第九話『契約の魔法』

 そこは地下室ではなく、さらに言えば屋敷内でもなかった。

「……」
「チチ……チチ……」

 音を発したのは、私でもレストリアでもない。ましてや傍に控えるメイドさんでもない。
 近くで無邪気に戯れる、小鳥の番だ。

「……」
「……」

 降り注ぐは木漏れ日。肌に感じるはそよ風。
 ふわりと感じる緑の香りに、さあさあと森の囁き。

 ここは、ウィルストングス家の私有地。
 一月程を過ごした屋敷の裏手に広がる、広大な森の中の一角。

 時が停滞しているかのような、厳かな空間の中で。私は生まれた姿のまま、台座の上で仰向けになっていた。

「……」

 視線の先には、私の身体に覆い被さるようにしてレストリア。そしてちらりと覗く青空と、木々。それだけ。
 動くものは木の葉の揺らぎと、レストリアの手。もっと言えば、レストリアが握っている羽根ペン。それは日常的に使うそれとは異なり、ペン先が薄く砥いである。まるで、小さなナイフのように。

「……」
「……ふっ……く……」

 使うインクは、魔素の溶け込んだ紅。レストリアを象徴する炎の色だ。筆がいくらか進む度、片隅に置かれたそのインクへペン先を浸す。
 そして再び剥き出しの私の肌の上へ。

「……」
「……! ……っ」

 迷いなく筆が走る。その度、尾を引くように浅く肌が割かれ、赤が滲む。インクとはまた違った赤。少し薄い私の血の色。
 インクと血が混ざり合い、薄く発光する。そして赤黒く変色し、それが筆跡となる。

「……ん」

 レストリアが腕を振る。それまで握っていた羽根ペンが音も立てずに地へ落ちた。
 否、捨てられた。皮脂で切れ味が落ちたせいだ。
 視線を移せば、あちこちに散らばった残骸を確認できる。それを気に留めることもなく、レストリアは新たな羽根ペンを手にし、再び描いていく。

「……」

 滴る雫は、雨じゃない。レストリアの汗だ。極限の集中状態がもうどれだけ続いているのか。
 「あんたが汗をかくなんて、珍しいこともあるものね」なんて。
 軽口を叩く余裕はとうに消えた。
 今はただ増え続ける切り傷の痛みと熱と、徐々に強くなる頭痛に耐えるので精一杯。

 少しずつ、少しずつ。描いては浸しを繰り返し。
 刻まれるのは、術式。濃縮した魔素と、対象の血を使った、強力な魔法。

 契約の魔法、別名『支配の魔法』発動の準備は、粛々と進む。

▼

 魔法は、『創造の奇跡』と呼ばれる。

 大気中に散らばる『魔素』という材料を集め、練り上げ、『魔力』という動力を使って、『術式』で指定した物質または現象を顕現する。
 それはまるで目に見えない粘土細工のようでもいて。力だけでは成立しない、繊細な奇跡だ。

 魔素は威力や規模、属性を左右する。場所によって存在する種類や量は異なる。量が多ければ威力も上がり、必要な魔力も増える。
 魔力は動力であり、魔素を集める力でもある。単純に、魔力量が多いほど強力な魔法が使える『可能性が生まれる』。
 魔力の最大量は先天的に決まっていて、後天的に上がることはほぼない。ここで魔女に成れるかどうかが決まると言ってもいい。

 そして術式は、言わば設計図だ。何を、どうやって、どれくらい。魔法を作り上げるためにどうすればいいかを指定する。魔素や魔力の働きを制御する。
 同じ魔法でも状況によって最適な形は変わるし、術者によって得意な形も変わるから、中身は千差万別だ。当然、人によって組み方の上手い下手はあるし、魔素や魔力の消費効率も変わる。

 それゆえ、術式は術者にとっての存在意義だ。魔力の絶対量はほぼ変わることはないけれど、術式は適した組み合わせを見つけられれば大幅な自己強化につながる。そして何より、自らが必死になって築いたそれは大切な財産であり、術者として生きた証だ。

