第五話『変わりゆく日常』

 チュン……チュン…………。

 ……うぁ。

 あ、朝……か……。
 今、何時……?

 ……5時、か。
 そりゃ目覚ましもならないよね……。
 はぁ…………。

 ん……トイレ……。

 チョロロ……。

「はぁ……」

 トイレに行ったら、目が覚めちゃった。
 結局ほとんど寝れなかったなぁ……。
 とりあえず朝ごはん作るか。
 お父さんもお母さんも、そのうち起きてくるだろうし。

 そんなことを思いながら、1階のダイニングキッチンへと降りて行く。

『……のふたご座は、我慢を強いられる日。肩肘張らず、素直な気持ちで……』

 BGM代わりに、テレビの電源を入れる。
 昨日見ていたチャンネルそのまま、朝の占いコーナーが流れる。
 こんな朝早くからお仕事ご苦労様です。
 いったいどんな生活リズムなんだろう。

 ジャーッ……ジューー……。

「えーと、卵……塩と砂糖とお出汁と……。お父さんのには海苔とスルメ……」

 いつもどおりフライパンをガスコンロに掛け、卵を落とす。
 お弁当にも詰めるから、少し多めだ。
 お父さん用の卵焼きは、無駄に一手間掛かる。
 でもお料理自体は好きだから、苦に思うことは無い。
 それに誰かに食べてもらうのは嬉しいし。
 まぁ友達にはちょっと不評なときもあるんだけどね……。
 なんでだろ。

「あ、レタスがもうない……まぁお父さんのは水菜でいいや」

 おばあちゃん家から大量に送られてきたんだよね。
 ちょっとお皿の盛り付けが変な感じだけど、大丈夫大丈夫。
 あ、食パンセットしないと。

「あ゛~~~~おはよ……」
「…………ぁよ……」
「お、おはよう」

 5時半を過ぎたあたりで、我が家に超低血圧な魔獣が1匹降臨する。
 お父さんはまだ頭をボリボリするくらいには起きてるけど、お母さんは完全にKO寸前のボクサー状態だ。
 陽の光を浴びていろんな意味で灰になってしまいそう。

「ほら、ちゃんと座って」
「うぇー……」

 二人が席に付いた頃に、チン、とトースターが仕事を終える。
 小麦色に焼けた食パンにバターを塗って、片方はブルーベリージャム、もう片方はお砂糖を山ほどかける。
 雪のように白く染まって見るからに甘そうだ。
 こんなものを朝から食べる人はろくな健康状態じゃない、と思うけど、残念ながら食べる人はうちのお母さんだ。

「はいお父さん、ジャムちゃんと塗ったからね」
「あーありがと……」
「お母さんもほら」
「うぇあー……」

 意味不明の返事と共にまるで怪獣のように貪り食うお母さん。
 二人が食事をするあいだ、私は3人分のお弁当を用意する。
 今日はさっきの卵焼きと、……んー、ミートボールにしようかな。
 それと、前にもらったりんごも余ってるし、ウサギさんも入れて……。
 友達には「……遠足みたいだね」とかって言われるけど、好きなんだからいいんだもん。

 お父さんはようやく目が覚めてきたようで。

「おお、これこれ、やっぱこれだなー」

 とか言ってあの玉子焼きを口に入れる。
 ……まぁ、味付けは悪くないはずだけど、自分で食べるにはちょっと抵抗あるな。スルメ入り卵焼き。

 お母さんはお母さんで、砂糖をジャリジャリさせながら黙々と食パンをかじっている。 これでなんでこのスタイルの良さを保っていられるのか。
 小柄な私とウエストがあまり変わらないのは、どういうことだ。
 十数年この人の娘をやっているけど、いまだに謎だ。

「……って、二人ともそろそろ準備しないと!」

 ふと目をやったテレビの時刻表示は、2人が家を出る10分前をさしていた。

「ん? ……まだ5時50分じゃないか」
「家出るの6時でしょ! まだパジャマのままで何言ってるの!」
「んー……まぁそうか。ほら、冴子、支度するぞ」
「……んぁー」

