第三話『雁字搦めの舞』

 何時まで経っても昨日のことのように思い出す。
 妹の、私を見送る目。最後まで私への愛を嘯き通したおぞましい目。
 私を脅してくる。その目が。その目が。脳裏にこびりついて離れない。

「う、……ぁ……っ」

 身体がガタガタと震えだす。
 それは恐怖か。復讐への武者震いか。
 抱いた感情は不明瞭で。それを解読する前に、意識が浮上し始める。

「あ……! んぁ……!?」

 そして身体が異常事態を感じ取り、一瞬にしてパニックになった。
 寝起きの理性は上手く状況を理解できず、さああっと血の気が引く。

「んむ! あ!? ……うぅ!?」

 身体が動かない。そんな単純で原始的な危機に恐怖する。
 手も、脚も、何かに強く押さえつけられているようだ。首も回らない。寝返りすら、いや、そもそも全身が締め付けられて動きにくく、息苦しい。
 それに声も上手く出せない。咄嗟に出そうとした助けを求める言葉は、ただ唸るような音にしかならなかった。

「あぅ……っ!」

 ひとしきり暴れようとして、徒労に終わって。
 そうしてようやく、理性が冷水を浴びたように急速覚醒し、現状を把握し始めた。

「……あ、あ……」

 瞬きを数回。視界に映るものを捉える。
 ドット状に空いた無数の穴から覗く世界。横倒しの地面に生えた鋼鉄の棒。その先に広がる、打ちっぱなしのコンクリート。目の前には申し訳程度の毛布。
 自分の今の状況を思い出す。

「ああ……」

 無機質な部屋の中で、檻の中に入れられた、ヒトイヌ。
 それが今の自分だった。

「おうあ……」

 状況を理解し、落ち着きを取り戻す。
 意識してゆっくりと息を吐いて、吸って。脈打つ鼓動が次第に収まっていく。

「あ、ひゃ……」

 朝、と、確認するように呟いた言葉は、間抜けな音になって外へ出た。
 口の中に入れられた特殊なマウスピース。シリコン製のそれをぐっと噛みしめて、思い出し嘆息する。

「……」

 ふたなりとして隔離され、ヒトイヌとして加工され始めてからしばらく。
 単一化された生活はすぐに違和感を駆逐していって、うなされながらも睡眠をとることができるまでには慣らされてしまった。
 脳裏に浮かぶ、あの日見せられた『先輩たち』の異様な姿。それを、視線の先にある短くなった『前足』と重ねる。
 今、自分はどの段階なのだろうか。

「んひゅ……ふぅ」

 施設長である女性が言っていた、ヒトイヌの定義。
 そのうち『拘束としてのヒトイヌ』は、すでに為されていた。

 黒く光沢のあるドギースーツ。厚みのあるラバー生地がぴたりと身体に張り付き、着ているのにどこか全裸のように頼りない。そのくせ逃れようのないこの拘束に一役買っていて、高い摩擦力が身体の動きを阻害し動作を緩慢にさせる。

 頭は同じ素材の全頭マスクで包まれ、露出しているのは口元だけ。視界はドット状に空いた穴から確保するしかない。外見から想像するよりは見えるけど、それはあくまで目隠し状態が基準だ。お世辞にも見えやすいとは言えない。

 加えて手足の四足化をより強固にする革袋。元より手足を折り畳んだ状態で封じているラバーの上から、さらに革の袋と複数のベルトによって増し締めされ、その上に錠がかけられている。私自身は当然として、鍵を持たない人間にもこの拘束は解けない。

「はぁ……は、ふ……」

 強制的に付けられたマウスピースは、私から言葉を奪った。歯と歯茎のみならず、舌まで含めて覆い固定するそれは、舌の動きを阻害し正しい発音を困難にする。押し退けようとしても、舌の力程度ではどうにもならない。一定間隔で歯を何本も抜いて、そこに人工歯根を埋めて、それに合わせた歯冠型の固定具が付いたマウスピースを嵌め込まれているのだ。例え両手が自由だとしても、自分では取ることができない。
 結果、私はここにきて処置をされてからずっと、不明瞭な声を出すだけでまともに喋っていない。

