『惰性』という言葉を調べると『これまでの習慣や勢い』とあって、それ自体には否定的な要素はないように思える。 そして『継続は力なり』という言葉を引っ張ってくれば、『惰性で生きる』というのは別段悪い事ではない。むしろ、くだらない事でも続けていれば一丁前になるというような、肯定的な意味合いがあってしかるべきだと感じたりもする。 「あ~めんどくさい……」 けれど、今の私の生き方は世間一般で使われるような否定的な意味合いでの『惰性』であって、身も蓋もない言い方をすれば、単にだらだらと資源を貪り細胞を劣化させ続ける場末の寄生虫に違いなかった。 研究者なんて大層な肩書きを背負いながらも現実はそれを重荷発生装置にしか感じていなくて、ある程度任された裁量によってそれなりに自由に仕事はさせてもらえているけれどそれだけで。 自分がしている事が誰かの役に立つとか、ましてや歴史に名を残す発見をするなんて小学生みたいな夢を抱く事もどこかに置き忘れて久しい。 『次は~○○前~。○○前~』 だからか、多少なりとも向上心やら理想やら野望なんて感情が漏れ漂う空間にこの身を晒すのは憂鬱と言う他ない。 全員がそうだとは言わないけれど、それでも誰も彼もがきっと私よりは『それら』に真摯で、熱を持って向き合っている。自分のやってきた事が絶対真実だと信じている。信じ込もうとしている。妄信的にのめり込んでいる。 そして他人も、私もそうであると信じて疑わない。型に嵌め、レッテルを貼り、ようやく安心している。 でも、それはある意味狂気だ、と私は思う。 不確かであるはずの思考を確信的に確定し、それを振りかざし、悦に浸る。否定されればそれは自己の否定に繋がり、烈火の如く抵抗し、狭く凝り固まった自己象徴を大事に大事に抱え守る。まるで誰しもが爆破寸前の爆弾を抱えているようで、そしてそれを張りぼてのペルソナで隠す。 私がこれから行くのは、そんな人たちが集まる舞台。始まるのは息の詰まる舞踏会。 捻くれた私が抱く学会へのイメージは、おおよそそんな感じだった。 「……降りなくちゃ」 それでも「もういいや」と投げ出す事もできないところが、私という存在の厄介なところだ。 今回のこれも、サボろうと思えばサボれたのだけれど……。 窓の下ついていた肘を下ろし、溜息交じりにむっくりと立ち上がる。肩に掛けたショルダーバッグの重みがそのまま今の私の心の重さのよう。 地方路線の車内は経営の心配をしてしまうほどに人もまばらで、薄ら寒い。数名の乗客の後ろに続いてホームに降り立つ。朝だからか、やけにヒールの音が響く。息は白い。 こんな日に外を駆け回るのは子供と犬だけで十分なのに。 空は青いが心は晴れない。長く連なったフェンスはまるで檻の格子にも見えた。 発表の時間は何時だったか。その前にある程度挨拶回りもしないと。資料に不備はないはずだけど、不安だ。この間大慌てしていた子がいたからなぁ。……と、自販機でコーヒー買っておこう。あの会場の自販機品揃え悪いし……って、あれ、切符……あ、あったあった。 「……ふぅ」 あと何時間かすれば多少なりとも解放された気分でここに戻ってくるから、それまで頑張れ、自分。 ▼ 「今回のもなかなか面白い発表だったね。思わず聞き入ったよ」 「ありがとうございます。先生は午後からでしたね。後ほど改めてお伺いします」 「ははは。私のはいつもの代わり映えしない内容だからね。他に回ったほうがいいんじゃないかい」 「またそんな……」 曖昧な言葉尻と態度で否定のニュアンスを出しながら、内心で頷き同意する。 ココアを奢ってもらっておいてなんだけど、私はあなたの長話なんか聞きたくない。できればご機嫌取りのこの会話も今すぐ止めて立ち去りたい。