 3枚目の山盛り砂糖トーストを途中で取り上げられ、引きずるようにして洗面所に連れて行かれるお母さん。
 しばし部屋の中に単調な生活音だけが流れる。

 ……そして5分後。

「おっはよー! きぃちゃん! 今日も超絶に可愛いわねーーっ!!」
「ふぎゅううううっ!?」

 完璧にスーツを着こなしたキャリアウーマンが、無抵抗な私の身体にまとわり付く。
 ああ……毎朝いったい洗面所で何が行われているのか……。

「貴子……今日も遅くなると思うけど、達者で暮らせよ……」

 後ろから寝起きとは違う理由でテンションの低いサラリーマンが出てくる。
 ……分かったから早くこの猛獣を連れて行ってください。

▼

「さてと……私も着替えようかな……」

 両親を送り出したあと、手早く洗濯などを終わらせて、私も学校へ行く用意を始める。
 汗をかいたり汚したりするのが嫌だから、制服に着替えるのはいつも家事を終わらせてからだ。

「で、着替え……るのはいいんだけど……。そういえば、登校前に開けてって言われてたな……」

 自分の部屋へ行き、ハンガーに掛かる紺のセーラー服……ではなく、隅に置かれた紙袋を見る。
 それは、あの日の帰り際に、お姉さまから頂いたもの。

『ま、入門編ってことで。どう使うかは任せるわ』

 そういって渡されたのだ。

「その中身が……」

 袋から取り出されたのは、新体操のユニフォームのような形のラバースーツ。
 それと、包帯がひとつにピンクローターがひとつ。
 アナルパールに小物の入った巾着袋。
 最後に。

「……どうみても、首輪、だよね……」

 中・大型犬用と思われる、赤い革で出来た首輪。
 割と細身なデザインで、なんとなくおしゃれなチョーカーかな、とも思えるけど、やっぱり首輪は首輪だ。

「どう使うかは任せるって……」

 はぁ……とひとつ溜息。
 どうもなにも、使い道はひとつしかないじゃない。
 ……学校で、気持ちよくなる。
 そのために渡された道具でしょ?

「…………とりあえずこれ着よう」

 答えの決まっていることに悩むのも時間がもったいないのでひとまず諸問題は横に置いておいて、床に広げたラバースーツを手に取った。
 色は黒く、キュッと手になじむ。
 ウェットスーツを思い出すけど、ゴムの厚みが違う。
 これだと身体のラインが出ちゃうよね……。
 ……まぁこの形なら全部制服に隠れるし、大丈夫かな?
 学校に着ていくのはどうかと思うけど。

「あんまりのんびりもしてられないし……」

 余裕があるとはいえ、登校時間は迫っている。
 意を決して寝間着および下着を全部脱ぎ去った。
 そういえばあの夜もここで全裸になったっけ。
 大して前の話でもないのに、すごく昔の出来事のように思える。
 そんな感慨深いものを感じながら、ジッパーの開いた背中側から脚を入れていく。

「……ち、小さいなぁ……」

 ラバーだから多少キツキツになるとは思っていたけど……。
 着るだけで一苦労だよ、これ。
 ふくらはぎや太ももを通しながら、何とか穿き終える。
 脚の先まで包むタイプだともっと時間掛かるんだろうなぁ。
 腰まで上げたところでそんなことを考える。
 今のところ背中のジッパーが開いているおかげで、締め付け具合はまだマシだ。

 少しだけ背中のジッパーを上げて、次に腕をラバーの中に収めていく。
 見た目からしてわかってたけど、やっぱりきつい。
 ラバーの摩擦力がすごいから、キュッキュッと音を立てるだけでなかなか先まで入っていかない。

