第二話『八方塞がりの舞』

 あなたは今後『ヒトイヌ』として生きていくの。
 施設の長である女性にそう言われた。
 
「簡単に言えば人を犬に仕立てあげる拘束プレイ、およびペットプレイのことね」

 そもそもヒトイヌというものに聞き覚えがなかったし、どういうものかもよく分からなかった。けど女性はそんな私の反応も想定内だったようで、「実際に見たほうが早い」と、到着早々に施設内のとある一角へと連れて行ってくれた。

「いうなればあなたの『先輩』たちよ。おしゃべりをすることはないだろうけど」

 女性の話を一方的に聞きながら、開けた広い庭にたどり着く。
 そこでは、施設に勤務する調教師であろう別の女性たちが、リードを握って『もぞもぞと動く黒い何か』を牽いていた。

「……? ……っ!?」

 私はそれを訝しげに見ていたが、女性の話と目の前のそれがリンクした瞬間、背筋がゾッと冷たくなった。
 いろんな想像が頭の中を駆け巡る。動くぬいぐるみ。よくできたロボット。未知の動物。だけど、それらは現実逃避のための願望でしかない。思い浮かんでしまった『人間』という単語が、どうしても振り払えない。まさか、と思いながらも、予感が焼きついて消えてくれない。
 その場で固まる私に構わず、女性は続ける。

「その子を犬のように、……いえ、犬として扱う。もちろん、人は犬にはなれないわ。でも、近づけることはできる。人としての自由を奪い、言葉を奪い、代わりに拘束という手段を持って自由を与える。犬としてのね。それが拘束プレイとしてのヒトイヌ」

 目の前に黒く窮屈そうな『皮』と『革』に包まれた生き物がいる。
 もぞもぞと動く黒い塊。これは……人、なんだ。人が、この中にいる。にわかに信じがたいことだけど、唯一露出した口がそれを証明してくれる。
 だけど、それだけだ。人らしさなんて、どこにもない。光沢のある、ぬいぐるみのような何か。私にはそんな風にしか形容できない。それが足元でひとりでに動いている。

「全頭マスクに、ドギースーツ。これがヒトイヌの基本。足、短いでしょ? 手足を折り畳んで固定しているのよ。こうすると手足が伸ばせないから、肘と膝を支点に動くしかない。これだけで随分と人らしい動きが奪われるの。それに見た目も、ね」

 目の前の奇怪なぬいぐるみ、もといヒトイヌは、首輪に繋げられたリードを牽かれて歩いていた。短い手足でちょこちょこと。いや、もう手とは呼べない。それぞれが、本来の半分ほどの長さしかない『四足』だ。
 手足を曲げた状態でスーツに押し込み、その上からさらに拘束する。そうして作られた雁字搦めの四つ足を使って、前足を出し、後足を出し。リードを持つ調教師に寄り添うように、この子は器用に歩いているのだ。

「全頭マスクは、個を奪う。顔というのは、人を判別する大事な要素よ。それが失われれば、それはただ人という概念でしかなくなる。余計な情報がなくなるのよ。……ちょっと難しいかしら。まぁつまりは、そうすることで人以外のものに加工しやすくなるってこと」

 顔が、表情が分からない。それだけで、目の前のこの子がどういう子なのか、何を考えどんな感情を抱いているのか、分からない。その状態であることが、都合がいいのだろうか。
 女性の言葉の全部を理解はできなかったけど、人の本質を脅かすような、恐ろしいことだということは漠然と感じられた。

「ほら、こっちよ」
「はっ……はっ……!」

 庭のあちらこちらで、散歩が行われている。リードを持つ調教師に従い、不自由な身体をくねらせ、よちよち、よちよちと。
 前はちゃんと見えているのだろうか。マスクの目の部分にはドット状に空いた穴があるから、そこから視界を確保しているのだろうけど。それでも相当見辛いように思う。
 頭の上についた二つの三角形。お尻から生える毛束。耳や尻尾といった分かりやすい記号も付いている。本来なら可愛いはずのそれも、今はただ装着者を煽っているようにしか見えない。
 人の身体を無理やり押し込めて形作った、歪な犬の姿。これはそういう拘束なのだ。

