コチコチ、コチコチと時計の針の音だけが聞こえる。 空腹は一周回って治まって、気持ちも大分落ち着いたきた。 今は冷やりとする鉄柵に背中を預けて、体育座りで膝に顎を埋めていた。 「……」 考えるのは、今までのこと。そして、これからのこと。 何故我慢できなかったんだろう。 泣き出した時のことを思い出す。 私は、よっぽど嫌だったのだろうか。 ……いや、違う。 もしそうなら、もっと前の段階で拒否していたはずだ。 そもそも、こういったことがしたいからお姉さまと出会ったようなものだし。 なら何故、と考えても、やっぱり虫の居所が悪かったとしか思えない。 そしてそれは、私が未熟だったからだろう。 気持ちの切り替えが上手くいかず、訳が分からなくなってしまった。 ……弱いなぁ。 覚悟は、していたつもりなのに。 結局中途半端だったんだ。 やることも、心構えも、覚悟も。 そんな私じゃ、……お姉さまも迷惑かなぁ。 ▼ 「落ち着いた?」 「……はい。すいませんでした」 しばらくして、お姉さまが戻ってくる。 電気は点けず、薄暗闇の中こちらへ歩み寄って、ケージの傍に腰を下ろす。 「謝ることじゃないわ。責任はあたしにあるから」 「そんなこと……!」 「飼い犬の責任は飼い主の責任。……まぁそうでなくても、子どもが泣いたら大体大人が悪いのよ」 そう言ってお姉さまは笑うけど、どこか力のない笑い方だった。 「お姉さま……」 「まぁ、良い機会ではあるわね。約束の期限、もうそろそろだし」 言われて、ハッとする。 この生活を始める前、約束していたこと。 夏休みが終わるまでに、進路を決めること。 このままお姉さまについていくのか、それとも普通の生活に戻るのか。 「色々学校の準備とかもあるだろうから、……そうね。明日、返事を聞かせてもらおうかしら」 「え……」 「だから、一晩しっかり考えてね」 そう捲し立てるように言うお姉さま。 その様子は何かを諦めたようなようにも見えて、私は戸惑う。 何でなんですか、お姉さま……? わざわざ、こんな、私が癇癪起こしたタイミングで、そんなことを言うなんて。 そんなまるで、私が『お姉さまから離れる選択を選ぶ』ように誘導するような……。 意図が掴めず呆ける私に、お姉さまが呟くように言う。 「……人の心なんて、移り気なものよ」 「……お姉、さま?」 何の話、だろう。 そう思って、それが今までの私の悩みに対する答えなんじゃないかって、思った。 少しだけ引っ掛かる感じを覚えたけど……。 『人の心は、移ろうもの』 言葉としては以前から知っているはずなのに、それはどこか、違う響きを持って聞こえた。 「あなたは、真面目だから。きっと、いろいろ考えて、自分で自分を追い詰めてるんでしょう?」 「……」 「もっと単純に考えたら? ……なんて、言わないわ。それがあなたなんだから。だからね、そうやって考えてしまうことを、自分の悪いところだって、卑下するのは止めなさい」 「……え」 「今の自分が、自分の考える理想像とかけ離れていて、それで悩むのはみんな同じ。あなただけじゃない。しかも、それであたしのために苦しんでいるのなら、それはお門違い。あたしがあなたをどう思うかは、あなたが決めることじゃない。あたしが決めることよ」 「あ……」 「理想を追い求めるのはいいことだと思う。どの道を進もうとも。だけど、そこにたどり着かないからって、苦しむのは違う。今のままだってあなたは魅力的だし、あたしは、今のあなたを気に入ってここに連れてきた。もちろんずっと今のまま成長しないのは困りものだけど、それはあなただけの問題じゃなく、周りの環境、大人の問題でもある。だから、一人で悩みすぎないで」 お姉さまの言葉が、柵越しに、柔らかく、重く、響く。 ……ありがたいな。 素直に、そう思った。 いつだって、って、言えるほど長く一緒にいるわけじゃないけど。 お姉さまは、私に、私を、後押ししてくれて。 真剣に、考えてくれて。 やってることは、普通とはちょっと違うけれど、私のことを、導いてくれる。 「……覚悟って」 「ん?」 「覚悟したことを貫くって、すごく、大変なことなんですね」 動機は、不純かもしれないけど。 やってることは、異常かもしれないけど。 それでも、自分が決めた、今までで一番大きな覚悟。 それが揺らぐのは、すごく怖く、情けない。 揺らぐたびに、自分の弱さを嫌悪したくなる。 「いいじゃない。