第二話『依存症』

 その『能力』に気付いたのは、この仕事に就いてから三年ほど経った頃だった。

「そういえば大会があるって言ってたね」
「うん! ここ最近調子いいし、今度こそ決勝まで行くよっ!」
「お、頼もしい。まぁ普段通りやれば勝てるよ、君なら。先生が保証する。……といっても、門外漢の保証じゃ安心できないか」
「そんなことっ。先生にそう言ってもらえるだけで、ボク……えへへ」

 県内でもそれなりに優秀な学生が集まる、私立虎乃馬(このま)学園。そのとある一室。
 何の因果か、スクールカウンセラーとして要請を受けた俺は、与えられたこのこじんまりとした部屋を根城として仕事に励んでいた。

 まだ若く、やる気に満ちていた頃だ。
 社会に出て数年。自分を殺し、仮面を被るという処世術をようやく理解し身に付け始めた時期でもある。
 理想と現実のギャップに悩みながらも、目の前に迫る日々の業務に飲み込まれる毎日だった。

「あ、そういえば先生、あれ知ってる? 駅前にできたさ」
「ああ、あの洒落た洋菓子店。一度菓子折りを買いに入ったよ」
「ほんと!? いいなぁ気になるなぁ。美味しそうなケーキたくさん並んでるんだよね」

 といっても、相談に来るのは一日に数人ほど。その内容も、たまに重いものもあるにはあるが、大抵は恋に勉強に、思春期の少年少女にありがちな青い悩みばかり。幸いにしてイジメなどの問題もほぼなく、俺の仕事はといえば専ら生徒たちの話し相手になることだった。

「んー、気になるなら入ればいいんじゃないか。と、言いたいところだけど……」
「分かってる。大会終わるまで我慢する」
「ははは。まぁお店は逃げやしないさ」

 今から思えば、微笑ましい笑い話だ。
 大人とはまた違う、思春期という不安定を相手にする恐怖。週に一日しかこない非常勤職員という立場。当時は疲れるくらい真剣で、ちゃんと受け入れられるのだろうかと心配ばかりしていた。
 ただありがたいことに、その心配は杞憂に終わることになる。こんな言い方はどうかと思うが、すぐに数人の常連ができたからだ。

「あ、そうだ! もしボクが決勝に行けたら、先生のおごりで……」
「贔屓はしないぞ」
「えー何でっ」
「何でも」
「……む~」
「ふくれてもダメ」
「む~~~……」

 学園の盛夏服である白に青襟のセーラーワンピースと、三年生を示す赤いタイ。栗色のショートヘアと、日焼けした細い手足。人懐っこさを表すようにコロコロと表情を変える彼女。
 のちに再会を果たすことになる小鳥遊 久織(たかなし くおり)も、カウンセリング室常連組の一人だった。

「……」
「……あのな、そんな目で見ても」
「……」
「そんなに食いたいのか」
「……そういうわけじゃないもん。ボクは、先生と……」
「え、何だって?」
「何でもない!」

 中性的というか、少年のような顔立ち。性格は見た目通り明るく元気で、一人称にボクを使うもんだから、ジャージ姿も相まって初めは男子生徒かと思ってしまったほどだ。本人も気にしているようだったのでついぞ口にはしなかったが。

「……。……贔屓はしないが、先生も男だ。通りすがりの可愛い女の子に誘われたら、思わずケーキくらいごちそうするかもしれないな」
「わぁ! ボク通りすがる、めちゃくちゃ通りすがるよ!」
「めちゃくちゃ通りすがるってなんだ……」

 まぁどちらにせよ可愛らしい子なのは間違いなかった。

「えへへ……」

 週に一度の勤務日。一年生の頃から毎週ほぼ欠かさずやってきていたのは彼女くらいだ。
 いつも最後の時間に予約を入れてきて、その週にあったことを話してくれる。部活のこと、勉強のこと。帰り道に見かけたゆるキャラのこと。最近見つけた可愛い雑貨のこと。その日がどんなに疲れていても、明るい彼女と話しているとその疲れが吹っ飛んでいくようだった。

「……。でも、先生のお陰だよ。先生が相談に乗ってくれるから、ボク……」
「急にどうしたんだ。具合でも悪いのか」
「もう! たまには感謝しないとって思っただけなのに!」
「ははは。でもたまになのか」
「あ、う、ううん、いつも……」
「……そうか」