 だから、研究する。己の全てを賭けて。無数の組み合わせから、ピタリとハマるそれを見つけるまで。得てして魔女や魔道士は長い生を求めるものだけれど、それも分かる気がする。単純に時間が足りないのだ。

「……まだ足りませんわね」

 次に、術式の展開について。

 魔法は基本的にロッドがなければ使えない。もっと正確に言えば、術者の要求する水準に達しない。それは魔法発動に必要な術式と魔力増幅をロッドが兼ねているから。
 魔力をロッドによって増幅し、その力で魔素を集め、練り上げ、ロッドに刻まれた術式を使って魔法を発動する。
 これが一般的な魔法であり、それを使う者を『術者』と呼ぶ。その中でも特に専門として生業にする者を魔法使いや魔道士と呼んだりもする。

 ただ、ロッドによる魔法は多少の魔力があれば簡単に発動できる反面、威力はそれなりで、使える魔法も限られる。
 正直に言えば、ロッドありきの魔法『しかなかった』ならば、ここまで魔法が、魔女が世界を席巻することはなかったと私は思う。

 けれど、現実として今の世界は魔法を前提として成り立っている。
 つまりそれは、ロッドありきの魔法『以外』が存在するということ。

 それこそが、魔女の本懐。

 魔女は主に『思考術式』を用いる。
 理屈は簡単。使いたい魔法に応じて、その術式を思い浮かべるだけ。
 理由はもっと簡単。早くて便利で強力だから。

 まずロッドを携帯する必要がない。
 それだけでも大きな利点なのだけれど、大事なのは、ロッドがいらない故にロッドの制約に縛られないということ。

 つまり、使える術式や魔力量の上限が無くなり、威力が青天井になる。

 もちろん魔力の増幅など、ロッドの恩恵は得られない。
 けれど、潤沢な魔力と質の良い術式があればそれも問題にはならない。
 
 魔女の魔法が『創造の奇跡』とかけて『想像の奇跡』と呼ばれ恐れられる理由がここにある。

 ただし、術式を正確に素早く想像するのは、並大抵のことじゃない。指先ほどの炎を出すだけでも、恐ろしい量の記述を想像する。周囲を飲み込むほどの轟炎などもってのほか。それを戦闘での使用に足るレベルで行うのだ。
 そこそこ程度の術者だと、正確さに欠け魔力が暴走するか、想像しきれずに不発に終わるか、はたまた頭が耐え切れず発狂するか。
 仮に成功したとしても、発動に時間が掛かってその間に戦死しました、じゃ笑い話にもならない。

 一般的には使い物にならないけれど、しかるべき者が使えば絶大な効果をもたらす。それが『思考術式』。魔女に成るための登竜門であり、魔女であることの証明。

「ここは……削りましょう。ここと……ここも……」

 そして。術式を想像すること、それだけなら私もできる。
 膨大な量の術式を暗記しているし、ここだけ見れば私はすぐにでも魔女に成れる。それだけの訓練は積んできた。学園で、誰にも負けないと自負する部分。

 ただ、絶対的に魔力量が足りない。
 いくら精密に術式を組んでも。消費量を極限まで抑えたとしても。詠唱によって不足分を補おうとしても。私は、ロッドがないと大した魔法を使えない。

 魔女として中途半端な存在。
 制度としての『深淵の魔女』に成れたとしても、きっと私は『認めて』はもらえない。
 でも、それでもよかった。私が欲しかったのは、国が救える程度の力だから。

 それが甘い戯れ言だと知ったのは、レストリアと出会ってからだったけれど。

「これは……ダメですわね。こことここは転換して……」

 反対に、レストリアは魔力量だけなら軽く条件を満たす。
 術式こそ今はロッドに頼っているけれど、きっとそれも遠くない未来に自分のものにする。

 実際、出会った日から今までを見ても、徐々に使える思考術式が増えている。
 ここに来てからの変態魔法はどうか知らないけれど。少なくとも先の決闘の際、レストリアが使った魔法の術式はロッドに刻まれていなかった。
 おそらくロッドの汎用術式に自分の思考術式を強引に付け足したんだろうと思う。効率も何も無い力技。正直メチャクチャだ。
 ……まぁ私は私でロッドの術式を無視して魔力の増幅機能だけ使っていたからお互い様だけれど。

