第三話『わんわんプレイ』

「冬華~。荷物届いたから片方持って~」
「はいはーい」

 玄関から繭子の声が聞こえる。荷物って、そんな大きなものを買ったんだろうか。
 パタパタとそちらへ向かうと、繭子が隠れるくらいの大きさの段ボールがあった。
 ふてぶてしく玄関にでーんと居座っている。……ああ、うん。これは一人では無理だ。

「……なに、これ」
「いいからいいから。とりあえずリビングまで、ね」

 通常見ないサイズの段ボールに不信感を露わにしながらも、繭子に急かされ片方を持つ。

 ……ぐっ!? 重い!
 何入ってんのこれ!

 油断すれば腰をやってしまいそうなほどの重さに苦労しながら、休み休み運んでいく。

「……っはー! しんどー! 腕折れちゃうって!」
「ご苦労様~。冬華は運動不足なんだよ。もっと鍛えないと」
「女の子がこんな重たいもの簡単に持てるくらい鍛えてどうすんのよ」

 ひとまずリビングに運び込むことに成功し、肩を回しながら愚痴を垂れる。

「それに最近は散歩にも行けてないし、体力落ちる一方だわ」
「行ってきていいよ。散歩くらいならうるさく言わないし」
「行きたいのはやまやまだけど、あんたあたしの服あのロリータものしか許可しないじゃない! あんな恰好でどこ行けってんのよ」
「だって、かわいいし」

 季節は気候穏やかな春になって、散歩をするにはうってつけではあるんだけど、あたしは相も変わらず引きこもってばかりいた。

 だって外に行く条件として、あの服を着なきゃいけないんだもん。
 きっとこれは繭子なりの、あたしへの首輪代わりなんだろう。
 その気になれば逃げだせるだろうけど、上手くその気にならないように管理されてる。

 あたしと繭子の関係を考えれば、効力十分の逃亡防止用の枷。
 言い換えれば生かさず殺さず、飼い殺しとでも言える状態が、今のあたしだった。

「で、何が入ってんのこれ」

 ふぅ、と床に腰を下ろして、繭子に尋ねる。
 ちなみに未だ部屋の中では全裸なので、おしりとお股が絨毯の毛でふわっと撫でられる。くすぐったい。

「開けてからのお楽しみ」

 ペン立てからカッターを取り出して、くるくる回しながら繭子が微笑む。いや危ないって。
 あたしの心配をよそに、繭子が持つカッターがガムテープを切り裂いていく。

「その隅に出すからちょっと片づけてもらっていい?」
「え、あ、うん。いいけど……」

 言いながら繭子が段ボールから取り出したのは、細かい格子でできた板が数枚。
 それにネジとか蝶番とかの部品類に、……南京錠?
 嫌な予感がしながらも、言われた場所を片付けてスペースを作る。
 その空いたスペースに積み上げられる銀色の部品たち。

「あのさ……、繭子」
「ん? なーに?」
「これ、もしかしなくても……」
「うん、そうだよ」

 あたしのためらうような問いに、何の気負いもなく答える繭子。

「と言っても『それ用』じゃないから、ちょっと狭いかもしれないけど」
「それ用って……」
「一応超大型犬用なんだけどね。まぁ必要十分かなって。簡単に手に入るし」

 部品を取り出し終えた繭子は、一仕事終えたような顔で汗をぬぐう動作をして言う。

「じゃ、組み立てよっか。冬華用の『檻』」

▼

 奴隷とは使役するもので、基本的に安価な労働力として使われる。
 そういう意味では、今のあたしはその奴隷像に近づいた気がする。

「ここ押さえとくから、そのネジをここに、……そうそう」

 ただこうして主人が手伝ってくれる分、ずいぶんと緩いのかなとも思う。
 ……なんて考えるのは、ちょっと現実逃避入ってるかもしれない。

「冬華上手だね。これならあっという間にできるよ」
「……普通じゃない? ネジ回してるだけだし。説明書あるし」

 無駄にカラーボックスとか組み立てたりしていた身としては、これくらいは軽い。
 でもその組み立て慣れは今いらなかったなぁ。
 これじゃあたしが早く自分を閉じ込める檻を完成させたいみたいじゃない。

 ……そうだよ、これ、檻なんだよ。
 あたし、自分で自分を入れる檻を組み立ててるんだよ?
 そんな間抜けな話ってある?

 いくら格子の太さがそれほどでもないとはいえ、一応か弱い女の子のあたしがどうこうできる強度じゃないのは触っていればわかる。
 流れからしてあたしが入れられるのは確定的だし。

「あ、蝶番そこに、うん、そこが扉になるから」

 南京錠もあったから自力で出るのも多分無理。壊すなんてもってのほか。
 あたしが自由にできる空間、それをさらに制限する、檻。
 そんな、あたしにとって不利益しかないものなのに。

「見た感じちょっと頼りないけど、思ったよりはしっかりしてるね、これ」

 何であたし、組み立てながらドキドキしてるんだろう。

「ふぅ。これで終わりかな」
「完成~。ぱちぱちぱち」
「……はいはいぱちぱち」

 やがて最後のネジも締め終え、ドライバーを放り出した。
 子供のように手を叩く繭子に合わせて、おざなりにあたしも手を叩く。
 物をどけて空けたスペースには、今し方組み立て終わった檻が鎮座していた。

「とりあえず入ってみようよ」
「え、いきなり!?」
「入るだけだよ。鍵とかもしないし」

 心の準備が……!
 と言わんばかりのあたしを宥めながら、繭子は檻の扉を開けた。
 って、心の準備ができたら入るんかい、あたし。

 まぁここでゴネても仕方がないしなぁ……。
 にっこり笑う繭子に観念して、そろそろと四つん這いで檻の中へ入る。

「どう?」
「どう……って言われても……」

 身体が入ったところで向きを変えて、繭子と対面に座る。目の前には銀色の格子。
 空間的にはすぐそこなんだけど、その格子があるせいで随分と隔たれた印象を受ける。
 試しに格子に触ってみた。……あたしじゃ曲げるのは無理だな、やっぱり。

「想像してたよりは広いけど、やっぱり狭い。落ち着かない。あとお尻が痛い」
「犬用だしね。お尻は下に毛布とか敷くから、たぶん大丈夫だと思う。他は?」
「ん~、今ぱっと思ったのはそれくらい。長い時間過ごせば何かしら……」

 あるんだろうけど、と言いかけたところで、
 自分がここに長期間閉じ込められる前提でいることに気づいて呆然とした。

「まぁそうだよね。……あ、ちょっと待ってて、毛布とかとってくる」

 ぱたた、と繭子がリビングから出ていく。ちょ、この状態で一人にしないでよ。
 ……まぁ鍵は掛かってないから出ればいいんだろうけどさ。
 そう思いながらも、体育座りをして膝に顎をのせながら、何となくその場に留まった。

