第六話『違和感』

 家から学校まで、歩いて20分弱。
 いつもより一手間掛かったとはいえ、普段から余裕を持って時間計算しているので、遅刻してしまうような心配はない。
 それでもいつもより早足気味なのは、なるべく人と出会いませんように……という思いがあるから。

 そりゃ覚悟は決めたし、学校に着けば否応なく人目に晒されるわけだけども、出来ることなら不要なリスクは防ぎたい。
 学校の生徒だけでなく、近所のおばさんとか。

「さて……ここからが本番だ……」

 幸いにしてこれまでにすれ違った人はいない。
 いや、一人のんびりと歩くおばあちゃんとすれ違ったが、前を見るのに必死そうだったのできっとノーカンだろう。
 だけどこの路地を抜け、学校へと直線で続く大通りに出れば、人の目は避けようもない。

「…………よし」

 意を決して曲がり角を曲がる。
 車通りはあるけど、いちいち歩道の学生を眺めたりはしないだろう。
 ということで、そちらは無視。
 問題は同じ学校の生徒だけど……。

(……心配しすぎ、だったかな……?)

 後ろからも見えているはずだし、歩くのが遅い私を抜き去っていく子もいる。
 だけど特に気にしている風ではないみたい。
 ちらりと視線は向けられるけども、特に奇異の目で見られることはない。
 むしろ世話好きっぽいおばさんに「あら……可哀想に……」と言われたりした。
 やっぱり遠目や不意の一瞬では怪我をしているようにしか見えないみたいだ。

(この様子だと、登下校は問題なさそう)

 そんなことを思いながら、校舎の校門まではっきり見えた頃。

「きぃーちゃーん! おはよー!」

「うひゃうっ!?」

 後ろからドスンと誰かがのしかかってきた。

「もうー! 先に行っちゃうなんてひどいよ!」
「ち、千佳ちゃん!? っお、重いってば! ……って、ああ嘘うそ、ご、ごめん謝るからだからどいて!」

 何とか降りてもらった即席リュックサックの正体は、近くに住む親友の千佳ちゃんだった。
 どうやら一緒に登校しなかったのが気に食わないらしい。
 時間が合えば一緒に登下校しているのだけど、今日の私にそんな余裕はない。
 プンプンなんて擬音が聞こえてきそうな千佳ちゃんの怒り顔を見ながら、今日に限っては誘えないよ……と心の中でだけ言い訳する。

「どうしたのきぃちゃん。いつもなら誘ってくれるのに……。それに、その首……」
「あ、あああ!? これはそのあのほら捻っちゃって階段でゴロンゴロンってだからなのうん!」
「? ……ふーん」

 ああ苦しい言い訳だ我ながら。
 でもなんとかごまかし通さなきゃ。

「ほ、ほら、とりあえず学校行こ!? 時間もあんまりないし!」
「学校目の前だし予鈴まであと20分くらいあるけど。……それより頭打ってない?階段から落ちたんだよね?」
「あ、うん、うん! 打った打った! でも大丈夫! ちょっとたんこぶになっただけだから!」
「それ結構重症じゃない? ……それに首のギプス? もなんか形がおかしい気がするし……」
「最新のデザインなの! 意外としっかりしてるんだよ! 日本製! だから早く行こ!?」
「……うん」

 つ、疲れる……。
 こんなので今日一日無事に過ごせるかな……。

▼

「……ら遼子。ん。……えー、金沢き……お前、どうしたんだ、その首」
「ち、ちょっとアクロバットに階段から転がり落ちただけです! でも大丈夫です私は今日も元気です! 次どうぞ!」
「…………そうか?まぁお前がそういうならいいが。つらかったら無理せず保健室に行けよ。……じゃあ次……」

 若干目立ってしまったけど、何とか朝のHRもやり過ごした。
 これでクラスの大半は私から興味を失うはず。
 あとはなるべく目立たないようにして。

「きぃちゃん。それじゃ下向くのも不便じゃない? ノートとってあげようか?」

 ああ千佳ちゃんなんで今日はそんなに心配してくれるの。
 いつもだったら「唾付けときゃ治るよあはは」って感じでスルーするくせに~。

「だ、大丈夫だから。そのために薄めのギプスなんだし」
「……なるほど」

 よ、よし。上手く切り返せた気がする。
 千佳ちゃんも「うーん……」とか言いながら、ひとまず私の前の自分の席に戻ってくれた。
 ……でも千佳ちゃんも善意から言ってくれてるんだもんね……。
 ちょっと罪悪感。