 ともかく、付け足し分くらいは思考術式も使えるということ。
 そしてその状態で、既に私より強い。
 まともに思考術式を覚えれば、どうなってしまうのか。それは恐怖にも似た感情だけれど、同時に好奇心でもある。

 きっと彼女は、辿り着くだろう。
 『深淵の魔女』の中でも指折りの力を持つ、『星城位』の世界に。

▼

「カリム、イールタナ、……長いですわね。ララ・コー、キンエ……」

 佳境に入ってきたのか、レストリアの独り言が増え始める。

 それにしても、とんでもない集中力だ。そんな顔、学園じゃ見せたことないのに。
 すでに太陽の高さも変わっている。それでも筆を止めない。

 レストリアが行うのは紛れも無く魔法。けれど、ロッドは持たない。
 それでいて、『思考術式』でもない。

「……っ」

 先ほどと変わらぬ早さで、筆が走る。次々と描かれる模様、文字。紅く、赤く。

 これこそが全ての術式の始点。もっとも原始的で物理的な術式。

 『記述術式』だ。

 先の二つと比べ、圧倒的に手間と時間がかかるため、現在では儀礼的な魔法でしか使われない。
 そもそも魔法はその場での使い切りが基本であり、術式自体が膨大な記述量を要する。そのため、発動のたびに何かへの記述を必要とするこの方法は、ロッド以上に取り回しが悪すぎる。

 その代わり、使い切りでない魔法、すなわち儀礼的であったり恒久的であったり、常に発動を必要とするような魔法に対しては絶大な効力を発揮する。
 それは例えば、街を守る防壁だったり。例えば、森や泉、神殿などを清浄に保つ聖域化だったり。

 例えば、対象を生涯にわたり縛り付ける、『支配の魔法』だったり。

「スティラ、うつ伏せになってくださる?」
「やっぱそうなるわよね……」
「そもそもが、無理を押していますもの」
「なら止めていいのよ」
「それこそ無理なお話ですわ」

 反転しあらわになった背中にも、術式が刻まれる。台座に押し付けられる形になった胸やお腹の傷がピリピリと痛むけれど仕方ない。どうせなら早く終わらせて、と思うけれど、これでも作業時間としては早い方なのだ。

「……」

 いや、早いなんてものじゃない。
 異常なほど、と付け加えたほうがいい。

 記述術式は、思考術式とはまた違う能力が必要だ。
 簡単に言えば、字や絵が上手いかどうか。
 想像するだけなら一瞬だけれど、描くとなるとそうはいかない。
 それに術式は途方も無い数の種類がある。だから描くにしても普通は魔術書を片手に写し描くものだ。普通は。空で描けるとしても、よく使う術式をいくつか。その程度だ。

 それをこの化け物は淀みない動きで出力していく。事前に予習練習していたのだろうけれど、それにしたって大概だ。
 それに、分かる範囲で見ても正確なことこの上ない。絵心のない私にとって、それは彼女の魔力量と同じくらい異常だと思う。

 仮に魔女でなく絵描きになったとしても、きっと彼女は食べていけるんじゃないだろうか。実際副業で絵を描いて生活している魔女もいるみたいだし。そんなくだらない想像までさせてしまう。

「……やはりギリギリですわね。スティラ、腕を」
「はいはい、もう好きなようにして」

 背中どころかお尻まで刻み込まれ、なお足りず。対象は腕に移り、私は腕を上げる。
 拘束はされていない。忌々しい触手貞操帯も外された。けれど、私は大人しく言うことを聞いている。

 理由なんて簡単だ。
 もう後戻りなどできないから。

「反対の腕を」
「はい」
「……。次は脚を」
「……はい」
「……。次は反対の脚を」
「……本当に大丈夫なんでしょうね?」

 どんどんと赤黒い術式で埋まっていく私の身体。
 隙間なく、びっしりと。胸の先や脇の下、手足の指先まで。
 以前宗教上の理由から全身に刺青をした子を見たことがあるけれど、それでもここまで酷くはなかった気がする。

