そうして夏休みが過ぎていく。 躾が終わって、調教が終わって、次に何をするのかと思ったら、人間に戻って大学受験の勉強だった。 勉強を命じられた時は困惑でいっぱいだったけど、仮にこの生活を拒絶して普通の生活に戻ろうとしたときに枷を作りたくないのだとお姉さまは言っていた。 だから最低限それなりの大学に受かるくらいの学力はキープすること、それが3つめのルールだった。 「犬になって、ドロドロになって、それで受験勉強なんて……。頭がおかしくなりそうです」 「我慢なさい。こればっかりはあたしとしても譲れないのよ。仮に結果が決まっていたとしても、専属でもない子の選択肢をわざわざ潰すのは流儀に反するの」 「お姉さま……」 「ま、賢い子が犬畜生に身を堕とす姿に興奮しないと言えば嘘になるけど」 「勉強に集中したいので出ていって下さいね」 感動しかけた私の心を嘲笑うセリフに、お姉さまの退場を促す。 でも、その言葉は、ずるい。 だってその通りだなって思っちゃうもの。 なら、今私が一所懸命勉強しているのは、さらに惨めな思いをするため? ……いや、余計なことを考えるのはやめよう。 ただのお姉さまの冗談なんだから。 そうしてしばらく勉強漬けの日々を過ごす。 幸い元々の学力は悪くないので、それなりに安全圏に到達できていると思う。 区切りのいいところでお姉さまお手製の問題集を解いて、太鼓判をもらう。 そしてその次の日からまた犬に戻る。 また躾からやり直し。 人間が残っている間はやっぱり恥ずかしいけど、一度通った道なので粗相は起こさない。 むしろ一度習ったところを復習するように仕草が身体に馴染みだし、より犬としての習性が染み込んでいった。 恥ずかしいからといってトレーニングにまごつくことも減ったし、気持ちに余裕がある分、よりお姉さま好みの犬になれるよう工夫するようにもなった。 犬としてある程度成長できたところで、また受験勉強。 勉強の区切りがついたら、また犬に戻る。 その繰り返し。 人でありながら犬で。犬でありながら人である生活。 ぐるぐるとお互いの思考が混ざり合いそうになるのを、必死で踏み留める。 そうすると『きぃちゃん』『貴子』というキーワードで、バチンとスイッチが入ったように切り替わるようになっていく。 そうしてやがて、私は気付く。 犬になろうとすることも、勉強することも、根底は同じく『学ぶ』ことにあるのだと。 これまで私は、必死で勉強していた。 それは両親に楽をさせてあげたいのと、恩返しの意味も込めて、良い学校、良い大学に入って、安心させてあげたいという思いがあったからだ。 それに周囲の目もあった。 先生は私にもっと上を目指すように勧めてくれたし、友達のお母さんからはいつも羨むような目で話しかけられた。 でも、全然嬉しくなかった。 どれだけ勉強したところで、楽しくなかった。楽にならなかった。 両親が悪いわけじゃない。私が勝手に背負った義務感に潰されそうになっているだけ。 周囲の人たちが悪いわけじゃない。上辺だけとはいえ好意的な感情をもらっていた。 だけど私が一番欲しかったものは、もらえなかった。 犬に、ペットになろうとする今の私は、勉強する私の姿とダブって見える。 良い結果を出そうと、必死になって学んでいく。 元より、これと決めたものを突き詰めることは得意だ。 勉強も、そうやって良い成績を残してきた。 どっちも、必死でやった。 だけどもらえたものは、違った。 私が犬として、ペットとして頑張れば頑張るほど、お姉さまは私を褒めてくれた。 できなかったことができるようになると、ご褒美をくれた。 何人もいるうちの一人じゃない。私だけを褒めてくれた。 そのことが、私にとって衝撃だったんだ。 でも、私がそのことに気付くのは、もう少し後。 