水槽の天使

短編
 リノリウムの階段を下りるたびに、冷たい空気が肌にまとわりついてきた。
 等間隔に設置された間接照明は薄暗く、まるで洞窟の中を探検しているような気分だ。
 麗子(れいこ)様の指先は強くもなく、けれど逃げられないよう確実に私の手首を掴んでいる。その後ろ姿は淡々としているが、足取りはどこか浮足立っているように感じられた。

「ここはね、私だけの秘密の部屋なの」

 階段を降り、先の見通せない廊下を長く歩き抜けた先に、重厚な扉が現れた。錆びた鉄の取っ手を回すと、湿った空気が一気に流れ出し、ひやりとした水と潮の匂いが鼻を刺激した。

「……っ」

 中へ足を踏み入れた瞬間、私は思わず息を呑んだ。

 そこはまるで、水族館。
 
 壁一面を覆う大きなアクリルとさざめく光に目を奪われる。
 中では様々な魚たちが泳いでおり、透き通った青が部屋一面を幻想的に照らしていた。
 視線を動かせば、他にも大小さまざまな水槽が並んでいる。それぞれが淡い光を揺らめかせ、佇んでいる。
 誰もいない地下室に広がる静謐と神秘的な美しさ。思わず心が奪われる。

「きれい……」

 なんて贅沢な空間だろう。
 ここは、麗子様だけが鑑賞することを許された麗子様だけの水族館。巨大なアクアリウムなのだ。
 イワシの群れが通り過ぎ、大きなサメが優雅に視界を横切る。思わず駆け寄った先には、アクリル一枚を隔てて小さな海の世界が広がっている。子どものようにはしゃぐわたしに、麗子様はただ優しく微笑んでいた。

「……え?」

 違和感を覚えたのは別の水槽を見た時だった。
 それは正面の巨大な水槽とは違って、個別展示用の比較的小さなもの。それでも数種類の魚たちが所狭しと泳いでいるのが見える。
 けれど、違う。わたしの視界には、それらは入ってこなかった。ただただ、目の前の異様な物体に目を奪われていた。

「これ……っ」

 魚でも珊瑚でもなく、そこにあるのは四角い形をしたケース。
 浮き上がらないようしっかりと水底の土台に固定されたそれは透明性が高く、中のものをくっきりと見せつけていた。

「ひ、……」

 水族館にいるはずのない存在がいる。
 ……いや、この表現は正確じゃない。

「『人』、が……」

 展示されているはずのない存在が、水槽の中で微笑んでいた。

「なんで、水槽の中に……」
「それは、彼女も『展示物』の一つだからよ」

 麗子様の両手がわたしの肩を抱く。身体がびくりと震える。

「……」

 人が一人ようやく入れる程度のケース。そこに、彼女はいた。
 纏うものは何もなく、全裸。どこを隠すこともせず。いや、どこも隠せはしないだろう。姿勢を変えるのも窮屈なほど、そのケースは小さいのだから。
 伸びた髪はケースの一面を埋め尽くしている。それ以外はすべて肌色。膝を抱えた姿勢で、秘所まですべてこちらに丸見えだった。

「展示……」
「ほら、下に説明書きがあるでしょ」

 促されて見た先には、魚たちの説明パネルが並んでいた。
 彼女のものであろうそれも、同様に。

「ヒビキ・セキ、科名……ヒト科……」

 それはまさに人間への、彼女への冒涜だと感じた。
 名前、住所、性格、得意なこと、好きな食べ物。
 これまでの人生、生きてきた証が、他の魚たちと同列に並べられていた。

「ヒビキ、さん……」

 だというのに。
 紹介写真の中の彼女はまるで卒業写真のように綺麗な笑顔で。
 目の前のケースに閉じ込められ展示されている彼女も、同じような表情をこちらに向けている。

「勘違いしてもらっては困るのだけど」

 わたしが考えていることを見抜いたのか。
 麗子様はパネルの近くに設置されたいくつかのボタンのうち、一つを押した。
 そのボタンの上に書かれた表示を読むと、『酸素停止』と書かれていた。

「……っ!?」

 驚くわたしをよそに、ケースの中の彼女も事態を理解したのか、少し身体を強張らせた。
 しかしこちらに向ける笑顔は変えることなく、あくまで展示物としての責務を全うしている。
 次第に薄くなっていっているであろう酸素。それでも苦しいと暴れることもできず、ただ微かに表情を歪ませて、縋るような視線を麗子様へと向けていた。

「心配ないわ、あくまで双方合意の上よ」
「……水槽の中で魚たちと同じように展示されるのを、ですか?」
「そう」

 次第に彼女の表情が苦しさを超え、恍惚としてくる。低酸素状態による高揚感だ。
 きっと彼女の脳内ではエンドルフィンが大量に分泌され、得も言われぬ多幸感に包まれているのだろう。

 しかし、その先に待っているのは、死だ。
 これは、命を懸けた性行為なのだ。

「ここにいることを許されているのは、そういう素質を持つものだけよ」

 麗子様がもう一度ボタンを押す。パクパクと餌を待つ鯉のように口を動かしていた彼女は、一度ビクンと身体を震わせ、こちらに向けた性器からプシャッと潮を吹いた。
 きっと酸素が再供給され始めたのだろう。血の気が引いた肌に血色が戻っていく。その間、彼女は微動だにできず、ただ麗子様の気まぐれで押したボタンによる呼吸制御によって恥ずかしい絶頂姿を披露していた。

 これを、こんなのを、彼女は望んだというのだろうか。
 ケースに詰められ、水の中に沈められ、生殺与奪を他人に握られ。
 魚たちと同様に飾られ、麗子様だけの展示物と化すこの憐れな人生を。

「もちろん、貴女もね。真白(ましろ)」
「あ……」

 後ろから抱き締められる。わたしの小さな身体は、すらりとした麗子様の手足に絡めとられた。
 白く細い指がわたしのスカートの中へ侵入し、下着の上から秘所をなぞる。湿り気を帯びたそこは、言い逃れのできない回答でもあった。

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