デスストーカーは聖母の如く

 地下室は埃っぽい。当然だ。放ったらかしなんだから。
 元々は親父がトレーニングルームとして作ったんだが、当の本人は数年前に他界してしまった。受け継いだ俺も初めの頃は意気揚々とそこで身体を動かしていたが、すぐに飽きて使わなくなってしまった。
 だがまぁ、そんなもんだろう。ぶら下がり健康器なんて、どれほどの家庭で物干し竿と化していることやら。それと一緒だ。妙に説得力があると思った奴は、俺と同類だ。
 で、後はご想像通り。次第に足が遠のき、場所がもったいないとあれこれ物を置きだす。そうなればいよいよおしまいだ。安くはなかったはずのその空間はますます本来の用途から外れていって、我が家の地下室は今ではすっかり物置と化してしまっている。年中涼しいから涼むには丁度いいんだがなぁ。圧迫感があって気が滅入るんだよ。

 そんな地下室だったが、実は最近になってまたちょくちょく出入りするようになった。といってもトレーニングとしてではなく、新たな存在意義を見つけたに過ぎないんだが……。それでも使わないよりはマシ、なんだろう。俺としては、素直にそれを喜べないんだが。まぁいい。

「よ……っと」

 最盛期よりいくらか整理され、それなりに空けた空間が広がる。コンクリート打ちっぱなしの、無味乾燥とした部屋。備え付けの蛍光灯はこの前替えたばかりで十分明るい。さすがに隅に行くと少し暗いが……。
 目当ての物は、その片隅にある。

「相変わらず異様な光景だな……」

 煌々とした蛍光灯に照らされ、姿を現したものを、なんと形容すればいいのか。
 一番近いのは、ミイラ、だろうか。といっても、皮と骨だけになった干物みたいなやつじゃない。そうだな、ホラー映画とかに出てくるミイラ男なんか分かりやすいかもしれない。包帯がぐるぐる巻かれたあれだ。あれが椅子に座っていると思ってくれたらいい。肘掛けに手をやって、足も揃えて、深く腰掛けて。ああ、頭はちょっと反ってるかな。
 ただミイラ男と違うのは、サイズが小柄なことと……。巻かれてるのが包帯じゃなくて、てらてら黒光りするビニールテープだということ。

「おーい、生きてるかー」

 聞こえているかどうか分からないが、一応声をかける。驚く無かれ、これは人だ。人としての要素などそのシルエットくらいのもんだが、でも人だ。ミイラ男に中身があるのかどうか知らないが、これは本当に中に人が入ってるんだ。
 信じられるか?
 俺はこの段階ではまだ信じられない。正直な。経緯を知っているどころか、当事者のはずなのに、だ。この異様な物体に、未だ慣れていないからなんだろうか。実際に『取り出して』みるまで、本当にそうなのか確信が持てないんだよ。
 おかしな話だろ。でも、この姿はそれくらい人間性を剥奪する。呼吸による胸の上下や身じろぎすら、注意して見なければ分からない。学生が文化祭で作ったオブジェだって言っても疑われないかもしれない。新聞紙をくしゃくしゃに丸めてテープで整形して作るやつだ。あれだって相当滑稽な造形だが、『これ』とそんなに変わらない。
 ……ああ、もう一つあったな。死体だ。殺された死体が遺棄されるときの姿にも見える。どっちにしたって異常だ。

「ん、結構溜まってるな」

 くだらないことを考えながら視線を逸らすと、そこにはカテーテルと繋がった導尿バッグが椅子に引っ掛かっている。病院とかでよく見るやつだ。尿道に管を挿して、強制的に小便を排泄する。こんなのもネットで買えるんだから便利な時代だよな。
 本来は便所に行けない病院患者や要介護者のための器具だが、まぁこの姿を見れば納得できるだろ。便所どころか動くことがそもそもできないんだから。たぷんと満ちている黄色い液体はもちろん小便だ。一日放ったらかしだからな。そりゃ溜まる。

