時間は瞬く間に過ぎていく。 あの日、あの夜。 妖しげな魔女が魔法の如く久織を連れてきてから、数ヶ月。 変わらずに、彼女はここにいた。 「先生、これはどこにしまうんだっけ」 「あっちだ。あの右から二番目の棚」 「そうだったそうだった」 夢か、幻か。そもそも、これまでのことは現実だったのか。 時折、そんなことを考えていた。 突然変な能力に目覚めて、好きになった女の子を手に入れて、自分好みに調教して。 そんなもの、漫画や妄想にしても陳腐で現実感のない話だ。 それに、その変な能力にしても、もう使えなくなっていた。 正確には『使おうとしなかった』のが事実だが、なんとなく、もう使えないんだろうな、という感覚があった。 自然消滅したのか、はたまたやり過ぎてしまった罰なのか。それとも、いたずらな魔女が気紛れに寄越したものを、また気紛れに回収していっただけなのか。 真実は分かるはずもなかった。 ただ、きっとこれでいい。 そこに関してだけは、不思議と肩の荷が下りたような気分だった。 「ん、しょっと。ふぅ、これで全部かな」 久織が、ここにいる。 どこにもいかず、ここにいる。 クサい話だが、俺にはそれで十分だと思えた。 「ねぇ、せんせ……」 「何だ?」 「あのさ、そのさ、今日、さ……」 ただ、だからこそ。 俺には、片付けなければならない問題があって。 「……悪い」 「ぁ……、ん、……うん。ごめんね」 「いや……」 この日最後の予約も終わり、クリニックは明後日まで休み。 休みとなれば、二人きりの時間も増える。誰の邪魔も入らない。 その思考の行きつく先は、二人とも共有していたはずだ。だからこそ、久織は微かに頬を染めて、潤んだ瞳で俺の腕にしな垂れかかっていたのに。 「そ、そうだよね、先生、疲れてるもんね」 「あ、いや、そういう……」 「ごめんね、気が利かなくて。ボク、自分のことばっかり……えへへ、ごめんね」 せっかくの誘いを袖にした俺が悪い。それでもごめんと謝る久織が愛おしくて痛ましくて。胸の奥がキリキリと痛んだ。 嫌いになったわけじゃない。そういうことをしたくないわけじゃない。むしろしたい。これまでの調教で存分に熟し切ったトロトロのケツ穴を抉り、未だ純潔を守っている膣に己の証をこれでもかと刻み込みたい。 ……だが、できなかった。 そんな気分になる自分が許せなくて。 「えへへ……」 「……」 情けない。女々しい話だった。 要するに俺は確証が欲しかったのだ。 虫のいい話だということは自分が一番分かっていた。自分のエゴで、自己満足で。結局は自分が一番可愛いのかと、誰でもない、俺自身が俺を責め立てる。 それでも。それでも。 それを求めてしまったのだ。 果たして久織は、俺が能力を遣わなくても好きになってくれたのか。 果たして久織は、俺が卑怯な手でその人生を奪ってしまったことを許してくれるのか。 その、答えを。 接触を断つわけでもなく、ただ、最後の一線だけは超えないという、偽善にすらならない自分勝手な決め事。 事ここに至って、自分はどうしようもなくクズな人間なのだと。分かり切っていたはずの事実と自責の念が、どうしようもなく身体を重くしていた。 「久織、俺は……」 「……。先生」 そんな風に、俯いていたからだろうか。 「先生、温泉行こう! 温泉!」 「……。……は?」 「せっかくお休みだしさ、たまには温泉入ってリフレッシュしようよ!」 「……あ、あぁ」 唐突な申し出に、思わず頷いてしまう。 やけに張り切った様子の久織は、その後、楽しそうに旅行のスケジュールを組んで、笑っていた。 そんなに温泉に行きたかったのかと、俺は馬鹿みたいに呆けた頭でその姿を眺めて。 結局俺は『今の久織』を何も見ていなかったのだと。 後で思い知ることになる。 ▼ 「温泉久しぶりー。楽しみだね」 「そうだな」 「いつ以来かな」 「さあなぁ。ここしばらくあまり出掛けていなかったから」 予約を取った温泉宿へと向かう道中。 やけにはしゃぐ久織の姿は、どうにも幼く見えて。 それにつられて俺も昔の気持ちが蘇るようで。 まるで目的地に向かうにつれて、かつての二人に戻っていくような、なんて。 そう思ってしまうのは都合が良過ぎるだろうか。 「最近は久織のほうが忙しそうにしているしな」 「需要あるんだねー、マッサージって」 「それもあるが、やっぱり腕がいいんだよ、久織の」 「そう?」 「そう」 「えへへ。ま、ボクもいろいろ努力してたってことだよ」 にやりと笑みを見せる久織。その顔は歳相応に大人びていたが、それでもまだどこか学生時代の子どもっぽさを伺わせる。 学園を去ってから、今まで。