外伝04『支え合う世界』

「お話しましょうか。お茶でも飲みながら」

 そんな話をしたのがつい10分ほど前。

「いい天気ね~」
「ま、ね」
「美弥、準備お願いね」
「かしこまりました」

 ここに来てから、それなりに日々を過ごしていた。
 一日の過ごし方もそれなりに慣れてきて、きぃちゃんと啓子さんの生活をそれなりに観察して。

「ほらおいで、貴子」
「わん」

 そうして4日が経った頃。
 さて本格的に屋敷の中を物色しに歩いて回ろうか、と部屋を出たところで、この主はこうやってきぃちゃんの首輪を牽いてやってきて、お誘いの言葉をボクに投げかけたのだ。

「もうずいぶんと暖かくなってきたわね」
「わう」
「風も気持ちいいし。こんな日は外に出ないと嘘よね?」
「……そだね」

 それを断ろうはずもなく、また断れるはずもなく。
 まだ数日しか寝食を共にしていないけど、この人の行動にはどこかあざといところが見え隠れする。
 またそれが嫌味でないところがさらにあざといというかなんというか。

「ここに座って。今お茶を持ってこさせるから」
「どうも」
「貴子もお座り」
「わん」

 ……自然だ。とても。
 何も淀むことがない。不自然なほどに。
 この一面緑の色彩で覆われた芝生も。
 鳥のさえずりも、空の青も、心地よい風も。
 その中で一糸纏わず、犬座りをして主人に寄り添う少女も。
 全てがこの空間の中、なんの違和感もなく成立している。

 ボクを除いて。

「よしよし、偉いね」
「わふ……」

 くい、と、細く長い指がその顎を持ち上げ、まるで犬や猫にするように、喉を撫でる。
 いや、まるで、じゃない。
 まさに、そのとおりなんだろう。
 そしてきぃちゃんの反応もまた、そのとおりに行われる。

「貴子、お手」
「わんっ」

 椅子の上から差し出された左手に、地面から右手が伸びる。
 丸めた手。可愛らしい手。そこから伸びる華奢で白い腕。
 首輪に繋がれ、裸体を晒し、屈辱的な行為を要求され。
 それでも少女は、従う。嫌な顔一つせず。

 それどころか。

「はっ……はっ……」
(上手にできた?褒めて褒めて!)

 と言わんばかりに、その縋るような瞳を主人に向けて、荒い息を繰り返すんだ。

「うん、いい子ね」
「わふ……」

 ただひとり、服も着させてもらえず、椅子に座ることも許されず、犬のように振る舞うことを強制され、屈辱を感じないのだろうか。
 羞恥心は忘れてしまったのだろうか。

 そんなことを思うたびに、きぃちゃんのその顔を見て、ボクは思い直す。
 屈辱を感じないわけない。羞恥心を忘れたわけでもない。
 ただ、それらを全て受け止め、受け入れたうえで、この行為は行われているのだと。
 上気した頬。潤んだ瞳。荒く吐き出される湿った呼気。
 微かに震えを見せるその身体が、言葉よりも雄弁にきぃちゃんの感情を代弁している。

 「恥ずかしい!」と。
 きっと、そう思っているに違いない。

 でも、それ以上に……。

「……ずいぶん嬉しそうね」
「そりゃそうよ。この子が、望んだことなんだから」

 そう、望んだことなんだ。
 顔を撫ぜる主人の手に擦り寄りながら、身体を喜びに震わせるきぃちゃん自身が。
 数ある結びつきの形の中で、今ボクの目の前に広がるこの形を。

「お茶の準備ができました」
「そう。御苦労さま」

 スッと啓子さんが手を離すと、きぃちゃんもまた、お座りの姿勢に戻る。
 とても訓練された動き。
 主人の足元でキチンと待機するその姿を見て、思わず。

「お利口さんだね」

 と言葉がポロリと出てしまった。

「……ぁ、あう……」

 まさかボクにそんなことを言われると思っていなかったのか、きぃちゃんはさらにその顔を真っ赤に染めて、俯いてしまった。

「こら、貴子、せっかく褒めてもらったんだから、お礼は?」
「わ……わん……」

 ……ごめん、きぃちゃん。余計な事しちゃった。
 ソロソロと四つん這いでボクの足元に這い寄るきぃちゃんを見ながら、そんな申し訳ない気持ちが湧き上がる。
 でもそれでも、どこかゾクゾクとした感情の昂りを感じずにはいられなかった。