「こんなの入るかな……。もうちょっとすべりが良くなればいいんだけど……あ」

 もしかしてわざと小さいサイズを渡されたんじゃないよね?
 あの人だとありえそうだからなぁ……。
 片腕だけ突っ込んだ中途半端な体勢でどうしたものかと悩んでいたら、ふとさっき取り出した巾着袋に目がいった。

「ん? もしかしてもしかして……」

 ……というかそれしかないよね?
 そんなご都合的な確信を胸に、片手でまさぐるように袋の中身を調べる。
 中には果たして、それ用に入れたと思われる潤滑剤が収められていた。やったね。

「……でも逆に言えばこれ使ってでも絶対に着ろってことだよね……」

 お姉さまの意味深な笑顔が脳裏に浮かびながらも、ローションを腕に塗りたくり、ラバーの中にも少し垂らしていく。
 さっきよりすべりが良くなったおかげで、ラバーを引っ張りながらもなんとか両腕とも通すことに成功した。
 ついでといってはなんだけど、ジッパーを上げることも考えて上半身にも軽くローションを馴染ませておく。

 あ~ぬるぬるするよ~……。
 朝から変な気分になりそう。

「……そんなこと考えてる時点でアウトっぽいけど。って、ん?」

 身体の前や肩口を密着させようとしてグイッとスーツを持ち上げたときに、胸の辺りに変な切り込みがあるのに気付いた。
 さっき見たときは気付かなかったくらい小さな穴だけど。

「わ、破いちゃったかなぁ……どうしよ……ん? あれ……?」

 人様から頂いたものだけに一瞬ヒヤッとするけど、でもどこにも引っ掛けた覚えはない。
 しかも、この穴の形と場所、なんか嫌な予感する。
 それに二つも開いているとなると……。

「……ああ、やっぱり」

 一瞬でも焦った自分が馬鹿だった。
 お約束というか何というか。
 ぴったり合わせるとそれは予想通りちょうど私の胸の先端に来て、桜色の突起をくびりだすようにスーツの外へとはみ出させるのだった。

「ん……そういうことよね…………そういうことよね……」

 何故か二回も同じことを言ってしまった。
 真っ黒のラバースーツの中、乳首の色が変に目立つ。
 それに、ラバーの締め付けるような刺激によって、瞬く間にコリコリとしこってしまう。
 それがまた外気の流れを敏感に感じ取ることになり……。

「こ、こんなことで負けないから……!」

 勝ち負けの問題?
 ……と、一人突っ込みはともかく。

 スパイラルに陥る前に気合を入れなおしたところで。

「あ、そういえばローター忘れてた……」

 袋からはみ出たピンク色のそれが目に入る。

「あんまり気が進まないけど……入ってる以上は身につけろってことだもんね……」

 それにしても我ながら聞き分けが良すぎる気もするなぁ。
 リスクを背負うのは自分なのに。
 しかもどこか期待していたりして……。

「……どうせ変な格好で露出プレイする変態ですよーっだ」

 自分で勝手に免罪符を作っておく。
 幸いにしてリモコンはこちらにあるし、お姉さまから遠隔操作で動かされることもないだろう。
 私自身が、動かさなければいい。異物感はすぐ慣れる。
 何も危ないことはない。簡単な話だ。

「うん。触らなきゃいいだけ。動かさなきゃいいだけ。気にしなけりゃいいだけ……!」

 確固たる意思を何度も確認しながら、袋からローターを取り出す。
 見た目は本当におもちゃにしか見えないのに……。
 うわ、このアナルパール振動するタイプだ。
 ……へーどんな感じなんだろ。
 私持ってないしなぁ…………じゃない!
 ぜ、絶対動かさないんだから……!

 ……ゴホン。
 えー、ローターひとつにパールひとつで、だから……。

「後ろと、……お豆?」

 分かってたけど、な、なんという鬼畜チョイス……!
 動けば完全に悶絶するパターンじゃあないですか!

