「これで全部、かな」 仕事を終えた洗濯機の中を覗き込み、取り残しがないか確認する。二人用としては少し持て余し気味のサイズのこいつも、シーツや敷物を洗うことを思うとちょうどいい大きさ。 だけど背の低い僕にとっては底に手を伸ばすのも一苦労で、いつもドラムの中に落っこちてしまいそうになる。 ……いや、見栄を張るのはやめよう。これまでにも何回か落ちている。前科持ちだ。 「よ、っこいしょ」 今日もまた無事に回収できたことにホッとしながら、洗濯物を搭載した籠をえっちらおっちら運んでいく。二人暮らしだから、量はそんなにない。ただ持ち手が非力な場合は十分な重荷だ。 背中をのけ反り腕をいっぱいに伸ばして、リビングを通りベランダへと出る。 「うん、今日もいい天気」 時刻は朝の10時ごろ。 頂きへと向かう太陽が空を蒼く染めて、僅かに雲が白く散らばっている。 例年より遅く、また短かった梅雨が終わり、ここ最近は今日のようなさわやかな晴天が続いていた。 同時に少し汗ばむくらいの陽気になってきたけど、この洗濯物たちが良く乾くことを思えばそれも許してしまいたくなる。やっぱり部屋干しよりは外で干したいしね。 「よっと」 シャツやズボンをハンガーにかけ、物干し竿へ。下着や靴下など細かなものは物干しスタンドへかけていく。 このスタンドは中心がパラソルハンガーになっていて、それを見るたび、リエが「回転ドアごっこ~」とか言いながら、周りをぐるぐる回って遊んでいたことを思い出す。 そりゃ僕だってそれを考えなかったわけじゃないけど、実際にやってしまうあたりがリエのリエたる所以だなと思う。 そう。リエ。僕の奥さん。 見た目は子どもっぽいというか、背が高いわりに童顔で、性格はその無邪気そうな顔から受ける印象そのままだ。 まぁそんなことを言うと、「マモルのほうが小さいじゃん!」なんて要らぬ反撃をもらうことになるので、思っていても口には出さない。 気にしていない振りをしていても、男としてはやっぱり彼女より背が低いのは気になるのだ。 「……はぁ」 何も憂いていない。これはただ肺の中の二酸化炭素を吐き出しただけだ。僕は靴下を手に持ったまま、動物として生の確認を二、三回意識してこなす。 「……」 一度頭を振って、靴下をピンチで挟む。 僕は洗濯物を干しているのだ。何も悲しいことはない。 「……っと」 そうして次の獲物を籠から取ろうとした時、ふと手が止まる。 そこにあるのは、今さっきちょうど思い浮かべていた彼女の、下着。控え目にレースの入った、白い布きれ。 いつもリエは、これを……。 「……なんて、今まで何回僕が洗ってきていると思うのさ」 誰かに言い訳するように自分を嘲笑して、躊躇わずにそれを手に取る。家事は僕の担当。それに二人とも若いとはいえ、いい大人だ。思春期の少年じゃあるまいし、今さら下着くらいで鼻息荒くなどしない。 彼女にしたって「下着は自分で洗うから!」なんて言うほどもう乙女じゃない。同じように僕も、中学生の男子みたいな敏感なアンテナは捨てた。 そのはず、なんだけど……。 「あ、くっ!いつ、いたたた……!」 今度は股間から発生する痛みが、大人ぶった僕を嘲笑う。 僅かなきっかけだけで、関連付けられた反応が僕を襲う。 そこを押さえつけるようにして、膝を落とし、蹲る僕の姿が、ベランダの柵でできた影の中に吸い込まれていく。 この痛みは、楔だ。 それと同時に、自分が彼女のものなんだという証明でもあって。 自分ではどうしようもないその痛みが、なるべく早く収まるように、僕はただじっと、影の中で息を殺していた。  ̄ ̄ ̄ Lovely chicken & Strange ice cream ___ 「ただいま~」 玄関から彼女の声がする。時計を見ると、17時を少し過ぎたあたり。 ……ああ、そういえば今日は日勤か。 看護師として働いている彼女、リエの生活は不規則だ。日勤の日もあれば、夜勤の日もある。 僕としては夜勤なんて大変だなと思うけど、リエが「でもお金になるしね~」と言えば専業主夫である僕としては何も言えない。 「おかえり」 「ただいま。あれ、出かけるの?」 「ううん。今帰ってきたとこ。これ」 いつもの部屋着ではなく、外出着の僕に彼女が問う。 その答えと言わんばかりに、僕はテーブルに置いた買い物袋を少しだけ持ち上げた。 「ああ、買い物行ってたのね。今日はいいのあった?」 「鶏肉が安かった。