「……ふぅ。残るはそのお顔ですわね」
「さすがに抵抗あるわね……」
「定着すれば、普段は表面に出てきませんわ。傷も痕が残らないよう治癒しますし」
「まぁそうなんだろうけれども……」

 それで「はいそうですか」と素直に言えないのは、私にもかろうじて女の部分が残っているせいか。
 まぁ既に裏切り者の紋章が額に浮かんでいる時点で、痕も何もあったものじゃないけれど。

「それで、本当に足りるの?」
「疑り深いですわね」
「そりゃそうでしょ。だって足りなかったら……」
「欠損術式で暴走、身体は耐え切れず爆散、ですわね」
「他人事みたいに言うな!」

 ここに至りまだ余裕のありそうなその顔を蹴り上げ……る元気もなく、せめて悪態だけはつく。
 もはや痛みと熱は全身に広がって、境界線など無くなってしまった。頭もぼーっとする。

「他人事ではありませんわ」

 そんな状態でも、レストリアの声は明瞭に響いて。

「……」

 強い言葉に、吐き出しかけた言葉を飲み込む。
 代わりに、別の言葉を掛ける。

「あんたさ」
「何か?」
「何で使い魔にこだわってるの?」

 顔を見なくても、息を呑んだのが分かった。

▼

 しまったな、と思った。
 けれど、もう遅い。

 一度出した言葉を引っ込めることもできず、私は出てくるがままに任せた。

「戦力なら魔獣が補ってくれる。知恵なら精霊が授けてくれる。私なんかよりよっぽどね。S級を契約できるあんたならなおのこと」
「……そうですわね」
「労働力や愛玩目的なら、奴隷でも買えばいい。私はあまりそういうの好きじゃないけれど。そんな人いっぱいいるでしょ? そのほうが安上がりだし」
「……」

 どこまで言っていいものか。
 そんな葛藤も、ぼやける頭を言い訳にうやむやにして。
 どうにでもなれと吐き出す。

「……それに、探せばあんたみたいな変態趣味でも大丈夫な子だって、きっと……」
「そうですわね」
「そうですわね、ってあんた……」

 それでも表情を変えないレストリアが何だか怖くなったから。最後は冗談のつもりだったのに。
 レストリアはただ肯定するばかりで。

「なら、どう言えば納得してくれますの?」
「どうって……、そういうんじゃなくてさ」
「一目惚れだと言えば、信じてくれますの?」
「ふぇっ!?」

 思いも掛けない言葉に、一瞬動揺する。
 そして、どうしてかその言葉が、言い方が癇に障って。
 そんなつもりじゃなかったのに、いらない火が付いてしまった。

「ば、馬鹿にして……! はぐらかしてないでちゃんと……!」
「はぐらかそうとしているのは貴女ですわ」
「ふざけないで!」
「ふざけてなどいません」
「だって、だって……こんなの、おかしい……!」
「狭い価値観で物事を決めつけるのは魔女として悪手ですわ」
「今はそんな話してない!」

 身体は動かないのに。頭だって動かないのに。
 言葉は、思いだけは動いていた。止まらなくなっていた。

 何で。
 何で、そんな言い方なのよ……。

「何でもできるでしょう!? 何でも手に入るでしょう!?」

 理解したはずなのに。納得したはずなのに。受け入れたはずなのに。
 何で、こんなこと言っているんだろう。
 何を、こんなに苛立っているんだろう。

「あんたなら!」
「……」

 何が、こんなに悲しいんだろう。

「何で、何で私なの……?」

 何度も聞いた気がする問いは、いつも誤魔化され、深く沈んで。
 自分でも掴みきれぬまま、それを勢いに任せて放っていた。

「スティラ……」

 それは、儀式前の恐怖だったのかもしれない。
 それまでの鬱憤かもしれない。これからの不安かもしれない。

 ただ、凝り固まった何かを。
 レストリアに投げつけている感覚だけははっきりと感じられた。

「……貴女には、分かりませんわ」
「っ!? そんなの納得――」
「貴女には!」

 またそんな言い方……と沸騰しかけた私に、予想外の強い遮りが飛んでくる。
 怯んだ私は思わず口をつぐみ、固まってしまった。

「……きっと分からない。孤独と渇きの辛さは」
「何を、言って……」

 普段と違うレストリア。要領を得ない言葉に、目を丸くする私。
 その姿は、どこか苛立ったように見えて……。

 ……『苛立ったように』?