空白の時間。俺の知らない時間。聞きたいことはもちろんあった。だがどうしても躊躇われて、詮索できなかった。 離れ離れになってから三年と少し。短いようで長い時間。 「あれからボクが何してたか、気になる?」 もちろん当たり障りのないことは聞いた。 学園を卒業して、結局陸上は辞めたこと。就職はせず、あん摩マッサージの専門学校へ進学したこと。資格を取った後、アルバイトをしながら俺を探していたこと。 そんな折に一人の『女性』に出会ったこと。 「……気になる」 「ん、そっか」 ただ、肝心なことが聞けていない。 怖くて聞けない。そんなダサい理由で。 「……その辺のことも、話したいし、さ」 だから、だったのだと思った。 こうして久織が温泉に行こうなどと言い出したのは。 「一番はカニなんだけど」 「結局食い気か」 じゃれつくように身体を寄せてきながら、いたずらに微笑む久織を。 帰り道の中で、ちゃんと受け止めていられるだろうか。 そんな情けない心配をしていたように思う。 ▼ 「いいよねーこの感じ。こう趣というか」 「ああ。いい感じに寂れてるな」 「もう! もっとこう情緒があるとか、風情があるとかないかなぁ」 「久織に情緒や風情を説かれるとは思わなかったな」 「……夜道には気を付けてね」 「普通に怖いからやめてくれ」 新幹線と在来線を乗り継ぎ、タクシーに乗ってしばらく。 お世辞にも栄えているとは言えない町の、さらに外れのほう。 山間に鎮座するその宿は、ずっと昔からそこに在ったのだろうと思わせる風格があった。 「女将の五月女(さつきめ)です。本日はようこそいらっしゃいました」 「こんにちはー」 「どうも。世話になります」 宿に着くなり、着物姿の女性が出迎えてくれる。 綺麗な人だった。その佇まいを一言で言えば、静穏、だろうか。大人びていて落ち着いた雰囲気というのか。建物も、女将さんも、同じように人生の酸いも甘いも知り尽くしたかのような堂々とした表情であり、変な話だが二つ揃って一つの作品のような、そんな感情を抱いた。 残念ながら特に繁盛しているといった様子ではなかったが、さりとて経営が傾いているような悲壮感もない。女将の粛々とした態度と説明から、長く続く老舗の余裕を感じる。 古くからの歴史をただ次の世代へ引き継いでいく。そんな前向きな現状維持。それは理想の形の一つなんじゃないか、なんて。 柄でもないことを考えてしまうのも、旅行の醍醐味かもしれない。 「いつも小鳥遊さんには贔屓にしていただいて」 「……そうなのか?」 「まあねー。といってもここ二、三年の話だけど」 「たまにお客様としてではなく、お仕事で来てもらったりもしていましたの」 「仕事?」 「ええ、私ももう若くないので、肩や腰がつらくて……」 「ああ、マッサージの」 「ふふん、しっかりしてるでしょ」 「あの頃はまだお勉強中だったようで。たまに酷い方向に捻じられては悲鳴を上げていましたわ」 「ははは、ありそうだ」 「も、もう、五月女さん、その話はいいから!」 接客用の仮面を外して、少しだけ砕けた様子で話す女将さん。 そこには俺の知らない久織がいて、少しだけ寂しい気持ちもあり……。だがそれ以上に、新たな一面を知れた喜びが大きくて、知らず気持ちが上向いていった。 「それを言うなら、五月女さん、アッチのほうもすごいんだよ」 「アッチ?」 「うん。五月女さん、見せてもらってもいい?」 「こ、ここで、かしら?」 「そうだよ」 久織の言葉に、少し狼狽えた様子を見せる女将さん。 いまいち要領を得ない俺に構わず、久織はさらに迫って見せる。 「見せてくれるよね? ボクのご主人様に」 「……っ」 そうして放った一言に、息を呑んだのが分かる。 はっきりと口にした、『ご主人様』という言葉。夫を指す言葉ではないということは、久織の雰囲気で推し量れた。だが、それを今ここで口にするその意図には至れなかった。 なのでただ、一般女性に何を言うんだ、と戸惑って。 そして「急に何を言ってるんだ」と誤魔化しのセリフを、投げ掛けようとするより先に。 女将さんは意を決したように口をきゅっと結んで。 その着物に、手を掛けた。 「……どうぞ、ご覧くださいませ」 帯が解け、前がはだける。衣服の役目を放棄した布切れは言葉とともに地面へと崩れ落ち、女将さんはその身体を太陽の下へ曝け出した。 「こ……れは……」 「ね、凄いでしょ?」 何を言えばいいのか。何と言えばいいのか。 たまたま足を運んだ旅行先で、『同好の士』と出くわしてしまうこの状況を。 妙齢で決して若くない女将の、滲み出るような色気を纏った裸体。