夫婦仲は良い、と思う。 きっかけは私の一目惚れで、彼は最初あまり結婚というものに興味がないようだったけど。長い交際期間を経て、ようやくお眼鏡に適ったのか、婚姻届に判をついてくれた。 きっと、真面目な人なんだろう。結婚する、ということを軽く考えないで、本当にそれが二人にとって最適な手段なのかどうか、吟味してくれていたに違いない。 私としては、彼が自分の元から去っていく悲劇なんて耐えられそうになかったし、公的な手段でもって彼を繋ぎ止めておきたかった。だけど彼は、もちろん私のことを欲しいと言ってくれてはいたけど、なにより自分のプライベートな時間を大切にしている人だった。口にはしていなかったけど、それが失われてしまうことに恐れを抱いているのは私でも感じられた。 すでに所帯を持っていてもおかしくない年齢、容姿、社会的地位を持っていながら、今まで相手がいなかったことを考えると、彼のその慎重さや自己愛の強さ、諦観にも似た割り切り方は、結婚相手を見つけるという意味では欠点でしかなかったのだと思う。 だけど、些細なことだった。少なくとも私にとっては。 「しおりん、何ぼーっとしてんの?」 「……。……へっ?」 「いや、へっ? じゃないでしょ。さっきからずっと真っ暗なモニターとにらめっこしてさ。仕事サボってると思われても知らないよ」 「あ、ご、ごめん。ありがと」 「はいはい。あたしちょっと外回り行ってくるから。あと、さっき来たお客さんがお土産くれたから、事務所にいる子で適当に分けといて」 「りょ、了解。いってらっしゃい」 「ん。いってきまーす」 ハキハキとした声を残しながら、同僚が事務所を後にする。 そんなにぼーっとしていただろうか。眼鏡を外して目頭を押さえる。ちらりと見たPCモニターは確かに真っ暗で、彼の好みに合わせてショートカットにした制服姿の事務員がぼんやり映っている。 「……はぁ」 顔が熱い。思考もふわふわしておぼつかない。別に指摘が恥ずかしかったからとか、熱があるから、というわけじゃない。もっと別の……理由。 モニターは10分でスリープになるよう設定しているから、少なくともそれ以上は固まっていたのだろう。何も映さないモニターの前でキーボードに手を載せたまま動かない自分を想像して可笑しくなる。ふと横を見ると、後輩の女の子がまさに苦笑といった感じで困った笑顔を向けてくれていた。前言撤回。これは流石に恥ずかしい。 「き、気にしない、でね?」 「いいですよ。それより、体調悪いとかじゃないですよね?」 「あ、うん。それは大丈夫」 「よかったです。それならやっぱり、『いつものやつ』ですね」 「……うん」 この子は私が仕事を教えていたので、それなりに付き合いは長い。それに席も隣だし、目ざとい子なので、なかなか隠し事ができない。だからこそ、この子にだけは私の『秘密』がバレてしまっているのだけど。 「いいなぁ。ボクも先輩みたいに彼氏に『愛して』もらいたいなぁ」 「や、やめてよ、冷やかすのは……」 「いいじゃないですか。夫婦なんだし、別に恥じることないでしょ? まぁボクも羨ましいとはいえ、先輩たちのような関係はちょっとハードル高いかな」 「……変、かな。やっぱり」 「んー。まぁ変かもですけど、どうでもいいでしょ? 外野がとやかく言うことでもないですし。愛の形は人それぞれってやつ」 『秘密』を知ってしまった後も、この子は変わらず接してくれる。それがどんなにありがたかったことか。その代わり、私に対する態度が少しだけフランクというか、必要以上に距離が近いと感じるようになって。嫌われず、逆に仲良くなれたと思えば良いことなのだけど。 