無理に貫かなくたって」 お姉さまは、そんな私を否定しない。 いつだって含みを持ったその言葉は、私を、やさしく包む。 「何回でも、覚悟すればいいじゃない。一つの覚悟ですべてを乗り越えないといけないなんて、そんなことだれも決めてないわ」 今の自分を、弱いと思ってる自分を、否定しない。 お姉さまの言葉は、そう言ってるのだと、私は思った。 自分は自分。他人は他人。 私には、私のやり方。 「……なんて、ちょっと説教臭かったかな?」 「いえ、そんな……」 一転しておどけた風の言葉に神妙な空気が薄れ、部屋に少しだけ笑い声が響く。 ……そう、だよね。 私は、この私を、受け入れていいんだ。 いつも悩んだり、考えたり、心配になったり、揺れたりするこの私を。 それを、否定しないこと。それが、大事なんだ。 何度だって壁に当たるだろうし、そのたびくよくよしてしまうだろうけど、情けないなんて思わずに、ただ乗り越える方法を考えればいい。 「だからこそ、いろんな選択肢があることを覚えておいてほしいし、自分から選択肢を狭めることはしないでほしいのよ」 「こんなことをさせてるお姉さまが言っても説得力無いですけどね」 「言うわね。そのうち考えたって身体が逆らえないような、根っからのペットにしてあげるわ」 「ちょ……そんなこと、言われたら……」 「あはは、興奮しちゃう?」 「もうっ!」 お姉さまを恨みがましく見つめながら、 早くそうならないかな、と、考える自分もいる。 きっとそうなったら、私は、何の心配もなくお姉さまのペットになって。 そんな自分が、哀れで、滑稽で、とても愛おしくて。 今以上にお股をグチョグチョに濡らしながら、そこにある幸せに感謝するんだ。 「……お姉さま」 「なに?」 「私、面倒くさい子じゃないですか?」 「……どうして?」 「だって、私、すぐいろいろ考えこんじゃうし……。もっと、何も考えず、無邪気なほうが、かわいいのかなって……」 「きぃちゃん……あなた」 「わかってます。自分を、否定する意味で言ったんじゃないんです。ただ、お姉さまの気持ちを聞きたくて。……それだけなんです」 本当に、それだけ。 そんな私の言葉にお姉さまは、少しだけ考えて、少しだけ逡巡して、でも、少しだけ大げさに、明るく言葉を紡いだ。 「……というか、そもそもあなたペットにされてるのよ? 普通もっと躊躇というか……後ろ向きであってもいいと思うんだけど。そんなに真剣に、前向きに悩んでくれてるの、あなたが初めてよ」 「そ、それもそうなんですけど……」 「本当に、一途というか融通が利かないというか。その実直さは、並みの飼い主じゃ手に負えないわ」 「そう……なのかな……」 「ふふ……」 小さく笑うお姉さまも、すぐにその顔を引き締める。 柵越しに白く細い指が私の頬をなぞる。 やがて掌がそれを包み、温かさに身体が弛緩する。 ……でもきっと、この温かさを、この人は知らない。 何故だか分らないけど、そう思った。 「強引にケージに閉じ込めてごめんね。……怖いのよ。あなたを、失うのが。あなたじゃないと、だめ」 「……お姉、さ、ま」 「……愛してる」 ちゅ、と、ほんの数瞬だけ、唇を奪われる。 「……私も、です……」 「……ありがと」 そう言って、静かに部屋を出るお姉さま。 暗闇の中閉じられた扉を、私は、ずっと、ずっと、見つめていた。 ……まだ届かない、その距離を。 ▼ そして、朝。 案外、深く眠れてしまった。 自分ってこんなに肝の据わった人間だったっけ。 そんなことを思いながらひとつ欠伸をして、寝ぼけ眼を擦る。 「……わ! ……そういえば犬足のグローブ着けられたままだった……。まぁいいや、出来る範囲で擦ってやろう」 予期せぬモサモサの感触に驚くけど、ここは無視。 肉厚なグローブが殺人的に邪魔だけど、目がしょぼしょぼするのが耐えられないので構わず続行。 ……こうやってごいごいやってる姿は、他人が見ると今どんな風に映るんだろう。 「ふぁあ……。うん、身体も起きてきた……かな」 目の周辺と頬がパリパリする以外は、比較的いつもどおりの睡眠だったようだ。 私のどこでも寝れるスキルが存分に発揮されている。 「今何時だろう……」 昨日のこともあって『人』のままだから、つい人の習慣が出てくる。 そんなことを思いながら部屋を見渡してみるけど、どうやら時間の分かるものは置いてないようだ。 でもまぁカーテンの隙間から差し込む陽の光の具合からして、いつも起きる時間とそう変わりはないだろうと判断。 