「ん、ぐ……っあ……は……」

 舌が押さえつけられているせいで、唾を飲み込むのも一苦労だ。いちいち喉を鳴らすようにでないと飲み込めない。最初の頃はえづきそうになるのを我慢しながら頑張って飲み込んでいたけど、そのうち面倒になって垂れ流すようになった。
 それでも、自分の寝床にいる間はなるべく垂れ流さないように気を付けている。後で臭くなって嫌な思いをするのは自分だから。寝ている時に散々撒き散らしているから今更だけど。

「ふ……ん、ん、あ……っ」

 同時に、息苦しさと痺れるような鈍痛を思い出す。
 私の首につけられた首輪。いや、首輪というより、コルセットといったほうがいいかもしれない。ムチ打ち患者がつけるような、首をほぼ覆うネックコルセット。それが、呼吸と首の動きを生命活動に支障がない範囲で阻害している。
 変わっているのは、その形状が真っ直ぐではなく上方向へカーブしているところ。これをつけると顎が持ち上がり、顔がぐっと上を向く。その状態でさらに仰け反るように頭が背中側へ。常に天井を仰ぎ見るような形で固定されるのだ。

 その目的は、四つ足の状態で顔が前に向くようにする矯正ギプス。人は骨格上、四つん這いの状態だと顔が下を向くのが普通だから、前を見るには頭を持ち上げる必要がある。でもそれは自然な状態ではないから、どうしても疲れてしまう。それをサポートする器具だった。
 そういう意味では、このコルセットは頭の位置を固定してくれるので楽ではある。

「はぁ……ふ……ん……」

 ただ、痛い。それに苦しい。
 僅かな時間ならともかく、ずっと不自然な状態を強制されるのは想像以上に苦痛だ。肉体的にも、精神的にも。
 本当なら外してほしい。けど、これも調教の一部なのだ。恐ろしいことに。
 ただプレイでつけているわけじゃない。常に装着することにより、首の骨を曲げるためだ。そうして四つ足で前を向くのが当たり前の身体に改造してしまうのだ。
 ……と、これを着けた調教師が言っていた。

 それが本当かどうかはともかく、首が固定されるのは思った以上に不自由だ。何より俯いて顔を隠せないのは、調教を受ける上でとてもつらい。都合の悪いことから逃げることができないから。

 不自然な形で拘束されている身体、首、心。常に限られた、許された動作しか与えられない生活。提示されたヒトイヌという型に無理やり押し込められている。今の私はそんな状態だった。

「はぁ……っふ!」

 とはいえ嘆いていてもキリがない。とりあえず身体を起こすことにする。
 気合一閃、といきたいところ。でも拘束されて転がされた今の姿勢は、ひっくり返った亀とそう大差ない。
 ヒトイヌ拘束というのは不便だ。そう仕向けているのだから当然だけど。両手両足を使えないので、ただ起き上がるのにも苦労する。横になった状態から一度後ろに反動をつけ、下敷きになった側の腕に力を込め、腹筋も使って一気に引き寄せる。勢いが大事だ。

「ん……ふぅっ」

 無事に身体を起こせたら、四つ足で立つ。
 四つある革袋の先端、両肘と両膝の先には一応クッション材としてパッドが入っている。それを靴代わりに四つの足で移動する。
 だけど、それがあったところで快適になるはずもない。多少マシになるだけだ。そもそも人として無理な体勢を強制され続けるのだから、どうしたって痛みは出る。

 ずっと四つ足はつらいから、いわゆる正座の姿勢で身体を起こせると楽になる。ただ生憎この檻はそれができるほど高さに余裕がない。あくまで四つ足で立つヒトイヌを基準にしたつくりになっている。
 だから脚だけ正座にして、身体は腕を前に出すようにして屈める。自然と覚えた姿勢だったけど、後で調教師に「教えていないうちから『おすわり』ができて偉いわ」と言われてすごく惨めな思いをした。