 そんな元気が取り柄と言わんばかりの彼女でも、悩みはあった。

 きゃあきゃあと幼い子どものように騒ぐ姿からは想像できないが、これでも当時の陸上部副部長であり、短距離チームのリーダーを務めていた。中学の頃から名を馳せていた彼女は、100mHの選手として、小柄な体躯をものともせず部を引っ張っていたのだ。
 俺はあまり陸上に詳しくないが、それでも彼女の能力が高いレベルにあることは分かった。機会があり見学したことがあるが、まるで猫のようだと関心したものだ。小柄な体躯によりどうしても不利になる歩幅や高さを、持ち前のバネと柔らかさでカバーし駆け抜ける様は素直に格好よかった。
 いつだったか本人にそう言うと、驚くくらい素直に照れて俯いていた。だが、同時に影のある表情を浮かべていたのを覚えている。

「だが、今があるのは君が頑張ってきた結果だ。君は自分の力で壁を乗り越えた。先生は少し背中を押しただけさ」
「先生……」

 他愛ない会話の中で、なかなかタイムが縮まらないとは聞いていた。そしてそれは、伸びない身長のせいであるとも。本人はあえてそれを口にして気にしていない風を装っていたが、さすがにこんな仕事をしていればそれが本心がそうでないかはすぐに分かる。

「うん……ありがと」

 重圧、だったのだ。きっと。周囲の目が期待から落胆に変わる辛さに、彼女は参っていた。

 もちろん彼女の成績は優秀だった。でも、それではダメだったんだろう。将来を有望視され、鳴り物入りで入ってきた新入生は、三年になっても優秀止まりで一流には成れなかった。いわゆる強豪と言えるこの学園の陸上部において、望まれる結果を出せない辛さは本人にしか分からない。何度も退部を考えていたようだった。

「部活……ボク、やりきったんだ……」

 それでも三年生になるまで逃げずに続けることができたのは。こうして集大成として最後の大会に出場できるのは。ひとえに彼女の強い心があってこそだ。さっき口にした『自分の力』という言葉に嘘はない。
 そして、彼女が言うように、それに少しでも俺が手助けできていれば。こんなに嬉しいことはないと、本当に思っていた。

「……でも、やっぱり……」

 先生のおかげだ、と言いたげな彼女の瞳を直視できず、視線を落とす。

「……」

 普段から『優しい先生』を演じていた。上辺だけの、仕事用の仮面だ。
 だが、彼女だけは別だった。本気で気にかけていた。
 たまに来て悩みを聞いてあげる先生、ではない。あくまで俺個人として彼女に入れ込んでいた。

「……さて。大会前の大事な身体だ。日も暮れてきたし、早く帰って休んだほうがいい」
「……あ、あの、先生っ!」
「ん?」

 空は茜色。本来ならそろそろ部屋を閉めて帰る時間。
 いつも一日の最後に来る彼女を帰して業務終了。それがお決まりの流れ。俺が学園に勤めだし、彼女がここに通うようになってから、ずっと変わらないルーチン。
 いつの頃からか、彼女と過ごすその時間が当たり前になっていた。手放しがたいものとなっていた。

「きょ、今日は……その……」
「……どうしたんだい?」

 望ましくない私情の介入。公私混同。
 だからこそ慎重に育んでいた。その『仕込み』を。何としても『手に入れたい』という、許されざる黒い感情を。
 それがたとえ、法を犯すようなものだとしても。

「あぅ……えと……」

 だから、その『待ち焦がれていた』彼女の一手に内心狂喜乱舞した。ようやく『この日』が来たのだと。俺を引き留める躊躇いがちの小さな声が、全身を熱くする。
 もちろんそれを表に出したりはしない。彼女が今、何を考えているのか。知っているからこそ、優しく声をかける。俺は高まる興奮を必死に抑え、努めて紳士を演じた。

「あの……。うぅ……」

 普段の彼女からすれば珍しく、もじもじとはっきりしない態度。顔が赤いのは夕日のせいか。それまでと打って変わってこちらと視線を合わせようとせず、膝の上でまごまごと手をこねる姿はとてもいじらしい。
 そんな彼女を前に、内なる獣がにやりと牙を剥き始める。

「その……。はぁ……ご、ごめんね、先生。ボク……」
「いいよ、ゆっくりで」

 とはいえ、ここまで大人しくなってしまうとは。見た目に反してというと失礼だが、俺が思う以上に、彼女は純情であるようだった。
 ゆっくりで、とは言ったものの、この部屋を使える時間も限られている。あまり遅くなって用務員のおばさまに割り込まれるのもよろしくない。本当ならずっと眺めていたい光景ではあったが、仕方なく俺は『能力』を使い、少し背中を押すことにした。