蒸し鶏にでもしようかと思ってるんだけど」 「そうじゃなくって」 「……。新しいフレーバーが出てたよ。冷凍庫の中」 「やった~!」 僕の言葉に歓声を上げながら洗面所へ走るリエ。彼女が聞いていたのは、晩御飯の食材じゃなかったようだ。忙しげに手洗いうがいを済ませる姿を見て一人苦笑する。 戻ってきたリエはいそいそと冷凍庫からお目当てのブツを取り出し、スプーンを装備してテーブルにスタンバイした。 「もうすぐ晩御飯だよ」 「別腹だから大丈夫」 「さっき入れたばっかりだから、ちょっと溶けてるかも」 「いいよ。カチカチより多少溶けてたほうが食べやすいし」 「……意地でも今食べるんだね」 リエはけっこうなアイスマニアだ。目を爛々と輝かせながら、ちょっとお高いそのアイスに食らいつく。 案の定、端が溶けているけど、気にせずすくって食べては幸せそうな顔をする。そんな顔を見れば、何か言おうという気持ちも萎む。 まぁ、リエにとってのご褒美みたいなものだ。仕事終わりの一杯みたいなものと考えれば、理解できなくはない。 冬でも構わず食べる根性に呆れはするけどね。別に咎めはしない。 「幸せ~」 「それはよかった。でも着替えくらい済ませなよ。僕も着替えてくる」 「これ食べたらね~」 帰ってきた格好のままスプーンを頬張る、こういうところも子どものようだ。 ……でもまぁ、そんなところが可愛かったりするんだけど。 昔の自分が聞いたら唾を吐きそうな惚気た思考を抱えながら、僕は部屋の扉を開けた。 * 僕がリエと出会ったのは大学生時代。 消去法で受験して潜り込んだそこは、三流もいいところの大したことない大学で。僕は適当に単位を稼ぎながら家と大学を行ったり来たりしていた。 時間は腐るほどあって、でも気力はほとんどなくて。 バイト代は定期代くらいにしか使い道がなくて、何しに大学へ入ったのか分からないくらい怠惰な日々を過ごしていた。 きっかけは確か、たまたま入ったゼミの同期生だったと思う。 あまり社交的じゃない僕だけど、それでも角が立たない程度に人付き合いはしていて、それは彼が探すコンパの穴埋め要因になれる程度には成功していた。 「ちょっと顔出すだけでいいから。な、マモル」 「……まぁ、その程度なら」 「オッケー? よし、決まりだな! あ、場所とか決まったらまた連絡するから」 「分かった。でも、いいの? そういう経験ほとんどないんだけど」 「大丈夫大丈夫。ちょっとお酒飲んでしゃべるだけだしさ。それにお前顔は悪くねぇし。ってか、マモルって彼女いたっけか」 「いたら断ってるよ。その子に悪いし」 「……お前はそういう性格だよな。でもまぁ、そうか。じゃ、なおさら来るべきだ。目当てがいれば援護はするからよ」 「うーん、今はあんまり彼女がどうこうとか興味ないんだけど……。でも、そうだね。いい子がいれば」 「まかしとけ。これでも何人かくっつけてきてるんだぜ、俺。……何故か俺に彼女はいないけどな。くっ……!」 「……タジマはいい奴だから、きっとすぐできるよ」 おどけて崩れ落ちる彼に当たり障りのない慰めの言葉を掛けながら、そのときの僕は、ただただ面倒なことになったなぁと思っていた。 でも無為に断って関係を悪くする勇気もなかったし、彼の言う通り、もしかしたらいい子がいるかもしれないという、淡い期待を持っていなかったと言えば嘘になる。 結果として、僕は彼に感謝せざるを得なくなった。 たまに行く居酒屋とはお洒落さがまったく違うそのお店で、テーブルを挟んで僕の向かいに座ったのが、他ならぬリエだったのだから。 それまでまともに女性と付き合ったことのなかった僕が、初めて心から興味を持ったのが彼女だった。 誘ってくれたタジマがひょうきんに場を盛り上げる中、僕の興味はただ目の前の彼女にしかなかった。 部屋の間接照明に当てられたその顔はとても可愛くて。 勇気を出して話しかけた時、笑ってくれたのがすごく嬉しくて。 トイレに行ったとき、後からついてきたタジマに、冷やかし交じりに応援されたのは今思い返しても赤面ものだ。 結局、僕はタジマの輝かしい実績にまた一つ花を添えた。 ちなみに彼自身の戦績が輝くことはなかったと聞いた。 * リビングに戻った時、リエはいなかった。おそらくアイスを食べ終わって着替えにいったのだろう。 ちなみに部屋はそれぞれ別にある。 リエの性格からしててっきり夫婦同室にするのかと思っていたら、家が建った時に「別にしたから」と言われ驚いた記憶がある。 