「きぃちゃんいつも人には気を遣うくせに、自分のことになると危機管理が疎かなところがあるから、気をつけないとだめだよ?」
「あ、はは……」

 振り向き様に千佳ちゃんから一言釘を刺された。
 い、痛いとこ突くなぁ……。
 普段の千佳ちゃんとは違う真剣な言葉に、私はただ苦笑しか返せなかった。

 その後は特に何事もなく時間がすぎていく。
 ラバーが思った以上に暑いのと、身じろぎしたときにローターがクリトリスを潰すことで「ひゃっ!?」と声を上げてしまい皆に怪訝な顔をされたくらいだ。
 あとは大きくなった乳首が制服に擦れてもどかしいとか……。
 椅子に座っているとアナルパールがゴリュッと位置を変え妖しい快感を与えてくるとか……。

「……考えてみると『何事もなく』ってわけでもないなぁ……」

 こうしてみると、割と大変な目にあっているような気がする。
 それでもこうして普段と変わらず過ごせているのは、自分が今の状況を「大変だ」と認識していない……から?
 確かに状況をまとめてみれば、大変なことをしてるなぁと思うんだけど。
 それはどこか『外』から見ているというか、第三者の自分が冷静に見ているだけというか。
 リアルではなくゲームのように、現実的な緊張感がない。
 そのことが、なんとなく、……怖い。

「もしかして……刺激が、足りない……?」

 そもそも、いけない事をしてエッチな気分になろうと思ってこんなことをしてるんじゃなかったっけ。
 なのにここにくるまでの私は、気持ちよくなろうとしてなかった。
 ううん、できなかったの?
 ……ここは学校だ。人の目もある。
 そんなところで、ラバーを着て、首輪着けて、オモチャ仕込んで。
 いつもの私なら、もう少しドキドキしたり、いけないと思いながらも気持ちよさを貪ったりするはずなんだけど、今日の私はどこかノリが悪い。
 いや、学校に来る前や来てからしばらくの間は確かにドキドキしていたんだけど、一旦落ち着いたあとは、今の状態になっていた。

 像がアリと戦うように、プロスポーツ選手が、小学生と賭け試合をするように、『この程度のことなどなんでもない』という思いが、どこかで燻っている。
 あまりにいつも通りに過ぎる日常。
 少しくらいおかしな格好をしたって、なんでもないように扱われる。
 どうしようか悩んでいた千佳ちゃんも、あれからは特に言い寄ってくるでもなく、普段どおりに会話をしただけだ。
 多少の異常は、強引に正常へと戻される。

 ……こんなものなの?

 家を出る前、『どうなっちゃうんだろう』というドキドキが、胸を、頭を支配していた。
 そのことがスパイスとなって、クリトリスへの刺激も、アナルへの刺激も、いつもとは違う魅惑の快感となって身体中を包んでいた。

 ……なのに。
 現実には、何もなかった。
 スリルが、なかった。

 当たり前だ。自分から普段どおりになろうとしてたんだから。
 あれだけ快感を与えてくれていたローターも、アナルパールも、今となってはただ異物感を与えてくるだけ。

「……動かして、みる?」

 快楽に溺れてしまわないか心配で、使うことを躊躇っていた、バイブレーション。
 だけど逆に今は、『ちゃんと快楽に溺れられるか』心配になっていた。

「スイッチ……はっ……う……!」

 ポケットに忍ばせたリモコンを、オンにする。
 一瞬、身体がはねるような刺激が身体を覆い。

「ああ……っ気持ち、いい……」

 額面どおりの快感が得られ、少しほっとする。
 考えてみれば、当たり前なんだ。
 スリルが欲しければ、リスクを負った行動を。
 刺激に慣れてしまえば、それ以上の刺激を。
 そのために、自ら創り上げた安全牌を放棄し、再び地雷を抱え込もうとする。

「うぁ……みん、な……んっ! ……いるの、に……ひうっ……!」

 学校で、クラスメイトがいる中で、いけないことをしている。
 それだけで心臓が疲れてしまうのではと思うほど高鳴り、現実との境に頭の中が痺れる。
 危うい快楽に身体中が悲鳴を上げる。

 だけど。

「きぃちゃん?」
「ひゃ!? は、はいぃっ!?」
「どうしたの? 気分悪い?」

 友人の心配そうな顔が目に入る。
 ああ……私、友達の前で、気持ちよくなってる……。
 クリトリス震えさせて、お尻ゴリゴリ抉られて、気持ちよくなってる。
 なんて浅ましく、卑しい人間なんだろう。
 この子も、軽蔑するに違いない。
 それで「この淫乱女!」って、蔑まれて。白い目で見られて。

 ……その目で、よく見て!
 分かるでしょ……?