「……っ」
「わり、痛かったか」

 カテーテルをずるりと引っこ抜く。微かに身体が跳ねた気がする。そりゃそうか。俺だってチンコに入れられたカテーテル引っこ抜かれたら痛いと思う。
 それでも、近くにいる者が気づくかどうか程度にしか、動けないんだ。なんせ椅子にぐるぐる巻きの雁字搦めだからな。筋骨隆々の大男ならいざ知らず、こんな細い身体ではこの拘束に抗えるとは到底思えない。仮に相当痛みを伴う拷問をしたって、声は多少漏れるだろうが身体は少し捩れて終わりだろう。
 身体が動かないってことは、感情のやり場もないってことだ。それがどれほどのストレスを生むか、想像に難くない。

「剥がすぞー」

 さて、そんな牢獄に囚われた囚人も、いよいよ解放の瞬間だ。ベリベリとビニールテープが剥がれる音と感触を、本人はどういう思いで聞いているのか。
 俺は……別に何の感慨もない。こいつがどうなろうと知ったことじゃないしな。
 だからというべきか、拘束も容赦ない。ガチガチに巻かれたテープはなかなか剥がれない。無駄に強力なんだよなこれ。面倒極まりないが、自分が巻いたんだから文句も言えない。いっそカッターかなんかでズタズタに引き裂きたい。さすがにしないが。

「……っと。ふう。これで半分か」

 椅子と固定していたテープを剥がし、次に上半身を剥がし終える。圧迫感が薄れてホッとしているだろうか。
 といっても、中身は黒いままだ。全身タイツを着ているからな。見た目は未だ、のんべりとしたオブジェに変わりない。最初はそれこそ包帯とか、ストレッチフィルムとか色々試したんだが、結局ゼンタイになった。二重に巻くの面倒なんだよいちいち。
 で、当の本人は数回頭を振って、それきりまた大人しくなった。現状を把握したってところだろう。ジタバタ暴れまわるでもなく、じっとしている。
 小さな頭部。狭い肩幅。細い腕。女性的な胸の膨らみ。それらがゼンタイに包まれて、マネキンのようにも見える。太ももの上で手を重ねて、そこだけ見れば椅子に座る貴婦人の趣きだが、如何せんのっぺらぼうのままなんで人間味がない。動きがあるだけまだマシだが。いや、逆に怖いか。

「足剥がすぞ」

 俺の言葉に、自由になった頭がこくんと頷く。きちんと意識があることを確認しつつ、下半身もベリベリ剥がしていく。
 椅子から開放される脚。周囲に散らかるゴミ。勿体無いっちゃ勿体無いなこれも。まぁどうせこいつの金だからどうでもいいが。

「……よし。じゃあ後ろ向け」

 そしてようやく全てのテープが剥がれる。そこには一体のゼンタイ人形。もとい人間。
 そのまま、というか一人では脱げない仕様なので、後頭部にある小さな南京錠を外して、ファスナーを下ろしてやる。

「ふぁああっ……。はふぅ、あ、ありがとうございますぅ……」

 果たしてそこに現れたのは、容姿の整った若い女性。少し幼顔で痩せっぽく、笑った顔がとても可愛らしい。地方のアイドルグループくらいなら入れそうだ。身体は小さいが、スタイルも悪くない。
 だがそんな魅力を吹き飛ばすかのように、髪の毛を失った頭が強烈なインパクトを見る者に与える。声は掠れ、全身はやせ細り、汗にまみれて。よく見れば目の下にクマができていたり頬が痩けていたりと、憔悴した顔をしている。