「とりあえず……ジッパー上げ切る前に気づいてよかった。何とか入るかな……」

 さっき使ったローションが再び登場。
 お尻の割れ目からお股の下をすべるようにして右手が入り込む。
 手に乗せたローターがアソコを通過するたびに「んあっ」とか「ふんっ」とか声が出てしまう。
 そのうちにクリトリスも自己主張を始めて、ラバーとの摩擦に腰が引けそうになる。
 その突起にローターを押し付けて、そこに置き去りにした。

「んああああっ!」

 手の隙間がなくなった途端、先ほどまでのキツキツな締め付けが戻ってきて、ローターを容赦なくクリトリスへと押し付ける。
 グチュッと押しつぶされたクリトリスからは慢性的に鈍い痛みと快感があふれ出して、足に力が入らなくなる。

「こ、こっちも入れてしまわないと……」

 悶える身体に鞭打って、今度はアナルパールとお尻の穴にローションを塗りたくる。
 今までにも拡張経験はあるから、細身のパールを入れるくらいならわけない。
 指で入り口を丹念にほぐしながら、パールをプツリ、プツリと飲み込んでいく。

「ふわっ……ん……あ……ひぅ……っ」

 一つ玉が入るたび、コリュッと入り口が抉られて、背筋がゾゾゾッとする。
 意識せず中の玉を締め付けてしまったりして、余分に悶えてしまった。
 全て入った頃には、身体を串刺しにされているような気分になり、ただでさえローションでべたべただった股間がさらに潤いを増していた。

「ふーっ……ふーっ……」

 作業が終わっても、与えられる鈍い快感は終わらない。
 打撲の痛みを堪えるように肩で息をし、波がおさまるのを待つ。
 ……落ち着けば大丈夫。
 そう言い聞かせながら、次は背中のジッパーを引き上げていく。
 ジッパーにはご丁寧に小さなチェーンが付けられていて、自分で上に上げやすいよう配慮されていた。

ジジジジジ……。

「んっ……はぁ……また、こ、声が……」

 ジッパーを上げるにつれて、上半身がきつめの締め付け感とともにラバーに包まれていく。
 肺の空気が漏れるのと、ラバーと素肌とのあいだで蠢くローションのヌルヌルで、思わず声が漏れる。
 ああ……私、朝っぱらから何やってるんだろう……。
 こんなの着て、悩ましげな声漏らして。
 おもちゃ突っ込んで、乳首も丸出しだし。

「ん……もうちょっとで閉まる……」

 素に戻ればげんなりしてしまうので、無心で身体を締め上げる行為を進める。
 ラバーは首上まで続いていて、ジッパーもそこまで上げきらないといけない形だ。

「はふう……んぅ……」

 ジジジ……。

 そういえばこれ、制服着ても首は見えちゃうよね……。
 首輪のこともあるし、どうし――。

 ボキンッ!

「……え゛」

 …………なんか変な音した。

 いやいやいやいや!
 絶対しちゃいけない音したよね!?

「……ええと?」

 うわわわ!
 すっごく嫌な汗出てきた!

 何が起こったのかわからないけど、起こったこと自体は分かるから身体が先に反応してる。
 というか私の右手が一番よく分かってる。
 そんな……そんな……。
 嘘よね!?
 この右手の中の感触は……!

「まさか……ねぇ……?」

 分かりきってるくせに、律儀に握り締めた右手を開いていく。
 そこには今まで引っ張っていた小さなチェーンと。
 ……その先にばっちりジッパーの部品が。

「はう……」

 バタッ。

 朝日差し込む部屋の中で私は見事に失神して見せた。

▼

 結局あの夜、お姉さまという檻に囚われた私は、いくつか決まりごとを決めて家に帰ってきたのだった。

「最初に言っておくけど、本当に嫌だったらちゃんと言ってね。嫌がるあなたを無理やりってのも萌えるシチュだけど、あたしはきぃちゃんが気持ちいい顔するほうがもっと好きだから」
「……はい」
「でも自分に嘘ついたお返事ならかまわずやっちゃうわよ。ホントはしてほしいのに、恥ずかしくて言い出せないときとか。……ま、それを自分から言い出させるのが楽しいんだけどさ」

