第十話『謁見』

 その日、城のメイドであるミルリアは、言いようのない胸騒ぎに戸惑っていた。

「……。暗い」

 眠気はある。ベッドの脇に置かれたランプにはまだ微かに温もりが残り、昨日寝入ってからまだ幾ばくも経っていないことを教えていた。
 いやに早く起きてしまったものだ。窓の外の、まだ陽も登らぬ暗闇を見ながら、ミルリアは溜息をついた。もう少し眠っていようかと思いつつも、意識は次第に覚醒していく。途中、思い出したように辺りを見回したが、部屋の様子を確認して、安堵する。

「さすがに、早すぎるかも……」

 誰よりも早く起き、誰よりも遅くまで働くのが常。日頃からメイドとしての矜持を忘れないミルリアではある。
 だが、この時間は流石に早すぎた。

「でも……」

 さりとて、寝直すにも中途半端。起きてしまったものは仕方ないと、細く小さな身体をぐっと伸ばして、ミルリアはベッドから降りた。

「何だろう……。ざわざわする……」

 何より、寝直せない理由ができてしまった。いや、これがあったから起きてしまったのか。
 胸の辺りを支配する奇妙な予感。
 それを感じてしまっては、もう何をしても寝られそうにはなかった。

「……っ」

 歩き出す。というより、駆け出す。
 気持ちが導くままに、ミルリアはドレッサーへと急ぐ。そして手早く寝巻きを脱ぎ、エプロンドレスを身に纏いだした。
 毎朝行う馴染んだ動作。身支度はすぐに整う。

「何も……何もなければいいけど……」

 口にしながら、ミルリアはそれが叶わないであろうことを、心のどこかで認めてしまっていた。

 それは、経験。
 自分が今まで生きてきた中で。
 グレイドウィン皇国国主である帝を主として仕えてきた中で。
 身につけた直感が、囁く。

 何か大事が起こるのではないか。
 親しい誰かが、遠くへ行ってしまうのでは……。

「……!」

 キュッと、唇を噛む。

 ……嫌だ。そんなのは嫌だ。

 焦燥感という枷がミルリアの手の動きを不器用にする。

「っ!」

 それに軽く舌打ちした後。
 ガン、と幾度か握りこぶしを壁に叩きつけ、妙に冷えたそれに熱を送る。
 皮膚が痛みを知らせるが、構わない。

「……ん」

 支度が終わり、足早に部屋を飛び出す。
 城内はいまだひっそりと静まり返り、等間隔に置かれたランプの灯りが揺らめくのみ。そこかしこで立っている夜勤の警備兵が驚いた顔でミルリアを見るが、意に介さず通り過ぎていく。

「……」

 ただの予感だ。確証も何も無い。だから騒ぎ立ててはいけない。
 かろうじて残る理性が、ミルリアを走らせなかった。元来の無表情な顔が、警備兵に心中を悟らせなかった。
 ただ、ミルリアの心だけが焦っていた。

 そして、目的の扉の前。

「……ふぅ」

 控えていた警備兵の、問いたそうな動き出しを目で抑えこむ。息を吐き、静かに扉を三度叩いた。
 返事は無い。
 分かっていたので押し開けた。

「失礼します」

 部屋に入るなり、ふわりと香る花の香。これは、どの子の趣味だったか。ミルリアは一瞬考えたそれをすぐに押しのけて、歩を進めた。

 目の前は暗い。星の瞬きによりかろうじて物の輪郭が浮かび上がる程度。
 だが、その足に迷いはない。幾度となく繰り返された動き。身体が覚えてしまった距離。歩幅。歩数。
 淀みなくベッドの側へと移動した。

「……」

 そして膝をつき、覗き見る。
 いつもと変わらない、血の気の引いた無表情の寝顔を。

 グレイドウィン皇国の帝、エン・グレイドウィン。
 救国の英雄であり、若くして民を導く道を選んだ王。
 ミルリアの命を救った恩人。ミルリアが命を捧げた主。
 ミルリアにとって、とても、とても大事な人の、今の姿を。