「ん……! んん……」

 だが、それも当然だ。こいつは、一日中こうして過ごしている。比喩じゃなく、本当に一日中だ。
 物のようにテープでガチガチに梱包されて、地下室にポイと放置されてるんだ。一日、何もできない。食事も、運動も。さすがに日に何度か水分補給はするが、それだけだ。買い物や遊びに行くことなんてもってのほか。だから美容室の代わりに俺が刈り上げるし、化粧なんてする必要もない。生理も薬で止めている。何もない。ただただ、あの椅子の上で時間を浪費している。目も見えない、耳もろくに聞こえない。風も感じられない。そんな拘束空間の中で、ただ一人。
 俺なら、耐えられない。よく気が狂わないものだと、薄ら寒いものすら感じる。

「おかしいところはないか?」
「はい、大丈夫ですっ」

 だが、そんな状況でもこいつは笑う。俺も白々しいセリフを吐く。
 これは同意の上なんだ。そうやってそれを納得する。

 互いの条件。それを飲みあった結果、こんなことになってしまった。異常だとは思う。けどもはやどうしようもない。拗れた糸は、放っておくしかない。いっそ捨てたり、バラバラに切ってしまえればいいのに。どうしてもそれができなかった。ただ、それだけなんだ。俺が弱かっただけなんだ。
 その証拠に、ほら。少し声をかけただけで、こいつはこんなにも嬉しそうで。

「ん。ならいつものメンテだ。行くぞ」
「はいっ」

 どうすればいいのか分からない。俺は。こういう立場に置かれた時、こういう反応を見せられた時、俺はどういう対応をすればいいんだ?
 受け入れて慈しむわけでもなく、突き放して冷たくするでもなく。曖昧な態度をとってしまう俺は、とんでもなく優柔不断なチキン野郎じゃないか。そうやって、そう思って、いつもモヤモヤしてるんだ。頭を掻き毟りたくなる。ガリガリと、血が出るほど。いっそ情けない脳みそが溢れ出るまで掻き毟って、こいつが、それを見て……。

「どうかしましたか?」
「……なんでもない」

 結局、誰かがどうにかしてくれることを望むんだ。首輪をつけてリードを引きながら、誰にも見えないようにそっと、顔をしかめる。
 地上に戻る階段が、やけに長く感じられた。

 黒く、感じられた。

▼

 今日は晴天だ。馬鹿みたいに爽やかな青だ。梅雨に入ったからといって、いつも雨が降っているわけもない。そりゃそうだ。どうでもいい。
 彼女は今、庭にいる。田舎に建ってる家だから、庭もそれなりに広さはある。管理が面倒だから芝生以外ほとんど何もないが、裸足で駆けまわるにはちょうどいいかもしれない。全裸で駆けまわるにはどうか知らないが。

「あ……む。んく……んく……」

 まぁ格好はどうあれ、毎日こうして太陽の下に出してるわけだ。それは、食事に排泄、運動、風呂等を同時に満たすため。それと、太陽光を浴びないとビタミンがどうとかという昔聞きかじった曖昧な情報のためだ。病気にでもなられたら面倒だからな。そういうことにしてる。
 とりあえず元気に飯を食ってるんだから、今のところ大丈夫なんだろうと思ってる。ペット用の餌皿だが、ちゃんと一日分の栄養を取れるように色々入れてやってるんだ。何せ、食事はこの一回だけだからな。地下室に戻ったあとは、また明日の同じ時間になるまで解放しないから、文字通りこれがこいつの生命線だ。
 ……しかしウマそうに食ってるな。やっぱ空腹が一番のスパイスって本当だな。

「ぷあっ。れお……れろ……。ん。ごちそうさまでした」

 っと、食べ終わったか。律儀にお辞儀までして、偉いもんだ。食べ終わったら餌皿を庭備え付けの水道で洗って、いつもの場所に逆さにして置く。
 自分のことは自分で、だ。だから手を拘束したりしてないし、四つん這いで歩かせたりもしてない。別に奴隷やペットが欲しいわけじゃないからな。ペット用の餌皿使ってるのも、こいつが余ってるものでいいって言うから、前に飼ってた犬の餌皿を渡しただけだ。それでウマそうに食ってる。何も問題はない。