年齢を重ねることによりむしろ女性としての魅力が増し、肉付きもよく男殺しの身体へと熟成されている。ほんの少し崩れたスタイルは逆にリアリティを強調し、むしゃぶりつきたくなるような柔らかさを視覚に訴えてくる。 それを淫靡に飾るのは、銀色に輝く無数のピアスと。 隙間もないほどに肌を埋め尽くす卑猥な刺青の数々。 「これは……お相手が?」 「ええ。夫、……ご主人様から頂きました。もう亡くなりましたが……」 「そうでしたか。失礼しました」 「いえ……」 ここまでくれば確定的だった。女将さんは妻であると同時に、性の奴隷として、亡くなった主人に飼われていたのだ。 その身体の至る所に、服従を示す奴隷の証を刻み込まれて。 「女将さん見た目すごくお淑やかだけど、凄いよね。ボクも知ったのは成人してからなんだけど」 「いくら親しくなっても、子どもに見せるわけにはいかないもの……」 「その分、マッサージするようになってからは、施術中にじっくり見てるんだけどね」 羞恥に顔を赤らめ、吐息を震わせながらも。それでも、感情が暗くなることはない。 女将さんの言葉や、態度には、後悔というニュアンスは一つもなくて。むしろどこか誇らしげで、これこそがご主人との『絆』であると言わんばかりだった。 「外でもこうして簡単に脱いじゃうんだもん。さすがだなぁ」 「か、簡単じゃないわ。……でも、恥じるものでもないもの。もちろん恥ずかしいけれど、ね」 「んー、何か難しいけど……。うん、何となく分かるよ」 「……」 それはとても衝撃的で、理想的だった。 死してなお想われるご主人に嫉妬して。 その身体と心に業を背負ってもなお、ご主人を想い続ける女将さんを、いい女だと思った。 「先生、勃起した?」 「……っ、何てことを言うんだお前は」 「あのね、五月女さんね、命令には絶対服従なんだよ。たとえ相手が今日会ったばかりの他人でも」 「そういう躾を受けております。マゾヒズムに狂ったこの身は、そうすることでしか満たされないのだと」 「前にそういう話をしたことがあってさ。だから、『お前の全てを捧げろ』って命令したら、五月女さん、……先生の奴隷になるよ」 ……。 ……何を、馬鹿なことを。失礼なことを言うんじゃない。 いい女だと思った手前、そんな建前の言葉すら出てこなかった。 「……まさか」 「いえ、あなた様なら、構いません。一言命令頂ければ、それでこの命はあなた様のために」 「亡くなったご主人に悪いだろう」 「このように躾けたのは他ならぬ夫です。そのようにせよと言ったのも。それに、主人を失くしたマゾの心情、あなた様なら理解して頂けるでしょう……?」 淀みなく視線を交わし、口にする女将に、内心たじろぐ。 もしかしたらそれは、自身が亡くなった後、残された妻が寂しい思いをしないための、ご主人なりの思いやりだったのかもしれない。 普通であればとんでもない話だが、この瞳を見ているとそれはそれで正しいように思える。 ……それでも。 「まったく。からかわないでください。早いところ部屋に案内してもらえると助かります」 「あら、残念ですわ」 「あーあ」 「なんだよ」 「先生、あれだよ、据え膳食わねば……ってやつ」 「やかましい。大体お前はだな……」 その人生を背負うには、俺はまだ若すぎる。 意気地と無謀を頭で転がしながら、目的を見失わないようにその場を誤魔化した。 ▼ チェックインして部屋へと案内される。 用意されていたのは角部屋で、窓からの展望も素晴らしく、久織も大層はしゃいでいた。 もう少し流行っていても良さそうな宿だと思ったが、流行らないクリニックを運営している俺が心配しても仕方ないので、考えるのをやめた。 「ぷあーっ! 美味しかったー!」 「食べ過ぎじゃないか?」 「だって美味しいから仕方ないもん」 「太っても知らないからな」 「あ、先生そんなデリカシーないこと言うんだ?」 「お前デリカシーって言葉知ってたのか」 「失礼な奴だな君は!」 「何者だお前は」 着いた時間が時間だったので、ひと心地ついて早々に夕飯を頂いた。 メニューは久織が楽しみにしていたカニ御膳。刺身に天ぷら、カニ味噌の甲羅焼とカニ尽くしで、終始美味い美味いと騒がしかった。 「ちょっとお手洗いー」 食べ終わってからしばらく。 そう言ってパタパタと久織が席を外す。 「ふぅ」 相変わらず落ち着きのない、と苦笑しつつ、料理が美味しかったのは事実だ。その気持ちも理解できた。 満足感に満ちた腹をさすりながら一息つく。 「失礼いたします。お料理はいかがでしたか」 女将さんが入ってきたのは、そうして特に何をするでもなくぼけっと天井を見上げているときだった。 