「ご主人様」

 ……どうして。
 飽きることなく繰り返される、答えなどない自問自答。

「……」

 様子は変わりない。良くも悪くも。そのことに複雑な溜息をつく。
 感じていた予感は、とりあえず最悪の事態を指していたわけではなかったようだ。

 とはいえ、病に伏せているという事実は変わらない。ミルリアがそっと握ったその手にまで侵食してきた黒い斑点。高い熱。それすら昨日までと同じ。

 突然現れた病の兆候は、あっという間に身体を蝕んでいった。瞬く間に体力は奪われ、生気を失い。倒れて。
 それ以来、エンはずっとここで闘病を続けている。
 一時期を思えば進行は収まっている。が、それが如何ほどの慰めになるのか。たまに意識を取り戻しても、起き上がることすら叶わない。
 持ちうる限りのものを使い、あちこちに網を広げ、ミルリアは情報を集めてはいた。
 だが、どれも芳しくはなく。

「ご主人、様……っ」

 漏れる声はもはや嗚咽で。思わず力を込めて手を握りしめてしまう。
 このまま目の前の人がいなくなってしまうのではないか。したくもない想像を、どうしてもしてしまう。そのたびにミルリアは涙を流す。あり得ないことだと、信じているのに。涙が止まらない。

「……ミル、リア?」
「……っ!?」

 だから、それは幻聴だと思った。

「ご主人様っ!?」
「ミルリア……? 俺、は……うっ、く……!?」

 否、幻聴ではない。幻覚なんかでもない。断じて。
 エンは、確かに声を発し、身体を動かそうとしていた。

「……あ! い、いけません、起き上がっては!」

 ミルリアは突然訪れた事態に思考が停止し、混乱した。
 一瞬にして舞い上がる心。それを何とか押しとどめて、起き上がろうとするエンを静止する。

「ん、ぐ……はぁ。大丈夫、だ。今日は……不思議と、調子がいい、ようだ」
「ほ、本当ですか……?」
「疑り深い、やつ、だな……」
「病人の言うことなど当てになりませんから」
「はっはっは。キツいことを、言う……グ……! ガ、ホッ!」
「ほら、もう!」

 言葉を交わす度、信じられない気持ちと喜びがミルリアの胸の中で綯い交ぜになっていく。
 ここ最近は今までよりも長く意識不明の状態が続いていた。日毎痩せ細っていく身体。ミルリアはそれを一番近い場所でずっと見ていたのだから。

「暗い、な。灯りを点けてくれるか?」
「は、はい、ただいま」

 どこかに舞い上がって消えていきそうな意識を握りしめながら、ミルリアは言われたとおりランプを灯す。
 橙の光が周囲を包んだ。顔色を見るには少し足りない。

「……やはりミルリアが来てくれたか」
「……? 私が、何か?」
「いや、何でもない。それより……」

 エンはふと開いていた窓に、外に目をやる。
 さらりと撫でるような風を受けながら、しばし考えた後、ミルリアに問うた。

「どれだけ眠っていた?」
「20日ほど。今はジンの月8日です。雨季も終わりました」
「そうか。……とりあえず、現状を教えてくれ」

 その後しばらく事務的な問答が続く。
 内心安静にしていて欲しいと願うミルリアだったが、同時にエンの心境を推し量ると何も言うことはできず、問われるがままに答えた。

「例の件については、小康状態が続いています」
「……スティラは」
「スティラ様はまだお戻りではありません」
「そうか……」

 エンの呟きを最後に、再び静寂が部屋を包む。
 一体どんなことを考えているのか。一介のメイドであるミルリアには、帝の考えを窺い知ることなどできなかった。
 だが、『長年連れ添った相棒』であるミルリアには、エンの考えは何となく予想がついた。
 そしてエンはミルリアの予想通り動き出した。

「さて、と」
「な、ちょ、駄目です!」
「いいからいいから」
「よくありません!」

 ほら見たことか。ミルリアは誰に向けるでもなく心のなかで悪態を吐いた。
 ゆらりと、しかし先程よりは幾分力強く身体を起こしたエンは、ミルリアの静止をやんわりと押し退け、立ち上がった。