「おトイレ、させてもらってもいい、ですか?」
「ん? ああ」
「ありがとうございます」

 食事の後は排泄だ。これも一日一回だからな。まぁ小便はさすがにあれだからカテーテル挿してるが。
 許可をもらった彼女は庭の隅に移動して、手を使って穴を掘る。どうでもいいが本当に犬みたいだな、ああしてると。まぁいつもあの場所を掘り返してるから、土も柔らかい。程なくして適度な深さの穴が出来上がる。そこが便所だ。

「んっ……」

 和式便所の要領でそこに排泄をする。さすがに顔は赤い。踏ん張っているせいかもしれないが、チラチラとこちらを見ては顔を伏せているから羞恥心もあるんだろう。俺は全く興味ないが。まぁ素っ裸で野糞しているところを他人に見られるのは恥ずかしいだろうな。それは理解できる。
 なら緊張して簡単には出ないんじゃないか、と思うが、多分身体も習慣付いてしまっているんだろうな。それほど待つことなくそれは終わった。

「お風呂、失礼しますね」

 排泄の後は身体を洗う。ビニールプールを膨らませて、そこに水を張る。子ども染みているが、こいつは小さいから特に違和感は無い。それより力がなくて膨らませるのに時間が掛かるから見ていて若干もやもやする。
 一応石鹸は渡してある。臭いのは勘弁だ。髪もないから、全身それで事足りる。時間もそれほどかからない。身体を洗って、軽く流して、プールに寝そべる。

「はふー」

 だらしなく緩んだ顔。気持ちよさそうだ。そりゃそうだろうな。一日拘束されっぱなしで、汗も大量にかいてるだろうし。身体も心も解放される瞬間だ。傍目には間抜けだが、本人にとっては至福の時間だろう。時期的にも暑くなってきたから、見てると羨ましくなるほどだ。冬はちっとも羨ましくないがな。いくらお湯でもあれはない。
 ついでにストレッチもこの時している。身体が固まるからな。というか俺も見習わないと。最近は運動不足だし。まぁこいつは身体を動かせる喜びというか、モチベーションが段違いだ。必死にもなる。

「……あ、あの!」
「ん?」

 と、視線に気付いたのか、顔を真っ赤にして俺に言葉をかけてきた。いつの間にかストレッチも終わったようだ。丸出しのあちこちを隠そうともせず、胸の前で手をもじもじしている。

「お、オナニー……! しても、いいですか?」
「ああ、別にいいぞ」
「あ、ありがとうございますっ」

 何事かと思えば、そんなことか。俺は鷹揚に許可を出す。こいつはたまにこうして自慰をねだることがある。俺も別に意地悪したりしない。どうでもいいから。
 というか他人に自慰の許可をもらうというのは、どうなんだろうな。俺だったらそんな惨めなことはゴメンだ。

「で、では……オナニー、しますね……っ」

 ただそれは、日々の無味乾燥とした生活への、こいつなりの防御反応なのかもしれない。脳がストレスで狂ってしまわないための。

「ん……あ、う……! んくっ……ぁ……っ」

 俺の見ている前で、胸を愛撫し、股間をまさぐる。立ったままなのでガニ股だ。恥ずかしくないのだろうか。いや、恥ずかしければこんな青空の下で素っ裸にならないし、オナニーを異性に見せるなんてことしないと思うのだが。でも顔は真っ赤で涙目なんだよな。よく分からん。

「あ……んっ……。は、ぁ……! ん……」

 おうおう、気持ちよさそうにして。まぁこいつの楽しみといったらこれくらいだろうしな。存分にやってくれ。どうせ地下に戻ったら快感とは無縁の、無の世界が待ってるんだ。爆発させるならここしかない。俺は子どものお遊戯会の発表を見るような気持ちでそれを眺める。
 まぁ拘束されてるだけで気持よくなれる変態にでもなれば、幸せに時間を過ごせるのかもしれないがな。……なんてのは冗談半分だが、こいつの場合すでにそれを習得していてもおかしくはない。怖くて確認はできない。

