは分からないけど、飼い主である千歳さんにそう言われれば、あたしたちは黙って従うほかない。 「いいよ別に。慣れればこの身体も結構面白いし」 舌を治してもらった碧も、まんざらでもというかふざけた返事を返したのでとりあえず殴っておいた。 内心ではすごく感謝してる。 押し潰されそうな罪悪感を、少しでも軽くしようと、わざとそういう態度をとっているのが分かるから。 だからこそ、あたしもなるべくいつも通りの反応をする。 ついでといっては何だけど、なんて誤魔化しながら、「今回のことどこまで気付いてたの?」と聞いてみた。 そしたら……。 「いや、菫ちゃん変に真面目というか、割とヤンデレというか。だから顔見たら大体分かるよ。『こりゃちょっと大きいのくるなぁ』とか」 あたしゃ自然災害か何かか。 「今回のは、まぁそんな顔して『長期休暇取れ』なんて言われたらさすがに気付くっしょ。拉致監禁コースだぁ、ってな感じで。私はむしろいつ来るのかなぁって待ってたんだけどね」 「えっ!?」 「菫ちゃんホントにぶちんだからねぇ。ま、それでもここまでされるとは思ってなかったけど」 「……ごめん」 長くなった前肢をくいと持ち上げておどける碧に、あたしの視線もつい下を向く。 そして碧がずっとあたしを受け入れる気でいてくれたことに対する嬉しさと、早まってしまった、いや、勇気が持てなかったあの日のあたしに心底説教をしてやりたい気持ちでいっぱいだった。 あの時、きっかけはあった、そのはずだったのに。 「この家に連れてこられるまでは、それでも『本物』の可能性も疑ってたけどね。菫ちゃんの姿見た途端に、ああそっか、って」 「軽いな……」 「一番想定してた事態だったしね。で、あとは菫ちゃんが誰かのいいなりになっている可能性。つまり嫌々させられているかどうか、だったけど、菫ちゃん、ニヤニヤしながら私のこと調教するんだもん」 「に、ニヤニヤなんてしてないでしょ!?」 「いんや、心の眼で見れば分かるのだ!」 ばちこーん! と特大のウインクが飛び出した。 いや、心眼関係あるかそれ。 「それはともかく」 あ、話すり替えた。 「菫ちゃん身体売ってたなんて聞いてないぞ! それは本当に知らなかった! 裏切り者め!」 「あっ、痛い! だめ! 金属はだめ! それ本当にだめなやつ!」 ガスガスとわざわざ蹄部分で殴りつけてくる碧。 じゃれているのは分かってて、でも痛いのは本当で、止めさせようと思ったけど、その泣きそうな顔を見たら何も言えなくなった。 ほら、そういう顔するじゃん。 それが嫌だから、全力で隠してたんだよ。 そのお金の使い道も、使い道だし……。 「でも、結局碧の思った通りになったってこと?」 ひとしきり種明かしタイムを経たところで、あたしが言う。 自分のことを棚に上げて考えれば、そんな気がしたからだ。 「まぁね。こうやって菫ちゃんの本音も引き出せたし」 碧はそう言って、一拍。 「……基本的に菫ちゃんは物事に自分のことを含めて考えないからね。だからこそ一歩引いた目線で物事を考えられるんだろうけど、そのせいで自分に向けられる感情とかに無頓着なところあるし。私としてももどかしいったらなかったわけですよ。そういう意味では今回のことはいいきっかけだったかもね」 「う……」 見透かされるような言葉に何と言っていいか分からず、あたしは押し黙った。 その姿に満足したのか、楽しげな声で碧は続けた。 「それに、利害の一致した理想のパートナーと出会えたしね。ついでに理想の仕事と」 「へ? ……あんた、まさか千歳さんのことも」 「さぁ? どうだかね」 そう言ってカチャカチャと蹄を鳴らして表に出ていく碧。 一瞥くれたその目は……。 「あっ、ちょっとあんた、待ちなさい! 本当のところどうなのよ!」 それを慌てて追いかけるあたし。 「あれ、菫さん、どうしたんですか」 「千歳さんっ! ちょっと、庭で遊んできます!」 途中、リビングに戻ってきた千歳さんの声に、返事もそこそこ、サンダルをつっかけてテラスから飛び出す。 「はあ……? ……ああ、はい、なるほど。わかりました。もうすぐお昼ですから、ほどほどに」 「了解ですっ」 飛び出した先は、もうすっかり春の世界。 来たときは白い雪化粧を纏っていた木々も、今はもう新緑の葉を芽吹かせている。 大地は青々とした芝生に覆われ、あちらこちらに草木が生え揃う。 視界の中央、後数歩で届く距離に、碧の悪戯っぽい笑顔。 「私が欲しいんだもんね。菫ちゃんってば情熱的っ」 「ぎゃーっ!? 今それを言うなぁっ!!」 後戻りはできない。 あたしは、進んでいく。 限りない罪悪感を抱きながら、それすら抱かれながら。 胸に秘めた碧への想いを信じながら。 二人なら、きっとどこまでも進んでいける。 あたしの世界はこんなにも『みどり』で溢れている。
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