「本当に大丈夫だ。今日は調子がいいと言っただろう? 不思議なくらいにな。それに、いくら病人とはいえ、いつまでも仕事を放ってはおけない」
「それは、代わりの者が……!」

 言い出したら聞かない。それは身に染みて分かっている。それでもミルリアは、言葉を止められなかった。
 途中でそれが不遜だと気付いても。ただ出るに任せた。

「俺の代わりをするのは、アリアだ。知っているだろう?」
「……っ」

 ミルリアの思った通り、エンは妻であるアリアリアの名を出す。
 そんなことは、言われなくても分かっている。でも、それでも……。
 ミルリアは拳を強く握る。今更になって壁を殴った傷が痛んだ。

「……申し訳ございません。軽率でした」
「いい。心配してくれているんだろう? その気持ちはありがたくもらっておく」

 ミルリアにとってエンは絶対だ。エンだけが唯一だ。だからこそもどかしく、つらい。
 いっそまた、あの頃のように、二人だけで……。
 そんな風にいつでも逃げ出してしまいそうな心を、引き留める。それは今考えるべきではない。今はただ、主の気遣いに心と拳を解く。

「それに」

 そして、着替え始めたエンを手伝いながら、ミルリアは聞いた。

「今日は起きていなければいけない。そんな気がしてな」
「え……?」
「胸騒ぎがする」

 忘れかけていた『胸騒ぎ』が、大きくなる音を。

▼

 その日、アリアリアは朝から各方面の視察に飛び回っていた。
 本来なら国主であるエンの仕事であったが、病に倒れていてはどうしようもない。代役としてそれを行えるのは皇后であるアリアリアだけであり、アリアリア本人としてもこの役割を誰かに譲るつもりはなかった。

「こうも歩き回ると、さすがに疲れますね」

 とはいえ、積み重なった仕事を片付け、ようやく一段落ついたのがお昼前。思わず疲労の言葉を零してしまうのも仕方のないことだろう。

 だが、弱音を吐いてはいられない。
 気を入れなおしたアリアリアは一人廊下を進む。

「ふぅ……」

 そこかしこで開けられた窓からそよぐ風が、汗ばむ身体に心地良い。これだけで疲れが癒されるようだ。後はお腹も満たしたいところだが、その前にある程度は事務仕事も片付けておきたい。いつもよりも爽やかな風を浴びながら、アリアリアは一人執務室へと向かった。

「アイリィはまた呆けていないかしら」

 あの子は真面目でいい子だけれど、どこか抜けたところがあるから……。
 アリアリアはそんなことを思いながら、辿り着いた部屋の扉を開け。

「アイリィ、午前中に何か緊急の案件などは」
「忙しそうだな、アリア」
「ありま……へ? あ、え……っ、ええっ!?」

 思わぬ返事に、扉の取っ手を握ったまま固まった。

「あ、あなた……!」

 自分の耳が、目がおかしくなってしまったのだろうか。
 混乱のあまりとっさに出た言葉が、さらにアリアリア自身を混乱させた。

 アリアリアが『あなた』と呼ぶ相手など一人しかいない。
 そう、今そこに座っている、エン・グレイドウィンその人だけ。
 まさに今、病に倒れている『はず』の夫だけだ。

「ど、どうしてこんなところに……!」
「ん、俺が仕事していると問題あるか?」
「そういうわけでは……いえ、そんなことを言っているのではありません! そうではなく、あの、ええと……!」
「はは。久しぶりに見たな、お前の慌てる姿」

 何故、倒れているはずの夫が、机に向かって仕事をしているのか。
 狼狽えるアリアリアだが、当のエンはその姿を見てくつくつと笑うだけ。その様子を見て少しだけ理性を取り戻すが、困惑の色は消えない。
 横で同じく仕事をしていたアイリィに視線を向けたが、彼女はふるふると頭を横に振るだけだった。

「お身体は……大丈夫なのですか?」
「いつもよりはな。といっても、治ったわけじゃないが。……不思議なもんだ。ずっと意識不明だったのにな。最後の煌めきというやつかな」
「縁起でもないことを言わないでください!」
「悪い悪い。冗談だ」