「スイカ切ったわよー」
「ん。おお」

 お盆を持った女性が、俺の座る縁側までやってくる。他でもない。正真正銘、俺の嫁だ。まだまだ若造とはいえ、俺だってもういい大人だ。結婚くらいする。というかこの家だって今や二人の家だからな。ちなみに子供はまだいない。

「って、またオナニーさせてるの?」
「させてるんじゃねぇよ。したいって言うから許可しただけ」
「そ。……アレ見て興奮してるんじゃないでしょうね」
「するかよ。……ん、甘いなこれ」
「でしょ。お父さんが畑で取れたやつ送ってきたの。……そうそう、あともう少ししたら買い物に出かけるんだから、それまでにアレ、片付けておいてよ」
「へーい」

 用だけ済ませて遠ざかる足音を聞きながら、俺は空を見上げた。出会った時から物怖じしないとは思っていたが、あいつもなかなか肝が座っている。普通、他所の女がいてあんな平然としていられるか?
 まぁ俺とこいつが絶対『そういう仲』にならないと分かってるからかもしれないが。冷静なのが逆に怖えよ。あいつはあいつで怒ると何するか分かんねぇんだよな。
 そういえば昨日から買い物についてきて欲しいと言ってたか。確か水着を買うとか何とか。久しぶりに海に行くから、テンションが上がってるのかね。水着なんて去年も買ったんだからそれ着ればいいのに。何が違うんだか。こんなこと言うと殴られるから言わないが。

「あ、んっ! い……く……、イき、ます……っ!」

 ぼんやりしているうちに、いつの間にかクライマックスを迎えていたようだ。激しくあそこに指を出し入れするオナニーマシーンに視線を戻す。
 汗よりも粘っこい汁が足元のプールへと滴っている。顔は……ああ、ひでぇなこりゃ。うら若き乙女がする顔じゃねぇよ。すっかり発情してだらしない顔だ。それでもって必死に堪えている顔。もう一押しでイく、その寸前で踏みとどまっている顔だな。健気に許可を待っている。潤んだ瞳ってやつが、俺を伺い見ている。

「いいぞー」
「っ!? は、はい! い、イきますっ……! ん、あ、あああああああっ!」

 許可した途端、盛大に鳴きながら絶頂した。ぶしゅ、ぶしゅと間欠泉のように潮が噴き出される。股間を中心に、太ももから腹から痙攣させ、やがて立ってられなくなったのかプールに倒れこんだ。
 おいおい、大丈夫か。
 立ち上がった水しぶきはバシャバシャと半分ほどが芝生に供給された。

「はふ……あ、あ、んっ! ……っは。はぁ……はぁ……。あ、ありがとう、ございました……」

 息を荒げ、身体をビクンビクンと震わせながら、それでも三つ指ついて感謝を忘れないこいつはなかなか律儀なやつだと思う。オナニーを『させてもらった』感覚なんだろうな。普段から許可がないと何もできない生活を送っているから、脳みそが可哀想な方向に順応したんだろう。
 こいつ許可がないと糞も出せないんじゃないだろうか。今度やってみるか。

「はぁ……ふぅ……」

 しばらくコテンと倒れこんだ状態で息を整えていたものの、しばらくするとむっくり起き上がり、汚れた場所を簡単に洗い始めた。そうして綺麗になったところで、プールの水を捨て、空気を抜いて片付け始める。

「すみません、お出かけするんですよね。すぐ戻りますから」

 テキパキと片づけを終え、彼女は日課を終わらせる。
 いや、自由時間?
 それとも、休憩時間?
 とにかく、一日のうち、解放されている僅かな時間。与えられた自分のための時間。それをこいつは、惜しげもなく切り捨てる。