「とりあえず朝ごはんを作……らなくてもいいんだ、もう。なんだか落ち着かないな……」 寝ぼけた頭で日課のことを思い出すけど、そもそも自由のない私に何が出来るわけでもない。 ここ最近忘れていた日課を思い出すあたり、この一ヶ月の中では大分シラフに近い状態に戻っている気がする。 「とりあえずお姉さまを待ってよう」 よいしょ、と檻にもたれかかる。 鉄の柵がひんやりして気持ちいい。 空調が効いているとはいえ季節は夏真っ盛りだ。 「きぃちゃんおはよ~……って、なんだ、もう起きてるの」 「あ、おはようございます」 5分くらい経った後、部屋のドアを開けてお姉さまが顔を覗かせる。 このときばかりは『きぃちゃん』として接してくれて、嬉しいというか、ほっとした。 「まだ寝てるかなーって思ってたのに」 部屋に入ってきたお姉さまは、昨日と変わらずラフな格好。 メイクはしてないけど寝起きって感じでもない。 ……関係ないけどすっぴんでも綺麗な人だなぁ。 「朝は割と強いんです。早いと5時くらいに起きたりしますし」 「へー。爪の垢煎じて飲ませてやりたいわね。自分に」 「……。朝、弱いんですか?」 カーテンを開け放つお姉さまの後姿を目で追う。 部屋の中が一気に明るくなる。 朝日に輝くお姉さまはどこか浮世離れして見えて、寝坊とかそんなこととは無縁のように思えた。 「自慢じゃないけどね。どうしても夜型の生活だし。だいたい起きるのが毎日9時とか10時とか」 「じゃあ今の時間は……」 「あ、心配しなくても今は7時ちょっと過ぎたあたりよ。まぁそれでもきぃちゃんからしたら寝坊なのかもだけど」 「いえそんな……。それに早いって言っても両親が早出の時だけですし」 「それでも十分。朝早く起きれるって、 それだけですごい特技だと思うわ。あたしからしたら」 「そう……ですか?」 特に意識したことないけど、そう言われて悪い気はしない。 今日になって初めて両親の仕事に感謝した。……少しだけね。 「……ふふ」 「どうしたの?」 「いや、こんな状況で世間話してるのが少し可笑しくて……」 「あはは、それもそうね」 柔らかく、二人で笑い合う。 その後も少しの間取り留めのない会話をして。 一瞬、会話の『間』が生まれる。 特に気まずい間ではなく、穏やかな、間。 何とはなしに眺めたお姉さまは、静かに優しい笑みだけ浮かべていて。 視線に気づいたのか、少し困ったような笑顔を見せる。 「きぃちゃん」 会話のそれよりも、少しだけ強めに、注意を集める声。 同時に、お姉さまがケージの近くに座り込む。 表情は、さっきのまま。 ただその場の空気が、少し硬さを帯びた。 「……はい?」 「…………帰りたい?」 「……っ」 ポロッと、こぼれるように漏れた一言。 急と言えば急な言葉に、一瞬息が詰まる。 それは、まさかお姉さまに言われるとは思ってなかったから。 『そういう』ニュアンスで言われるとは思ってなかったから。 「……どうしたんですか、急に……」 「ん……」 あさっての方向を向くお姉さまの顔からは、その表情とは裏腹に、喜や楽の感情は感じ取れなかった。 だからなおさら、抱いた不安が心を弄ぶ。 だけどその不安の持ち主は、実は私ではなかったことに、後で気づく。 「……ふふ、ダメね、あたし……」 「お姉さま……?」 「きぃちゃん、あたしね……」 やれやれ、と、どこか自嘲するような溜息を置いて。 「あなたの主人でいる、自信がない」 想いが、吐露される。 それは、懺悔にも似た、お姉さまの想い。 いつもの毅然とした『お姉さま』とは違う、剥き身の……。 「……ああもう。なんであたし……。ごめん! 今のは……その、…………。……ん、ちょっと、もう一度顔洗ってくるわねっ」 「ま、待って!」 少しだけ表情を苦く歪ませて、おどけるように髪をくしゃくしゃと掻き乱して、部屋を出て行こうとするお姉さまを、私は慌てて呼び止めた。 無意識に出た声だった。 ここで行ってしまったら、ここで断ち切れてしまったら、もう二度と胸の内を聞けないかもしれない。 そんな危機感がこのときにはあった。 そういった空気を読み取れるほどには、私はこの人と時間を共有してきた。 「聞かせて、下さい……。どんな話でもいいですから、お姉さまの、思ってること。私のために、お姉さまが我慢していることがあるなら、そんなの、私、嫌です」 「……」 その背中は、振り向かない。 