それが出来れば苦労しないけれど。 「しかし、君も真面目だねぇ。こんな地方まで……。どうせ赤井君あたりに押し付けられたんだろう?」 「いえ、自分から……。先生にもご挨拶したかったですし」 「おお、若い君からそう言ってもらえると、お世辞でも舞い上がってしまうね。はっは」 中肉中背、白髪の混じり始めた短髪に度のキツイ眼鏡。最近お腹が出始めたと笑う初老のおじさま。 別段悪い人じゃないし、むしろ関わりのある人の中ではかなりマシな部類に入る人だけれど、だからといって話の内容が面白いとは限らない。 普段はともかく、壇上において朗々と人々を説き伏せる研究者はそう多くない。話下手特有のどもりや、くちゃくちゃと耳障りな話し方は聞くに堪えない。 暗い室内に興味のない内容が加われば、疲れた身体への格好の睡眠導入剤になるのが救いと言えば救い。 だけど先生の名誉のために言えば、私はこの会場にいる誰に対しても同じような印象を持っていて、私が勝手にそう思っているだけで、先生が悪いわけじゃない。 ただ、早く帰りたいな、と、そう思うだけだ。 「さて、もうあと2つ3つ見学してから最終チェックでもしてこようかな」 「お疲れ様です」 「次回も期待しているから」 「……ほどほどに頑張ります」 「はっはっは。そうだな。ほどほどが一番だ」 立ち去り際に片手を上げてひらひらするのも、格好いいと思ってやっているんだろうな。 別に悪態をつくわけじゃないけれど、コップの底に溜まった溶け残りのココアのようにやる気なく沈んでいる今の私の視界には、きっと全てをマイナス方向へ補正するフィルターが掛かっている。手にした資料の端の折れ曲がりが私に「もっと上手くやれよ」と語りかけてくるようだ。 ……五月蝿い、ほっとけ。 そう呟いたら清掃係のおばちゃんが怪訝そうな顔でこちらを見ていた。 「どこか適当に入って寝よう……」 とりあえず身体を休めたい。自分の発表が終わったからか幾分気は楽になった。同時に多少なりとも張り詰めていたものが緩んだせいで猛烈に眠たくなってきた。 初めから寝るつもりで部屋に入るのも申し訳ない気がするけれど、気がするだけで自分を追い詰める自虐を弄ぶ余裕もない。それに自分の評判がどうなろうと知った事じゃない。ただまぁなるべく人気のなさそうなところにしよう。それなら被害も最小限に食い止められる。……被害ってなんだ。 回らない頭で突っ込みを入れながら、各部屋の前に置かれたホワイトボードの看板を物色する。 小難しい言葉で内容の薄さを誤魔化すタイトルが森の木々のように鬱蒼と連なり、服を着た木々が視界の横を通り過ぎる。どこでもいいはずなのに選り好みする自分に呆れながら、それでも赤い果実を見つけたのは探し始めて10分ほど経った頃だった。 「順行性健忘の倫理的な活用について……?」 なんとも尖ったテーマを研究している人がいるものだ。よくこんなの通ったな。そのチャレンジ精神を買ってここにしようか。人も少なそうだし。チラリと部屋の中を覗いて脚にゴーサインを出す。 扉を開けると、中にはまばらにしかいない聴衆。なるべく息を殺しながら最後列に据え置かれた椅子に腰掛ける。 ……うわ、さっきの教授も来てたんだ。気まずい。まぁ目も合っていないし、知らん振りしておこう。 私の存在に気付いたのか周辺の数人がこちらを見たけど、そのことごとくを「話しかけないで」オーラで封殺。全員の視線がギギギと前に向いたところで小さく溜息。この様子なら誰かに咎められることもないだろう。 あとは手元の資料に目を通している風を装って、俯き加減に惰眠を貪ればいい。 「ふわ……あ」 やがて壇上に人が立つ気配がする。