「だってあんなに真面目で要領よくて皆に頼りにされる先輩が、こんなに身体火照らせて、しおらしくて弱々しくて可愛い奴隷ちゃんになっちゃうんですもん」 「だ、だめだって、もう……!」 こうしてデスクの下、スカートの中に手を忍ばせて太ももを撫でてくるのは、フランク過ぎやしないだろうか。先輩として怒ってしまえば良いのだけど、秘密を握られている手前、それもできない。悪意がないだけ救いではあるけど、だからこそタチが悪いとも言える。 「元々、先輩って感じやすい身体なんですよね」 「あ、……ん、や……っ!」 「えっちだなぁ」 「いわ……ない、で……」 丈の短いタイトスカートはすぐにめくり上がり、タイツに包まれた下着が見え隠れする。小さな手は堪らえようとしている性感を逆撫でするようにタイツ越しの肌を這いずり回り、必死に声を押し殺す私を嘲笑う。 それなりに広い事務所の中、離れたところに仕事中の背中がいくつか見える。だけど私達の島は今二人だけ。それにこの島は部屋の隅っこで、壁を背にして顔はモニターで隠れているから、声さえ上げなければこちらに視線を向ける人はほとんどいない。そしてそれを知っているからこそ、この子は大胆に私をイジメてくる。 「でも、月末に近づくにつれて、もっともっと敏感になってる」 「は……ふ……っ!」 「なんでかなぁ」 「いじわ、る……」 全部知ってるくせに。そう言いたいのを我慢して、声が漏れないよう唇を噛む。 「あはっ。今日も着けてるんだ。先輩を従順な奴隷ちゃんにしちゃう秘密の道具」 「やめっ、コツコツしないで……!」 そうして可愛い後輩は私の急所を突く。不自然に盛り上がった下着の上から、細い指と爪が2回、3回とノックした。 「『貞操帯』。いつ見ても現実感ないですよね。他に知らないですもん、本当に着けて生活してる人」 「……っ」 「あ、いつも言ってますけど、別に否定してるわけじゃないですから。気を悪くしないでくださいね」 「……うん、わかってる。ありがと」 これこそが、私が秘密にしていること。夫婦の繋がりを強くする道具。 貞操帯。装着者の不貞を防ぐ、鋼鉄の下着。 「最初は、先輩が浮気なんかするわけないのに必要ある? って思ってましたけど。だって先輩、旦那さんのこと好き過ぎですもんね」 「う、ま、まぁ……」 「ひゅーひゅー。で、まぁ、ボクも旦那さんと何回かお話したことありますけど、別に束縛するタイプでもなさそうだし、強制させてる感じでもなかったし、不思議だったんですよね」 「……」 本来の機能から言えば、必要はない道具なのだと思う。まぁ、レイプ魔から操を守る、とかそういう身体守って命守らず的な機能がないではないけど。 「でも、理由聞いて納得しました。ああ、先輩らしいなって」 「……本当に引いてない?」 「引いてないですよ。ボク懐広いので。それに、先輩、ボクが今みたいに身体にイタズラしても、振りほどかないですよね」 「それは……。弱み、握られてるから……んぅっ!?」 「……本当に?」 少し冷たい指が、ブラウスの隙間から侵入してくる。小柄な自分の姿が隠れていることをいいことに、手付きがどんどん大胆になる。 彼女が言う通り、敏感な身体では抗うことも難しく、抵抗を諦めた脳は快楽をあるがまま受け止めようと降伏した。 「ここ、会社ですよ」 「……っ!?」 だけど、耳元で囁かれた言葉に意識が引き上げられる。僅かに残った倫理観が、最後の一線を踏みとどまらせる。 いつもそうだ。この子は、私を弄んでおきながら、絶対に最後の一線を越えようとはしない。 「旦那さんに悪いですからね。それに、これの意図もわかっているつもりですし」 「あう……」 またコツコツと貞操帯を小突かれる。 「ボクとしては、可愛い先輩が見られればそれで満足です。眼福ってやつですね」 「……からかって」 「からかってないです。