「は……ぅ、ふ……っ」

 全身を覆うラバーと革の拘束具がギチギチと音を立て、曲げた部分に圧を加える。
 着せられた衣装にほとんど遊びはない。というより、何もしてなくても苦しいくらいにキツく締め上げられている。もちろん血流がどうとか、そういった医学的な部分はちゃんと計算されていて大丈夫なのだと思うけど。その辺りは何も知らされていないので、着せた張本人たちを信じるしかない。

 なんにせよ、これは拘束具なのだ。そう分かっていても、寝起きから雁字搦めはきつい。短くなった腕と脚を交互にぐーっと伸ばしながら嘆息する。ミチミチと擦れ伸びる音が耳にうるさい。

「ん……」

 それでも、動けるだけマシだ。そう思っていた。
 指の先すら動かせないほどガチガチに拘束され、訳も分からないうちに何かをされるよりも。制限されたものであっても、自らの意志で動けるほうが、まだマシなのだと。

 今は……そうは思わない。

「あ……ぅ……」

 思考に逃げようとしたところで、忘れるなと言わんばかりに股間で猛るそれに意識をとられる。
 私がこんな目に遭うことになった元凶。悪魔の子であり、ふたなりである証明。男性器。ペニス。いわゆるおちんちんが、お腹につくくらいに朝立ちしていたのだ。

「はぁ……っ」

 寝起きから膨らんでしまっているそれに軽く嫌悪感を抱く。今まで自分になかった器官なだけに、違和感も大きい。
 こんなものは、ただの生理現象だ。そう自分に言い聞かせる。でも、性的興奮が影響していないとは言い切れない部分もあった。何故なら、毎日食べているものに媚薬が混ぜられていると前に聞いたから。

 今だってほんのりと身体は火照っていて、油断すると艶っぽい声が出る。ラバーの中は滑りをよくするためのドレッシングエイドと汗にまみれていて。動くたびに、ヌルリと敏感になった肌を撫でていくのだ。
 たったそれだけで、背筋がゾクゾクする。快感を感じてしまう。例えそこが性感帯じゃなくても。いや、きっともう、どこもかしこも性感帯に変わっているのだ。

「おはよう~。ルキナ起きてる~?」
「! ……あうっ」

 快感に身悶えしているところに、間延びした高い声が響く。
 それに反応した私は、反射的に鳴き声を返した。

 扉を開け無機質な部屋に入ってきたのは、スーツに身を包んだスレンダーな女性。
 軽くウェーブがかった長髪をなびかせ、こちらへと歩いてくる。

「起きてたのね~。おはよう~」
「おあおう」

 そして私を見るや、柔らかく微笑む。

 鼻筋の通った綺麗な顔立ち。同性も羨む抜群のスタイル。どこぞの社長の秘書でもしてそうな、パリッとしたイメージを抱かせる佇まい。
 なのにどこにも険がなく、それどころかこの場にふさわしくないほど、ほんわかとした性格の調教師。

 アキさん。
 他の調教師がそう呼んでいた。なので私もアキさんと心の中で呼んでいる。

「今日は結構暖かいわね~。水分補給はしっかりしないと~」
「あう」

 爪弾きものが集まる、社会でも最底辺に位置するこの場所。そんな地獄に似つかわしくない、ぽわんとした声。言葉。
 見た目通り、アキさんはとても優しい調教師だ。決して無理強いはせず、必要以上のお仕置きもしない。怒る姿はむしろ可愛らしいし、褒めるときはうんと褒めてくれる。まるでお母さんのような存在。

「今日はお散歩と、アレがあるから、頑張ろうね~」
「……あぅ」

 それでも、れっきとした調教師だ。優しいけれど、やることはやる。そんなことをするような人には見えないのに。
 それに楽しそうなのだ。でもそれは仕事や嗜虐心からじゃなく、まるで子どもと遊んでいるような。そんな風に見える。