何でも「適度に距離感がないと長続きしないんだよ」とのことで、多分何かの雑誌で見て影響されたんだなと僕は納得した。 まぁ後で違う理由もあることを知ったのだけど。 あと、若くして家が持てたのは、リエのご両親のおかげだ。 結婚を快く認めてくれ、あげくに家の購入資金まで都合してもらって、僕はますますリエ(とその一家)に頭が上がらなくなった。 ま、元々上がらないけどね。それはともかく。 「……さて、作りますか」 鼓舞するように呟いて、さっき必死になって運んできたスーパーの袋と対峙。特売品の鶏むね肉に、パックに入った刻みネギ、カット野菜などを取り出す。 牛乳とかは帰ってきてすぐに冷蔵庫に入れてあるから、入っているのは今使うものばかり。すぐに材料が出揃う。 カット野菜は我が家の主力食材だ。特にキャベツの千切り。これを皿に盛りつけるだけで、手間をかけずにそれっぽくなる。 割高だとか栄養がないとか関係ない。楽ができるならそうする。それだけ。鼓舞するように呟いておいてなんだけど、料理は得意なわけじゃない。……いや、はっきり言おう。苦手だ。 世の中には自らお弁当を作る弁当男子なる人種が存在するようだけど。そしてそんな男子が女の子にモテちゃったりもするようだけど。そんなものに僕が当てはまるわけがない。怠惰系男子を舐めてはいけない。 そもそも現代日本にあって、料理が苦手なくらいでは何も不便はない。 コンビニはもとより、弁当屋やファストフード、お惣菜。食べるものは腐るほど手に入る。料理できなくても死なない。はい論破。 「……虚しい」 人知れず涙したところで、水を入れた鍋をコンロへかける。むね肉を取り出し、軽く水洗い。 水が沸騰した鍋に適当に塩とむね肉をぶち込んでいると、着替えたリエがリビングへ戻ってきた。 「結構好きな味だったかも、あれ」 「……何の話?」 「アップルパイ味」 「ああ……。でもあれ期間限定らしいよ」 「嘘!? じゃあまた買っておいてね!」 「はいはい」 日本人は期間限定に弱いと聞いたことがある。そういう意味ではリエもしっかり日本人していると言える。 昔リエに「別に無理して買わなくてもいいじゃないか」と、『一期一会』精神を振りかざしたことがあるけど、危うく家を出て行かれそうになるほどの喧嘩になった。 今でこそリエのイエスマンと化した僕だけど、昔は密かに頑固な一面もあったのだ。 結局リエに感化されて今では僕もしっかり日本人している。 「で、晩ご飯何?」 「……蒸し鶏にするって言わなかったっけ」 「そうだっけ。まぁいいや。蒸し鶏ね。……オシャレ気取っちゃってもうっ!」 「ぐあっ!? ちょ、何やってんの! ていうか脇腹にグーはダメ!」 「あっはっは! 悪は滅びるのだ!」 「うう……。いつ僕が悪に染まったのさ……」 「ご飯もうすぐできる?」 「僕の話聞いてる?」 インスタントラーメンを作ることを料理と言い張るリエからすると、どうやら鶏を茹でるだけで気取っていることになるようだった。 この家はそういった謎理論に満ち満ちていて、そしてそれが絶対のルールだった。 テーブルの上に頬杖をついて「まだかな~」と足をパタパタとさせるリエに、もはや逆らうことはしない。我が家は絶対王政なのだ。 袋麺だって鍋を使って茹でるじゃないかと言うのは野暮なのだ。 「あちちっ」 沸騰したお湯で二、三分むね肉を茹でた後は、蓋をして二十分ほど放置。その間にお皿にカット野菜を散りばめて、その他の食器を並べて。 「ご飯の量どれくらい?」 「普通で~」 「はいはい」 少し小振りなお茶碗にいつも通りの量の白米をよそう。汁物はちょっとサボってインスタントの松茸香るお吸い物にした。 やがて茹で上がったむね肉を取り出し、適当に切り分ける。……ん、ちょっと茹ですぎた気もするけど、まぁ生よりはいい。お皿に盛り付け、冷蔵庫から市販のタレを取り出してかける。 本当はタレの作り方もレシピサイトに書いてあったのだけど、素人の僕が作ったタレより、大企業の商品開発部が作ったタレのほうが絶対美味しい。 せめてとパックから刻みネギをバサッと散らして、そこはかとなくアレンジ感を出した。 「できたよ」 「わーい。マモルの手料理~」 「これを料理と言うと怒られそうだけどね」 実際少し前まではロクに包丁も握ったことがなかったのだ。 今はどうにかこうにかインターネットを徘徊し、掲載されているレシピを参考に、少しずつレパートリーを増やそうと頑張っている最中。