ボク、先輩のこと大好きですから」 ニコリと笑う後輩の顔に、悪意は本当になくて。口にする言葉も、本心なのだろうと信じられた。 「それに、こんなことをしても怒らない優しい先輩も」 「も、もう……っ」 「本当は物理的にも社会的にもボクを制裁できるのにしない臆病な先輩も」 「……」 だって、そうだ。この子はいつも、本心しか言わない。そしてそれは正しくて、核心を突くことが多い。 「弱みを握られて、相手に支配されることに悦びを感じるマゾな先輩も」 「……っ!?」 だからこそ、タチが悪い。 屈託なく笑う笑顔の中の瞳に射抜かれ、心臓がキュウっと締め付けられるのを感じた。 ▼ 彼は、優しい。 惚れた弱みというわけじゃないけど、そういう贔屓目を抜きにしても、彼は優しいと思う。 私なんかと結婚してくれて、なんていうほど自分を卑下するつもりはない。でも、彼を形作ってきた彼自身の主義を抑えてまで私と一緒になってくれたことは、本当に嬉しく思っている。 だからこそ、私は何でもしてあげたいし、何でも受け入れてあげたい。元々そういう性格だったこともあるけど。好きになったからには、全力で私という存在を彼に刻みたいし、私にも刻んでほしい。そう思っている。 ……やっぱり、惚れた弱みかもしれない。 「ただいまー」 会社から歩いて10分ほど。最近建ったこのマンションに引っ越してきたのはつい最近だ。今までは私が彼の部屋に転がり込んで同棲していたのだけど、彼が「仕事場に近いほうがいいでしょ?」と言って部屋を借りてくれたのだ。 彼自身はPC1台あればどこでも仕事ができるので、近くにファミレスさえあれば場所にこだわりはないらしい。なので純粋に私のために引っ越してくれたわけで、その気遣いがまた嬉しくて、しばらく心が舞い上がったものだ。 「ふぅ……」 窓から夕日が差し込み、リビングを茜色に染める。彼が斡旋してくれたあの会社は、過去の職場と違いお給料も良くて定時で帰れる。ブラックとまでは言わないけど、これまであまり良い環境とは言えない会社に勤めていたこともあって、その待遇の良さは得難いものだった。 「お仕事も充実してるしね」 私の実力ならもっとやれるはず、と言ってくれたのも彼だ。とにかく、そういう目利きがすごい。自分でも気づいていなかったけど、過去やっていたどの仕事よりも、今の仕事が自分に合っているのを感じる。そして合っているからこそ実力を存分に発揮できるし、結果として社内での私の立ち位置はかなり居心地の良いものになっていた。 ……あの後輩だけはなんとも言いづらいところだけど。 「……さて、着替えて晩御飯の準備をしますか」 とにかく、私の生活は激変した。それが良かったのか、それとも悪かったか。そう問われれば、私は間違いなく良かったと答える。 私は今、本当に幸せなのだ。 ▼ 服を着替える。一般的なOLのスーツから、家事用の服へ。 「えーっと、今日は……メイドさんか」 彼はコスプレが好きだ。彼自身はコスプレじゃなくて私が可愛い服を着ているのが好きなのだと言っていたけど、メイド服やセーラー服を着るのがコスプレじゃなくて何というのか、私にはわからなかった。 案外俗っぽいというか、こういうの好きなんだねと言うと、バツが悪そうに頭を掻きながら「まぁ、否定はしない」なんて言うものだから、可愛いねと笑いながら内心萌え悶える心を抑えるのに必死だった。 「……ん。お腹、二の腕、太ももにお尻。変わってないね」 そんな彼の期待を裏切らないよう、私も努力している。スタイルの維持もその一つだ。だらしない身体じゃ可愛い服も台無しだし、彼の横に立つ資格もない。いつまでも綺麗な自分を見てもらいたいし、何より彼の妻として、自慢してもらえる存在でありたい。