 それは献身だろうか。被虐だろうか。それとも、別の何かだろうか。
 その心情は俺には分からないが、少なくとも、一つだけ言えることがある。分かっていることがある。

 その全ては、俺のためなんだ。

「別にいいよ。俺まだスイカ食ってるし」
「あ、じゃあ先に戻って準備しておきますね」

 右手に持ったスイカを持ち上げながら言う俺に、彼女はにっこり笑って。私にもくださいなんていう気配をこれっぽっちも見せずに、ただ俺の邪魔にならないようにそそくさと地下室へと戻っていった。

「……」

 こうして縁側でぼーっとしながら、スイカを食べて、季節を感じて。そんな喜びさえ、彼女は捨てた。きっと長くは続かない、この生活の中に。
 ひたすらの自己犠牲。欲の排除。いっそ修行僧のそれにも似ている。見返りを求めず、盲信し、妄信し、猛進する。
 いや、欲は一つだけあったか。だがそれも叶うあてなどない。その果てに救いなどない。……それでも。あいつは、それを続けるんだろう。

 もしかしたら、すでに。
 救いを、見つけているのかもしれない。
 それとも、俺が気づいてないだけで、本当は……。

「……くそっ。俺には分かんねぇよ……!」

 呆けたように縁側に座る自分が、たまらなく滑稽に思える。
 俺は食いかけのスイカを放り出して、地下室へ向かった。

▼

 戻った地下室では、彼女がすでに道具をスタンバイしていた。股の下にはカテーテルと導尿バッグが繋がっている。自分で入れたのか。根性あるな。俺にはできない。

「あ、すみません。お手間おかけします」
「いや別に……」

 なんでこんなに朗らかに笑えるんだろうな、こいつは。これから24時間、身動き取れないくらいガチガチに拘束されて、誰もいない真っ暗な地下室に放置されるんだぞ。
 身体的にはある意味、犯罪に巻き込まれて監禁されるよりつらい状況だ。そんな状況に追い込もうとしているやつ相手に、お手間おかけしますなんて、正気の沙汰じゃない。

「……ファスナー上げるぞ」
「お願いします」

 何と言っていいか分からず、俺はただ目の前のことに集中した。
 自分で着られるところまで着た全身タイツの、背中のファスナーを締める。後頭部まであげたら、南京錠。これで脱げない。俺だったらこの時点ですでにつらい。こういうのに性的興奮を覚えるやつなら別だろうが。
 さて、ここから一仕事だ。先ほど剥がしたのと逆で、今度は巻いていかないといけない。
 下半身から順番に、ぐるぐる、ぐるぐると。
 椅子に腰掛けた彼女はされるがままだ。むしろ、巻きやすいように身体を動かして手伝ってくれる。その妙な気遣いを感じると、俺はなんだかそこら中を蹴散らして暴れたくなるような、ぞわぞわとした感情が沸き立つ。
 馬鹿じゃないのか、こいつは。何で、もっと……何で。
 どうしようもないことが、ぐるぐる、ぐるぐると。

「……あ、忘れてた」

 何かを振り払うように、無心でテープを巻いていた俺だったが、首元まで巻いたところであることを思い出した。
 そういや明日……海、泊まりで行くんだった。

「ああもう、段取り悪いなぁ俺……!」

 何なんだ全く。何で俺がこんなことで苛つかなきゃならない。
 緊急用にと置いてある高カロリーの輸液を机の上からひったくる。簡易だが、一泊だし大丈夫だろう。いや、大丈夫だ。それ以外は知らん。

「口開けろ」

 俺の声に、静々と開かれる小さな口。開いたといっても、ゼンタイに阻まれていて生地が伸びただけだが、どうでもいい。
 近くのラックに輸液バッグをフックで引っ掛けて、そこに接続したチューブをゼンタイごと口の中に押し込む。ある程度入ったところで周りをテープでびっちり固めた。ついでに頭部もテープで巻き終える。