「あれ、出ててもよかったのに。はい、これ毛布。敷いてみて」
「また入るなら二度手間でしょ。……ん、これね」

 もっともな繭子の指摘に、それらしい言い訳をしながら毛布を受け取る。
 結構厚手の毛布なので、檻の底のガタガタはほとんど感じなくなった。

「うん、いい感じ。これなら横になれそう」
「そっか。……あと、これ。ちょっと気が早いかもだけど……」
「……これ、餌皿? と、これは水入れるやつかな」
「そう。この前話してた、近所のおばさんがね、飼ってた犬、死んじゃったんだって。だからこういうの見るだけでも辛いって、犬飼う予定ないかしらって、わたしにくれたの」
「そ、そう……」

 そういって繭子が手渡してきたのは、ある意味この檻にふさわしい見慣れた器。
 確かおしゃべり好きのおばさんだよね。……てことは、これ本物か。使用済みか。

「あ、大丈夫! ちゃんときれいに洗ってあるよ! 消毒もしたし!」

 繭子、そういう問題じゃないのよ、今のあたしの心境は。
 そう言いかけて、やめる。繭子に悪気はない。言葉通りにきれいなんだろう、この器は。
 あたしのことを思ってそうしてくれたんだ。それはわかる。
 だけどあたしが言いたいのは、これを『使う』前提で話してるよねってことだよ。

「あ、やっぱり……嫌、だった? ……そうだよね、繭子も、新しいほうが……」

 でもそんなあたしの思いに、繭子は気づかない。
 無意識に、自然に、あたしを、畜生へと貶めていることに。
 そしてそれを無自覚でやっているからこそ、繭子は恐ろしいのだ。
 だからあたしは、応える。それすらも受け入れて、より惨めな道に向かって。

「……ううん、いいよ、それで。それ『使う』よ、あたし」

 繭子と一緒になって、あたしという人間を堕としていくのだ。

▼

 こういうのって、王道というやつがあると思う。
 経緯はいろいろあれど、だいたい奴隷は本人が望まぬ形で連れてこられて。
 最初は抵抗するんだけど、状況とか、主人からの調教とか、いろいろあって、最終的には奴隷が折れて、主人が望んだ通りの結果になる。

 その堕ちる過程が肝というか、奴隷を肉体的や精神的にも弄んでいる感じがいいんだよね。
 暇さえあれば(暇しかないとも言う)ネット徘徊していたから、これくらいはわかる。

「これもいいなぁ。冬華はどれがいいと思う?」
「ん~、これでいいんじゃない? 安いし」
「そんな頼りなさそうなの駄目だよ。……ほら、こういう」
「うわ、高っ!」

 だけど、奴隷と主人が一緒になって首輪選んでるのはどうなんだろうね。
 いやまぁ、別にそんなかっちりした主従関係があるわけじゃないけどさ、あたしたち。
 ただいつの間にかパワーバランスというか、実質的な意味でそういう格差ができているなぁって感じ。

 ……というか、むしろ飼い主と飼い犬のほうがニュアンス的に近いのかな。
 実際今のあたしは繭子のヒモだし。室内犬っぽい。
 今やろうとしてることもそんな感じだしね。……あ、この首輪かわいいかも。

「しかし自分でつける首輪を選ぶってのも変な感じね」
「せっかくの檻だし。首輪とかももらえたらよかったんだけど」
「おばさんのとこ小型犬だったんでしょ。首が捻じり切れちゃうわよ」

 二人で決めた革の首輪をカートに入れて、清算ボタンをクリックする。
 いやぁネットショッピングは楽だなぁ。
 実際のお店で実物を見るのも楽しいけど、今のあたしいろんな意味で外に出られないからなぁ。

 ちらりと横に目をやると、さっき組み立てた檻が存在を主張している。
 あそこに入れられたら、外に出られない理由、もう一つ増えるな。
 さっきの話の奴隷であれば、抵抗するんだろうけどね。こんなところに入れられるの。
 なのにあたしは抵抗らしい抵抗もせず、何ならドキドキして楽しみにしている節がある。

 もちろん『そういうお話』のように、無理やりなんてのは犯罪だけどさ。
 自分から進んで囚われようとするような人間の場合、どう扱われるんだろうね。

「ねぇ、繭子」
「ん、なーに?」

 うだうだ考えていたら、自分の立ち位置が分からなくなってきた。
 そもそも、考えるのは嫌いじゃないけど、答えを出すのはちょっと苦手だ。

「あたしって、……マゾなんだよね?」
「どうしたの今更」
「そう……よね。でもさ、なんか、今一つしっくりこなくて」

 マゾなのかと聞かれれば、そうなんだと思う。その点に関して否定するつもりはもうない。
 だけど今は、それだけでは説明つかない感情があるようにも思うのだ。

「あたしってさ、繭子の、奴隷?」
「奴隷? 別に……わたしは、そんなつもりないよ」

 首を傾げながらも、要領を得ないあたしの問いに答えてくれる繭子。
 そう、これはさっきも考えてたけど、どうも自分が奴隷であるという認識はない。

「なら、ペット?」
「んー、今からやろうとしてるのはそうだけど、だから冬華がペットかと言われたら、それは違うと思う。ペットの冬華もかわいいと思うけどね。」

 奴隷よりはニュアンスが近いと思うけど、これもど真ん中の答えじゃない。
 だってどっちも、今の状況を考えれば中途半端だ。あくまでプレイだから。

「じゃあ、あたしって、繭子にとって、何?」

 まるで恋人に言うような言葉だ。それを聞いて、あたしはどうしたかったんだろう。
 でも吐き出した言葉を、繭子はしっかり拾って、そしてあたしに返してくれた。

「冬華は、冬華だよ。何でもない、ただの冬華。ただ、冬華は『わたしのもの』。わたしだけを見て、わたしだけが触れて、わたしだけの冬華。それだけだよ」

 何の疑問も抱かず、そう言い切る繭子。
 息ができることを疑うことなんてないように。当然のように。
 あたしは繭子のものだと、繭子のすべてがそう言っていた。

「そう……」

 それは背筋が凍るおぞましさと、包み込まれる暖かさを同時に感じる、奇妙な感覚だった。

 ふらふらと不安定な自分をがっしり捕まえてくれる頼もしさや嬉しさ。
 そんな自分をバリバリと咀嚼し、何か別のものに変容させられる恐怖や緊張。
 そんな感情が入り乱れた瞳で、あたしは繭子を見返していた。