 ふふふ、とお姉さまが妖しく笑う。
 実際に「やっちゃう」ときも、こんな顔で笑うんだろうな。
 考えただけでぞくぞくする。
 それはまさに、調教されるってことだよね……。

「じゃあいくつか約束事決めようか。仮にもSMするんだから、ちゃんとしとかないとね」
「あ、はい」

 そう言ってお姉さまはノートパソコンの電源を入れる。
 白い光沢を放つそれは、主の命令を受けてOSを起動させる。

「メモ代わりね。手で書くのめんどいし」
「いいな……パソコン」
「あれ、きぃちゃん持ってない?」
「いえ、持ってはいるんですけど……。ただ、お父さんのお下がりだから、型が古くて……」
「あー……まぁ新しいのが欲しくなるのは当然の心理よね。……そうだ、今度あたしが買ってあげようか?」
「本当ですか!? うれし……って、ダメですよ! そんなの悪いです!」
「いいわよそれくらい。それならまたどこか買い物に行きましょう。そこで好きなの買ってあげるから」
「わぁ……! って、だ、だめだめ! そんな甘えちゃ……でも……うーん……」
「……あなたのそういうとこ好きだわ~」

 私の葛藤する姿を見て苦笑しながら、お姉さまはマウスを操作しアプリケーションを開いていく。
 デスクトップには仕事関連だろうか、難しい名前のファイルがたくさん並んでいた。
 申し訳程度しか使いこなせない私にはなんだか新鮮に映る。

「さて、まずはセーフワードを決めましょうか。いわゆる強制終了の一言ね。どんな状況でも、その言葉を言えば直ちに全ての行為を中止することになるわ」
「セーフワード……」
「『SMプレイ』には必須といってもいいくらい重要なものよ。ともすれば命にも関わるようなことをするんだから、その必要性は分かってもらえると思うけど。あたしもそれなりに見極めは出来るつもりだけど、やっぱり万が一ってこともあるしね。……でも、あくまで最後の逃げ道だから、安易には使っちゃだめよ。本当に自分にとって重大な損害を被ると思ったときに、その言葉を使って。ま、単純にあたしに愛想が尽きた場合でも使っていいけどね」

 あはは、とお姉さまは笑うけど、たぶん半分本気で言ってると思う。
 行為や関係そのものをキャンセルする言葉。
 その言葉が背負う責任は、重い。
 でも、信頼関係を維持するには、必要な重さ。

「……でも、決めるって言っても、どんなのにすればいいか……」
「そんなに難しく考えなくてもいいわよ。要はお互いそれがセーフワードだと認識していればいいんだから。ただ、日常生活やプレイ中に口にするような言葉はやめましょうね。紛らわしいし」
「それはそうですね……うーーん……」

 セーフワードか……なにかあるだろうか。
 性格だと思うけど、こういうことを決めるのは本当に苦手だ。
 特に「なんでもいいよ」といわれたとき。
 変に自由だと、逆に悩んでしまう。
 適当に答えるわけにもいかないし。

「うーーーーん……」
「あはは、ホント真面目ねぇ……何でもいいのよ? 例えば『地獄に堕ちろファッ○ン野郎』とか『肥溜めに浸かりたい』とか」
「そ、それはどうかと……」

 どんなセンスだ。
 さすがに「何でもいい」の範疇を超えてる気がする。

「じゃあねぇ……『私を一生可愛がってください』」
「それじゃどっちの意味かわかんないじゃないですか!」
「やーね。冗談よ」

 クスクスとからかうように笑い転げるお姉さま。
 ダメだこの人……、早く何とかしないと。

 ……もうこれは自分で決めなさいってことだよね。
 うーーん……。

「…………じゃあ……」
「ん、決まった?」
「『私の前から消えて』」
「……」
「……」
「……えらく直接的ね」
「……もうぜんぜん思いつかなくて」
「……まあいいけどね」