「並び立つ者などいない。満たされることなどない。どこまでいっても、何をやっても」

 独白のように紡がれる、レストリアの思い。
 それは聞いたこともないような、弱々しい声で。

 相手は学園史上最強の天才。常に余裕に満ち溢れ、涼しい顔で何事も……。

 ……誰が?

「そうで在ろうとしたくせに、そうで在る自分が滑稽で」

 じゃあ目の前の彼女は『誰だ』?
 認識のズレが頭痛を酷くする。
 今までの記憶に齟齬が生じる。

 私の知っているレストリアが、いない。

「駆け上れば上るほど、何も無いんですのよ」

 そして寂しそうに。ぽつり呟く彼女は、とても幼く見えて。
 そこでようやく、私の記憶と合致した。

 そうだ、これは。

 時折見せていた、無防備な、彼女だ。

「世界が空虚になっていくのを、指を咥えて見ているしかできない」

 見ているだけで、拾い上げてこなかった、それが。
 今、私の目の前で、こんなにも溢れている。

「そんな惨めさなど、貴女には分かりませんわ」
「……」
「貴女には――」
「つまりさ」

 そんな彼女を見て、ようやく理解した。
 彼女が私に求めていたもの。
 これまでの彼女の境遇。今の状況。
 察しようと思えば、いくらでも察することができたのに。

 ありきたりすぎて見逃していた感情。
 その、行き着く先に。

「友達が欲しかったんでしょ?」

 ようやく、追いついた。

「っ!? な、なにを……!」
「あーあ、やめたやめた」

 乱れ切った胸の内を誤魔化すように。
 私は軽い口調で雰囲気を破壊した。

「さっきのあんたの言葉、そっくりそのまま返すわ」

 なんというか。本当、なんというか。
 悩んでいるのが馬鹿らしくなるような、仕方ないなと優しく溜息をつくような。
 つっかえが取れた、そんな気持ちだった。

「狭い価値観で物事を決めつけているから、世界が空虚だなんて言えるのよ」
「それは、どういう……」
「もちろん私はあんたじゃないから、あんたの辛さは分からない。けれどね」

 だから、言う。容赦なく言う。
 そりゃあそうでしょうよ。それだけ強いんだもの。それだけ才能に満ち溢れているんだもの。
 だから、その前には誰もいない。その横にも誰もいない。
 自分で、そうしてきたんだから。

「寂しくて駄々こねているってことは、分かるわ」
「……っ!」

 そして、私も、そうだ。
 悲劇のお姫様を装うのも、止めよう。そうすれば少しは楽になるかもと思ったけれど。結局、もっと惨めになるだけだ。
 そもそも、必要なかった。もっと楽で、相応しくて、私に合ったやり方があった。

「だから」

 お互いに望んでいたものがあったのだ。

「私がなるわよ、あんたの友達に」
「友達……」

 どうせ気高い最強様のことだから。
 今更友達が欲しいなんて事実を、受け入れられなかったんだろう。
 だから、使い魔。
 自分に逆らわず。自分の元から離れず。しかも自分の面子も保てる。

「ふ、ふふ……」
「レストリア?」
「……ここまでやってきておいて、今更友達が欲しいなどと。随分身勝手な話ですわね」
「自分で言うか」

 それは歪んだ解決策だったけれど、レストリアにとっては、他に縋る術がなかったんだろう。
 そして、彼女を孤独に追いやったその力は、皮肉にもそれを夢で終わらせない説得力を持っていた。