スクリーンがたわむ音がして、プロジェクターのファンが静かな騒音を撒き散らす。 それらはファミレスの雑音のように、五月蝿くも規律立った子守唄のようでいて。薄暗くなった照明が部屋を子宮にする。寝るにはいい日だ……なんて。ちらりと『彼女』を見て。 「それでは、始めますね」 「……っ」 私の意識は一気に釣り上げられた。 ▼ そしてそれが初めての出会いだったと、現実から退避した意識の分身は思い返すのだ。 「……考え事ですか?」 「……わん」 返事を返しながら、一際大きく身体を震わせた。 夜の街は寒い。春先とはいえ風は未だ冷え、纏うもののない素肌に突き刺さる。電柱の根元から立ち上がる湯気は温かそうだ。 ……それもそのはず、か。 今しがた私の膀胱から体温を握り締め吐き出されたおしっこが撒き散らされているのだから。 震えたのは気温のせいだけじゃない。そういえばこれは『シバリング』と言うのだったっけ。方言の『しばれる』と関係あるのだろうか。 「分かりますよ。木江(きのえ)さんが考えている事くらい。だってずっと見ていたのですから。あれでしょう、わたしと出会ったときの事を考えているのでしょう? 分かりますよ、目線が左上に向いていますもの。景色を映していませんもの。……ほら、わたしのカマに掛かって表情を変えましたもの」 私の股にティッシュを当てながら、ころころと彼女は笑う。敏感な部分を触れられる感触に「んっ」と声が漏れ、顔が熱くなる。 地面についた手足がピンと突っ張る。革のグローブで包まれた手が、見えないところで本物の犬のように爪を立てる。伺い見た彼女の顔は、街灯に照らされ明るかった。 「そうですね、まさか木江さんが来て下さるなんて思ってもみませんでした。憧れの人でしたもの。それは驚きました。誰からも期待を集め次世代を担うと言われている人に、誰にも見向きもされないちっぽけなわたしの発表を見に来てもらえるなんて」 「……私だって、良いと思った研究くらい見に行くわよ」 「ありがとうございます。不肖、馬場日向(ばんばひなた)は嬉しいです。誰かに認めてもらえるという事は、とても嬉しい事ですから!」 少しだけ罪悪感を感じる。嘘をついている事よりも、それに気付いていてなお嬉しそうに笑う彼女の心情を思って。 本当は、ただ寝るのにちょうどいい場所を探していただけだ。疲れた事を理由にして、サボるための隠れ蓑として利用しただけだ。 だけどそんな本音は隠して、さらにそれを隠している事すら忘れて、あのときの私は結局5回も質問をぶつけてしまった。気を惹かれたとはいえ、それほど興味深いテーマでも内容でもなかったはずなのに。 私はただ、目の前の彼女との会話を楽しんでいた。その事実だけが唯一私の心にへばりつく罪悪感を洗い流し、彼女と目を合わせる事を許してくれる。 何度も質問をしたのだって、少しでも自分と彼女との繋がりを作りたいから。はいおしまい、と彼女の発表が終わってしまうのが惜しかったから。そんな風に思ってしまった。 全てが吹き飛んでしまうほど、彼女に惹かれていた。だから『引き込んだ』。 「だから、わたしも否定しません。木江さんがしたいこと。木江さんがされたいこと。教えてもらった事、頑張ります。それに、最近は……楽しくなってきました。こうして、木江さんをワンちゃんとして躾けること」 「ひ、日向ちゃん……」 少し前からするようになった、少し目を細めて唇を閉じたままニィッと口角を上げる笑み。 それは指を直接捻じ込むが如く私の脊髄を貫き、心臓を鷲掴み、下腹部を熱く滾らせる。支配者の笑み。飼い主の笑み。獲物を見つけた獣の笑み。 こうしたのは私だ。そのことが嬉しく、怖い。 