俺と久織の蜜月。それは唐突な幕切れを迎えた。 浮かれたような調教デートに割り込んできた、学年主任の至極真っ当な糾弾は、俺たちを現実に引き戻すのに十分だった。 喚きたてる甲高い声。それをどこか遠くに聞きながら、「ああそうか」と、不思議なくらい素直に納得していた。残念だとか、苛立ちだとか、そんなものより先に、何故かホッとするような、そんな感情が全身にリフレインしていた。 何を納得していたのか、どうしてそんな感情を抱いたのか、もはや自分でも曖昧だ。ただ、『終わった』のだと、そのことだけが妙にクリアに感じられた。 それから、緊急的に自宅謹慎を命じられ、家に閉じこもるようになった。 あの日々のことを思い出しながら過ごす毎日。なのに思い出せば思い出すほど、その記憶はどこか現実感がなくなっていった。 本当にあったことなんだろうか。 生きるのが嫌になった末に見た幻想だったんじゃないか。 そんな風にすら思えた。 「私個人としては、当人同士の情事に口を挟むつもりはない。当学園としても、異性交遊を禁ずるような古臭い考えはない」 出口のない感情の停滞は数日経っても続いた。 満を持して理事長室に呼び出された際も、ただうわの空で事務的に話を聞いていた。 「だが、君と彼女の立場の違い。そして公共の場での、ああいった行為。君も一端の社会人だ。事態は理解できるだろう?」 聞こえてくる言葉がやけに遠く感じる。 まるで他人事のようだ。 考えようによっては、だからこそ冷静でいられたとも言える。言葉の意味も、とてもよく理解できる。回りくどい言い方が煩わしいくらいだ。 責められて当然だった。これは犯罪なのだから。いい大人が学生に手を出し、好き勝手に弄んでいた、その行為の善悪は、火を見るより……。 ……そんなこと、自分が一番よく分かっていた。 「ともかく、これは軽い処分では済まされない。君個人の問題ではない。当学園としても、信用問題に関わる。厳正な対処が必要だ」 いや、冷静なんていうのは、取り繕った言い方だ。 俺は空虚だった。抜け殻だった。何もなかった。 今まで積み上げてきたものが一気に崩れ去った虚しさ。無気力感。こうして立って話を聞いているのが不思議なくらいの脱力感。 ゆえに、取り乱さず話を聞いていられたのだ。自分の進退すら、もはやどうでもいいと。どうにでもなれと。諦めきったからこその平静を纏って。 「と、本来なら言うところだがね」 だからだ。 目の前から放たれた、毛色の違う言葉を受け取るのに、タイムラグがあった。 そしてその意図を理解するのに、さらに時間を要した。 「幸い、今回の件を知る者は内部でも一握りだ。不思議と世間からの通報や問い合わせの類もない。あー……、一部、厳正なる制裁をと申し立てる声もあったが……」 次第に歯切れの悪くなる声。話が思いもよらぬ方向へ転がりだしたと気付いたのは、目の前の『理事長』がふと視線を外し、防御力の低そうな頭を掻きだした頃だ。 「君も大人だ。ほら……分かるだろう? 何事にも、体裁というものがある。どこも、埃は隠せるものなら隠しておきたいものだ。それは当学園も例外ではない。ようやく全国的にも名が知られ始めている。この大事な時期に、スキャンダルを出すわけにはいかない」 何を言いだすのだろう、この爺は。 そんな気持ちがないではなかった。だが、口に出すことはしない。表情に出すこともない。 ただ、幾らかの打算的な思惑を薄っすらと頭の片隅に浮かべながら、俺は色味のない声で「はぁ……」と返事をした。 「処分については、追って連絡する。だが、君にとっては悲観するほどのものにはならないだろう。最低限、形だけの処罰はあるだろうが……」 一回り歳の離れた未成年との不純な関係。公共の場での淫行。そして将来有望な学生を傷物にするという、良識ある大人として最低な行為。 それは、言い逃れする気も起きない罪。『能力』など使うつもりもなかった。俺は、何もかもを認め、償うつもりだった。 それが、裏切られた。 「まぁ、そういうことだ。とりあえず今日はこれで帰りなさい。今回の件については、大人しくしていてくれれば丸く収まる」 後から思えば、俺はまさしく大人の事情というものに救われた……のだろう。 「そもそも君の仕事振りは評価されていたし、生徒たちからの評判も良かったからね。悪いようにはしない。それに……」 しかし、それを喜ぶ余裕など、ありはしなかった。 乖離していく。自分の認識と、社会の認識。 分からない。分からないのが気持ち悪くて、次第に吐き気がする。 大人の事情。助かったのかもしれない。何故だ。そもそも、助かるとはなんだ。俺のやったことは。それに、あの子はどうなる。 久織の、気持ちは……。 「それに、これは君に言うべきことではないかもしれんが……。さる筋からの指示があってな。君を悪く扱わないように、と」 言葉だけがリフレインして、意味が溶けて消える。 ぼそぼそと周囲を気にしたような耳打ち声も、次第に頭に入らなくなる。 「さ、話はこれで終わりだ。……くれぐれも変な気は起こさないようにな」 染み付いた動きで頭を下げ、無駄に重厚な扉を開ける。 虚ろな目でかろうじて前を見ながら、誰もいない廊下を機械的に歩く。 もういい。 とりあえず、眠ろう。 段々酷くなる吐き気と胸のムカつきが全てを億劫にしていく。 何も考えたくない。今はただ、静かに眠りたい。 「……」 だが、それでも。 