だから市販のものだって使うし、リエも文句は言わない。 幸いというか当然というか、これまでに食べられないものが誕生したことはない。 そのうち全部自分の手で作ってやろうと決意を新たにしながら、お総菜コーナーで買ったきんぴらごぼうやひじき煮をそっと並べる。 「じゃあ、いただきまーす」 「はい、召し上がれ」 「んむ、んむ。ん~! 美味しいよ、これ。ちょっとボソボソだけど」 「あ~、やっぱり茹ですぎたかな」 「大丈夫大丈夫。生のほうが嫌だもん」 こういうところで考え方が似ているのは、性格か一緒に暮らしているせいか。 「じゃあマモルにもあげるね」 「……うん」 いくらか箸が進んだところで、リエが僕を見て言う。 対する僕は、そそくさとリエの足元へ座る。 これも我が家の絶対ルールの一つ。 僕らは基本的に同じテーブルで食事をとらない。というより、僕に普通の食事は許されていない。 さっき作っていたのも、量こそ二人分だけど、配膳は一人分。 僕は料理を作った後、給仕のように傍に仕え、リエが食べるのを待っている。 「じゃ、口開けて」 「はい……」 僕の食事は、こうしてリエに許可をもらって始まる。 椅子に座るリエを見上げるように、正座をした僕は顔を上げ口を開ける。 このときなるべく物欲しそうな目をするのがコツだ。 そうすればリエは上機嫌になって、自ら咀嚼した蒸し鶏『だったもの』を僕の口の中に吐き出してくれる。 それはまさしく親鳥が雛鳥に餌を与えるが如く。 ぐちゃぐちゃになった生ぬるいそれを僕は心底美味しそうな顔をして頬張る。 「美味しい?」 「はい」 正直に答える僕に、リエはまた次の蒸し鶏を口に入れ、僕に吐き出す。 きっとリエはこのやり方を気に入っているのだと思う。この家に住み始めてから、僕はずっとこの食べ方しか許されていないから。もしかしたら母性本能が刺激されるのかもしれない。 僕は僕で、この食べ方に異議を唱えることはない。 逆らったこともあったけど、そうするとリエは決まって不機嫌になって。あげく床に落とした豚の生姜焼きをスリッパで踏み潰してそれを食べさせられたりしたので、それからは文句も言わず喜んで彼女の咀嚼物をいただくようになった。 床にへばりついたゴミを食べることほど惨めなことはない。 「はい、これでおしまい」 「んぐ。ふぅ。ありがとうございました」 「うん。ごちそうさま」 「ごちそうさまでした。あと、お粗末様でした」 多分、消化にはいい気がする。 あと、ボソボソかどうかは分からなかった。 * 外出、というか買い物は三日に一度地元のスーパーへ赴く。 車の免許は持っていないので、真っ赤なボディのママチャリが相棒だ。 そこで食材を買い込み、荷物の重さにふらつきながら家に帰る。 買うものは主にレシピサイトに書いてあった食材。あとアイス。それくらい。 そもそも僕はお金を持たせてもらえないので、買い物に行くときだけ彼女が管理する家計から一定額を渡される。その額もそれほど多くないので、必死になって特売品を探してやりくりしている。 結果的に主婦(僕は主夫だけど)としてのスキルが短期間で身に付いた。余計な買い物ができないからね。 僕が外出できるのは、そのときくらい。 「マモル~」 「何?」 「そろそろ、準備しておいで」 「……はい」 外出時にもルールがあって、まず第一に長時間家を空けられない。 買い物のときは大体二時間くらいだろうか。スーパーまで往復で三十分から四十分かかるから、余裕を見て一時間で買い物を済ませている。 リエによれば、僕の身体のどこかにマイクロチップが埋まっていて、設定時間が過ぎるとリエのスマホにアラートがいくそうだ。今のところ違反したことはないけど、どこに行ってもGPSで分かるからねとリエは笑っていた。 まさかそんなペットみたいな……と話半分に聞いていたけど、もし本当だったら……と思うと怖いので思い切った行動はとれない。そういう意味では抑止力としてちゃんと働いているんだろう。 ……リエの場合、本当にやってそうだから性質が悪い。 あと服装。これは個人的に大きい。 だって、着ていいのは女物、それも女児服だけ。 いくら僕が小学生みたいに背が低くて女顔だろうと、僕はれっきとした男で、そういう趣味の持ち主でも断じてない。だからリエに強制的に着替えさせられて、鏡に映った自分を見せられたとき、僕は羞恥と屈辱で震えた。 ……だけど、心のどこかで、ちょっとだけ可愛いと思ってしまった自分もいて。それは僕の人生の汚点ランキングの中でもかなり上位に来る失態だった。正直、一時の気の迷いだと思いたい。 それと、「かつらと薄い化粧で誰も気付かないレベル」とは彼女の談で、最近では自前の髪が伸びてきたものだから、まるで追い討ちをかけるかのように、余計に完成度が上がってしまった。 最近では自分で着替えるのにも抵抗が無くなってきている。慣れって怖い。 「今日で何日目だっけ」 「十八日目です」 押し入れから道具箱を引っ張り出しながら答える。 僕の部屋、といっても三畳ほどしかないけど、そこにあるものは極僅かだ。外出用の女児服に、道具箱。それと、メンテナンス用の器具類。それくらい。 その道具箱の中から中身を取り出し、マットの上へ並べていく。 「まだそれだけだっけ。まぁこの前の時はすごかったもんね」 「そう……ですね」 次々と整列していく、手枷や足枷などの拘束具。ブラシにアナルプラグ。ローター。オナホ。ローションに縄。鞭。 取り出した道具が全部使われるわけじゃない。用があるのは、リエが気が向いた道具だけ。 だけど、だから、僕は全部を用意する。 今日はどれを使ってくれるんだろう。そんなことを考えながら。 「できた? なら挨拶」 「はい」 道具をすべて取り出し、リエを窺うと、頷きと指示が返る。 その言葉を合図に、僕はさっき着替えた部屋着であるメイド服を脱いで、全裸の状態で手を頭の後ろに回し、腰を落としたがに股の格好で挨拶をした。 「いつも僕のおちんちんを管理してくださってありがとうございます。今日も僕がいい子になれるよう躾をお願いします」 「いいよ。しっかりトレーニングしようね」 リエと僕。その身分の差というべき優劣の象徴が、これだった。 がに股の情けない格好をした下半身にぶら下がる、プラスチックのケースに包まれたペニス。 僕は彼女に貞操具で管理されているのだ。 きっかけは何だったか、もう思い出せない。 ただ、リエが絶対に浮気を許さない性格で、僕もそんなことをするつもりはなかったから、二つ返事で貞操具の装着を受け入れたように記憶している。 今では軽率な承諾だったと後悔することもある。 誤算だったのは、リエが貞操具を文字通り貞操を守る道具としてではなく、僕を管理し弄ぶ格好の玩具だと理解したことだろうか。 言うまでもないけど、貞操具を着ける意味は性行為を防ぐこと。それはつまり女性器に挿入もできなければ射精もできないということ。有体に言えば性欲を処理できないということだ。 リエは貞操具の鍵を握ったその日から、僕の性欲を管理する権利を得たと言っていい。 そしてそれは僕にとって、とても恐ろしいことだった。 いくら若いとはいえ、年がら年中発情しているわけじゃない。けど、不意に『そういう』スイッチが入ってしまうことだってある。 だからその度にペニスは勃起しようとするのだけど、平時の縮んだ状態でかたどられたケースの中ではそれも叶わない。膨らむ気配はするけど、大半はそれ以上に進まない。 まぁその半勃起状態でも、ケースを揺すったりして刺激すれば緩やかに快感は生まれるんだけど……。 けど、それだけだ。 むしろそれは諸刃の剣で、後には射精できない切なさしか残らない。それに度を越えればミチミチとケース内で圧迫され、むしろ痛みを伴う。 子を残す白濁液は出ず、ただ許されるのは涙のような先走り汁の雫。ペニスにも人格があるかのように、つらいと泣く。せめてと言わんばかりに、弱々しく抗議するように、ぽろり、ぽろりと零す。 どうやっても自分で気持ちよくなれない、そんな悪魔の器具だった。 そしてそんなもどかしい思いをするたび、リエを思い出す。 切なさに狂った僕を救い出してくれる、唯一の存在。 「射精したい?」と笑う彼女の顔が、脳裏にこびりつく。 リエがつらさの元凶のはずなのに、僕の頭はバカになって、その元凶に必死に媚を売る。解放してくれる彼女をありがたがる。 見え見えの罠にそれと知りながら掛かり、手のひらの上で踊る僕。そんな状態で、リエに逆らう気が起きるはずもなかった。どう頑張っても、僕が彼女より立場が上だなんて思えなかった。 ただその鍵をちらつかせるだけで、リエは簡単に僕を屈服させられるのだから。 「枷は自分で着けられるよね?」 「……はい」 リエの言葉に返事しながら、さっき自分で並べた手枷と足枷を順に手に取る。 