 分かってたよ。微妙な空気になるだろうってことは。

「一応生まれてから一度も口にしたことないから、普段会話で使うこともないと思ったんですけど……」
「わかったわかった」

 フォローもなんだか空しい。
 だから本当に苦手なんだってば。
 なるべくその言葉自体に同じ意味が含まれていたほうがいいかな、とか。
 なるべく普段使わない言葉ないかな、とか。
 いろいろ考えたんだけど。

「他は何かないの?」
「うーん……ないことも、ない、ですけど……」
「何よ、はっきりしないわね」
「……あ、あともうひとつだけ、思い浮かんだのが……」
「お? いいじゃない。それも聞かせてよ」

 言わないでおこうかと思ったけど、もうこうなったら一緒だろう。
 半ばやけくそ気味に打ち明けてみる。

「笑いません? ……いや、笑ってくれます?」
「?……ごめん意味がよく分からないけど……とりあえず聞かせて?」
「……『犬がいぬ』」
「……」
「……」
「……うん」

 ほらーーーっ!
 こういう空気になったーーーーっ!!

「い、『いぬ』って、方言で、帰るとか、どこかにいくとか、そういう意味があるんですけど……!」

 慌てて説明をする。

「…………へぇ……ダジャレかぁ……むぅ……」

 でもダメだった。

「……」
「……いざというときの空気が心配だし、ボキャブラリーも限界だろうから、もうさっきのにしときましょうか」
「ですよね!」

 というわけで私たちのセーフワードは『私の前から消えて』に決まった。
 ちなみに声が出せない状況の時は、一定間隔でゆっくり首を左右に3回振ることとなった。

 ワードソフトにセーフワードが書き込まれ、空白が少し埋まる。
 その後は入れなおした紅茶をすすりながら、細々としたことを確認していった。

 これから夏休みまでの一週間、学校帰りにお姉さまのマンションへお邪魔すること。
 両親は帰りが遅いので、夜ご飯を含め心配はない。
 万が一泊まりになる場合は連絡すれば大丈夫だろう。

 夏休みに入ったら、本格的にお姉さまのところにお邪魔する。
 一ヶ月と半分、みっちり調教される……らしい。
 両親には合宿やイベントの準備とでも言っておこう。
 さすがに怪しまれそうなので、間あいだで連絡する必要はあるだろうけども。

 そして夏休みが終わるまでに、いずれかの進路を決める。
 お姉さまとの関係を続けるのか、絶つのか。
 就職するのか進学するのか分からないけど、関係を絶つのならいろいろ準備をしないと危ない時期だ。
 それか、完全にお姉さまに依存して暮らすのか。
 それを決めないといけない。
 でもその選択について絶対強引な手段は取らないし、何か必要なことがあれば何でも相談して、と言ってもらえた。

「あと彼氏なんか作っちゃ嫌よ? 処理が面倒くさいし。それと常に私の用事が最優先。家族のやむを得ない用事なら仕方ないけどね」
「わ、わかりました……」
「……ま、当面はこんなところかしら。なんかあればまた追加すればいいでしょ。あとプレイのことは追々、ね」
「わかりました」

 ふぅ、と一息ついたお姉さまは、画面のアイコンをクリック。
 隣にあるプリンターがガッコンガッコンと騒ぎ出した。

「そのうち奴隷誓約書みたいなのも書いてもらおうかなー」
「う……」
「それに、これはあくまで『夏休みのあいだ』の『プレイ』に関することだからね。もしあなたが私についてくる決断をすれば、もうプレイなんかじゃない。完全に『生活』としてのルールを叩き込むから」
「うう……」
「あーら。その顔は『今すぐにでもして欲しい』って顔かな~?」
「え、ち、ちがっ……!?」

 ……そんなこんなで確認事項は
 最終的にプリントアウトされて私の手元にある。
 そのときに「ああ、こうやって渡すためにパソコンで書いたのか」とか変に納得したんだけど、まぁそれはどうでもよくて。
 帰り際にその紙と一緒に渡されたのが、あの紙袋だったのだ。
 次の登校日の朝開けてねと言われたので、部屋の隅においてあったのだけど、まさかというかやっぱりというか中身はご承知の通り。
 というわけで現在に至るわけです。