彼の失望した顔を想像するだけで、嫌な動悸がしてくる。 姿見に映る身体は、彼の理想とするプロポーション。これを維持管理するのも、私の仕事だ。 「ん……と」 点検が済んだところで、衣装を身にまとう。全裸に貞操帯の姿から、エプロンドレスのメイドさんに。スカートが股上の破廉恥なメイド服もあるけど、どちらかというと彼はロングワンピースの清楚なメイド服がお好みのようだった。髪をまとめホワイトブリムを着ければ、まさに上流貴族の使用人といった風情。ご主人様のために、生涯身も心も捧げる様は、今の私の現実とそう変わらなくて。メイドという立場は私と相性が良いような気もする。 ……なんて、服を着替えるだけで影響されるあたり、私も結構単純だなと苦笑する。 「あとこれも……」 おまけに、道具箱から取り出した革の首輪と手枷、足枷を装着する。 これは単に見た目の問題。アクセントとしてこうした拘束具があると、興奮度が倍増するとは彼の談。とはいえ、アクセントに留まらず、実際に拘束されることもあるのだけど……、私も、それほど嫌いじゃないから困ったものだ。 彼が興奮してくれるのが嬉しい。より強く自分が彼のものだと実感できるのが嬉しい。少し、被虐感に酔っている部分もあるかもしれないけど。 「さて、お料理しましょう」 何となくお上品な言葉遣いで勢いをつけ、台所へ急ぐ。 妻として。メイドとして。そして……奴隷として。 全てはご主人様のために。 ▼ 結婚は契約だ。私はそう思っている。社会的に、公に、二人の関係を認めてもらう契約。 そして、互いが互いを認め合う契約。それ以上でも以下でもない。二人の詳細な関係性までは指定していない。 だから、夫婦の形は様々だ。亭主関白。かかぁ天下。友達の延長のような関係もあれば、必要最低限のドライな関係もある。 私達は、どうだろう。好き合っているのは間違いない。おそらく、私のほうが想いの比重は重いだろうけど。仲睦まじい関係であることは確かだ。 でも、それだけじゃない。私達の関係は、もう少し複雑だ。主従と、管理。愛し合いながらも、そこには『制度』とも呼べる二人だけのルールが有る。 「ふぅ。ただいま」 「おかえりなさいませ、ご主人様」 今日は外で仕事をしていた彼が帰ってくる。それを玄関先の床に正座した私が、三つ指ついてお出迎えする。 大仰だけど、昔からこの国で行われてきた風習だ。それに私はやりたくてやっている。愛しい人が無事に帰ってきてくれたのだから、溢れんばかりのおかえりなさいの気持ちを表現したい。その証拠に、何年経ってもこうして彼が帰ってきてくれたことに心は浮足立っているのだから。 「きちんと出迎えできてえらいね。ありがとう」 「あ……っ、う、ん……ちゅ……」 すると彼は必ず私を褒めて、キスをしてくれる。決してこれ目当てでやっているわけではないけど、期待していないと言えば嘘になる。それに身体は正直で、脳がドバドバと幸福ホルモンを放出し、全身が歓喜で震えているのがわかる。我ながらチョロすぎる気もするけど、事実なのだから仕方がない。 「仕事はどうだった?」 「うん。今日も問題なし。この間提案した案件も通りそうだし、順調」 「そう。さすがは僕の奥さんだ」 「あ、ちょっ、だめ……っ!」 跪く私に覆いかぶさるようなキスから、頭を撫でながらのハグへ。私のご主人様は割とスキンシップに容赦がない。外にいるときはそうでもないのだけど。多分照れ屋なのだと思う。そういうところも可愛い。 それはともかく、これはマズイ。非常にマズイ。いつも同じことを繰り返していて、彼もわかっているのに。……いや、わかっているからわざとやっているのだ。彼はそんなドSさんなのだ。 「あ、ああ……あ……」 抱きしめられ、幸福ホルモンが臨界点に達した私は、情けなくもその場でおしっこを漏らしてしまう。