 普段は複数のヒトイヌを飼うブリーダーで、ここにはフリーランスとして仕事を請け負って来ているらしい。聞こえてくる噂話は物騒なものもある。他の調教師たちが「この施設で一番残酷な人」と言っていた。

 どれが本当なのか分からない。
 私としては、他の調教師よりも優しく接してくれるので、残酷だという話はにわかに信じがたい。
 信じたくない、といったほうがいいかもしれない。

 でも私は、後になってその意味を理解する。
 その頃にはもう何もかも手遅れだったけど。

「え~と、鍵、鍵~」

 それよりも今大事なのは、この人がここでの私のご主人様であるということだ。
 この施設では、各ヒトイヌごとにメインの調教師が付いているようだった。他の調教師から調教を受けることもあるけど、基本はメインの人がその個体を管理している。イメージ的には担任の先生といった感じだ。
 だから、必然的にそのメインの調教師と一番長く接するし、把握されているし、生殺与奪権を握られている。だから、ご主人様。
 あくまで『出荷』されるまでの臨時だけど。機嫌を損ねればどうなるか分からないから、服従心は本物だ。

「あ、あったわ~」

 緊張感の欠片もないアキさんが、私のご主人様。
 世界の全てを憎もうとしたはずなのに。どうしてか、この人だけは嫌いになれなかった。不思議な人。

「……はい、それじゃあ出ましょうか~」
「あうあう」

 私のハウスである檻の前にしゃがみこみ、アキさんが扉を開ける。
 私はいつものように前足を出し、後ろ足を出し。窮屈な身体をえっちらおっちら動かして、窮屈な檻からくぐり出ようとした。

「あっ!? うぃ……ひっ!」

 ところが身体半分が出たところで、痛みを覚えて素っ頓狂な声を上げてしまった。

「ん~? あら、あらあら~。ルキナはおっちょこちょいね~」
「うぅ……」

 まだ少し寝惚けていたのかもしれない。それに、普段よりも考え事をしていたせいだ。アキさんの声を聞きながら、自分の失策を反省する。

 私のペニスは大きい、らしい。
 性交経験のない私は標準の大きさを知らないから、何ともいえないのだけど。平常時でも、四つ足で歩くと床にペニスが擦ってしまう。
 だからすごく不便で、そういう意味では不必要な大きさではあると思う。

 それが檻の扉の枠部分にぶつかったのだ。
 いつもなら大きくなっているうちに外に出るから、引っかかることはないのだけど。今日は少し萎えて垂れ下がってしまっていた。

「ルキナのおちんちんはすごく大きいんだから、ちゃんと持ち上げないと~」
「あ、ひ……っ!」

 冷たいアキさんの指にさらりとペニスを撫でられ、思わず声が漏れる。それだけでドクリと心臓が跳ねた。

 全身を拘束されている中で、股間部だけは剥き出しになっている。ペニスも、ヴァギナも、アヌスも、全部。そのほうが管理する上で都合がいいのだろうけど、こちらとしては恥ずかしくてたまらない。常に性器を晒しているのだから当然だ。
 とはいえ隠そうとして隠せるわけでもないから、悲しいことにある程度は慣れてしまった。

「待っててあげるから、『ちんちんこしゅこしゅ』準備してね~」
「あぅ……」

 アキさんの命令に、一旦檻の中へ戻る。これからすることを考えて気が重くなるけど、命令には従わなくちゃいけない。

「準備できた~? じゃあ、さん、はいっ」

 床に敷かれた毛布、そこに照準を合わせて。半端に硬くなったペニスの先を擦り付けるようにして。
 私は四つ足の状態で、アキさんのとるリズムに合わせて腰を振り始めた。

「こしゅこしゅ、こしゅこしゅ」
「う、あっ……は、ふ……っ」

 腰の動きに合わせて、亀頭がぞりぞりと毛布の上を移動する。毛羽立った素材が鈴口や裏筋までを撫でて、我慢できずに声が漏れた。
 発情したまま触ることのできないお預けのペニスに、甘い快感が広がる。次第に湧き出してくるカウパー液が毛布を濡らして、ペニスの通り筋がじっとりと浮き上がっていく。