 なら、目指すだろう。
 彼女の性格を思えば、至極当然の結論。

 ふふ、と、いつまでも笑いを堪え、静かに涙を流す彼女を見て、私はその不幸に少しだけ同情した。

「もう少し早く、答えが見つかっていれば。貴女とは……」
「かもね。まぁ今言っても仕方のない事だけれど」

 違う形で、なんて仮定は意味が無い。人との出会いなんてそんなものだ。
 なんて、達観して言えるほど長く生きてはいないけれど。その言葉の重みが、少しだけ理解できたような気がした。

「だから、これからのあんたがちゃんと進めるように、私が見張っててあげるから」
「え……?」
「契約の魔法、早く終わらせてよ。いい加減すっぽんぽんは恥ずかしいのよ。それにずっと頭が痛いし」

 今度はレストリアが目を丸くする。
 そんな顔をするな。こちとら進んでエロいことされたいわけじゃないやい。
 あんたのこと理解したら、その、もう目を離せなくなっちゃっただけなんだから。

「……貴女のことなので、てっきり取り止めだ損害賠償だと騒ぐものだと思いましたわ」
「私、そんなに馬鹿っぽく見える?」

 こっちが必死で自分自身を言い包めているのに、レストリアは容赦なかった。
 まぁ、そのほうが『らしい』けど。

「どっちにしろ術式は取り返しつかないところまで完成しているし。今止めたら身体吹き飛んじゃうじゃない」
「そうですわね」
「そうですわねじゃないわ。……それに、決闘で負けたのは紛れもない事実だし。あんたの力を借りなきゃ自分の国も救えないし」
「……」

 国にいる家族を思う。
 皆、怒るだろうなぁ……。

「あと……。禁忌を破ったからには、もう大手を振って街を歩けない。今や犯罪者だからね、私。まともには生きていけない。『管理者』がいない限り」

 社会的な私は。グレイドウィン皇国第一皇女スティラ・グレイドウィンは、死んで。
 レストリア・ウィルストングスの使い魔として、これからを生きる。

「だから、所有物はちゃんと責任持って管理してもらわないと困ります。マスター」
「……。了解しましたわ」

 せめて、この覚悟が無駄にならないように。
 そのためなら何でも受け入れようと、そう決めた。

▼

 そして、最終記述。

「……何とか足りましたわね」
「ほれはよはっは(それはよかった)」

 舌が痛くて上手く喋れない。けれど、レストリアには通じたようだ。

 膨大な記述は、全身はおろか舌に耳殻、鼻に瞼までおよび、それら全ての箇所に魔素入りのインクが刻み込まれた。

「流石に疲れましたわ……」

 レストリアの組んだ術式は、私から見ればまだ多少甘い部分もあるけれど、それでも十分優れた術式と言えた。
 これだけのものを組もうとすると、相当研究を重ねたと思うんだけれど……。おそらく前々から計画はしていたんだろう。となると、私が調教を受けていたこの一ヶ月、あまり姿を現さなかったのは、術式の調整をしていたせいか。
 変なところで努力家な変態なんだから本当に。

「……では、最後、お願いしますわ」
「……りょーはい」

 最後のひと踏ん張り、と言わんばかりに大きく息を吐いて。
 レストリアがこちらを見て促す。
 私は痛みをおして、もう満足に動かない右手をふらふらと空にかざす。

 魔法じゃない。ただ魔素に魔力を流すだけ。
 術式の指示もないので、魔素たちは魔力に反応して淡い光のみを放つ。
 それを操作して、望む場所に並べていく。

 空中に描かれ、浮かぶ術式。
 これこそが、最後の記述。
 レストリアでは組み上げられない、私だから組み上げられる術式。

「あんありなあうおああいあよ(あんまり長く持たないわよ)」
「分かっていますわ」

 そもそも、本来の使い魔契約において、これほどの手間と労力は必要としない。
 せいぜいが身体の一部分に手の平程度の大きさの術式を刻むだけだ。
 仮にこれだけの時間があれば、レストリアならすでに数体のS級使い魔と契約し終えているはず。