細い、細い糸を身長に手繰り寄せるような、そんな感覚。 今までの私は、この糸を引っ張ることができたろうか? そして、今の私は……。 「何が、足りないんですか? 覚悟もしました。言われたことも、頑張って……。今のままの私でいいと、言ってもらって。でも、違ったんですか? 私に求めていたものは……。そうだとしたら、今からではもう遅いんですか……?」 なんだろう? 何が怖い? 胸の内が聞けないこと? 心が離れてしまうこと? ……いや、そうじゃない。 離れれば、また近づけばいい。 怖いのは、『壁』ができることなんだ。 どんなに近づいても、どれだけ交わり合っていったとしても、最後の最後を許さない、『壁』。 なまじ近づくことができるからこそ質の悪い、それが築かれてしまうことを何よりも恐れてる。 そしてそれはきっと、一度出来ると容易には崩せない。 「足りないものがあれば、努力しますから。だから、見捨てられるのは、嫌です……」 なんで言葉に出るのは、こうも安っぽいセリフなんだろう。 こんな浅い言葉を言いたいわけじゃない。 でも、上手く言葉が見つからない。 それに、突き詰めた意味は、間違ってはいない。 少ない語彙の中から必死でそれらしい言葉に変換する。 それが今の私の精一杯だった。 「……」 その背中は、振り返らない。 朝特有の澄んだ空気が、肌の上を踊る感覚を得る。 視界の焦点は、鉄格子の先。 糸を見失った気がした。 「……………………逆よ」 ただ。 背中越しの腕が、ノアノブにかけた手が。 するりと下に落ちる。 「あ……」 そのことにひどく安堵する。 知らず知らず握り締めていた拳を、ほどく。 「……」 ふわりと、まるで楽しげに髪が踊る。 でも、振り返りこちらを向いた顔は、苦いまま。 どうして、そんな顔するんだろう。 何が、そんな顔にさせるんだろう。 見上げたお姉さまは、どこか泣きそうで。 スッと。 再びケージのそばに腰を下ろす。 そして。 その細くて白い右手が私の顔へと伸びる。 私は、動けない。 ただ目前の指を、その向こうの無表情を、呆然と見つめて。 私は、動けない。 ただ目前の指を。 近づく指を。 動けない。 ……そして。 「……ふがっ?」 「……ぷっ」 鼻をつままれた。 「ふぉへえひゃは?」 「あっははははっ!!」 まるで殻を突き破るほどの、笑い声。 音量の割に何故か耳障りのいい笑い声が、部屋を包む。 私の鼻声に、別人かと思うほど爆笑するお姉さま。 「ふえ……?」 ……あれ、なんだろうこの状況? どこか重大なスイッチを押し間違えてしまったのかな。 「あははっ……はーっ、ひー……」 喘息でも患ったかのように肩で息をしながら呼吸を貪る笑い袋。 結局お姉さまが息切れするほど笑い、収まった頃には、窓の外のスズメが3羽から1羽に減っていた。 「くっくっ、ふぅ、……ああー笑った」 「……な、なんで……?」 戸惑う私の鼻頭が、つんと人差し指で突かれる。 「あなたが思った以上におバカさんだからよ」 「……へ?」 ば、バカ……? きょとんとする私を見て、お姉さまは子供のような笑顔を見せる。 「監禁されて、こんな仕打ち受けて、なんでまだ自分のせいだなんて考えが持てるのよ。ほんとお人好しというかなんというか」 「はぁ……」 「いや、もともとお人好しではあるのよね。それをこんな状況でも発揮できることが……。……いろいろと、先を越されちゃったのかな」 どこかしみじみと呟くお姉さまの目線は喜でも哀でもなく。 でも優しさだけは読み取ることができた。 「あーあ。結局敵わないのかぁ。分かってはいたけど、今ので完膚なきまでに叩きのめされたって感じ。やっぱりあなた本物だわ」 「?」 「もういいわ。全部話す。弱いところも、全部見せるわ。……そうよね。だって、あたしは全部見せてもらったんだもの。あたしだけ見せないのも、フェアじゃないわよね。それから、また判断してちょうだい」 「……えーと」 ……結局、いい方向に転がったのだろうか? よく、わからないけど……。 吹っ切れたように一人でうんうん頷くお姉さまを見ていると、うん、きっと思っていたような心配は無用になったんだって、そう思えたから、つられて私も笑い返していた。 ただ、問題は未だ純然とそこにあって。 数分後、私はようやくそれと対峙する。
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