「白衣を着た木江さんは美人ですけど、ワンちゃんの木江さんは可愛いです。普段の余裕があって凛として、真剣な目をした木江さんも好きですけれど。少し不安げで小さくて、柔らかい木江さんも大好きですもの」 リードで私の首を牽くことももう慣れたものだ。日課のマーキングを終えた私たちは夜の散歩を再開した。 夜の街は静かで無味乾燥としているようでいて、その実、色彩豊かに私たちを包んでいる。 世界は紫紺に染まり、人工の光を際立たせ、普段は気にする事もない街の形を切り取り浮き上がらせる。 遠くに聞こえる車の排気音、自転車のブレーキ音、酔っ払った群衆の喚き声。押し殺した吐息は思う以上にか細く、それすら詰まらせるように首輪が喉に食い込む。目の前に伸びるリードはしっかりと彼女の手の中に収められ、疲れたとへたり込む事も許さない。必死に繰り出す四足は小刻みに震え、両の手足に着けられた革袋は左右に踊りながらジャリジャリと地面を噛む。たまに吹き込む風は剥き出しの乳房や秘所を撫でながら通り過ぎ、せっかく忘れそうになった羞恥心をいちいち刺激してくる。 人に出会わないのが不思議なくらいの危うさと、もはや自分一人ではマンションの自室に戻れない恐怖心。他人に自分を預け、委ね、投げ出す破滅感。貶められ、従わされる屈辱感。 無垢でいたいけな少女を巻き込み、飼い主として仕立て上げる背徳感。 「何より、こうして木江さんと一緒にいられる事、それだけでわたしには望外の幸せです。木江さんが望むなら、わたしは認めます。木江さんがわたしの飼い犬でいる事。そう、木江さんが望んだとおりに」 何より、それらの先にある開放感こそが、私の『おかず』だった。 「だから、わたしは『それでも』嬉しい。どんな形であれ、わたしであることに違いはないのですもの。なので、そう在って下さいね。最後まで。わたしのペットで。わたしが飼い主で。……そう望まれたのだから」 ふっと力を抜いて微笑む彼女は儚く、可愛い。『女の子』の自分に無頓着な誰かと違って。 短くもさらさらと流れる黒髪。ほんのり紅が差した頬。小柄な身体で、細いのに丸く見えるのはきっと雰囲気のせい。ゆったりと厚めの生地のワンピースを着こなす姿はガーリッシュで温かみがある。もちろん歳は下で、でもそれほど離れていない。 だからか、どこか従妹に抱くような保護欲、思わずよしよしと撫でてあげたくなるような磁力がまとわりついているように思える。 そんな彼女の、喜ぶ姿が見てみたいと、プレゼントを後ろ手に隠した子供のように思ってしまったから。 ただ利用し、割り切った関係であろうとする当初の私の計画は暗雲立ち込め、欲望との狭間で悩み、取り返しのつかない現実の中に救いを探す。 そして酸性雨が肌を叩いた後、オゾンホールから日の光が差すように、私の前に『生み出してしまった』彼女は降り立つのだ。甘美なる快楽をもたらす鎌を携えて。 「……そういえば、人間様の言葉をしゃべりましたね。ダメですよ、ルール違反は。お仕置きです。お尻を突き出してください」 「……わ、わん」 「はい、いい子いい子、です」 振り上げられた鞭は視界から幾つもの星を消し去って。 空気を、肉を、私を、切り裂いた。 ▼ びっくりです! 何がって、あの木江かの子さんが私の発表を見に来てくれたのですもの。これを驚かずに何を驚くというのでしょう! 「うふふっ」 正直、わたしは自信を失っていたのです。明けても暮れても研究に没頭し、夜を徹して書き上げた論文。それが評価される事は今までなかったのですから。 自分の信じるものが、提示したものが、認められないという事はとてもつらい事です。まるで自分自身が否定されているようにすら思えます。 