リングのついたベルトを四つ、それぞれ手首足首に巻き付け、部屋の中央で『人』の字のポーズをとる。 「鍵をお願いします」 「ん。おりこうさん」 頷いたリエは僕の手首に巻かれた手枷に付いたリングを重ね合わせ、それを天井からぶら下がったチェーンに南京錠で繋がれる。 そこら中に僕を固定するためのチェーンやフックやリングが剥き出しのここは、部屋というよりプレイルームと言ったほうが良いのかもしれない。 だけどリエが「ここがマモルの部屋ね」と言ったから、ここは僕の部屋なのだ。たとえそこに僕を苛むものしか置いていないとしても。 そんなことを考えている間に、足はそれぞれ壁際に打たれたリングフックに繋げられた。 自ら自由を手放すこの瞬間だけは、いつまでたっても慣れない。喉はヒリヒリと痛むほど乾き、股間に力が入るのが分かる。 「……勃起しようとしてる?」 リエにはお見通しだったようで、恥ずかしさから顔を逸らしながら「……はい」と小さく返事をした。 「可哀想だね。勃起もできないなんて」 男は日常でも不意に勃起することがある。言わないだけだ。 それは何かエッチな妄想をしたのかもしれないし、道行く綺麗な女性に目を奪われ変な想像をしたせいかもしれない。 「でも、『わたし』以外で勃起する必要ないもんね」 そんな『不確定要素』で勃起する自由を奪えたことを、リエはことさらに喜んでいた。 自分以外に反応するペニスなんて要らないと言われた時は、冗談抜きで切り取られてしまうのかと思った。 貞操具と出会ったことで僕の息子は一命を取りとめたけど、果たしてそれが良かったことなのか、今でもよく分からない。 「じゃあ、開けてあげるね」 取り出されたのは、一本の小さな鍵。 だけど僕にとっては、宗教信者にとっての聖遺物のようなもの。 その鍵が貞操具に付いた南京錠に近付くにつれ、僕の下半身に全神経が集中する。 そして――。 「うふふ。小さくて可愛いっ」 カチ、という音。何度も夢で見る光景に、僕は「はぁ……」と情けない声を漏らした。 「すんすん。やっぱりちょっと臭うね」 南京錠が外され、ケースが抜き取られる。失われる圧迫感。鎖に繋がれた手足に代わり、僕の情けない部分が自由を取り戻す。待ってましたとばかりに勃起を開始する。 しっかり洗っているつもりでも、ふわりとアンモニア臭が漂う。 「相変わらず素直だねぇ」 「ひゃうっ!?」 ふうっ、とリエの吐息が当たり、刺激に飢えたペニスがビキビキと硬度を増していく。 それでも、多分平均よりは小さいんだろう。 リエは嫌悪感を抱くでもなく、小さい子どもを相手にするようにそれを弄る。 「今日で十八日目だって。だんだん射精したくなってきたかな?」 「だ、め……リエ、弄らないで……」 だんだん、だなんてとんでもない。 日を重ねるごとに射精欲は高まり、出せるものなら今すぐにでも出したい。 だけど許可なく出せばどうなるか分かったものじゃないから、待ち望んだ指での刺激も今ばかりは止めてと言わざるを得ない。 「なら、縮めてみれば?」 「そ、そんな……」 僕の場合、三日に一度の買い物以外、外に出ない。それ以外は、いわばこの家に監禁状態だ。 家事以外はすることもなく、友人もいなけりゃ趣味もない。普通の人よりもよっぽど悶々とする時間は多い。 外に出る時だってなるべく女性を見ないで、変な想像はしないように努力している。 文字通り、僕はリエの前でしか勃起しない。できない。そんな生活がずっと続いている。 だから、リエを前にして勃起が止まないのも、仕方のないことだと思う。 何せ勃起するのは、欲望を解放できるのは、リエの前だけだと躾けられたから。 逆に言えば、リエの前でなら勃起してもいいのだから。 「まぁ無理だろうけどね」 「は、う……っ」 「さて、何を使ってほしい? 昨日はオナホだっけ」 道具を引き寄せながら、リエが試すように僕の顔を覗き込む。 いつもは自分で興が乗ったものを選ぶのに、今日は僕に選ばせるつもりのようだ。 だから僕は答えた。 「き、亀頭、責めを、お願いします……」 「へぇ。何で?」 「最近、ご無沙汰だったので……。それに、……とても、つらいから」 言っていることに嘘偽りはない。実際にご無沙汰だったし、身体が飛び上がるくらいつらいのも本当だ。 本音を言えば、なるべく避けたい責め。だけど、こうでも言わないと、リエは納得しない。 リエは僕が自らつらい責めを選ぶ、その葛藤こそを楽しんでいるのだから。 「そっか。