「こうしてさまざまな手段を使い、人としての尊厳を奪う。代わりに、犬としての価値観を与える。犬の振る舞い。主従関係。まるで本当に犬なんじゃないかと錯覚するような。いえ、そうさせるための調教。それがペットプレイとしてのヒトイヌ」
「……」
「でもそこまでなら、まだプレイで済む。お遊びで終わる。……ふふ。だけど、ここはそうじゃないの。もうあなたは分かっていると思うけど。作るのは遊びのヒトイヌじゃない。本物よ。この施設は『そういうところ』」

 目のあった女性の瞳に吸い込まれそうになる。喉が渇いて痛い。緊張が伝わったのか女性はふっと笑い、私に問いかけるように続けた。

「拘束と、調教。人として生きることを許されず、犬としての自分を歓迎される。逃げ場のない状況で、それが延々と続くの。するとどうなると思う?」

 目の前のヒトイヌはしばらく歩いた後、リードを牽いていた調教師から「よしよし」とその頭を撫でてもらっていた。それに対して彼女は逆らうでもなく、むしろ拘束され不自由な身体ながらも、精一杯にお尻を振って喜びを表現していた。犬として扱う調教師に、感謝すら抱いているように見えた。

「次第にその子の中で『自分』という在り方が変貌するのよ。種族として『ヒト』でありながら、存在として『イヌ』となる。矛盾した哀れで愛おしい生き物。それがヒトイヌ」

 朗々と響く女性の声は、呪詛のように私の脳を犯していく。

 私の考えは甘かった。単なる隔離じゃない。女性が、この施設が行っていることは。これから自分が受けるプログラムの本質は。
 社会的に、合理的に『ふたなり』を排除するだけじゃない。どこかの偉い人たちの都合のいい玩具、実験動物として、存在そのものを作り変えてしまうものなのだ。

「『ふたなり』の隔離施設はいくつか種類があるけど、そのほとんどが5年以内生存率が20%以下。まぁ世間的に隔離施設は『処分場』と同義だから、生存者がいる時点でおかしいし、公表はされていないんだけどね。まぁそれはそれ」

 蠱惑的に微笑む女性。施設の長として、いったいどれだけのふたなりを受け入れ、ヒトイヌを創り、見送ってきたのだろう。
 過去を微塵も窺わせない微笑み。親しみやすく話してくれるのは性格なのか、それとも仕事上の仮面なのか。

「で、そんな中でも、実はうちだけ60%を超える。よかったわね。ここはとても優しくて……残酷よ」

 どちらにせよ、その言葉はとても、とても重く響いた。

「……」

 いつの頃からか、社会から排除される存在となったふたなり。保健所の犬猫のように、殺処分をただ待つだけの存在。異物。
 そんな中で、処分されることなく生かされているふたなりもいるのだという。しかも、私が入れられたこの施設では、そんな生き長らえているふたなりが大半だという。それはどういうことなのか。明確な答えを前に、めまいがする。

 ヒトイヌとしての需要。どういう用途かは分からないけど、きっとまともなものは一つもない。それだけは分かる。
 例えば愛玩動物として弄ぶのだろう。簡単に言えば人身売買。公に認められたふたなりという材料を仕入れて、ヒトイヌという商品に加工して出荷していく。そんな世界が、まかり通っている。

「……少し同情するわ。ふたなりってだけで。多少他人と違うからって、問答無用で除け者にされるなんて。可哀想」

 淀みなく言葉が紡がれる。特に深刻そうでもなく、軽く語りかける口調。だけど、だからこそ着飾っていなくて、本当にそう思っているんだなと感じられた。

「でも、諦めてね。私達より先に生まれた人たち皆が、そういう世の中を作っちゃったの。遅れて生まれてきた私達は、それに従うしかない。ふたなりは忌避される存在。発見次第殺処分。そうやって決められたルールに、従うしかないの」

 それが分かるからなおさら、重いのだ。偽善が割り込む余地はないのだと、女性はもう割り切ってしまっている。口にする憐憫はただ良心の残り香でしかない。出てくるのは、どこまでも女性の信じる真実しかない。
 そして、この施設の長である女性の真実は、そのままここに在る真実と同義だった。

「さようなら、神裂瑠希奈(かんざきるきな)さん。これからはヒトイヌのルキナとして、地べたを這いずり回って生きてね」

 こちらに伸ばされた手を、避けられない。「もう逃げられないぞ」と誰かに縛り付けられているようで。
 ただ乾いた唇だけが、「あぁ……」とよく分からない感情を吐いた。

「愛しているわ」

 首元にちくりと痛みを感じて。
 私の意識は途切れた。

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