「冬華が何を悩んでるのかはわからないけど……」

 スッと、自然な動作であたしの頬を撫でる繭子。最初会った時には考えられない動き。
 あたしもだけど、繭子も本当に変わった。仕草一つ一つに自信が見えるようになった。
 それに自分で言うのもなんだけど、あたしに向かう感情の強さも、日増しに……。

「冬華は冬華だよ。それ以上でも以下でもない。冬華が悩んでるのは、たぶん味付けじゃないかな」
「……味付け?」
「いくら塩辛くしても、お魚は塩にはならない。甘く煮付けても、砂糖や醤油にはならない」
「う、ん……まぁ」
「だから冬華がいくらマゾでも、奴隷やペットになっても、冬華には変わりない」

 そしてそんな繭子の言葉は真剣で、その迫力に思わずあたしは頷いた。
 完全に理解したわけじゃないけど、言わんとするところはわかった。

「だから、どんな冬華も好き。面倒くさがりなところも、実はエッチなところも、いろいろ考えこんじゃうところも。……全部、わたしのもの」

 正直に言えば、自分のことをこれだけ求めてくれる人に出会ったのは、初めてだ。
 だから繭子の思いは素直に嬉しかったし、あたしも応えてあげたいなと思う。

 でもだからこそ、時折垣間見える、得体のしれない執念みたいなものが、心のどこかに引っ掛かりを覚えているのも事実だった。

「……じゃあ、あたしが繭子のものじゃなくなったら?」
「それはもう冬華じゃない。わたしは認めない。安心して? ここにいれば、冬華は冬華だよ」

 以前から時折感じていた、蠱惑的なその雰囲気。
 『生きる責任』から逃げたあたしがそれを不安に思うのは、虫が良すぎるだろうか。

▼

 何日か平凡な(相変わらず裸族だけど)日々を過ごして。
 前に買った首輪とかが届いたので、今回のプレイが始まった。

「冬華、巻いてあげる」
「う、うん……」

 伸びてきた髪を後ろでまとめ上げ、繭子に首を差し出す。近づいてきた繭子の息がかかる。
 幅のある革が首を覆い、ベルト部分を絞られると、少し圧迫感を感じた。
 中央に付いたトチカンにベルト穴を通し、その上から小振りの南京錠を掛けられる。

「思ったより肌触りがいいというか、違和感が少ない気がする」
「長期着用向けだからね。トコ(裏側)とか縁とかちゃんとしてないと痛いし」

 遠まわしに、すぐに外す気はないと言われてるような……。

「あとこれ」
「ちょ、それ、いつの間に買ったのよ!」
「まぁまぁ。形から入るのも大事だよ」

 首輪の次に出てきたのは、首輪に比べれば何ともチープな犬耳カチューシャ。

「頭下げて……はい。うわあ! かわいい!」
「……なんか首輪以上に恥ずかしい気がする」

 鏡見てないからわかんないけど、きっと猛烈に似合ってない。

「ほら、ここ、ここにおすわりして」
「え、あ、うん……こう?」
「そうそう、そしたら、『わん』って鳴いてみて!」
「そ、そん……! …………あー、……。わ……わん」
「きゃーっ! かわいいかわいい!!」

 なんだこの羞恥プレイ。
 身もだえるような羞恥心に襲われるあたしに構わず、繭子は次々と『犬らしいこと』を要求してきた。

 それはまるで新しく買ったおもちゃにはしゃぐ子供のようで。

「あー、初々しい犬冬華、堪能できた。冬華の初体験もらっちゃった」
「何よ犬冬華って……。それと紛らわしい言い方止めんか!」

 ひとしきり犬の真似事をさせられて、ようやく繭子は満足したようだった。
 でもなんか大事なものを失った気がする。
 そういう意味では初体験と言えるかもしれない。

「そのうちベテラン犬冬華になってもらうからね」
「はいはい。調教されちゃうわけね」
「そうだよ。命令されたら芸をして媚を売るわんちゃんになるんだよ」
「ちょ、そんな言い方……」

 うふふ、と笑う繭子にあたしは苦笑いを返す。
 本気でやりかねないから怖いんだってば。

「じゃあ冬華、入って」
「う、うん」

 和んだ空気が一段落したところで、繭子が檻を指さしながら言う。
 「入って」という言葉にドキッとしながら、素直に四つん這いになって扉をくぐる。
 なるべく何でもないように自然に中に入ったつもりだったけど、身体を入れて向きを変えるあたりで、身体を支える腕が震えているのに気付いた。

「なんかいいね。檻の中の冬華。カナリアみたい」
「え、犬じゃないの? こんな耳までつけてんのに」
「そうなんだけど、そうじゃなくて。なんていうか、イメージの問題だよ」
「……ふーん」
「でも鳥の格好は難しいから、今度は犬の手グローブとか、尻尾とか、買おうね」
「いや何でそこに繋がるのよ。コスプレはもう充分なんだけど」

 いまいち覇気のないツッコミの声も、かすかに震えていたように思う。
 檻越しに見る繭子の顔は、相変わらずこっちを見て楽しそうに笑っていた。

「とりあえず今日は檻の中で過ごしてもらおうかな」
「マジすか。と言ってももう夕方だけど……。いつまで?」
「明日の朝まで。それまでそこから出ちゃだめだよ。一応扉も閉めておくから」

 笑顔でそう宣言して、こちらへ手を伸ばす繭子。中にあった餌皿が持っていかれる。
 そして扉も閉められて、目の前が格子だらけになって、あたしは今更ながら自分が檻の中にいることを実感した。

「も、もう始めるの……?」

 これから檻に閉じ込められるんだと思うと、急に怖くなった。
 外に出る自由を奪われる、それを無抵抗に受け入れる心許なさ。
 ストーカーに家の鍵を渡すような、破滅的な焦燥と……背徳感。

「ううん、……もう始まってるの」

 扉に鍵はまだついていない。外側についているカンヌキみたいなのが通されただけだ。
 だからそれさえ外せば、いつでも出ようと思えば出られる。

 ……そのはずだった。そう思い込もうとしていた。
 まだ大丈夫だと。まだ逃げられると。まだ自分の意志でどうにかなるのだと。

 でも実際には格子の隙間は狭く、指一本通すのが精いっぱい。
 しかもカンヌキの周りだけシールドのように鉄板がついているので、内側から開けることはできないようになっていた。

 ……確かめるようにそれに触れた指が、震える。

「こんな棒一本で冬華はここから出られないんだね」

 繭子がカンヌキをスライドさせただけで、あたしは自力脱出の術を失った。
 あまりにあっけなく自由が奪われて、早鐘のように心臓が強く脈動する。
 さっきまでの日常の雰囲気が、じわじわと濃密な紫へと変わっていく。