『今日こそちゃんと言わないと』

「あ……」

『早くしないと、先生帰っちゃう』

「あ、せ、……先生……」
「うん?」

 『思考を流し込む』。彼女が今考えている思考に俺の思考を与えて上書きし、間接的に誘導操作する。
 誘導するのは、今日こそ実行するという勇気。そのための焦燥感と、自らの気持ちの再確認。

『ほら、言うんだ。言うぞ……!』

「あの……いつも相談に乗ってもらってるから……。何かお礼したくて」
「お礼? それは嬉しいが……。でも先生は、君が元気に笑ってくれていればそれで」
「そうじゃなくてっ! あ、ちが……!」
「そうじゃなくて?」
「う、うん……。ちゃんと、お礼、したいから……!」

 思考の流し込みに加え、あえて素知らぬ態度で彼女に揺さぶりをかけた。相手が理解できていないと少しムキになるのは、これまでの付き合いの中で分かっている。
 果たして彼女は、思惑通り大きな声を出して、その勢いのまま立ち上がった。

 ……もう、流し込みはいらないか。
 あまり多用するのもよくない。俺は能力の使用を切り上げる。

「いいよ。それよりもほら、あまり遅くならないうちに」
「あ……」

 何もかもを知っていて、あえて気のない態度を取る俺。その内心に気付かず、しゅんとする彼女。
 とてもいい。嗜虐心を刺激する。もっと意地悪したくなるところだが、この日の本題はそこにない。最後の詰めのため、俺は立ち上がり彼女を促す。

「ほら、小鳥遊さん?」
「~~~っ」

 思い通りにいかないもどかしさで、今にも泣き出しそうなその顔。物言いたげな瞳。身体の横でギュッと固く握られた両手。微かに震える両脚。今すぐキツく抱きしめてやりたいほど、庇護欲に駆られる姿。

「……大丈夫かい?」
「ボ、ボク、ここに来るの……迷惑、かな……!?」
「え……どうしてそんなこと」
「……っ! 先生っ!」
「うおっ!?」

 そんな必死のサインに見惚れてしまったせいだろうか。
 彼女の意を決した体当たりを躱すこともできずに、まともにくらう。こうなっては体格差も関係ない。押された勢いのまま俺は倒れこみ、それまで座っていたソファに再び縫い止められた。
 ある程度誘導していたとはいえ、想定よりも強引なやり方だ。面食らう俺に構わず、彼女は俺にしがみついたままずりずりと床にへたり込み、足元に跪いた。

「……ボク、ちゃんと勉強してきたんだ。男の人が喜ぶお礼。恥ずかしいけど……」
「な、なにをして……っ」
「あれ、は、外れない……」

 そして足の間に身体を滑りこませたかと思うと、俺のズボンのベルトに手を伸ばし、カチャカチャと外しにかかる。

「お、落ち着いて……!」
「上手くやるから……ボク。じゃないと……!」
「小鳥遊さん、ダメだ……! たかな……久織っ!」
「っ!?」

 確かに誘導した。だがそれにしても様子がおかしい。俺は声を上げその両腕を掴んで静止する。
 頭を跳ね上げこちらを見た彼女の驚いた表情。涙が幾筋か頬を伝っていた。

 ……驚きたいのはこちらも同じだ。こんなに切羽詰まった様相で行為に及ぼうとするとは思わなかった。
 この『能力』は相手の心まで読めるわけじゃない。彼女の心中を計りきれなかったのは反省材料だ。とはいえ、目的からすれば上手くいっている。俺は溜息一つで強引にそう切り替え、慎重に軌道修正を図った。

「はぁ……。どうしたんだ急に」
「だ、だって、ボク……」
「お礼って言ってたが……。これが君の考えたお礼か?」
「う、うん……」

 勢いをなくした彼女は、まるで親に怒られる子どものようで。いつも以上に幼く見えた。

「間違ってた……? ボク、ダメなことしようとした?」
「あー……。どういう風に勉強したのか分からないが、……先生にするお礼の仕方じゃないかな」
「そう、なんだ……」

 計画として予定調和といえど、実際に落ち込む彼女を見るのは辛いものがある。別に彼女を泣かせたいわけじゃない。だから俺はすぐに救いの手を出した。

「ま、まぁ嫌なわけじゃないぞ、男なら。だがそういうのは、好きな相手にするもんだ」
「好きな相手……」
「そう。だからそれはとっておくんだ。その気持ちだけで先生は嬉しかったよ」

 その言葉を、彼女がどう受け取るか。分かったうえで、フォローをする。
 顔を上げた彼女の目はまだ少しだけ潤んでいたが、見捨てられた子猫のような表情は幾分和らいでいた。