そこまで言うならそれにしてあげる」 「あぁ……」 漏れた溜息は、受け入れられた安堵か。これからを想像した諦めか。 リエは着ているロングワンピを捲り上げ、穿いていたストッキングを脱いだ。それを見て僕は股間を隠そうとして足枷のリングを鳴らす。 無駄な努力だと知っていて、それでも腰が引けた。 「今日はストッキング責めだよ」 恐怖に身体が強張る僕に構わず、ペニスとストッキングにたっぷりとローションが馴染ませられる。 「さぁ、ちゃんと我慢してね」 地獄が始まった。 * 「ひゃぎぎぎいいいいいっ!? あつ、い……っ! た……ああああっ!!」 「はいはい暴れないの。上手く擦れないから」 ストッキング責めが始まってから十分ほど。 僕の顔はすでに汗と涙と鼻水でいっぱいで、一刻も早く終わってほしいと、それだけを願っていた。 「あぎ、ぐぐぐうう……! い、ぐ、うううっ! いぎまずうっ!!」 「おっと、ダメだよ」 「はふああああっ!?」 初めは痛いだけの摩擦も、頭の中と身体がピンク色になれば快感に変わる。 思わず腰が動く強い刺激の中に射精間際の疼きが混じり、だけどそれは感じるだけで、いつまで経っても出てしまうことはない。 ただでさえ射精しにくい亀頭責め。それを射精管理の禁欲というスパイスで乗り切っても、手慣れたリエの動きはイケそうでイケない絶妙のラインを弄ぶ。 「はい、お預け」 「いや、ああぁ……っ! イか、いかせっ……!?」 「ダメ」 刺激に慣れてきたら、優しい手コキが混じる。 細くて冷たい指が、真っ赤に燃えるペニスを包む。 『出来上がった』ペニスはそれだけで射精しそうになるけど、そうなればリエはスッと手を離すだけ。 決してイケない。決して射精できない。 ただリエから与えられる寸止めの快感だけが、僕に許された快楽だ。 「そろそろいいかな」 それが一時間ほど続いただろうか。 ささやかな範囲で猛烈に暴れていた僕も、枷のリングに悲鳴を上げさせるのを止めた。 代わりに悲鳴を上げるものはいくらでもある。 「うわ、べったべた」 洗面所からタオルを持ってきたリエは、ローションと先走り汁にまみれた僕のペニスを丁寧に拭っていく。 その刺激で射精できたら、どれだけいいことか。 実際にはそんな凡ミスを犯すリエじゃない。決して暴発させず、看護師として憎らしいほど完璧に清拭を終える。 「じゃ、また明日までばいばい」 保冷剤を当てられ、すっかり縮こまったペニスが再びケースに覆われる。ほんの一時間ほどの自由時間を終え、管理される身へと戻る。 プラスチックの貞操具は安物で簡易なものだけど、僕にとっては十分堅牢な檻に見えた。 「ああ……」 手枷と足枷を外され、その場に尻餅をつく僕。お尻の痛みも気にせず、手は無意識にペニスへと伸びる。 「ああ……いきたい……いきたいよ……!」 ガシッと貞操具ごとそれを掴む手。 だけど、触れない。プラスチックの、硬い感触だけ。 「いきたい……いきたい……」 これまでの人生の中、何千、何万と繰り返してきた、自らの手によるピストン運動。自慰の動き。快楽の呼び水。 だけど、快感なんてちっともない。何もない。狂いそうなほど。 今の今までさんざん昂ぶり、火のついた身体で、それを鎮めることもできずに、燻る火をただ傍観するしかない。 こんなに近くにあるのに。自分の身体なのに。 「明日はチャンスあげようかなぁ」なんて、聞こえてくる何の根拠もない気まぐれな言葉に縋るしかなくて。 せめて可能性を潰さないよう、名残惜しさを押し殺して姿勢を正し、「ありがとうございました。また明日もよろしくお願いします」と、精いっぱいの媚を売ることしか僕にはできないのだ。 * 「明日も日勤だっけ?」 「うん。朝よろしく。明後日は夜勤だからいいよ」 「了解」 髪を乾かしているリエに牛乳が入ったコップを渡す。 本当はお風呂あがり用にとアイスを買ったんだけど。食べてしまったものはもう無い。 ここで理不尽に「何でもう一つ買っておかないの!」と喚き散らす、我がままお嬢様じゃなくてよかったと心底思う。 そういうのが好みの男性もいるのかもしれないけど、あいにくと僕にそういった趣味はない。 女性は素直で可愛げがあるほうがいい。 「マーモル!」 「わっ!?」 ソファに座ったリエは僕の身体を床の上から引き揚げ、小さな子にするように膝の上に乗せる。 自分で言うのも悲しくなるけど、つくづく僕の身体は発育不良だ。亡くなった両親も小さかったみたいだから遺伝かもしれないけど。 