「冬華の不安そうな顔も、かわいい」

 だけど繭子の笑顔は、いつも優しい。あたしの不安を払しょくするように。
 餌皿を持ったままキッチンへと消えていく後ろ姿を、見えなくなっても目で追い続ける。

「いろいろやりたいことはあるけど、時間はあるから、ゆっくりやっていこうね」

 キッチンから聞こえる、諭すような声。
 それと夕飯の準備だろう、水の音。冷蔵庫のドアが閉まる音。包丁がまな板を叩く音。
 そして何かが焼ける音に紛れて、再び繭子の言葉が耳に届く。

「いつまで続けるかわかんないけど、しばらくはそのままだから。ルールとかも決めて、いっぱい遊んで。……ふふ、楽しみだね」

 全面を格子で囲う檻の中に囚われたまま。
 あたしは見えない繭子と向きあって、その言葉を聞いていた。

 ……何をされるんだろう、何をすればいいんだろう。どうなっていくんだろう。
 置いてけぼりになった思考が漠然とした不安を転がしだす。

 やがて換気扇の回る音すら消え去り、部屋の中空腹を刺激する匂いが充満する。
 そして今出来上がったばかりの夕飯を持って繭子が戻ってきた。

「犬冬華。ちゃんと躾けて、飼ってあげるからね」

 そういってテーブルに器やお椀を置き、檻の中のあたしに向かって微笑む。
 夕飯は……豆腐ハンバーグだろうか。それにお味噌汁やサラダ。
 とてもいい匂いがする。けど、どうみても一人前しかない。
 そして「いただきます」と食べ始める繭子。その姿を見てようやく理性が理解した。

 ああ……あたし、檻の中で、裸で首輪つけて、犬のように生活するんだ。

 そのことが強烈な具体性をもってあたしの胸を押し潰しだした。

「あ……」

 もはやあたしに、いつものような憎まれ口を叩く余裕はなかった。
 ただただ黙して、繭子が食事をする光景を眺めていた。
 「ちょっと!あたしのは?」なんて、言えなかった。
 あたしを見ることなく箸を進める姿が、『どうやら本気らしい』ことを証明していたから。
 言葉を口にすることを忘れるくらい、思考回路が止まってしまっていた。

▼

 部屋の中に響くのは、食器の音とテレビの司会者の声。
 檻の位置からはテレビが見えないから、内容ははっきりとはわからない。
 視線のもって行き場がなかったので、必然的にあたしは繭子を眺め続けることとなった。

 特に変化のない光景。空腹だけが刻々とあたしに時の経過を訴えかけてくる。
 気を紛らわせるように、いつも見ているようで意外と見ていない繭子の仕草を観察する。

 箸の持ち方がきれいなこと。一口ひとくちが少ないこと。ゆっくりよく噛んで食べること。
 バランスよく平らげていくこと。姿勢よく背筋を伸ばし、正座をして食べていること。
 こうしてみると、繭子は模範的と言えるくらいマナーのある食べ方をしていた。

「……ん、ごちそうさま」

 やがて箸が置かれ、繭子の食事が終わる。
 食後きちんと手を合わせる人は、あたしの知人の中では繭子以外にいない。
 改めて繭子はお嬢様なんだと思った。

「……どうしたの?」
「……へっ!? あ、いや、別に……」

 繭子に声を掛けられて、慌てて返事を返す。
 知らない間に見惚れていた、なんて、言えない。
 曖昧な返事しか返せないあたしが、やけに矮小な存在に感じられた。

 出会ったころは、おどおどして、あたしの後ろに隠れているような子だったのに。
 いつの間にか繭子は檻の前に立って、その中のあたしを見下ろし微笑んでいて。
 かつて抱いていた上から目線の感情は、あたしの中から消滅していた。

「ちょっと待っててね」

 そう言って空になった食器を持ってキッチンへ消えていく繭子。
 繭子の言葉に、猛烈に嫌な予感がする。いや、確信と言ったほうがいい。

「お待たせ、冬華」
「ああ……」

 果たして戻ってきた繭子が手にしていたのは、餌皿に入ったあたしの夕飯だった。
 檻の扉が開かれ、目の前に水飲み皿と一緒に置かれる。
 餌皿の中に入っていたのは、いわゆるねこまんま。
 ご飯にお味噌汁がかかっていて、上に豆腐ハンバーグの欠片がいくつか乗っていた。

 ねこまんま自体に嫌悪感はない。今までにもそうやって食べたことはある。
 けどそれが餌皿の中でぐちゃぐちゃになっていると、それはもうご飯とは言えない。
 少しの違いなのに、残飯という名の物体に、屈辱的なビジュアルに変わってしまう。

「これから説明するから、よく聞いてね」

 憂いとともにそれを見るあたしに、繭子が言葉を紡ぐ。

「ルールは三つ。一つ目は、犬のご飯は飼い主の後、『よし』と言われてから。二つ目、手を使わず口だけで食べること。三つ目、残す子はご飯抜き。……わかった?」
「……う、うん」

 まるで本当の犬のような扱いに動揺して、上手く言葉が出てこない。

「あ、それとこれから返事は全部『わん』以外認めないよ。わかった?」
「うん……。あ、じゃなくて……、わ、わん」
「そうそう。急には難しいけど、ゆっくり覚えていこうね」

 冗談のような取り決めに笑おうとして、笑えなかった。
 繭子はやると言ったら……やる。

「わたしが許可するまで食べちゃだめだよ。それまで『待て』だからね」
「う……わ、わん」
「うん、えらいえらい。って、あ、『待て』もまだ教えてなかったね」

 うっかりしてた、と言いつつ、繭子がジェスチャー交じりにポーズを教えてくれる。
 それは四つ足をついたまま膝を立てて座り込む形で、おおよそ想像した通りの姿勢だった。

 姿勢自体は大したことなくても、それを犬のそれとして命令されると、辛い。
 ただでさえ裸で、隠すべきところをむき出しにするような姿勢。
 それを『餌を食べる許可をもらう』ためにしなければいけないという屈辱。
 檻の外から感じる繭子の視線に、あたしは顔が真っ赤になっていた。

「『待て』はわかった?」
「わ、わん……」
「えらいね。じゃ、そのまま『待て』だよ。冬華はお利口さんだから、できるよね」

 本音を言えば、目の前のこれを食べたくはない。それは当然の心理だと思う。
 だって、犬が使ってた餌皿に入ってるんだよ?
 残飯みたいにぐちゃぐちゃになったご飯が。
 しかもそれを犬のように口だけで食べろだなんて、普通の人間のやることじゃない。