▼

 目を覚ましたとき、慌てて時計を見たけど、どうやら数分しか経っていないようで激しく安堵した。
 とはいえジッパーが壊れた事実は変わらないわけで、横目で見た鏡越しの私はなんとも哀愁漂う顔をしていた。

「……とりあえずお姉さまに言うしかないか」

 こうなってしまったものは仕方がない。
 とにかくこれでラバースーツも自分では脱げなくなってしまったのだし、かえってこれを着て学校へ行く踏ん切りがついたと考えよう。
 ……うん。

「……制服着よ」

 どのみち結果は一緒。放課後までの我慢。
 そう自分に言い聞かせながらセーラー服を羽織り、スカートを穿いていく。
 ラバースーツを着ているし、下着はいいだろう。
 胸の先が擦れるけど、もう無視無視。
 上下着替え終わると、予想通りというかなんというか、ラバーを着ているなんて外からは分からない。
 腕を上げればお腹の辺りが見えてしまうので注意が必要だけど、元々学校でも大人しいキャラで過ごしているので大丈夫だろう。
 スカートもちゃんと膝まであるし。
 どこにも見つかる心配はない。首を除いて。

「こればっかりはなぁ……」

 首をほとんど覆う黒いラバーは、流石にごまかしようが無い。

「あ、首輪もあったんだ。……とりあえず着けてみよ」

 ラバースーツの件で吹っ切れたというか、怖いものなし状態の私は、特にためらいもなく首輪を装着した。
 首まで覆うラバーの上から首輪を巻いて、ベルトを締める。
 首がキュッと絞まる感覚だけは、今の私でもさすがに胸がきゅんとなってしまった。

「ああ……可愛いけど……可愛いけど、問題は悪化してる……」

 鏡に映る、首輪を巻いた自分。
 遠めで見ればかろうじてタートルネックっぽい感じだった首周りも、
 今や完全に「何着けてんだろ?」状態だ。
 そもそも学校でもアクセサリー類は禁止されてるし、そんなキャラでもない私が着けていったら、目立つこと請け合いだ。

「……で。さっきからまさかまさかと思ってたけど、やっぱりこれしか方法がないのかなぁ……」

 今まであえて放置していたそれを手にとる。
 何の用途に使うのか分からなかった、包帯。
 おそらく今こそ使うべきときなんだろう。
 身の入らない手つきで、実際に首周りに巻いてみる。
 すると部分的にもっこり膨らんだ白い首が出来上がった。
 包帯を巻いて、首輪ごとラバーを隠すってわけだ。
 本当はスカーフとかストールでも巻ければよかったんだけど、学校に行けば朝一で取り上げられてしまうだろうし。
 今のところはこれが限界かな……。

「……ちょっと、首ひねっちゃって」

 鏡の前で、「怪我したから包帯巻いてるのよ」キャラの予行練習をしてみる。
 ……どうだろう?
 自分で言うのもあれだけど、結構苦しい気がする。
 首輪ごと首全体を包帯で巻いて、ちょうどその膨らみがギプスに見えないこともない、……とは思うけど。

「……もう覚悟決めるしかないか」

 時間も無限にあるわけじゃないし。
 カバンを持って、そそくさと一階へと降りる。
 テレビの時刻表示が、そろそろ家を出なさいと警告しているのを確認し、電源を切った。
 これ以上悩んでいても結果は同じだろう。
 あとは皆が華麗にスルーしてくれるのを期待するだけだ。

「うん。いってきます」

 誰もいない部屋に向かって、一言。
 戸締りを確認し、溜息をついて。

「ま、なるようにしかならないか」

 あの一件で度胸が付いたのだろうか?
 私にしてはまだ前向きな思いを胸に、学校への道を歩き出した。

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