「外すのは、明後日だ。注入速度をかなり遅くしたから、ちびちび飲んでりゃそれくらいは持つだろ。空腹は我慢しろ」

 自分でも無茶苦茶な話だと思うが、それでも目の前のオブジェは動かない頭をかろうじて動かして頷く。
 全く、異常だ。こいつも、こんなことに付き合ってる自分も。……いや、これに関して言えば俺か。どっちでもいい。悩むのも面倒くさい。
 あとは適当に、椅子と身体をくっつけるようにテープで巻いて拘束する。まさに椅子と一体化する。どんどん人間味が失われていく。もはや椅子の付属品のように。
 工作でもしているのか俺は。数えきれないほどの強力なテープを使って。

「……っ。ふう」

 さあどうだ。これでどうだ。動けないだろう。逃げられないだろう。余計なこと、できないだろう。
 馬鹿か。これだけ従順なんだ。それこそ、余計な心配だ。例え自由になってナイフを握らされたとしても、こいつは俺を刺さない。それだけは、俺も分かってる。こいつは良い奴なんだ。俺なんかに、もったいないくらいの。

「じゃあな」

 だからこれは、俺の恐怖だ。恐怖心が、形になったものだ。こうでもしないと、俺は安心できないんだ。怖いんだよ。恐れてるんだ。大丈夫だと思っていた、問題無いと安心しきっていたものが、ある日急に豹変することを。些細な事で、爆発しちまうのを。
 そのくせ完全に排除するでもなく、拘束を徹底するでもなく。心の何処かで、こいつは良い奴だからって。受け入れもしないくせに、そんな偽善を抱く自分に酔って。取り返しの付かないことが起きる可能性を放置したまま、それに怯えてるんだ。
 何なんだ俺。本当、何なんだ……。

「……くそっ」

 小さく毒づいた声は、テープで塞がれた耳には届いていないはずなのに。それでも、こいつにはきっと聞こえているんだと、妙な確信がある。根拠の無い自信がある。
 全てが、疑心暗鬼だ。何もかも信じられない。何か裏があるんじゃないかと勘ぐってしまう。

 もはや何に対しても。
 全部。
 全部!

「なぁ……!」

 俺は、どうしたらいい?
 どうすればよかったんだ?
 何が正解だ?
 どこを間違ったんだ?

 全部、俺のせいなのか……?

「……」
「……」
「……」
「……」
「……」

 当然だ。
 応える者などいない。

▼

 俺にはストーカー紛いの女がいた。一応過去形だ。

 学生の頃から何かと絡んできて、容姿は悪くないんだが、いやむしろかなりレベル高いんだが、正直少し鬱陶しかった。別に性格が悪いわけじゃない。むしろ可愛げがあって、器量良しで、結構な男が「彼女にしてぇなぁ」と言うくらいの女だった。
 だが何にでも限度というものはあるもんだ。それにベタな話だが、俺とそいつとでは『好き』の意味が違った。その差異がストレスで、どんどんとそいつへの感情を濁らせた。

 程々の関係なら仲良くなれたであろうそいつ。実際途中までは無難に付き合えてたんだ。だが、とある不幸なことがきっかけで、疎遠になってしまった。というより俺がひたすらに接触を避けた。元々、そいつのことを鬱陶しいと思い始めていた俺は、これ幸いと距離をおいたんだ。

 そいつも馬鹿じゃない。俺の意図を察して、表立って接触してくることはなくなった。
 だが、諦めきれなかったんだろう。近づく代わりに遠くから眺め続けたり、大量の手紙を送ってきたり、無言の電話をかけてきたりと、段々陰湿な手段を用いるようになっていった。
 そうして一度マイナスへと傾いた感情は、日に日に転がり落ちていった。