 アリアリアの心配をよそに、エンは軽くおどけてみせる。それを見る限りでは、思ったよりは体調も悪くなさそうで、妻としてとりあえず胸を撫で下ろした。代わりに、今まで散々心配をしてきたのにこの人は全く、と理不尽な怒りがアリアリアの胸を満たした。

「それよりも、何で私に一言言わないんですか! 起きているなら起きていると、報告があってもいいでしょう!?」
「驚かせようと思ってな。部下にも口封じしておいた。結果は大成功だ」
「大成功だ、じゃありません! どれだけ心配したと……!」
「悪かった」
「それに、あなたがいない間、どれだけ大変だったか……!」
「助かった」
「そんな言葉一つで……んむっ!?」

 らしくなく喚き出すアリアリアの口を、静かにそばに寄ったエンが塞ぐ。びくりと震えた身体を、抱き締める。その腕にはかつての力強さはなく、アリアリアはまた一つ悲しくなったが、それでも懐かしさは溢れた。

「んっ……。卑怯、です……。あなたは、いつも……」
「こうしないと、お前は納得しないだろう」
「……知りませんっ」

 悪戯っぽい笑みを見せるエンに、アリアリアもそっぽを向きながら肩の力を抜く。
 全く、この人は……。
 分かってはいても悔しくて、でも悪くない気分だった。

「お母様、お父様の前だといつも可愛い女の子になっちゃいますね」
「黙りなさいアイリィ」
「御意に」

 茶化す言葉も、今はどこか心地良い。肌に感じる熱が、嘘ではないと教えてくれる。
 仮に一時的なものだとしても、確かにエンはここに立っている。自分を抱きしめていてくれる。
 それだけでアリアリアは今までの苦労も忘れる思いだった。

「ただ、やはりまだお休みになったほうが良いのでは……。治っていないのであれば、なおさら」
「寝てばかりというのも疲れるものだ。たまには動いたほうがいい。きっとな」
「そうでしょうか……」
「どうせ寝ていても治るアテはない。なら同じことだ」
「……」

 エンの軽口に、アリアリアは何も言い返せない。
 それを見てエンは優しく溜息をつき、続けた。

「……胸騒ぎがしてな」
「え……?」
「どうにも今日ばかりは、寝ているわけにはいかない、らしい」
「……らしい、ですか」

 何とも曖昧な理由があったものだ。
 普段ならそう呆れるところだったが、今のエンは冗談を言っている雰囲気ではなかった。

「ああ。根拠のない予感だが……」

 むしろそれは、いつか感じたものに似ていた。
 そんなもの、今感じるはずがないのに。

 まるでエンが、戦場に立っているかのような……。

「外れる気がしない」

 かつて見た後ろ姿を思い出す。

 敵と戦うという意味においては、英雄と一兵卒に違いはない。
 だが、見えているものはどうか。感じているものはどうか。
 数多の修羅場に磨かれ、研ぎ澄まされた感性は、時に未来予知にも似た『予感』を与える。

 それは経験からくる、ただの『当てずっぽう』なのかもしれない。だがアリアリアは、どうしてもそこに神憑り的なものを感じてしまう。
 それを口にするのが救国の英雄であるエンであれば、なおさら。

「あなた……」

 『世界』という理に嫌われたエンを生かし続ける力。それはいつも違わない。
 それはエンが今日まで生き延びていることこそが証明。

 そしてそれは、同じく『世界』に嫌われた彼女の手によって補完される。

「失礼します。……お揃いでしたか」

 扉を叩く音。そして、エプロンドレスの少女の声が、部屋に響いた。

「どうした、ミルリア」

 その姿を認め、エンが問いかける。
 否、確認する。

「謁見希望のお客様です」
「……。来たか」

 ミルリアの報告。エンが静かに目を閉じる。

「あなた? それに謁見なんて、そんな予定……」
「無い。本来ならな。だが……」

 アリアリアの戸惑った声。アイリィの不安そうな表情。
 それら全てを背中で受け止め、エンは一歩前に出る。

「どうやら、『動き出した』ようだ」

 そして見た。
 己と相対する、一人の『魔女』と。

「ごきげんよう」

コメント

タイトルとURLをコピーしました