「ぁ、あん……」

 そして、足元でうずくまるようにして座ったきぃちゃんは、ボクの履いていたショートブーツに口づけを一つ捧げ、頬をスリスリとじゃれるようにふくらはぎに擦りつけてきた。

「……っ!」

 なぜ、こんなことができるの?
 ボクならきっと、耐えられない。
 犬らしく振る舞ったことを褒められて、しかもそのお礼までしなければならないなんて。
 人として、そんな屈辱があるだろうか。

「くぅ……」

 ただ、上目遣いのその顔は殺人級の破壊力を持っていて。
 思わず伸びた右の掌は、その子犬の頭をおそるおそる撫でていた。
 するときぃちゃんはどこか安心したように艶っぽい息を吐き出した後、ギュッと押しつけるようにボクの足に縋りついてきた。

(か、可愛すぎる……っ)

 他人を支配する歓びというものの片鱗を、本能に近い部分で感じ取った気がした。

「もともと、……なんて言うか、犬属性? みたいなのが高いというか、普通の子に比べると抵抗感の薄い子だったんだけど」

 貴子、と啓子さんが呼ぶと、少し名残惜しそうにしながらも、きぃちゃんはトテトテとまた主人の足元へと帰って行った。

「それでもやっぱり人間は人間。そう簡単に尊厳を捨てられるものじゃないわ」

 自分の元へ戻ってきたところで、啓子さんは新たな命令を下す。
 それは、人としての尊厳を保ったままではできないであろう屈辱。
 さきほどよりも身体の震えを大きくしながらも、ボクたちの座るテラスから2,3m離れ、こちらを向いたままきぃちゃんは身体を起こした。
 手は胸の横、股は広げ、足はつま先立ちでしゃがみ、舌を出す。
 俗に言う『ちんちん』のポーズだ。

「……それを躾けで奪ったってこと?」

 声が震えるのを必死で抑え、でもその光景から目が離せなかった。
 お茶を飲みながら眺める優雅な風景の中で、裸になってちんちんをしている姿はなんと惨めなんだろう。

「それは三流のすることだわ。奪ってしまっては、なにも残らない。あなたもそのあたりの機微と美学は理解しているはず。人間の尊厳と羞恥心を残したまま、なおかつ従順に仕立て上げる。それこそが人間をペットとして飼うことの本懐じゃないかしら」
「……」

 言っていることの意味はわかる。
 ボクだって、実際のところ、立ち位置としては彼女たちと同じエリアに立っているはずだから。
 ただ、その高低には埋めがたい差があると素直に感じた。
 理想ばかり口にする夢追い人と、アクションを起こしそれを実現した人と。
 いわゆる”天と地の差”というやつが、目の前にはあった。

「……今のボクには、難しいな」

 目の前の壁を理解すること、それ自体はボクにとって問題じゃない。
 実際に実現すること、それを成すための力、それこそがボクのウィークポイント。
 視界に映る女王様を見てると、それがより浮き彫りになってくる。

「ふふ……」
「……何?」
「いえ、あなたを呼んで正解だったなぁ、って」

 ……それは、どういう意味?
 その言葉を深く吟味するより先に、啓子さんの言葉が続く。

「……あたしもね、こんな偉そうなこと言ってるけど」

 ふぅ、と、背もたれに深く体重を掛け、寂しそうな、それでいて愛おしそうな視線を、庭にいるきぃちゃんに投げかけ。

「まだまだ半人前だなぁって、あの子を見てると思うわ」

 そう呟くように言う女主人を、ボクは思わず。

「え……?」

 と、呟き返しながら見つめていた。

「美弥、これで貴子と遊んできてあげて」
「かしこまりました」

 啓子さんがメイドに渡したのは、骨の形をした何か。
 おそらくおもちゃか何かだろう。
 遊ぶ、ということは、これから展開される光景は、九割方予想を裏切らないだろうと思う。

「……前にも少しだけ話したかもしれないけど」

 ずず……、と、紅茶をすする啓子さんに視線を戻す。
 カチャリと陶磁器が触れ合う音が、やけに響いて聞こえる。

「きぃちゃん自身が、すごい恰好で露出プレイしているところを、たまたまあたしが見つけちゃったのが最初なの」

 そういえば前にプレイを見せてもらってたときに、そんなことを言ってたな……。

「それまであたしもなんだかんだこういう世界の真似事してて、何人か女の子を囲ったりもしてたんだけど。ちょうどその子たちも手を離れて、そんなときにきぃちゃんと出会って……」
「……」
「……ん、手を離れた、っていうのは正確じゃないわね。それまでいわゆる奴隷として飼っていた子、みんな逃げちゃったの。決まって、さぁこれから! って頃合いにね。まぁその原因はあたしの臆病さにあったんだけど」