 だけど、やるしかない。あたしには、選択肢がないんだ。
 繭子は、「残す子はご飯抜き」と言っていた。そして言ったからには、繭子はそうする。
 そうなればあたしは、今も、きっと明日も、ご飯にありつけないだろう。

 多少の空腹くらいなら、我慢すればいい。繭子は明日の朝までと言っていたし、それまで我慢すれば、この屈辱的な行為からは逃れられるかもしれない。
 ただ、そうして罰覚悟の不服従を見せた時、繭子はいったいどういう行動をとるのか。
 本当に恐れなくてはいけないのは、その部分だった。

 自分の行為を後悔するくらい罰を受けるかもしれない。
 そもそも檻から出してもらえないかもしれない。
 今ここに至り、あたしの生殺与奪権を握るのは繭子だと理解しなくちゃいけない。
 あたしはもはや、逃れようのないところまで来てしまっているのだ。

「む~、何か難しいこと考えてる?」

 『待て』の姿勢のまま、うだうだ考え事をしていると、繭子が檻越しにあたしの顔を覗き込んできた。

「たまに冬華そうやって考え込むことあるよね。悩み事?」
「わ、わぅ……」
「ああ、言いたいことあるときは普通にしゃべってもいいよ」

 気遣うように聞いてくる繭子。その顔は本当に心配している顔だ。
 でも、まさか今この扱いについて悩んでいるとは思ってもいないのかもしれない。
 それは繭子が天然なのか、計算してなのか。……きっと天然だ。

「いや、檻の中に入るだけならまだしも、こういうの、やっぱり抵抗あるっていうか……」

 言いながら、ちらりと目の前の餌皿に目をやる。

「んー……、そうなんだ。……そっか、なるほどなるほど」

 その意図が伝わったのか、顎に手をやってうんうん頷く繭子。

 あれ、これはもしかして解放してくれるの?
 意外と意見を聞いてくれる?

 淡い期待を抱きながら繭子の言葉を待つ。そしたら。

「つまり、まだ気分が入ってないから、余計なこと考えちゃうんだね」

 なんてことを言いだした。

「……へ?」
「ごめんね。わたしもこういうの初めてだから、上手くできなくて。そうだよね、ちゃんとそういう気分にならないと、面白くないよね」

 得心がいったように何度も頷く繭子を見て、
 あたしもようやく繭子が何を言いたいのかが分かった。

「エッチな気分じゃないのに愛撫されても、鬱陶しいもんね」

 つまりは、そういうことなんだろう。
 急に始まって、何が何だかわからず置いてけぼりにされたあたしは、繭子が望むほど『世界』に入っていけてなかったのだ、と。

「もっと、煽ってあげないとだめなんだ。いつもと同じ感覚じゃなくて……」

 そしてそのことに気づいた繭子は、今日こそが転換点だったのかもしれない。
 これまでは気持ちのままにあたしと向かい合っていた繭子。
 けど、今は何かを学び始めている。絶望的にあたしを追い詰める、何かを。

「わたしが、いい加減じゃ駄目なんだ。わたしがまずしっかりしないといけないんだ」
「繭子……?」
「ごめんね、冬華。わたし、下手くそで。これからはちゃんとするから。もっと、上手にできるように頑張るから。だから、見捨てないで……ね」
「え、い、いや、見捨てるも何も……」

 ぽつぽつと独白をしたかと思えば、あたしに向かって縋るような瞳を向ける繭子。
 何か、変なスイッチが入ってしまったんだろうか。

 それに客観的に考えれば、見捨てられないように懇願するのは、あたしのほうだ。
 何せアパートも引き払ってきたし、追い出されたら帰るところがない。
 バイトも辞めたし、お金もないし、衣食住すべてを依存しているのだから。
 ただ、繭子が言いたいのがそういうことではないというのは、その目を見ればさすがに鈍いあたしでもわかった。

 この子は、あたしに精神的に依存している。

 自惚れだなんだと今までごまかしてきたけど、ここまで来たら認めざるを得ない。
 これまでのあたしへの過剰な接し方、それで全部説明がつく。
 おどおどしなくなった。自分に自信を持てるようになってきた。
 だけどその実、心の奥底では、昔の臆病な繭子のままなんだ。

 そう考えると、今目の前にいる繭子が、とても弱々しく、そして愛おしく思えた。
 と同時に、それほどまでに『繭子』はあたしに向かっていたのだと、狂おしくなった。

「繭子……これ、開けて」
「え、冬華……? でも……」
「逃げない。だから……お願い」

 意を決したあたしに面喰ったのか、すぐに反応を返せずまごつく繭子。
 だけどそれを茶化したりはしない。もう一度意志を通して、繭子と向き合う。
 するとようやくあたしの意志を感じ取れたのか、数秒考え込み、そして頷いた。

「……わかった。開ける」
「……ありがと」

 たった一本のステンレスの棒。だけどあたしにはどうすることもできないカンヌキ。
 それが繭子の手によってスッと、横にずらされる。
 そして開かれる扉。入っていたのはほんの一時間足らずなのに、なぜか久しぶりにも思える。
 ようやく身体が出られるまで開いたところで、あたしはその身を躍らせ、そして。

「きゃっ!?」

 向き合っていた繭子を勢いのまま押し倒した。

「と、冬華……っ!?」

 自分を騙して檻から出て、一目散にこの部屋から出る。つまり、逃げる。
 全身にあたしの重みを感じながら、もしかしたら繭子は、そう考えたかもしれない。

 その証拠に繭子のか細い手は、指は、あたしの腕を痛いくらい掴んで、震えていた。
 とっさにとったその行動が、あたしを離したくないという思いを表していた。
 そのことが余計にあたしの気持ちを狂おしくさせた。

「どこにも行かない。繭子。あたしは、『ここ』にいる。状況に流されてじゃない。環境に言い訳しながらじゃない。今、自分で決めた。あたしは、『逃げない』」

 繭子が『こうなった』のは、あたしが原因だ。
 それが客観的に良いことなのか悪いことなのか、それはわからないけど。

 繭子は、ある程度の対人能力を身につけた。内向きな性格も、少しはマシになった。
 それは良いことだ。前はロクに人と話せなかったし、楽しそうに笑うこともなかった。
 それがあたしといるようになって、だんだんと笑うようになった。良い傾向だ。

 だけどそれは『あたし』という楔があるからだ。後ろ支えがあるからだ。
 逆に言えば、あたしが繭子を拒絶すれば、その心は壊れてしまう。
 そんな危ういバランスの上で成り立っている、あたしありきの成長だ。