「……いい加減暗くなってきた。そろそろ……」

 口にしながら、俺はそこでようやく舞台が整った感触を得る。回りくどいやり方をしてきたのも、このためだと言えた。
 立ち上がろうとした俺の服を、縋るように彼女が掴む。
 もはや流し込む必要もなく、彼女の思考が手に取るように分かった。

「……先生、やっぱり、お礼させて」
「……。小鳥遊さん、だからそれは」
「分かってる。先生の言ったことも。ちゃんと理解してる」
「だったら……」
「だから、だよ……」

『好きな相手ならいいんだ。じゃあボクは……』

「好き……だよ、先生。ボクは、先生が好き」
「……っ」

 上目遣いの彼女からの告白。思わずこちらの心臓がぎゅうっと握られるような、すさまじい破壊力。
 準備をしていたはずなのに。いや、いくら準備していようと、頭が真っ白になってしまうだろう。そんな圧倒的なリアリティが俺を襲った。

「な……」

 本当に笑える。
 二年間準備してきた。初めて彼女がここにやってきた時から。『相手に自分の思考を流し込む』という変な能力に気付いた時から。ずっと。
 それなのにこうしていざ夢想が現実になった時。俺は半開きの口から音を出すのに精一杯だったのだ。情けなくボケっと突っ立ってるだけだったのだ。

「先生は……どう、かな……?」

 失敗しないよう、丁寧に。俺のことを信用するように仕向けてきた。
 『優しそう』『一緒におしゃべりすると楽しい』『この先生になら何でも言える』。
 そんな思考を与えてきた。彼女本来の思考と喧嘩しないように、慎重に。違和感を感じないように、少しずつ。
 慎重になりすぎて二年も掛かってしまったが。

「……」

 それでも、成し遂げた。彼女を『手に入れる』という目標を達成した。その感慨深さに全てがどうでも良くなって、全てに盲目になった。
 理性と倫理が虚しさと罪悪感を叫んでいたが、気付かない振りをした。歪な形で手に入れたものは、そう遠くないうちにその歪みから自壊する。そんな摂理など知ったことじゃないと捻じ伏せた。
 ようするに若かったのだ、俺は。

「先生……?」
「……あ、ああ。すまない、驚いてしまって」

 思えばこの時がターニングポイントだったのだろう。
 ここで思い留まっていれば、また違う未来があったのだろうか。

「先生は、……いや。俺も……好きだよ」
「……っ! ほんと!?」
「ああ。こんな嘘はつかないよ」
「じゃ、じゃあさじゃあさ、その、ボクたち、つ、付き……」
「もちろん。というか、俺でいいのか?」

 うんうん、と頭が飛んでいきそうなほど首を縦に振る彼女。

「そう、か」

 まるで自分も学生の頃に戻ったかのような、たどたどしい対応。それを格好悪いと思う以上に湧き上がる高揚感。
 酔いしれた。彼女の幸せそうな笑顔に。思い通りに事が運んだ万能感に。

「よかったーっ!」

 笑顔のままその場に崩れ落ちる彼女。マラソンを走り終えた後のように、心地良い疲労感に浸っているような、そんな表情。彼女にとっても一大決心だったのだろう。その様子を見ればよく分かる。

「ほんとはもっと早く言おうと思ってたんだけど……。もし拒否されたらと思うと、怖くて……」
「……ありがとう。嬉しいよ、そんなふうに思っていてくれて」
「ううん。ボクの方こそありがとうだよ!」

 本当に嬉しそうに彼女が笑う。触れていた身体が途端に違う意味を持つ。もはや届かない聖域ではない。手を伸ばせば、確かに感触がある。

「……先生?」
「あ、いや……。何だか現実味がなくてな」
「……うん。ボクもだよ」

 その柔らかい頬は火照っていて温かい。乾きかけの涙の跡に気付き、指で拭う。

 どんな手を使おうと、今こうして触れられることが大事なのだ。
 誰に詰め寄られたわけでもないのに、言い訳がましくそんな思考が頭をよぎった。

「もうボクの身体は先生のものだから、好きにしていいんだよ?」
「……どこでそんな言葉を覚えたんだ」
「えへへ、ドキッとした?」
「君にはまだ早い。そういうのはんっ!?」
「んむっ……! ちゅ……」

 正しかったのか間違っていたのか。それは今になっても分からない。
 ただはっきりしているのは、ここから彼女との関係が始まったということ。

「こういうこと、ボクにだってできるんだから」

 『手に入れた』だけでは満足できないことに気付くまで、そう時間はかからなかった。
 取り返しの付かない夏は、瞬く間に過ぎていく。

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