 努めて淡々と、だけど懐かしむように、かつての女主人は振り返る。
 そんな姿を意外に思いながらも、ボクは口を挟むことなく、静かにそれを聞いた。

「当時はそれも理解できなくて。……いや、認めたくなかったのかな。だからきぃちゃんとも、それまでと同じように接していて。途中までは、自分なりにそこそこ上手くやってたように思う。だけどやっぱり、途中でガタが来ちゃって」

 ふふっ、と、自嘲気味に啓子さんが笑う。

「きぃちゃんとも気まずい空気になっちゃって。あたしは、『ああ、まただめだったなぁ』って、思って。また、一人に戻るんだ、って。それでも、別に、いつも通りだ、って。思って、思いこんで、諦めて、……騙して。…………でも、きぃちゃんは、違ったの」
「違う……?」
「自分の思いを貫くことに真剣で、真面目で、なにより強かった。境界をウロウロとしていたあたしを、一気に引っ張っていくほどに。……おかしいでしょ? 飼い犬のリードを牽いていたと思ったら、本当は自分が引っ張られていたのよ」

 その言葉に、悔しさや後悔の色は見えない。

「……なんか」

 初めは弱みを見せてくれているのだと思っていた。
 でも、次第にその思いは的を外れていることに気付いた。

「……とんだのろけ話だった」
「あはははっ。そうかもね」

 朗らかに笑う啓子さんに嫌味は感じなかった。
 ただ、羨ましいなぁと、それだけ思った。

「受け入れてくれた。気付かせてくれた。お互いにね。だから、あたしはきぃちゃんを愛しているし、きぃちゃんもあたしを愛してくれている」
「うん……」

 それは、他人のボクが見ていてもなんとなく感じられる。
 だから、なおさら気にかかる。

「でも、ならどうしてこんなことをする必要があるの?」
「必要かどうかで語るのは難しいわね。あくまでこれは”たまたま”。偶然お互いに趣味が同じで、愛情表現の仕方も同じだった。その表現方法が『これ』だっただけ。その行為自体が重要なんじゃなくて、それぞれこの形が一番気持ちいいから媒体として利用しているだけよ。お互い普通の恋愛が一番というなら、きっと普通に恋愛しているわ」
「……そんなものなの?」
「そんなものよ。何も難しいことじゃない。それが好きだから、好きなことして付き合っているだけ。まぁ趣味として妥協したくないから、ときには過激になったりするけどね」
「はぁ……」
「たださっきも言ったけど、あたしたちはお互いに愛し合っている。その前提だけはぶれちゃいけない。それに、あたしもまだまだ半人前。今やってるような行為が成り立つのも、きぃちゃんの理解と協力があってこそ。お互いに支えあいながら、この”世界”は維持されてるの」
「……なんだか、想像してたのと違うな」
「もっと、ビシバシ調教して、被虐と快楽に満ちたドロドロのアングラ世界を想像してた?」
「……極端な物言いだけど、まぁ」
「ふふ。まぁあたしたちは、日常と非日常の境目を漂うような、火遊びを楽しんでいるようなものだからね」
「……なるほどね」
「ただ」

 それまで割と和やかだった空気を、一瞬、ほんの一瞬だけ硬化させて、啓子さんが呟く。

「そういうドロドロの調教も、嫌いじゃないけど」
「……!」

 ゾワッと、身体中の毛が逆立つ感覚。
 明らかに獲物を見るような目つきは、しかし数瞬後には跡形もなく消えた。

「さって、そろそろきぃちゃんと遊んでこようっと」

 そう言って勢いをつけて椅子から立ち上がった啓子さんに。

「……まって、最後に一つだけ」
「ん?」

 ボクは、この時点で最大の謎をぶつけた。

「なんで、こんな話を……?」

 この人に、バレていないはずがない。
 ボクがきぃちゃんにどんな思いで会いに来たか。
 そして、その主人となった啓子さんに、どんな思いを抱いているか。

 諦めさせるため?
 見せつけるため?
 それとも……。

「んー……」

 いろいろと裏を推し量るボクを尻目に、啓子さんはまるで少女のような可愛い悩み顔を見せた後。

「なんとなく、かしら」

 しれっと、そう言ってみせた。

▼

「……はは」

 啓子さんがきぃちゃんの元へ行った後。
 椅子の背にもたれながら、ボクは苦笑とともに、冷や汗を一筋流していた。

「……冗談きついなぁ」

 半人前、か……。
 本気で言っているのだとしたら、謙遜もいいところだ。
 少なくとも、ボクからしたら。

「きぃちゃん……」

 主人とペットという形をとって、愛し合う二人の姿を見せつけられながら。
 ボクはここに来る時持ってきた”決意”という名の武器が、とても頼りないものに見えたのだった。

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