人間と犬とを行き来する生活の中で、私はちょっとした気持ちの齟齬から、少しだけ精神が不安定になってしまった。 原因はといえば、偶然が積み重なったとしか言えないような、そんな些細で、大きな心の動きだった。 ▼ 「貴子~、ご飯にしよっか」 「わんっわんっ」 私の頭を一撫でして立ち上がるお姉さま。 ご飯だご飯だっ。 さっきまでポージングの練習をしていて、ゴロゴロ動き回っていたからお腹ペコペコだ。 壁の時計を見たらもう18時を回っていた。 「あ、今からは人間でもいいわよ、きぃちゃん」 「は~い」 キーワードを言われ、人間モードに戻る。 「ワンちゃん用のご飯にしようかと思ったけどね。結構量作っちゃってたし、それを一緒に食べましょう」 「わ、お姉さまの手料理……楽しみです。どんなメニューなんですか?」 「ビーフシチュー。そんな大層なものじゃないけどね」 「わー! いいですね」 いい匂いがするなぁとは思っていたけど、それだったんだ。 匂いを意識しだすと、途端に腹の虫が騒ぎ出す。 「ちょっと待ってて、準備するから」 「あ、私手伝います」 「いいわよ。ペットは大人しく待ってなさい」 「でも……」 あんまりお世話になりすぎるのは申し訳ない。 そう思ってキッチンに移動するお姉さまのあとを追おうとしたら。 「貴子、おすわり」 お姉さまから命令が飛んできた。 「わ、わんっ……」 言葉の意味を理解し、慌てておすわりをする。 一旦人間に戻った分、思考回路の切り替えが一瞬遅れる。 「ん、いい子ね。でも、聞き分けは良くないのかしら? 申し出はとても嬉しいけど、飼い主の命令はちゃんと聞かないとだめよ。それに、今あたし待っててって言ったわよね?」 「わん……」 「分かればよろしい。貴子、お手」 「わ、わんっ」 差し出された手に慌てて右手を乗せる。 訓練じゃない、日常の中で使われる命令と、それにサッと従う私の身体。 屈辱的なはずなのに、それがキュンキュンと胸を締め付け、身体が火照りだす。 「余計なことしないように、ね」 そういって私の手にグローブが被せられる。 モフモフとした、クッションのようなそれは、犬の手の、形。 「おかわり」 「わん……」 左手も、同じように。 グーのまま入れられた両手は、頭の大きさほどある犬の手グローブに包まれ、一切の細かい作業を不可能にされた。 「本当はおしゃべりしながら食べようかと思ったけど、それはまたにするわ。ご飯はあげるけど、わんちゃんのまま食べなさい。それと配膳が終わるまで勝手に動いちゃダメ」 「……わん」 そのままキッチンへと消えていくお姉さま。 ……釘を、刺されてしまった。 お姉さま流の遠慮だと分かってはいても、少し寂しい。 とはいえ命じられた以上、この場はペットとしての私が望まれるんだろう。 だから思考を犬のものに変えていく。 お姉さまが、私に望んでいることに対して。ペットは、あくまでペット。 他人に飼われることでしか生きられない、無力な存在であること。 主人に媚び、主人のために生き、そして主人の寵愛を受ける存在。 主人に都合のいい生き物。 完全に、というわけにはいかないだろうけど、文字通り愛玩動物であること。 それがお姉さまを満足させることに繋がるんだろう、とか。 そんなことをつらつらと考える。 (ペット、か……) そもそも、こんな風にあれこれ考えてしまう自分は、ペットに向いてないんじゃないか。そんな風に思ったりもする。 お姉さまは「自分で考えて」行動するペットが良いと言ってはいたけど。 いっそ千佳ちゃんのように無邪気な性格であれたら、もっと上手くできるんじゃないか……なんて思う気持ちも、正直ある。 『あはははー。にゃんにゃーん。きぃちゃ~ん! ゴロゴロ……』 ……か、可愛すぎる……っ! ペットの千佳ちゃんを想像したら、とてもじゃないが敵いそうに無い破壊力が……! ……お姉さまも、本当はそういう子の方が好みだったりするのかなぁ……。 