中学校のとき、クラスの女の子たちに無視されていたときの悲しさが甦ります。一人は、もう慣れましたけれど。 いつか、きっと誰かが……。そんな薬包紙よりも薄い可能性を信じて、今までやってきました。 冷たい視線を受けながら、それでも何とか結果を出したいと、それだけを考えて。 だから、木江さんがわたしの研究に興味を持ってくれて、あまつさえ「良い研究」と言って下さって、本当に救われた気持ちになったのです。 例えそれが仮初であったとしても。 「……?」 「ごめんなさい、思い出し笑いですっ」 そんな木江さんだからこそ、「お願いがあるんだけど……」と言われてわたしが断るわけはありません。例えそれがどんなに突拍子もない事だろうと、真面目で聡明な木江さんが言うのですから、きっと何か意味があるのだと思います。 ……いえ、意味なんかなくても、わたしは。 「短い間でしたけれど、わたしにとっては濃い時間で。どれもこれもが昨日の事のようです」 「……」 「あ、なんだかこう言うとこれで最後みたいな感じがしますね。そんなつもりはなかったのですけれど。きちんと、これからも管理して飼って差し上げますから。だから、大丈夫です」 本当は誰だって良かったのかも知れません。 たまたま、都合よく御しやすい相手としてわたしが選ばれただけなのかも。……いえ、きっとそう。 でも、結果として自分がここにいる、わたしはその事実を大事にしたいのです。誰でも良かった場所にいられること、その『誰』になることこそが重要なのだと。 だから、わたしは全力で木江さんに応えます。鞭で叩く事も、リードを牽くことも、人として扱わない事も。 憧れの人に対する引け目を捨てて、とことんまで。 そしていつか、『わたし』を見てくれたら、と、そう思います。 ▼ 土曜日の朝は日向ちゃんの家で目を覚ます。 ……家というのは少し語弊があるかもしれない。正確には押入れの中で、もっと言えばその中に設置されたケージの中だ。 どこぞの猫型ロボットよろしく、少し湿気た暗闇の中で身体を起こす。被った毛布がはらりと落ちた。 聞こえるのはくぐもった話し声。テレビのニュースだろうか。目を擦るといくらか目ヤニが取れた。結構ぐっすり眠っていたらしい。 手足を伸ばして横になれない狭い空間でもちゃんと寝られるのだと、自分の図太さに少し呆れる。 「木江さん? 起きましたー?」 「わんっ」 日向ちゃんの声が聞こえる。私の頭の中のスイッチがバチンと切り替わる。 平日の自分から、休日の自分へ。疲れを抱えた人間から、開放感を抱くペットへ。 毛布を隅にどけ、姿勢を正して待機する。おすわりしたこの時からが、私の休日の始まりだ。引き戸がずれて、光が差し込む。 「おはようございます、木江さん」 「わん、わんっ」 ああ、今日もまた日向ちゃんは後光を背負って私を見下ろし、暗い檻の中で縮こまる家畜に救いの手を差し伸べる。 今の状況をそんな風に変換してしまいたくなるような、浮ついた朝。 休日特有の高揚感はそっくりそのまま日向ちゃんとの情事のせいだと錯覚されて、そしてそれをあえて矯正しない。思い込めばそれは本当になる気がして。事実、状況としては似たような事であったりして。 ロールプレイをするには、この上ない精神状態。 唯一つ注文をつけるとするならば、呼び方だろうか。でも彼女は、町を徘徊する年老いた野良猫にすら「クロさん」とか言って頭を下げるような子だ。高望みはすまい。 「今日はいい天気ですよ。昨日の雪も融けるでしょうか」 「んー、わん」 「そうですね、全部は無理でしょうけれど」 錠が外され、ケージが開く。頭を当てないようにのっそりと這い出す。 手足に感じるカーペットの感触。