 疲れたような瞳は、実は快楽に蕩けた瞳で。
 染まった頬は、熱ではなく羞恥で。
 だらしなく開いた口は、辛いのではなく……。
 ああきっと、私のことは学校中に噂が広まって。
 あの子がそうなんだ、って、後ろ指差されて。
 私という存在が、汚される。潰される。
 それがなんと甘美で最低で絶望的で気持ちいい感覚だろう。

 ああ……また私、皆の前で、気持ちよく……あっ……!

「あんまり無理したらだめだよ。きぃちゃんは真面目だからすぐ無理しちゃうし」
「……え」

 ……その瞬間、私は私の限界を悟った。
 幻想は、崩壊した。

▼

 自分の無い物ねだりは、今に始まったわけではないと思う。
 それが今回も顕現しただけだ。そう思いたい。
 そうだ、認めたくないけど。

 私は卑怯者だった。
 私はスリルに飢えていて。
 でも、それ相応の対価を払う勇気はなくて。
 結局は、安全圏を見定めていた。
 これくらいなら大丈夫だろう、というところまでしか、身を削れなかった。

 学校でエッチなことをする。
 そのことによるスパイスは、確かにあった。
 だけど、それは出来レースの上にある報酬だと、気づいてしまった。
 今まで創り上げた自らの評価。
 多少のことなら疑われない安全領域。

 ……空しい。

 見つからないのなら、家でするのと変わらない。
 多少なりとも背徳感はあれど、求めている刺激には、程遠い。
 ようやく気づいた。
 リスクは、失うものが大きいほど、甘美なのだと。
 僅かなベットだけで多大なリターンを得ようなどと、初めから無理な話だったのだ。

 欲しいスリルを得られるだけのリスクを、背負う覚悟は、私にはない。
 しかし、ちょっと頑張っただけのベットで得たスリルでは、もう満足できない。
 でも勇気がない。
 でも足りない。
 でも覚悟が無い。
 でも……。

 誰か。
 私を導いて。

 誰か。

 だれか……?
 ……ああ、なんだ。

 いくら自分が正しいかどうか悩んだところで、いくら猶予をもらったところで、私はもうすでに袋小路に迷い込んでいたのだ。

▼

「きぃちゃん? もう放課後だよ?」

 気づいたときにはもう、日は傾き、教室にオレンジの光が満ちていた。
 半日分の、記憶が欠けている。
 どんな授業をしたのか、まるで記憶にない。

「あ……うん……」
「大丈夫? いっしょに帰ろ?」
「……ううん、いい。今日は用事があるから」
「……そう? ならアタシはもう帰るよ? ……じゃあまた明日ね!」
「うん……ばいばい」

 友達を見送ったあと、ようやく教室には誰一人残っていないことに気づく。
 長い影の伸びた誰も座っていない椅子と机に、何故か哀愁を感じた。

「だれも……いない……」

 のろのろと立ち上がり、カバンを持って、教室を出た。
 ふらふら廊下を歩き、ボーっとした頭で下駄箱を通過する。
 遠くからこだまのように部活動の掛け声が聞こえる。でも、聞こえない。
 まるで夢の中を歩いているように、現実感がない。

 想像以上のショックが、今の私をダメにしていた。

「だれ……か……」

 誰でもいい。
 だれか、受け止めて欲しかった。
 こんな馬鹿なことで悩んでいる私を。
 卑怯者の私を。
 そして、命令してほしい。
 もう、自分のすることに、悩まなくていいように。
 従うだけで、何も考えなくていいように。
 開放されるための従属を。