「……わう」 そんなことを考えながらも、無意識に溜息まで犬になる。 裸でおすわりしてる私。待てと言われ部屋の真ん中で待っている私。 これから、犬食いをする私。 客観的に自分を想像したら、乾き始めていたアソコがまた濡れ始めた。 「……ふう。おまたせ。まぁ温めるだけだからそんなに時間掛かってないと思うけど」 「わ、わんっ」 考え事をしているあいだに、お盆を抱えたお姉さまが戻ってくる。 お姉さまの手によって運ばれてきたビーフシチューから、なんとも食欲をそそる香りが漂ってきた。 お、おいしそ~……。 意図せずにお腹の虫が鳴きだす。 現金なもので、さっきまでの真剣な考え事もこのときばかりはちょっと横にどいてもらって、頭の中は目の前の食事でいっぱいになった。 ああ……すごくお腹すいた……。 「これが貴子の分ね」 コト、とお姉さまの分はテーブルへ。 私の分はフローリングの床の上へと置かれる。 ……ペット、なんだから……当然だ。 そう思っていても、実際にこうやって扱われると、キュンと胸が締め付けられる。 スプーンも何もない。 ただビーフシチューが入った器が置かれているだけ。 椅子に座るお姉さまと、それを床から見上げる私。 餌皿に入っているのがいつものシリアルではなく、とてもおいしそうなごちそうであることが、いつもと違って必要以上に惨めさを際立たせる。 「貴子。まだ、待て、よ」 「わう……」 そして、自分の意思では手をつけることは許されない。 そこにあるのは人間対人間ではない、ペットと主人の、純然たる主従関係。 「さて、それじゃあ頂こうかしら」 請うように見つめる私に構わず、お姉さまはスプーンに一すくい、口に運ぶ。 その動作を視界に収めながらも、私はただ立ち上る湯気の様子を見つめた。 次、また次と、器の中身がお姉さまの口の中に消えるのを見ながら、私はコクリと何度目かの生唾を飲んでいた。 「んー、まぁまぁかしら」 あ~……美味しそうだ……。 他人が食べているのを見ると、さらに実際にそれを目の前に置かれると、食べたくて食べたくて仕方なくなってくる。 それなのに、食べられない。 待て、と、命令されているから。 物理的に食べられるのに。食べたっていいのに。 本能的に食べなきゃいけないのに。 他人から待てと言われただけで、食べないんだ……。 自分の欲望よりも、生存本能よりも、他人の命令を尊重するんだ。 理解したはずのことを、いちいち蒸し返してしまう。 「……食べたい?貴子」 「わ、わんっ!」 お姉さまの器から半分ほど中身がなくなった頃、ようやく私に声を掛けて頂いた。 食べたい……食べたい! 目の前にあるのに、食べられない苦痛から、一刻も早く逃れたい。 私は意気込んで鳴き声を返す。 「あらら、すっかり飢えた目つきしちゃって。なら、匂いだけ嗅がせてあげる。いい? 嗅ぐだけよ?」 「……わ、わう」 匂いを、嗅ぐだけ……。 なんて残酷な命令だろう。 少しだけ恨めしそうにお姉さまを見る。 こんなにお腹が空いているのに……。 でも、逆らうなんて選択肢は無い。 そっと、顔を器の上へと近づける。 「ちゃんと、犬らしくクンクン音がするくらい嗅ぐのよ」 「わ、わん……スン、スン……」 くああっ……。 すごく美味しそうな匂いがする……! 赤ワインやタマネギの焦げた匂いのする デミグラスソースの殺人的破壊力が……っ! ……あ、涎が。 「貴子」 「わ、わうっ!?」 「ダメよ」 「わうう……」 でも、お許しは頂けない。 食べたいのに……。食べれるのに……。そこにあるのに。 空腹。我慢。屈辱。意地悪。 いろんなネガティブな思考が頭の中を巡る。 いつもだったら、きっと我慢した。 事実今までだって我慢できていたんだ。 