幸せな夫婦生活2

プレミアム
 ドアの鍵穴に差し込んだ金属が、わずかに震える指先から熱を吸い取っていく。カチリ、と乾いた音が響いた瞬間、私はもう一人の自分へと切り替わっていた。

「ふ……ぅ」

 外の世界では『森下紗希(もりしたさき)』として過ごしている。どこにでもいる普通の社会人。今日も職場で笑顔をつくり、溜まった書類の処理に追われ、上司の小言を呑み込んできた。
 
 だが、玄関の扉を閉めた途端、その仮面は剥がれ落ちる。
 家の玄関の空気は、ともすれば外よりも重い。湿り気を帯びた沈黙が全身にまとわりつき、喉の奥を圧迫する。廊下の先、リビングのドアに視線を向けると、明かりとともに彼の気配がした。

 秋山慎(あきやましん)。私の『ご主人様』。
 その存在を意識しながら、私はパンプスを脱ぐ。ストッキング越しの土間が、私の体温をどんどんと奪っていくようだ。続けてスーツのジャケットを脱ぎ、ブラウスのボタンを外す。何度繰り返しても、指の震えが止まらない。慣れたはずの『服を脱ぐ』という作業が、とてつもなく厳かで、失礼があってはならない儀式のように思える。

「……ふ……ぅ……っ」

 私を『人間』としていた衣服を全て脱ぎ去った。誰もいない玄関で一人、一糸纏わぬ姿で立ち尽くす。いや、少し語弊があった。布ではないが、スチール製の拘束具が股間を覆っている。いわゆる貞操帯だ。
 とはいえ、玄関に一人裸でいる滑稽な状況には変わりない。

 そのまま、靴箱の上に置かれた革のベルトを手に持つ。犬が着けるような、だがそれよりもはるかに頑丈で分厚い首輪。見た目に反してその革はしなやかで、肌に当たる面はしっとりと柔らかい。丁寧に後処理がされ、また使い込まれた証だった。

「んっ……」

 首筋に冷たい革が触れた瞬間、背骨の奥を電流が駆け抜ける。先端が首に巻き付き、ベルト穴を通り過ぎるたび、少しずつ喉を圧迫していく。首の周囲にじわりと重みが広がり、呼吸が浅くなる。
 
 やがて、カチリと南京錠が嵌まる音が、身体の奥深くで反響した。外で抱えていた仕事の不満も、ささやかな自尊心も、すべてこの音に吸い込まれる。

「……ご主人様」

 自分の声が小さく震えた。羞恥に頬が火照る。
 これで、私はただの『所有物』だ。

 視線を床に落とす。首輪を着けると、自然と膝から力が抜けていく。許可のない二足歩行は許されない。そんな彼の調教が、無意識にまで浸透している。
 
 フローリングの廊下に、膝をつく。続いて両手。四つん這いの姿勢になり、低い棚に置かれたリードを咥える。革の匂いが鼻を突き抜けた。そのまま獣のように四つ足で廊下を進み、リビングへのドアへと近づく。僅かに開け放たれた隙間から、テレビの音声が聞こえる。

「ふぅ……はぁ……」

 私はいつも、この部屋に入る時の緊張が抑えられない。ご主人様がいる部屋に入る、この瞬間の緊張が。
 それでも躊躇っている時間は無い。玄関が開く音で、私が帰ってきたことは分かっているはず。もたついて彼に失望されたくない。意を決してドアの隙間に顔を挟みこみ、身体が通れる分だけ開いた。

 目の前に広がるのは、整理整頓されたモデルルームのようなリビング。几帳面な部屋の主はだらしない生活を好まない。その主はソファに座り、後頭部だけが見えている。臆して止まってしまいそうになる四足を動かし、ご主人様の元へ。

「ん……。只今戻りました」

 咥えていたリードを一旦床に置き、帰宅の挨拶。
 四つん這いのまま見上げた先、端正で知的な顔がこちらを向く。彼の存在感は圧倒的で、私は息を飲み込むしかない。

「お帰り。今日は遅かったな」
「す、すみません。仕事が、溜まっていて」
「押し付けられて、か。何にせよ、ご苦労様」

 表情はなくとも、それが労いの言葉であることは分かる。この世で唯一私を労ってくれるご主人様。その言葉に、目頭が熱くなる。

「リード」
「は、はいっ」

 短い指示が飛ぶ。私はすぐさま床に置いたリードを咥え、差し伸べられた手に渡す。

 人間から所有物になるのは私の意思。
 所有物を自分のモノだと主張するのはご主人様の権利。

首輪の金具にナスカンが通り、私の命がご主人様の手と繋がる。リードはその媒体だ。ようやく私は緊張が解れていくのを感じた。

「紗希」
「は、はい、ご主人様」
「今、何がしたい?」

 ご主人様は、厳しい。ルールには厳格で、破れば容赦ないお仕置きが待っている。
 だが、決して私という存在を軽視しない。きちんと私の意思を尊重し、私の望みを引き出そうとしてくれる。心から望まないことを強要しない。先ほどまで言葉の暴力を浴びせてきた誰かとは違い、私を認めてくれている。

「おみ足を、舐めてもいいですか?」
「ああ」

 だからこそ私は、何でもしてあげたくなる。この方に、喜んでほしくなる。どうすれば、ご主人様の望みを叶えて差し上げられるのか。何をすれば、彼の心を満たしてあげられるのか。
 それはまるで、敬愛する神様が目の前に降臨したときのような高揚感にも似ている。

「失礼します」

 割れ物を扱うように丁寧に靴下を脱がせ、素足を露わにする。自分と違い、角ばって大きな足。身体を伏せ、顔を床につくほど落とし、その指先に口づけをする。

「ん……っ」

 形容しがたい感情が、口先から伝わってくる。一般的に考えれば、屈辱以外の何物でもない卑しい行為。だが今の私にとっては、この胸に溢れる感情を表現する何よりも尊い行為。

「ちゅ……ぅ……」

 鼻腔に感じる少し汗ばんだ臭い。舌先に感じる微かな塩味。普段なら嫌悪するだろうその不快な刺激。だが、だからこそこの行為に意味を感じる。不快であればあるほど、私の想いを強く伝えられる。あなたのために私はここまでできるのだと、知ってもらいたいから。

「上手だ」
「~~~っ」

 軽くリードを引かれ、頭を撫でられる。
 それだけで私の心は有頂天になる。先ほどまでの鬱屈とした外の世界でのことなど全て吹き飛び、幸福で満たされる。

 大人になってから、褒められたことなどあっただろうか。今の私を褒めてくれる人など、いるだろうか。

 人としての根源的な欲求が、ご主人様によって与えられる。私にとってそれは麻薬にも等しい快楽だった。これだけでこの方にお仕えするには十分な理由となっていた。

「は、ふぅ」
「ありがとう。晩御飯はできているが、先に風呂に入るといい」
「あ、はいっ」
「疲れたろう。温まっておいで」

 私の涎でびちょびちょになったおみ足を丁寧に拭い、靴下を戻す。その様子を優しい眼差しで眺めながら、ご主人様は私を気遣ってくれる。

 これまでの人生の中で、味わったことのなかった充足感。
 サブミッシブとして自覚した私が出会った、理想のドミナント。

 緊張感と幸福感が同居したこの生活。
 私は神様に祈るように、ご主人様に感謝していた。

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