 だれか……。

「……きぃちゃん?」
「……う……?」

 なんとか校門まで出たところで、逆光の中の人影に声をかけられる。
 後光にも見えるその光の中佇んでいたのは、きっと今一番私を理解してくれる人。

「お、ねぇ……さま……」
「ん。おかえりなさい」

 何気ないその言葉。
 その言葉が、やけに胸に染みて。
 ここ何年も、言ってもらったことがないような気がして。
 いろんな思いが、入り混じって。

「どうしたの、きぃちゃん?」
「あ……ぁ……」

 ここ何年も、言ってなかったようなニュアンスで。
 私は。

「た、ただい……ま……」

 その胸に、納まった。

▼

 思い悩んだ私の手を、お姉さまは何も言わずひいてくれた。
 あのあと私はお姉さまの部屋に上がらせてもらい、入れてもらったホットレモンティーをゆっくり啜っていた。

「仕事帰りに寄ってみたんだけど、タイミングよかったわねぇ」
「……」

 お姉さまの言葉が、右から左へ流れて行く。
 そんな今の私の状態を慮ってか、一旦距離を置くように視線を外し、ため息をひとつ。

「まさか、こういう形で表れるとはねぇ……」

 同じくカップを口につけたお姉さまが、天井を見上げながらそう言った。

「……どういう、ことですか……?」
「ん? ……んー……」

 思わず、聞き返してしまった。
 苦笑、というか、自嘲気味の笑みを浮かべながら、お姉さまは私と向かい合う。

「刺激が足りないって、おねだりしてくるかなぁとは思ってたのよ。あんなすごい自縛露出するような子が、この程度で満足するはずないって」
「……」
「でもあなたは、思っていた以上に真面目で、貪欲で、そして自己完結型の人間で。白か黒しか目に入らないような子だった」

 優しい瞳が、私の人間性を定義付けていく。
 私の中で、自分が再構築されていく感覚。
 そのたびに私は、安心感を得ていくような、そんな気がした。

「気持ちよくなりたい。でも自分はマゾヒストだ。身を焦がすようなスリルが欲しい。被虐の喜びを味わいたい。でも、そのためには失わなければならないものもある。そしてそれを手放すことは、自分ではできない。ならどうすればいい。だれかの、手助けがあれば……」

 つらつらと、考えていたことが並べられる。
 私の驚いた視線に、「これくらいはね。何人も見てきてるし」とポツリ。

 不思議なもので、どれだけ異常な性癖を持とうが、「そういう人間である」という型には、すっぽりと嵌まってしまう。
 そしてそのことは例外なく正常に起こり、そしてそれも自分であるということを否定できない。

「……それで?どういう答えを出したの、可愛らしいエゴマゾさん? 何も難しいことを言わなくていい。素直な気持ちを聞かせて?」
「…………私……」

 物事は定義付けられることによってその存在価値を顕にする。
 なら、私の存在価値は……?
 お姉さまに定義付けられた、私の……。

「足りない……自分の意思だけじゃ……。誰かに、背中を押してもらわなきゃ……。でも、そんなの、わがままだもん……嫌われ、ちゃう……。自分勝手で、そんな私……お姉さまに嫌われたら……」

 何かが、決定的に崩れる。
 そんな気が、した。
 それが何かはよく分からなかったのに、それだけは嫌だと、怯えていた。

「ばか。だから自己完結に過ぎるっていうのよ。自分の条件ばかり計算式に当てはめても、現実的な答えは出てこないでしょう?」
「……でも」
「いい? 私は前に言った。全部あげるから、全部頂戴って。あげるってのは何も物やお金だけって意味じゃない。あなたがわがままだと思ってる願いだって、叶えてあげるんだから」
「……あ」

 もらえないと思っていた、決め付けていたものが、もらえる。
 いつも遠慮することしか知らなかった私にとって、それは衝撃だった。
 それは、望んでもいいものなんだ。
 そう理解したとき、急に目の前が広がったような、そんなワクワク感が、胸の鼓動を早くさせた。

「決めるのはあなた自身だけどね。でも、仮にも人の一生を譲り受けようってんだから、それ相応の待遇は用意するつもりよ。……それに、ちょっとぐらいわがままなほうが、可愛げがあるってものよ?」

 そういうこと、だったんだ。
 お姉さまは、そこまで考えていたんだ。
 自分のさっきまでの悩みが、萎んでいくのが分かる。
 答えはあった。
 ただ、見え辛かったのだ。

 そうだ。
 失うのが怖ければ、全て捧げてしまえばいい。
 自分を、導いてくれる人に。
 私を、支配するものに。
 そして、享受していればいい。
 与えられるもの全て。
 捧げて空いた隙間に、受け入れていけばいい。
 払ったベット分、存分に。

「……私っ」
「ふふ、すっかり生気ある顔に戻ったわね。憑き物でも取れたかしら」
「はいっ……私、決めました。私は……」
「はいはい、ストップストップ。焦りすぎよ。その答えは、夏休みが終わってから言う決まりでしょ?」
「あ……あの、……そうでした……」
「もう、がっかりした顔しないの。……でも、気持ちは、有難くもらっておくわ。だから……」

 チュ……っと、慈しむような、やさしいキス。
 微笑むその顔は、まるで女神のように美しくて。

「……もう、離さないわよ」
「はい、……離さないで、ください……」

 固い抱擁の中、今度は私からキスをねだるのだった。

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