 そして繭子の心をそんな風にしたのは、間違いなくあたしだった。
 「あたしが何とかしてあげなくちゃ」「そばにいてあげなくちゃ」という、『上から目線』の親切心によって、繭子の心はそうなったのだ。

 その結果が、今の繭子の状態が、良いのか悪いのか、あたしには判断できない。
 だけど、こうなった『責任』は、確実にあたしにある。

 何のことはない、あたしは、あたしが悪戯したその心に、喰われようとしているのだ。

「繭子……」
「な、何……?」

 責任があるのなら、果たさなくちゃいけない。方法も、果たす先も、わからないけど。

「あたし、なんか、いっぱい変なスイッチ入っちゃったみたい」

 だけど、本当はそんな責任とかどうとかいうことが霞んでしまうくらい。
 あたしはすでに、繭子に飲み込まれていた。

「な、ん……っ!? む、んちゅ……!」

 いつの間にか繭子を、好きになっていたんだ。

「ん、あっ……! び、びっくりした……! 冬華、いきなりどうしたの……?」

 唇を離すと、眼下には本当にびっくりした表情の繭子がいた。
 最近は繭子のいいようにやられていたので、一矢報いた気分だ。
 そしてそんなことを考える自分が子供っぽく思えて、格好悪くて、ごまかすように繭子の胸に顔を押し付けた。

「ひゃっ!? ちょ、冬華、そんなとこ……!」
「繭子、あたしさ、何でもするよ。繭子のしたいこと」
「ふぇ? と、冬華……?」
「さっき繭子、ちゃんとしなきゃって言ってたけど、あたしも、そうする。繭子の望むように。さっきのもさ、恥ずかしいけど、繭子が言うなら……する」

 それが繭子の心への償いになるのなら。
 そしてそれ以上に、繭子への愛情表現になるのなら。

「だから、一緒にやってこ。あたしも、頑張るよ。繭子を、一人にしない」
「う、うん……」
「……好きよ、繭子」
「うん……。……え? ええええええっ!?」
「ちょ、繭子うるさい」
「い、いや、だって、そんな、急に、ええええ!?」

 突然と言えば突然のあたしの告白に、繭子はただ『え』を量産する機械になった。

 そんなに驚くことないでしょうに。自分はさんざんアプローチ掛けておいて。
 まぁ多分そんなこと今まで言われたことないだろうから、仕方のないことかもしれない。
 なんて、何気に酷いこと考えてるな、あたし。

 だけどきっと、これからあたしのほうがもっと酷いことをされるのだ。
 恥ずかしいことも、苦しいことも、それと多分気持ちいいことも。いっぱい。

 でもそれを繭子が望むなら、あたしは受け入れようと思う。
 そんなあたしを踏み台にして、繭子が強くなってくれればいい。
 そしておもちゃをおもちゃ箱にしまうように、あたしを閉じ込めながら……。

「だからそんな気負わないでやっていけばいいよ。逃げられないんだからさ、あたし」
「うん……ありがとう、冬華。……ん」

 今度は繭子からのくちづけ。
 それはあたしの知る繭子の性格を表すように、おっかなびっくりの、柔らかいキス。
 だけどあたしの理性をどろどろに溶かすには、充分なキス。

「……っ、まゆ、こ……」
「あっ……、と、う……」

 身体中が痺れて、熱くなって。
 お互いの皮膚がくっついてしまうような、そんな錯覚すら抱き始めた時、あたしの足は「ガシャン」と音を立て、何かを蹴っていた。

「あ……」
「……そういえば、途中だったね」

 それはさっきまであたしを閉じ込めていた、檻。
 そして、そのときやろうとしていたことを思い出した。

 ……犬冬華、って、言ってたっけ。

「……。……あたしは、どうすればいいですか、飼い主様」
「と、冬華……?」
「何でもしますから、命令してください……わん」

 あたしとしては、なけなしのかわいらしさを惜しみなく発揮したつもりだ。
 その代償としてとんでもなく恥ずかしい思いをしたけど。

「あっ、だめ、冬華……鼻血出ちゃう……っ!」
「ちょ、どんだけクリーンヒットしてんの!? やめてよ本当に出さないでよ!?」

 でもその甲斐あってか、飼い主様には喜んでいただけたようだった。

▼

 それからというもの、あたしたちは爛れた日々を過ごしていた。

「冬華……最近、すぐ濡れるようになったよね」
「人を淫乱みたいに言うな。あんたのせいよあんたの。毎日あんだけされてたらそりゃ身体も開発されるわ」

 陽のある時間は、そのほとんどが繭子とのいちゃつきに費やされていた。
 あたしが裸でいることをいいことに、いたずらに触ってくるのはしょっちゅうだし。
 抱きついたりキスしたりも日常茶飯事。まるで母親になつく子供みたいだ。

 想いが通い合ったあの日から、どうやら遠慮という概念はなくなったらしい。

 そしてそれだけならよくいるカップルのような関係だけど。
 繭子の場合は、味を占めたのか元から興味があったのか、
 SMプレイを取り入れてくるから困りものだ。

 昨日も「鞭で気持ちよくなれる?」とか言って散々にお尻を叩かれた。今もまだ痛い。
 「そのうち浣腸でも気持ちよく」とか言ってるけど、それだけは永遠にやめてほしい。

 多分繭子は、あたしが逃げないと理解して、矛先を変えつつあるのだと思う。
 逃がさないようにするためだけじゃなく、手に入れたおもちゃで遊ぶこと。
 あたしの身体を開発することで、繭子も楽しく、あたしも気持ちいい。一石二鳥だ、と。

 それは考えようによってはすごく怖いことだ。
 何より、ただでさえ逃げられないあたしは、もっと繭子から逃げられなくなる。
 だけどあたしはそうなることをわかっていながら、拒絶しない。

 なぜならそれは、繭子がそうなることを望んでいるから。
 今のあたしにとって大半の悩みは、ある種絶対的なその答えで事足りていた。

「痛いのが気持ちよくなるの、もう少しだと思うんだけどな」
「や、やめてよ。繭子がそう言うと本当にそんな気になってくるんだから」
「そうしようとしてるんだからいいんだよ。……まぁ、大半のことは条件付けだから。その条件を強固に植えつければ、思考はねじ曲げることができるし」
「……本当に、どんどん変態に開発されていってる気がするわ」
「ふふ。冬華はこの先、どんなことでも『気持ちいい』ってなっちゃうんだよ」

 それは怖いことではあったけど。
 だんだんと、どこかでそれを楽しみにしている、そんな自分も確かにいた。

 そんな感じで昼間は繭子による性開発レッスンが行われる一方。
 陽が落ちてからは、あの日からの継続で、あたしは犬のように過ごしていた。

「冬華、『伏せ』」
「わん」

 繭子の命令を受けて、その場で姿勢低くうずくまる。
 手足を畳んだ腹ばいで、視線だけ繭子へと向ける。伺い見る卑屈な視線だ。
 その先にある繭子の表情は微笑んでいて、それを見るとぽわ~っと思考が喜びに染まる。