一旦貞操帯に阻まれたおしっこは、隙間から不格好に床に飛び散る。 「あーあ。こんなに汚して。ほら、こういうときは何て言うのかな」 「ご、ご主人様にぎゅってされて、嬉しすぎて……う、嬉ションして、ごめんなさい……」 「いいよ。ちゃんとお掃除したら許してあげる」 「あ、ありがとう……ございます」 私は悪くない。でも、『私が悪い』のだ。だから、そんな私を許してくれる彼に感謝する。感謝しながら、喜びの雫に口をつけて啜り舐め取る。彼とキスをした口で汚物を処理する落差に震えながら、つつがなく謝罪を完了する。 「お掃除……できました」 「よしよし、えらいね」 「も、もう、だめだって! また出ちゃうから……!」 普通、ではないのだと思う。簡単に嬉ションするこの身体も。それを舐め取る行為も。それらが愛情の一環として成立しているこの関係も。 でも、私達にとっては普通で。私こそが望んだ関係で。 「今日は何かな」 「豚肉があったから生姜焼きにしたけど」 「いいね。丁度そういう気分だった」 「ビールは飲む?」 「んー、せっかくだし頂こうかな」 あれも、これも。なんてことのない日常の一コマでしかない。 ▼ 食事は、一緒に食べるときもあれば、別々に食べるときもある。 あと、基本的に彼は食事中にあまりおしゃべりをしないので、 「これ、おかわりもらえるかな」 「うん。……はい、どうぞ」 「ん、ありがとう」 会話といえばせいぜいこれくらいのものだ。行儀が良いと言えばそうなんだろう。 それに今日はメイドさんなので、なおさら私も話しかけることはしない。少し離れたところに立って、何かあればお給仕。それだけのお役目に徹する。 「ごちそうさま」 「お粗末さまでした」 「今日も美味しかったよ」 「それはよかったです」 それでも寂しい思いを抱かないのは、こうして優しい笑顔で褒めてくれるからだろうか。たった一言なのに、それだけで準備をしていた私の苦労は報われて、よし、次も頑張ろうと思えるのだ。 「もう少しだけ仕事するから、その間に食べていいよ」 「うん、いただきます」 彼の許可が出たので、私も食事にする。 私の食事は許可制だ。彼の許可が出れば食べ、出なければ食べない。それこそ、餓死しようとも。もちろん彼がそんな非道な命令をすることはないので、餓死云々は私の心がけの話だ。 それに、許可がいるのはなにも食事だけじゃない。着る服だって彼が管理している。今着ているメイド服のようなコスプレっぽいもの、仕事着であるスーツ、外出用に彼好みの私服が何着か。それ以外は与えられていないので、彼の指示通りの服を着て過ごす。 さらに言えば、スケジュールもすべて彼が管理しているので、仕事中以外はほぼ彼の監視下にある。プライベートも、彼が決めた時間内で済ませる。門限を破る、という概念もない。そもそもすべての行動が彼の掌の上だから。 「ごちそうさまでした」 他にも私個人の資産や亡くなった私の両親が遺した財産、印鑑や身分証から、果ては排泄や性欲、睡眠といった生理現象まで、私はすべてを彼に譲渡している。 自由になるお金は1円もない。私が持つもの、着るもの、社会的な身分まで、すべて彼の所有物。排泄は彼の許可を得て行い、勝手に性欲を解消することも許されない。睡眠は決められた時間に倉庫部屋に置かれた檻の中に入り、自動で扉が開くタイマーの時間をセットして寝る。 与えられた自由な時間は、常に彼のためにある。お世話をしたり、教養を身に付けたり。どうすれば喜んでもらえるか、ふさわしくなれるか、役に立てるかを考えたり。趣味はと聞かれれば、彼のために頑張ること、と答える。最近では、もっと頭の中を彼でいっぱいにできないかと、自分なりに考えた奉仕の心得を暗唱したり。