エアコンの効いた部屋は身に纏うもののないペットにも心地良い。鼻をくすぐるお味噌汁の匂い。振り返れば暗闇に佇む我が棲家。その落差にゾクゾクしたものを感じる。 格子にぶら下げられた『かの子』と書かれたハート型のプレート。それが確かにそこを私がいるべき場所だと指定していて、結局私にお似合いなのはここなんだぞと暗示しているようで。 「とりあえずお支度ですね」 「わん」 指を第二間接で曲げたまま固定する、肉球がついたグローブ。爪先立ちを強制するバレエヒール。尻尾のついたアナル栓は、時間をかけてゆっくりと。 エプロンを着けた彼女に支度を整えられるのは、どこか幼児退行の感覚にも似ていて。一日で一番『まとも』に近い頭の中が成す術もなくどんどんと痺れていく。 だからこそ突拍子もないファンタジーは頭ごなしに否定されず、その世界に入り込みやすくなる。受け入れやすくなる。 「はい、顎を上げてください」 「わん」 巻かれた革製の首輪は少しだけ冷やりとして、優しく残酷な圧迫感で私の急所を握る。チャリ、と可愛く鳴いた鎖にぶら下がるネームプレートが鎖骨を撫でる。 四つん這いで胸を反らした状態で待機していると、横からベリベリと袋を破る音がした。そして日向ちゃんの指が私の眼球を捉える。瞼を開くよう押さえられた右目に、その指が触れる。 途端に右の視界が曇る。何度も瞬きを繰り返す私に構わず、日向ちゃんは左目にも触れ、私の視界を奪う。 「痛かったですか?」 「わふ」 少し、というニュアンスで鳴くと、日向ちゃんはよしよしと頭を撫でてくれた。その柔らかく笑った顔だけが、唯一視界に収まる。 私の目に着けられたのは視野制限のコンタクトレンズ。見ている物の周辺が暗く欠ける求心性視野狭窄を人工的に再現して、なおかつ極端な近視状態にする代物。 普段暮らしている中では、まったく必要のないもの。 ただ相手を貶めるだけの、調教用の道具。 「ご飯持ってきますね」 「わん」 制限された視界で、日向ちゃんが離れていくのを見送る。数歩歩いたところでもうぼやけて見えづらくなる。 さっきまで視界の隅に映っていたテレビやドアやテーブルなんかもどこかに消えて、ただぼんやりと彼女の後姿だけが遠くにある。 目を瞑って何回かくるくる回れば、それだけで自分の今いる場所を見失い、どこに何があるか分からなくなる。そんな世界。 ペットの私に必要なのはそれだけだと、叩き込まれた世界。 「はい、お待たせしました」 「わん」 「いいですよ、私はもういただきましたから。召し上がれ」 「わんっ」 だけど、視界の中心、近くにあるものだけはちゃんと見える。周囲1メートルほどの、相対した中心だけが私の見える世界だ。 今であれば、蹲るように顔を近づけた餌皿だけがはっきりと見える。自然と私はそれに集中する。餌皿の両隣に腕を置いて、顔を突っ込む。 ペットフード独特のきつい匂いが鼻をつく。ねちゃねちゃとしたささ身だかなんだかの風味が口の中に広がる。鼻先につくのも構わず私はそれを貪った。 餌の時間は朝と夕の二回。食べなければ下げられる。貴重な食料と時間を無駄にするわけにはいかない。 「美味しい?」 「わん!」 薄味なのと匂いを我慢すれば、別段食べられないものでもない。 何より、飼い主である年下の後輩に見下ろされながら、餌皿に顔を突っ込みペットの餌を貪り食っているのだ。惨めさで頭が痺れ、味なんて分からない。 思考は都合よくセルフ調教の理論を組み立て、下半身がジュンと熱を持って潤む。 「はぐ……んぐ……、ぺろっ……れぅ……」 「うふふ、綺麗に舐め舐めして、えらいですね」 餌皿を使う前のように綺麗に舐める。唾液でコーティングされ光沢のあるそれを日向ちゃんが褒めながら下げていく。 