「『ゴロン』」
「わん」

 次に繭子は人差し指をあたしから見て時計回りに回しながら命令する。
 時計回りということは、右側だ。そう判断して、身体を右へと転がす。
 すると背中が床について、仰向けになるので、その状態で降参のポーズ。お腹を見せる。

「『伏せ』」
「わん」

 命令を受け、元の状態に戻る。その間視線は繭子から外さない。命令を見逃さないように。

「『ゴロン』」
「わん」

 今度は反時計回りに人差し指が回る。左だ。身体を転がす。またお腹を見せ、次を待つ。
 命令にはちゃんと返事をしてから従うこと。そう言われたのを忘れないようにしながら、同じように右左と繭子の命令のままあたしは犬の芸の練習をする。

 恥ずかしくないわけじゃない。だけど、上手くできると、うれしい。
 いつの間にかそういう、本当の犬のような思考回路ができあがっていた。
 そんな自分自身の変化を屈辱に感じながら、どこかでそれを見て興奮する自分もいた。

「よしよし、よくできたね。冬華は本当にお利口さん」
「わん。……さすがにこれくらいはできるって」

 ご褒美にチョコをひとかけらもらいながら、繭子に抗議する。

 なめてもらっては困る。
 今やあたしは大体の芸はこなすベテラン犬だぞ。……なんて。

 そんなことを、ほんの一瞬でも本当に考えてしまう自分がすごく滑稽に思える。

「じゃあそんなお利口さんな冬華に、ご飯あげようかな」
「わんわん! お腹空いたー!」
「はいはい」

 ご飯の一言で即座におすわりをしてねだるあたしに、苦笑しながら繭子はキッチンへ。
 実際、お腹はぺこぺこだ。芸の練習で動いていることもあるけど、前よりも確実にご飯の量を減らされている。
 常に物足りなさ、程よい空腹感を保つように。

「はい、ご飯。それと、『待て』だからね」
「わん! いい匂い~。今日のご飯は?」
「松茸の炊き込みご飯作ってみたの。冬華の器にもよそってあるからね」

 空腹感を保つ理由を繭子は言わなかったけれど、たぶんこれは躾けのためだ。
 だってご飯を減らされてから、芸の後にもらえるご褒美のチョコがすごく待ち遠しいから。
 甘いものにも飢えてるし、余計に頑張ろうって気になるのだ。要するに餌付けだ。

「いただきます」

 手を合わせて、繭子が食べ始める。その間あたしはおあずけ。
 前は、それほどでもなかったけど、今は『よし』の合図を心待ちにしている。
 いつもお腹を空かせているから、早く食べたくて仕方がない。

「……ふぅ、ごちそうさま。冬華、『よし』。食べていいよ」
「わん! いただきます!」

 たとえそれが、ドッグフードの上にちょこっと炊き込みご飯が乗っているようなものでも、だ。

「はぐっ、はぐっ! ……ぼり、ぼりぼり。……んっ」
「おいしい? 今日のはいい出来だと思うんだけど」
「わん。松茸やばい。味の濃さもちょうどいい。超美味い」

 繭子に賛辞を送りながら、あたしは再び餌皿へと顔を突っ込む。
 ぼりぼりとすっかり食べ慣れた匂いのきついドッグフードを噛み砕きながら、
 ふりかけのように乗っかった炊き込みご飯を味わう。いつの間にか犬食いも慣れたもんだ。

 最初は自尊心が勝って、すんなりと犬の餌皿で食べることはできなかった。
 いくら人間が食べられる種類とはいえ、ドッグフード自体にも抵抗があった。
 ただ『残したらご飯抜き』という恐怖には勝てなくて、渋々ながら食べていた。

 でも近頃じゃ、そんなことよりもとにかく食べることが待ち遠しくなって。
 ドッグフードのきつい匂いも、慣れるとなんだか食欲をそそられるような気がして。
 屈辱感に顔が赤くなるのも構わず、進んで口をつけるようになった。

「そんながっつかないの。誰も盗らないよ」
「わ、わぅ」

 そしてそうやって脇目も振らず食べていると、たしなめるように繭子が頭を撫でてくる。
 そのことが、本当に恥ずかしくて、みっともなくて、泣きたいくらいに、ドキドキする。

 そもそも、がっついて食べているのは、屈辱感を紛らわせるためだし、そうやって食べたほうが犬っぽいと繭子が指導したからのはずだ。
 だけど客観的に見ればあたしはお腹を減らしてがっついているはしたない犬で、実際にお腹が減って心待ちにしていた以上それを否定することもできなくて。
 結果としてあたしは繭子の言う通り、餌に夢中の犬と定義されてしまう。

「もう食べたの? おいしかった?」
「わん。おいしかった。繭子は本当に料理上手だわ」
「もう、褒めても何も出ないよ」

 あたしとしては、あくまでペットプレイを楽しむだけの『人間』であると思っているつもりなんだけど。
 時々その自信が揺らぐ場面があって、ご飯を食べている時もその一つだったりする。
 もしかしたらそれも調教の効果かもしれないと、餌皿をきれいに舐めながらあたしは思った。

 食後は腹ごなしを兼ねて再び芸の練習か、いちゃいちゃするかしている。
 繭子の膝の上でテレビを見るときもあるし、その辺は繭子の気分次第だ。

 そして夜もいい時間になってきたら、お風呂に入る。
 お風呂と言っても以前のように湯船には浸からせてもらえず、もっぱらシャワーだ。
 四つん這いの状態で繭子に全身を洗ってもらう、至福かつ悩ましい時間。

「ほら、動かないの」
「わう! あんたが変なとこさわっ……ひゃう!?」

 身体を洗われながら、ここぞとばかりに愛撫される。
 ぬるぬると肌の上を指が滑る感覚に思わず鼻にかかった声が漏れてしまう。
 下向きに垂れ下ったおっぱいを絞るように揉みしだかれたり、股間を擦り上げられながらクリトリスの包皮を剥かれ、敏感な肉芽を摘まれたり。
 散々発情させておいて、そのくせ絶対にイカせてはもらえない。

「はいおしまい」
「わ、わううぅ……」
「そんな顔しないの。流すよ」

 物欲しそうなあたしを窘めながら、繭子はシャワーであたしの身体の泡を流していく。
 敏感になった体はその刺激だけでもゾクゾクと全身を震わせながら、それでも何とか四つん這いの姿勢を崩さないように踏ん張り続ける。