彼のためにどうあるべきかを宣言した音声を録音して延々と聴いていたり。 何をするにも彼の許可が要る、そんな不自由な身分。彼のためだけに生きる、そんな奴隷のような身分。それが今の私の立ち位置。 世間から見れば犯罪のようなこの関係が、私が文字通り生涯を捧げて守っている『安心』なのだ。 「ご主人様」 「……ん?」 どうしてそんな事になったのか。唯一秘密を知っている後輩にその理由を伝えたら、さすがに呆れた顔をしていたのを思い出す。 「あの、その……今日は、あの、お給料日で……」 「ああ、そうだったね」 彼がスマホを操作して、私のお給料が振り込まれるインターネットバンキングの口座にアクセスする。そのアカウントのパスワードは彼しか知らなくて、私は引き出すことはおろか残高も知らない。おそらくは全額をその口座から自分の口座に振替えて、彼はスマホを置いた。 「はい、確かに受け取ったよ。ご苦労さま」 「ああ……お役に立てて嬉しいです」 受け取ってもらえた感謝の念を込めて、彼の足元に土下座する。そんな私の労をねぎらうように、彼の足が私の後頭部を優しく踏みつけた。 「嬉しいのは、これからのご褒美のほうだろう?」 「……いじわる」 「ははは。わかってるよ。僕の奥さんは、相手にすべてを捧げて管理してもらうのが大好きなマゾヒストだからね」 彼の言葉に、心臓が苦しくなるくらい高鳴る。 ご褒美。捧げる。管理。マゾヒスト。 そうだ。私はマゾヒストだ。問題なく社会に適合して暮らしているように見せていて、その実、彼にすべてを掌握され従属してしか生きられない弱い生き物。そんな自分の背徳的でディストピア的な閉じた世界が、たまらなく愚かしくて危うくて愛おしい。 彼が一言「お前はもういらない」と言えば、すべてが終わる世界。その世界で、ただ一人生きている。そんな世界の、ただ一人の住人になる権利を、私は『勝ち得た』のだ。それ以外のすべてのものを犠牲にして。 「じゃ、お風呂に入ろうか」 「ああ……はいっ」 「月に一度のご褒美をあげないとね。お預けされて切ない身体で一ヶ月、頑張って働いて貰ったお給料全部はたいて、やっと恵んでもらえる1回だけの絶頂。嬉しいよね」 「はぁ……っ、嬉しい……嬉しいです……、ありがとうございます……!」 でも、まだ途中だ。今の私は『逃げようと思えば逃げられる』。 それではだめなのだ。彼は来る者を拒まないけど、去る者も追わない。私から離別の雰囲気を感じただけで、彼の心は私から離れてしまう。興味を失ってしまう。私に離れる気がなくても。彼が疑念を抱いた瞬間、手遅れとなる。 それこそが私の恐れていること。 だから管理してもらうのだ。もっとキツく、もっと厳重に。後戻りも心変わりも不可能なほど、徹底的に。 そうすればするほど、彼は私から目を離せなくなるから。 「……あなた。旦那様。ご主人様……っ」 「どうしたの、急に」 「ううん。なんか……色々、溢れ出しただけ」 「色々?」 「好きとか、愛してるとか、そういう感情。溢れすぎて狂っちゃいそうなくらい」 「もう狂ってるよ、僕も君も」 「……だめ、まだ足りない。私、本当は怖い女なんですよ?」 「知ってるよ」 今はまだ、幸せな夫婦生活を楽しんでいよう。その中で、できる範囲の私を捧げ尽くそう。 そして時が来たら、実行に移そう。私が、本当に彼のものになるために。 彼が、1秒たりとも私から目を離せなくなるように。 「いつか本当に、私の『全部』、貰ってくださいね」 「……君がそれで良いのなら」 そうしてようやく、私は自信を持ってこう言えるのだ。 『彼さえいれば他に何もいらない』と。
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