「はぁっ……はふ……んっ!」

 荒くなる息。飲み込むのを忘れた唾液がドロリと吐き出され、糸を引く。
 視線が宙を彷徨って、もはや何を見ているのか分からない。膨れ上がっていくペニスは硬度を増していき、段々と持ち上がっていく。
 その度に当たる位置を調節しようと姿勢を低くし、よりペニス全体が擦れるように動いていく。

「こしゅこしゅ。……うん、上手上手~」
「はっ……はっ……!」

 ヘコヘコと、情けなく腰を振るこの命令が、私は苦手だ。
 褒められているから、下手ではないのだと思う。でも苦手だ。性器を剥き出しにしているのには慣れてしまっても、これだけはどうしても慣れない。

「うぅ……ううう……!」

 それでも、そうしなければいけない。
 命令だということもある。だけどそうでなくても、私はこれをしなければ、歩くだけでペニスを引きずってしまい、痛みに襲われる。サボれば結局自分に返ってくるのだ。
 この動きは『床オナ』だと聞いた。私は床オナをして、ペニスを勃起させないといけない。こんな惨めな思いをして、ようやく歩くことができる。そういう身体になってしまった。

「いつ見ても可愛いわ~。ルキナのこしゅこしゅ」
「……あ、う」
「それに、マスクの下の顔を想像すると……うふふ~」
「~~~っ!」

 今はまだ、羞恥心を感じている。少し意地の悪いアキさんの言葉に、燃え上がりそうなほど顔が熱く火照る。
 でも、もしかしたらいつの日か。調教と流れる時間の中で、それを失くしてしまう時が来るかもしれない。『受け入れてしまう』日が来るかもしれない。それはここに当てはめて言うならば、まさに心がヒトイヌとなる瞬間なのだろう。そして、私が私以外の何かに変化する瞬間なのだ。

「……か~わいい」

 それはとても怖いことだと思う。
 私はまだ納得したわけじゃない。希望を捨てたわけじゃない。だから、私は羞恥心を失くしちゃいけない。そう自分に言い聞かせる。
 私は私だ。あくまで私としてここを出る。身体を作り変えられようとも。心を作り変えられようとも。最後の一線だけは守り抜く。こんな地獄のような世界の言いなりになんかならない。
 例え、それがさらに自分を苦しめる選択だとしても。

「さて、そろそろ大丈夫かしら~」
「はふ……はぁ……はぁ……っ」

 やがて完全に勃起したペニスは、お腹につくほどに持ち上がった。乱れた息を整える。
 元々発情状態のペニスを大きくするだけなので、それほど時間はかからない。それでも、その僅かな時間で腰は蕩けそうに震え、吐く息には惚けた音が混じる。

 我ながら浅ましいと思う。だって、これは自慰だ。いくら必要なことだったとしても。私は自慰を、オナニーを他人の目の前でしているのだ。それは常識に照らし合わせれば恥ずべき行為で、実際とても恥ずかしいことをしている。
 なのに、当のご主人様はそれを煽るどころか指摘することすらせず、まるで赤ちゃんが上手にハイハイできた様を見るかのように微笑んでいる。おかしなことは何もないというように、私の自慰を当たり前のものとして受け入れている。

 そのことに安堵を覚えてしまう。
 ペニスを毛布に擦りつけ、勃起させ、快感に声を上げても。それは普通のことなんだと。羞恥心を忘れさせてくれる。

 それは危険なことだ。そうは分かっていても、突っぱねて『見られながらオナニーをする』という辱めを受け止めるのはつらい。
 だからつい逃げてしまう。これは必要なことだから。そうしないと歩けないから。歩けないとお仕置きされるから。生きていけないから。
 それらの思考の先が、行き止まりの袋小路だと知っていても。少しでも問題を先延ばしにできる安易な道を進んでしまう。覚悟をしたはずなのに、情けなくなる。