それにしたって、成人してなお中学生のような、下手をすれば大きい小学生並の身体というのは、神様が僕に与えた罰ゲームとしか思えない。大学でも相当好奇の視線に晒されたし。 社会からは早々にドロップアウトした僕だけど、主夫としてではなく普通に社会人として生活していれば、きっともっと何かしらの不都合があったんだろうなと思う。 現状の影響はスーパーでたまに「あら、おつかい偉いわね」と、プライドと引き換えにおばさんから飴をもらうくらいだ。 「んーっ! いいニオーイ」 「ちょ、くすぐったいってば! それに匂いなんて一緒でしょ!」 「違いまーす。マモルはマモルの匂いがするんだよー」 すんすんと後頭部を嗅ぎながら身体をホールドされ、微かに身じろぎしながら辛うじて抗議の声だけは飛ばす。 実際使っているシャンプーやボディソープは同じなんだし。 でも異性の匂いはまた違うとも聞く。それは男にも当てはまるのだろうか。 「あー癒されるー」 僕を後ろから抱きしめて、気の抜けた声を漏らすリエ。 リエは僕のことをぬいぐるみか何かと勘違いしているんじゃないか。そう思うと図らずも溜息が出そうになる。 「……あの、リエさん」 「なにー」 「その、……胸、当たってますけど」 「当ててるの」 「……そうですか」 いや、でもリエは仕事で疲れているんだ。その疲れを癒せるなら、ぬいぐるみにでも何でもなろう。 そんな殊勝な考えも、背中に感じる柔らかい感触が台無しにする。 ほんの数時間前に燃え盛った炎が、ようやく落ち着いてきたところだっていうのに。 再び反応し始める股間を必死に宥めすかせる。 「ふふふ。興奮する?」 「しません」 「なんなら、襲ってくれてもいいよ」 「そんなことできません」 「ちぇー。ほんとーにマモルってチキンだよね」 「チキンで結構」 年頃の女性が襲ってなんて言うもんじゃない。 それに、僕がリエを襲うなんてことは絶対にありえない。 主従関係とかそんなこと抜きに、ただでさえ女性経験に乏しい僕がそんな大胆な行動をとれるわけがない。 まぁ、とったところで返り討ちにされるのがオチだけど。物理的に。 「……我慢させれば爆発するかと思ったのに」 「え、何か言った?」 「何でもなーい」 だけど、だからこそリエの言わんとするところは何となく分かる。 でも、きっと僕はそれに応えられない。今はまだ。 何も持たない僕と、全てを持っている彼女。 僕は本当に臆病者で、そのくせどこか淡白で、でもリエを愛しているのは本当で。 僕の中はぐちゃぐちゃで、リエどころか自分自身ともまともに向き合えなくて。 だからリエの全てを見てみたい。 朗らかに笑う様も。ぶすっと怒る様も。嫉妬も、欲望も。 タガが外れて歪んでいく様も、全部。 たとえその代償が僕の身体、心、自由であっても。 「さてと、そろそろ寝よっか」 「うん」 「どこで寝たい?」 「……僕に選択肢ないでしょ」 「あっはは。まぁねー。だってあの檻高かったんだよー?」 およそ人ではない、家畜や奴隷のような生活を強いられたとしても。 「……リエのお金だから別にいいけど、もっとさぁ」 「だって寝てる間にマモルが逃げちゃったら困るじゃない」 「逃げないよ」 「……そんなの分かんないじゃん」 「……」 「……」 「……」 「なーんて、冗談だよー! 早く寝よっ」 一瞬だけ生まれた真剣な空気を、自ら吹き飛ばして寝室へと向かうリエ。 その姿を眺めながら、僕は自問自答する。 いつか僕は、目の前の背中を押し倒すのだろうか。 彼女の言うように、彼女を求めるがゆえに襲うのだろうか。 僕にその気持ちが無いわけでもない。多分それはそこまで遠い未来でもない気もする。 だけど、今はまだそれをしない。できない。 いつか、はあると思う。それは今じゃないけど。でも、いつか。 その前に、そんなことを考えることもできないくらい、リエに堕ちているかもしれない。 でもそれはそれでいいと思う。それもゴールの一つだ。 「……」 「リエ」 「ん、なーに?」 「……。……何でもない」 「何それー」 「いつか言うよ」 「……ずるいなー」 彼女が持つ鍵の対象が僕である限り、僕は満たされる。 彼女の持つ醜い本性も、僕のものであり続ける。 もしかしたら、その前提が崩れることによってはじめて、僕は……。
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