「ええ、美味しかったですよ」 「それはよかったです。お茶をお入れいたしますね」 「あ、いただきます」 こぽこぽ、と、お茶を入れる音。 こうしてゆっくりと時間を過ごすことも、最近では無かったかもしれない。 どんな思惑があろうとも。なかろうとも。 こうして気持ちを安らげる時間を持てたことに、素直に感謝していた。 「……」 「……」 そうして互いに無言の時間が流れて。 いつまで経っても女将さんが退室しないことに疑問に抱きだした頃。 ふと、言葉が聞こえた。 「喧嘩、をされているわけではないのですね」 それは質問、というよりは、確認のニュアンス。 「……何故、そうお思いに?」 「いえ、不躾で恐縮なのですが……。どこかこう、距離を感じましたもので」 距離、という言葉に、少しドキリとする。 「わたくしも商売柄、相手のお気持ちを察するのが仕事のようなものでして」 「ああ……」 「それに、その……。こういうこともしてきましたので、ある程度は。理解、できるつもりですわ」 着物の上から、そっと胸のあたりを撫でる女将さん。 そこには先ほど見たピアスがあるはずだった。 「……」 「……」 何を言うでもなく。視線を合わせるでもなく。 宙に浮いた時間に、再び女将さんの言葉が響く。 「……。最初は、結婚するつもりなどなかったのです。主人とは、それなりに面識はありましたが、特に好意も無かったので」 「……」 それは俺に話しかけた言葉だったのか。それとも、気紛れに吐いた独白だったのか。 唐突に紡がれたそれは、会話というには少し感情が足りなくて。 俺の沈黙をどう受け取ったのか。女将は顔を伏せる。そして、これまでより少し小さな声で、想いを紡ぎ出した。 「ただ、当時のわたくしは、精神的にとても弱くて。恋人としてお付き合いをするわけでもないのに、夜の営みだけは付き合っていて。……ふふ、軽い女と思われるかもしれませんね」 「……。軽々しく共感を口にはできませんが。否定をする気もないです」 「ありがとうございます。……ああ、SMもそこで覚えました。主人は嗜虐趣味を持っていて、よく泣かされたものです。痛みや羞恥、人の尊厳を破壊されるようなプレイや決まり事は、若いわたくしにはとても辛いものでした。……でも。それでも。離れようと思わなかったのは、どこかそこに救いを見出していたからなのかもしれません」 「……例えば、寂しさを埋めるような?」 「それも一つなんでしょうね」 自らの身体を抱くその女性は。 遠い目をして震えるその女性は。 これまで話していた凛とした淑女ではなくて。 ただただ、弱い女だった。 「利害の一致、というとドライな関係のようにも聞こえるかもしれません。ですが、関係を続けるうち、わたくしの中に主人への愛情が生まれたのは事実です。もちろんそれはそう為るに足る相手であったからだとは思いますが」 ……いや、違う。 「だから今でも。今でも、主人のことを愛しています。確かに初めは特殊な繋がりだったかもしれませんが。はっきりと、愛していると言えます。それだけは確かです。主人が亡くなった今もなお。感情だけじゃない。心も、身体も、わたくしを形作る全てのものが、主人を想っているのです」 『弱さを知っている』女なのだ。 だからこそ、自分を強くする術を持っているのだ。 「……。それが、ご主人によって作られた感情だとしても?」 「逆に問いますが、作られたか作られていないかというのは、それほど大事なことなのでしょうか」 「……っ」 言葉を返すことができなかった。 ここまで一途に思える女将さんの強さに。 そしてそれ以上に。 「もちろん程度はあります。ですが、人というのは、多かれ少なかれ、誰かや何かの影響を受けて変わっていくものでしょう。過程も大事ですが、それを大事にし過ぎて『今』という結果を疎かにしては本末転倒かと思いますわ」 「……」 急所を突くその一刺しに、息の根を止められたからだ。 「ですので、あまり思いつめないほうがよろしいかと」 「……。あなたのほうが、よほどカウンセラーに向いている」 「あ、ご、ごめんなさい。つい偉そうな口を」 「いえ、……いえ。大変参考になりました。ありがとうございます」 俺は心からの感謝と、礼を目の前の女性へと捧げた。 恐縮しながら退室していくその姿を見送った後、入れてもらったお茶をすする。 ほのかに苦いその熱が、全身に思念と決意を行き渡らせてくれているように感じられた。
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