『さる筋からの指示』。 その言葉が。 その言葉だけが。 イヤフォンのコードのようにごちゃごちゃと絡まっていた思考の中で、ただ一つだけはっきりと理解が及んだ。 「あぁ……」 だから。 罪の意識から塞ぎ込んだ俺に『彼女』が訪ねてきた時も。 学園を辞め、その後独立開業するときに『彼女』が手助けしてくれた時も。 感謝こそすれ、さほど驚きはしなかったのだ。 ▼ 「久しいね」 「ええ、俺にとってはそうですね」 「また少し大きくなったかな」 開業前の清心クリニック、その事務室。 『歳を取らない』彼女と対話した日のことをよく覚えている。 「いい加減なことを言わんでください。俺ももう30半ばですよ。それに貧乏だし。縦にも横にも大きくなる余地はないです」 「ははは。相変わらず自虐だけは上手いね」 「それだけが取り柄なんで」 あの事件の後。 結局、俺は自主的に職を辞した。 あのまま学園に残ろうと思えば残れただろう。だがその時にはもう、そんな気持ちは抱けなくなっていた。 今更どんな顔をして向き合えばいいのか。気持ちの整理もつかぬまま、久織とも会うことなく、逃げるように学園を去った。罪の意識から、『能力』を使うこともなくなった。 「僻まない僻まない。君は優秀だよ、可愛い愛弟子くん」 「弟子になったつもりはありませんけど」 「なら子どもかな」 「余計違います」 「むぅ。反抗的だな」 そして、数年の空白期間を経ての独立。 汚れ一つない室内。新築独特の、あの落ち着かない匂い。真っ新な備品は未だ借り物のようで、月明かりの下、どれも他人然としていた。 だがそれも、現実感がないという自身の感情とよくマッチしていて。上手く言えないが、どこか居心地の良さすら感じられた。 「まぁいいよ、どうせ君の姉というポジションは揺るがないからね」 「言ってて虚しくないんですかそれ」 「全然」 「むぅ」 恐らくは遊んでいるのだろう。彼女の楽しげな声。 こんな俺のどこを気に入ったのか知らないが、恐らくは弄り甲斐のある弟分なのだ。本気か冗談か分からない反応を寄越しながら、不思議とそれが厭味ったらしくなく、心地良い。 そんな風にどうにも憎めないから、無遠慮にやってくる彼女のことを、俺も強くは拒まなかった。それに兄弟がおらず、勘当同然に家を飛び出した独り身には、この程よい距離感の馴れ馴れしさは抗い難い麻薬でもあった。 「ま、元気そうで何よりだ」 「……その節はどうも」 「感謝してくれたまえ。惚れ込んだ娘との仲を引き裂かれ、意気消沈し、うつ病一歩手前まで沈み込んだ弟を献身的に看病してやった恩を胸に抱いてね」 「何でそう自分から値打ちを下げるようなことを言うんですか」 「君のその呆れと羞恥と戸惑いでこんがらがった顔が見たいからさ」 彼女の名は知らない。知っているのは、それこそ本気か冗談か分からない通り名。 いわく『災厄』。いわく『天恵』。いわく……『結び解く者』。 彼女を表すそれらの通り名は、けれどいずれも俺に言わせず。ただただ、『姉さん』と呼ぶことだけを許された。 「……実際に見たご感想は」 「鼻血を堪えるのに必死」 「帰ってください」 「いやん」 「何がいやんか」 もちろん血の繋がりはない。義理の家族でもない。彼女が何故かそう言い張っているだけで、全く赤の他人だ。 それでも、彼女を姉と呼ぶその『儀式』は、嫌ではなかった。 「……姉さん」 「何だね弟よ」 「今回のアレ、姉さんの仕業でしょう」 奇想天外。天邪鬼。およそ普通とはかけ離れた性格の彼女は、その素性も浮世離れしていた。 家も知らなければ連絡先も知らない。なのに会いたいと思った時には、いつもこうしてやって来る。 どこぞの禿げ頭を顎で使う権力と、馬鹿げた財力を盾に俺を飼いたいなどとのたまう。そのくせ邪険にすると捨てられた子犬のような目で泣き縋って、初めて出会った頃から『一切』変わらない容姿を武器に篭絡しようとしてくる。 「さあて、どうだろう」 暇を持て余した『魔女』。 どんな通り名よりも、その言葉が似合う気がした。 「……」 「まぁ、少なくとも君が普段から願っていた強い思いが無ければ、起こり得なかったことだとは言える」 「それはもう自分が一枚噛んでいますよと言っているようなものじゃないですか」 「そう聞こえたならそれでもいいよ。ただ……」 ただ、彼女が何者であろうと。 俺が彼女に抱く印象が変わることはないだろう。 「入っておいで」 「は、はいっ!」 「……?」 彼女が視線を入り口の扉に流し、合図をした後。 聞き慣れた、いや、それよりも少し大人びた声が響いた。 「……なっ!?」 そして近寄って来るその容姿は、面影を残しつつも垢抜けていて。 それでも、俺がそれを見間違えるはずもなくて。 「今日の用事はこれで仕舞いだ。あとは好きにするといい」 「あんたって人は……」 「お礼はいいよ。その間抜けな顔を見せてくれたから勘弁してあげよう」 彼女の軽口に付き合う余裕すら見失ってしまった。 「先生……!」 だから、もう。 二人を見ながら、もう。 「姉は、いつでも。いつまでも、弟の味方だよ」 あぁ、弟は一生姉には敵わないのだと。 そして、自分はこんなにも、この少女のことを未練たらしく抱えていたのだと。 「先生、ボクを雇ってください!」 そう、思った。
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