 では何故これほどまでに手間がかかっているのか。
 それこそが、正史上、魔女が使い魔になるなどという馬鹿げたものが存在しない理由だろう。それだけ魔力を持つ人間の抵抗力が強いという証明。
 類まれな魔法の才能を持つレストリアを持ってして、一人では達成できないのだから。

「ぅ……んっ……!」
「……」

 けれど、そこに私の思考術式能力が加われば。
 さらに『被契約者の弱点を組み込んだ術式』を加えれば。
 それはきっと達成される。

「……っ」

 術式を浮かび上がらせる右腕が震える。
 それは、疲れや儀式の影響もあるけれど。

 自らの弱みを曝け出し、それを支配されること。
 その本能的な恐怖は、やはりある。

 それは、自分自身の設計図だから。
 魔力構成。伝導率。平たく言えば、どの属性に弱いのか。どこを狙えば効果的なのか。
 どうすれば、自分を無力な存在に叩き落とせるか。
 およそ戦闘で対峙する可能性のある者には、絶対に知られてはいけない。魔女としての急所であり、恥部。

 それをあますところなく開示していく。
 そしてそれが、私を支配するための手段として利用されていく。

 そうして、否が応でも理解していく。

 ああ、私。
 これから、この人に。
 この身体を、心を、すべてを。
 支配されるんだ、って。

 使い魔に成るんだ、って。

「……」

 哀れなペットが必死で組み上げた術式が、次々と浮かび上がっては霧散していく。
 その前に、レストリアがそれを拾い上げて描いていく。空けてあった左胸と、子宮のある下腹部へと。

 ……これで、『スティラ・グレイドウィン』としての人生は終わり、か。
 自分から使い魔になる手助けをすることになるとは思わなかったけれど……。

 自嘲気味に作った笑顔は、傷の痛みでしかめっ面に変わる。
 それでも、強引に笑ってやった。

「ほれえ、はいお(これで、最後)」
「ご苦労様です、わ……」
「……あに? (なに?)」
「いえ……。何ですの変なお顔して」
「うっおあすあお! (ぶっとばすわよ!)」

 威勢だけは良いけれど、もう握りこぶしを作る力もない。
 脱力した身体は痛み、火照り。上げていた右腕もぱたりと落ちてもう動かない。

 それでも不思議と不快じゃない。
 まるで、長い距離を走った後に倒れこんだ時のような。
 つらいのに満たされている、妙な充実感。

「ぶっとばされたくはないので、仕上げに入りますわ」

 そこに、レストリアの魔力が注がれる。
 足の爪先から、じわりじわりと。痺れるような感覚が徐々に上ってくる。
 おそらく私の身体を気遣ってだろう。展開速度が極端に遅い。それが効果のあることなのかどうか分からないけれど。
 でも、その気持ちが何だか嬉しくて。

「くっ……ぅ……」

 魔力が注がれるほどに、レストリアを感じる。
 力強くて、でも不器用な。
 そんな魔力が入り込んでくる。
 それを受け止める。なるべく抵抗しないように。なるべく行き渡るように。

 熱。痺れ。
 段々と視界が利かなくなる。
 思考もあやふやになる。
 皮膚の感覚はもうない。
 平衡感覚が乱れ始める。
 音が……聞こえなくなってきた。

「……」

 レストリアが何かを言っているようだけれど。
 もう分からない。
 全身に刻まれた術式が、薄ぼんやりと発光している。

 ああ、そうか。
 もう辺りは暗くなって。

「……っ!」

 ドクン、と心臓が跳ねる。
 また一つ。
 また一つ。

 暗闇が世界を覆い。
 鼓動音が全てになる。

 浮遊感。

 どこまでも飛んでいきそうな。
 身体中がバラバラに。
 弾けてしまいそうな。

「あ……!」

 恐怖。
 不安。

 感情。

 漆黒が、心を押し潰そうとした。

 その時。

「ん、む……!?」

 暖かさを感じた。

 唇。
 に、重なる熱。

 流れこむ。
 温い鉄の味。

 そして。

 世界が。

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