だって、いくら犬だからといって、頭の中は人間なんだから、待てと言われて待つくらいはできる。 だけどこのときばかりは、感情の巡りが悪かった。 普段なら我慢できるラインを、ネガティブな感情が上回ってしまった。 抑圧されていたものが漏れ出した。 早い話が、我慢の限界だったんだ。 「ううぅ、うう~!」 「……貴子?」 何で食べさせてくれないの? 何で食べちゃダメなの? 何で意地悪するの? 何で? 何で? 何で? 自分でも抑えられない感情が、涙となってボロボロと零れ落ちる。 周りなんか見えない。 ただ声を押し殺して、泣いていた。 「うぅ~~~っ!!」 「……。ほら」 みっともなく泣き崩れる私を、お姉さまが抱きあげる。 そしてそのまま頭を撫でられる。 その感触を心地よく感じながら、今度はいきなり感情が爆発した自分自身に戸惑う。 そしてつくづく実感する。 人間が、人間であろうとする力は、こんなに大きいんだって。 ……覚悟したつもりなのに。 服を脱いだとき。部屋に入ったとき。お姉さまに出会ったとき。 犬として過ごすとき。訓練を受けるとき。 なのに、その場面場面で、新たな覚悟を要求される。 何回も、お姉さまに好かれるペットになろうって、決めたのに。 またひとつ、またひとつ、壁に当たって、覚悟を決めさせられる。 一度に乗り越えられない。 そんな自分がひどく出来の悪い生徒のようで、理想とのギャップが、つらい。 「今日はもう休みなさい」 「うううう……」 お姉さまが私の身体を持ちあげて、ケージのある方へと運んでいく。 そこは、ここ一ヶ月の間私の寝床となっている場所だ。 日がな一日その場所で過ごしているせいで、すっかり落ち着く場所となってしまった。 だからこそ、取り乱した私を落ち着かせるにはうってつけの場所とも言えた。 ただ、このときばかりは少し違った。 ケージを見たのをきっかけにして急にいろんなことが頭の中を駆け巡って、私はまたよく分からない涙を流し始めた。 お腹が空いたひもじさ。こんなところで寝なければならない惨めさ。 己をこんな気持ちにさせる、自分の弱さ。 ……入りたくなかった。 「……ふぅ」 「……っ」 なのに。 お姉さまの、溜息一つ。 それだけで、私はもう揺らいでいた。 犬の習性を思い出していた。 情けないくらいに動揺して、早くも自分の行動に後悔しはじめていた。 ……何がしたいんだろう、私。 嫌だ、と、はっきり拒むでもなく。 嬉々として、従うでもなく。 中途半端に、混乱して、主張できず。 そうやってビクついているあいだに、背後から両脇の辺りをつかまれて、強引に檻の中へ押し込まれる。 「……やっ!?」 心ばかりの抵抗を見せるも、芯のない意思ではなにも効果はない。 それを上回る力で押し込まれ、結局はなすがまま。 下に木の板の張られた、鉄柵の閉鎖空間の中に、身体が滑り込む。 入り口を振り返れば、お姉さまの手でそっと扉が閉められたところで、カキン、と、静かに南京錠が下ろされた。 「あ……」 ケージの、鉄柵越しに見る、部屋。そして、お姉さま。 閉じ込められた、という思いが、悲しみが、被虐感が、身体の中に満ちていく。 「『きぃちゃん』……」 そして、お姉さまは檻のそばで、腰を下ろす。 すぐにお姉さまが部屋を出ていかなかったことが、何故かすごくホッとした。 そこで初めて私が、何かに恐れていたことに気づいた。 「本当は抱きしめてあげたいけど……。少し時間を取りましょう。……あたしも、思うところあるし」 そうしてお姉さまが言った言葉が、私の中に落ちてきた。 少しの間ケージを撫でていたお姉さまは、最後に私に微笑みをくれると、電気を消して静かに部屋から出ていった。 動きの無くなった部屋の中で、私はうずくまった。
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