「じゃあそろそろ出ようか。ちゃんと『ぶるぶる』してね」
「わん」

 そうして身体もきれいになり、温まったところで、お風呂から出る。
 出る前に身体を『ぶるぶる』と震わせて、雫を落とすことを忘れない。
 もちろん本物の犬のように上手くできるわけはないんだけど、最近はなんだかんだで様になってきたんじゃないかと思う。

 ゆくゆくはほとんどタオルいらなくなるかも、なんてね。

「温まった?」
「わん」

 お風呂に入れてもらって、歯も磨いてもらって、あとは寝るだけ。
 だけどまだ、あたしにとって最も重要なイベントの一つが待っている。

「冬華、『ハウス』」
「わん」

 ドライヤーで髪を乾かしてもらって、指のない手袋で両手を封じられて。
 そして繭子の命令により、とことこと檻へ向かう。

 檻の中へ入ると、繭子が扉を閉めて、カンヌキを掛ける。そして南京錠を、カチリ。
 それは閉じ込めるという意味では過剰だけど、あたしの被虐心を刺激する、ダメ押しの施錠。
 そうしてあたしは四方1メートル程度の空間に閉じ込められる。

 最初は落ち着かなかったこの檻の中も、しばらく暮らすうちに慣れてしまった。
 あれからずっとここで寝ているので、むしろ落ち着くくらいだ。
 下に敷いた毛布にも自分の匂いが移り、もはやお気に入りの空間になりつつある。

「今日は『くちゅくちゅ』してあげるから、おいで」
「わん! わんわん!」

 そして、あたしがこの檻を気に入りつつある理由のもう一つが、これだ。
 飼い主様である繭子の手によって、イカせてもらえる唯一の場所。
 あらゆる状況で愛撫され、発情させられて、でも決してイカせてもらえないあたしが、唯一絶頂を許可されているのが、この檻の中なのだ。

「おねだりしてごらん」
「わ、わん!」

 イカせてもらうために、急いで四つん這いになりお尻を突き出す。
 檻の前で笑う飼い主様によく見えるように。弄ってもらいやすいように。
 格子越しに見える繭子に向かって、早く弄ってほしいと、媚びるようにお尻を振る。

 客観的に見れば、惨めなことこの上ない。
 だけどあたしが性的な快楽を得るためには、こうするしかない。

「もう、こんなに濡らして。期待してたの?」
「わ……う、あっ! あっ……!」

 ようやく弄ってもらえた悦びと、ようやくイカせてもらえる期待感で、あたしの膣からは犬のよだれのように愛液が溢れ出していた。
 繭子に『ハウス』と言われた時からくすぶりだしていた高揚感が爆発しそうになる。

 ……やっと、やっと本当に気持ちいいっ!
 気持ちいいよぅ!

 膣を指でほじられ、肉壁をコリコリと擦られる刺激に、あたしはだらしなく口を開けて喘ぐ。
 繭子にしてみれば、格子越しに目の前にある穴に指を入れてただ動かしているだけ。
 だけどあたしにとってはそれは待ちに待った刺激で、下半身ががくがくするほど嬉しい。

 食事や排泄どころか性欲処理まで管理されたあたしは、飼い主様から与えられる快感に感謝し、むさぼる。

「すごい、どんどん溢れてくるよ。ぐちょぐちょ」

 繭子の言葉に顔を赤くしながら、それでも焦らされ続けた身体では我慢もできない。
 そしてあっけなく昇りつめそうになったとき、繭子の指の動きが一段と激しくなった。

「わかるよ。指すごい締め付けてきてる。もうイクでしょ?」
「わっ……ん、あっ!」
「じゃあイッていいよ。『よし』」

 気を抜けば今にも達してしまいそうなのを必死で我慢しながら、なんとか返事を返す。
 すると繭子は絶頂の許可を出しながら、膣を擦る動きに加えてぷっくりと膨れ剥き出しになったクリトリスを、キューッと摘み潰した。

「わ、あ、あ、あ! んあっ!! んんんんんーーーっ!!」

 痛みすら感じる快感に、全身が強張り、震え、瞬時に目の前が真っ白になる。
 喉の奥から意味のない音が断続的に飛び出し、一瞬全身の感覚が吹き飛んだ。
 後に残るのはただ「気持ちいい」だけ。下腹部から広がる快感に支配される。
 そしあたしは恥も外聞もないただの獣になって、身体を震わせ何度もイッた。

「ほら、もう一回。イッていいよ」
「あっ……あ! あ、ひ、ひ……ぎっ! い……ぐ……っ!」

 イッた余韻を味わう暇もなく、繭子の指はあたしを追い詰め続ける。
 何度イッたって、繭子は「もう一回」と言って、あたしの急所を責めることをやめない。
 あたしが何回イッたかは、関係ない。飼い主様が充分楽しめたかどうか。
 暗にそう言われているようで、抵抗できないまま、小休止もないまま、イキ続ける。

 そうして、イッた回数などとっくに分からなくなり、あそこの周りがびちょびちょになった頃。
 「ふぅ、疲れた」といってようやく繭子の指が止まる。
 その頃にはすでに足腰はガクガクで、腕も上半身を支えきれず、だらしない姿勢になってしまう。

「冬華、『カム』」
「はぁ……は、ふ……わ、わん」

 そして行為の最後に繭子に呼ばれる。ずるずると身体を反転させて、繭子と向かい合う。
 その目の前に出されるのは、さっきまであたしのあそこを弄っていた、てらてらと光る指。
 それを、躊躇いなく口に含み、あたしの恥ずかしい雫を舐めとり、清めていく。

「ん、ちゅ……えお……ちゅむ……ずず……っ」

 指の一本一本を、丁寧に丁寧に。指の形を覚えるくらいに、感謝の念を込めながら。

 ああ、イカせてくれて、気持ちよくしてくれて、ありがとう。
 こんなはしたないあたしを飼ってくれて、ありがとう……ございます。

 そんなことを何度も念じて、その思いが少しでも届くように、飼い主様の指を舐める。

「ん。もういいよ。……いっぱいイッたね。気持ちよかった?」
「わ……わん。気持ち、よかった……」

 それが終わるとあたしの性欲処理、飼い主様の気まぐれで与えられる悦楽の時、は終了だ。

 その後はもう体力もないので、汚れを拭われ「おやすみ」をした後は檻の中で身体を横たえる。
 そこには「飼い主の匂いを覚えるように」と渡された、繭子の服や下着や靴下などがあって。
 それを抱きしめるように手繰り寄せ、埋もれながら、繭子の匂いに包まれて一日が終わるのだ。

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