「それじゃあおいで~」
「はぁ……はぁ……あう……」

 勃起させ持ち上げたペニスは無事に扉を通過し、私は檻の外に出た。それを確認したアキさんは背を向けて歩き出す。その脚を追って、私もトス、トス、と四つの足を前に進める。

 逃げようとすれば逃げられるのかもしれない。アキさんは隙だらけだ。虚を突けば出し抜けるかもしれない。
 でも、こんなギチギチに拘束された身体で何ができるというのか。そしてどこへ行くというのか。すぐに浮かんでくる疑問に足は止まる。

 閉ざされた部屋の扉。
 広大な施設。監視の目。
 どこなのかも分からない立地。

 ふたなりをなくそうとする社会。

 何一つ手に負えない。少し考えれば分かること。
 今置かれている状況を考えれば、逃げる気すらなくなる。

「ん……ん……!」

 少し萎えてきたペニスをコンクリートの床に押し付ける。冷たさにビクッとするけど、熱を持ったペニスには丁度いい。鈴口から溢れるカウパー液を床に塗りたくるようにして、それをローション代わりにペニスを擦る。

「はぁ……っ」

 ペニスが膨らんでいないと歩けない。萎える度にオナニーしないと歩けない。だから檻の外にいる間は常に発情していることを強いられて、ずっと性欲に頭を支配されている。
 でも射精はできない。気持ちよくはなるけど、それだけ。とてももどかしい。手が使えれば、人目も憚らず弄ってしまうかもしれない。それでも、きっとイけない。勝手にイこうとすれば、アキさんは腰に下げた鞭を手にする。悲しそうな顔で、私を打つ。そんな姿が目に浮かぶ。

「んあ……っ、ふ、ぐ……!」

 頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。
 今考えているのは、本当に自分が考えていることなのか。
 『まだまともだった時に考えていたこと』をなぞっているだけじゃないか。
 本当はもう私は屈服していて、被虐感を得たいがためにあえて逆らうような思考をしているんじゃないか。

 アキさんのような人に飼われるなら、つらい現実社会で生きるよりもヒトイヌでいるほうが幸せなんじゃないか。

「……!」

 ぶんぶん、と頭を振る。
 弱気になること。それこそが思う壺なんだ。
 私はまだ諦めていない。ふたなりだからなんだ。私はそれでも人として、私として生きたい。まだヒトイヌなんかじゃない。

 ……まだ?

「ルキナ~」

 優しく、けれどはっきりと響く声。考えるより先に身体がそちらへ向かう。
 繰り返す自問自答。答えなんかでない。つらい。本当はそんなこと考えていたくない。そんな理不尽に向き合いたくない。でも、これが自分の置かれた現実だ。望まなくても、私を嘲笑いにやってくるのだ。

 心がどんどん疲弊していく。身体も痛い。窮屈だし、恥ずかしい。
 何でこんな目に遭わないといけないのだろう。私が何をしたのだろう。

「よしよし、いい子いい子~」
「……あう」

 たった数メートル。よちよちとようやくたどり着いた先で、アキさんが頭を撫でてくれる。抱きしめてくれる。私が何を考えていようと。何を思い、何を感じ、何を憂いていようとも。
 それでもこの人は、変わることなく抱きしめてくれるから。
 全てを委ねたくなる。何もかも、この人の言うとおりにしていればいいやと。考えることをやめて、楽になりたくなる。

「ルキナはふたなりだから大変だけど~……。ヒトイヌとしてならきっと幸せになれるわ~」
「……あんっ」

 それが毒だって、分かっているのに。手を出してはいけないのに。
 その誘惑から逃れられない。引き換えに差し出すものの大きさから目を背けて。刹那的な温もりに身を預ける。

 この世界で私がこれから生きていくには、ヒトイヌとなって誰かに飼われるしかない。

 差し出され続けるその答えを、受け取らないように必死で抗いながら。
 せめて狂ってしまわないように、私は精一杯『今』に甘えてみせた。

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