あっという間の食事。これでお腹が膨れるのかといわれると素直には頷きにくいけれど、一日中高揚した精神下では空腹感も鈍く感じる。 戻ってきた日向ちゃんは私の前にしゃがみこみ、鼻に付いた餌を拭ってくれた。近づいたその顔は笑顔だ。 「ほら、こっちですよ」 「わんわんっ!」 そうして後は、ひたすらにごろごろとしてじゃれつくだけ。普段考えているような難しい事は全部どこかに放り投げてしまって、ただただ気持ちの赴くままに、壁がなくなって溢れ出した本性のままに、自由に振舞う。 ひらひらと舞う右手、座り込んだ太もも、お腹。視界に入ったそれに、鼻先から飛び込み、頭を擦り付け、無邪気に甘える。それの何と楽しいことか。 羞恥心は最初だけで、すぐにふわふわとした感情が全身を満たして、私の心は解き放たれる。まとわりついた右手が返され、身体がごろんと仰向けになる。自然と降参のポーズになる。胸もあそこも隠すものなどなく、恥ずかしいはずなのに、お腹を撫でられればその感触に酔いしれ、幼児のように歓声を上げる。 トランスした頭の中で、私はしっかりと、犬だった。 「ん~! 可愛いです!」 「あうんっ」 それはまさに麻薬だった。 普段の重圧から逃れられる、みっともなくて尊い時間。他人を巻き込んだ盛大なオナニー。だけどそれをもってようやく私は日々の精神的な安寧を手に入れた。 おすわりをすれば期待は膨らみ、お手をすれば高揚感に身を焦がし、裸で恥を晒すたびに身体は熱を持って、その熱で理性はドロドロに溶け出す。それが気持ちいい。それで無心になれる。 普段のささくれ立った『木江かの子』は消え去る。ただ、私がいるだけ。私と、日向ちゃんだけ。 『え……? ペット、ですか……? そんな、木江さんを……』 『あの……っ、何で、脱いで……!? そういう、もの、なんですか……?』 『これですか……? わっ!? ぶるぶる震えてますよ!』 『このままお外に、ですか!? だ、大丈夫でしょうか……?』 何も知らなかった日向ちゃんを引き込んでしまった引け目は、やはりいつまで経っても残っている。だけど、彼女が楽しそうに笑う回数が増えるたび、私はその思いを奥底へとしまいこんだ。 これを表に出すのは違う。これは、私が一生抱え込んで、自分の罪を確認するための棘だ。それがあることで私はこの先ずっと苦しみ続け、そして結果を甘受し続けられる。 持つ手を焦がす免罪符はその痛みですら私を解き放とうとする愛撫であり栄養だ。 「今日は何をしましょうか」 「わぅ」 「おトイレはもう覚えましたし、お散歩は夜行くとして……。たまには一日家にいるのもいいかもしれませんね」 「わん!」 そうして休日を思い切り楽しみ、平日になるとお互いがお互いの日常へと戻っていくのだ。 ハウスから檻へ。仮面をつけて舞踏会へ。虚無感しかなかったリノリウムは、助走のためのタータントラックへと変わった。所詮は通り過ぎる風景に過ぎないと割り切れば、皮肉にも平日は優しく擦り寄ってきて、肩の力が抜けた私を中心に上手く回りだす。 二人の関係は変わらない。たまにどこかで会っても、軽く挨拶を交わすだけで、必要以上の馴れ合いはしない。そんな関係がどこか清々しく、平日を平日として際立たせ、休日へと繋げる潤滑油となる。そう思った。そんな世界に酔いしれた。 そして貪欲な私は、恥知らずにも、厚かましくも、想像してしまうのだ。 ……もし、毎日が『休日』になったとしたら、どうなってしまうのだろう。 「うふふっ」 窄んだ世界で捉えた彼女の笑みに、私の身体はゾクリと震えた。
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