 今思えば、ここでしかるべき処置をとっておけば、多少の波風は立つものの、事態は収拾していたかもしれない。
 だがこの時の俺は先の不幸により情緒不安定になっていて、そいつの事情も鑑みるとあまり大事にはしづらい状況だった。

 だから、直接そいつの元へ怒鳴り込みにいった。

「鬱陶しいからもう関わるんじゃない」

 そんなような内容のことを、思いっきり口汚く、矢継ぎ早に浴びせた気がする。溜まりに溜まった鬱憤を吐き出しつくすように言葉を投げつけた、その感覚だけは今も残ってる。

 そうして、振り切っていたメーターがようやく元の位置に戻りだした頃。俺は若干の後悔をし始めていた。明らかに言いすぎだった。こいつには直接関係のないことまで叩きつけてしまった。

 それに。
 後が怖い、と、そう思った。

 なにせ、ストーカー紛いのことをするやつだ。こういうやつは何を言い出すか、やりだすか分からない。もしかしたら刺されるかもしれない。住所も、電話番号だってバレてる。嫌な予感が俺の全身に満ちた。

 だが、こいつの反応は俺の予想を裏切った。
 まず、先の不幸に対して謝ってきたんだ。

「ごめんなさい……。あの時、わたしが……」

 と。涙を零して。

 冷静になりかけていた頭は、なんとかそれを処理した。正直それに関してはいい。こいつに対して思うところがないではないが、それももう納得したことだから、と。
 だから「それについてはもういい。おまえのせいじゃない」と言った。

 驚いたのはその後だ。

「じゃあ、どうしたらいい……ですか? わたし、その、あの、もう鬱陶しい、なんて、思われること……、しない。手紙も書かない。覗き見たりしない。で、電話も……! そんなに、怒ってるなんて、思わなかったから……。だから……! 嫌わ、ないで……。わたし……ただ、そばに、いたい、だけ……なの……。す、好き! なの!」
「……え?」

 一瞬にして、俺の頭の中は真っ白になった。混乱した。
 そして、怖気が立った。恐ろしい執念を見た気がした。

 この状況で、告白なんて、できるか?
 思いっきり罵倒されて、関わるなと怒鳴り倒された相手にだ。許されたとはいえ、少なからず負い目を感じている相手にだぞ!?
 それでも平然と、自分の感情を押し通すような真似、できるものなのか!?
 ……刺されるどころじゃない。こいつを野放しにしていたら、どうなるか分かったもんじゃない。俺だけの問題じゃなくなるかもしれない。冗談抜きでそう思った。

 俺は恐れた。こいつは、いくらでも視野が狭くなる類の人間だ。思い込めば、それしか頭になくなる。そして、それを達成するためなら、どんな障害も排除し、苦難を苦難とせず、受け止め、消化し、捩じ伏せる人間だ。それが分かった。
 それは、人に誇れる分野で発揮したならば、鬼才とでも呼ばれたのかもしれない。だが、その矛先は俺だ。本能に根ざした戦争だ。そして往々にして、色恋沙汰で揉めた末路に幸福はない。未だ短い年月しか生きてない俺だが、それくらいは理解できる。

「言っておくが、俺、近々結婚するんだ」

 だから俺は、切り札を出した。軽率だとは思ったが、ある種の覚悟はできていた。それに、これだけはクリアにしておかなければいけないと、そう思った。結婚する相手を守るためにも。
 この言葉によって、どういう反応を示すか、それを見極める必要があった。

 だが、それは浅考で。

「知ってます」
「なっ!?」

 考えてみれば、当然の話だった。
 こいつはずっと俺を観察してたんだ。もちろん、デートの現場も。彼女の姿も。
 そして今一度恐怖した。そうであったなら、こいつは、いつでも彼女のことを……。

「でも、大丈夫です」
「……何?」
「何を心配しているのか、分かります。けど、そんなことしません。わたしは、あなたのそばにいられれば、それでいいんです」

 そうして俺は、いよいよ追い詰められたのを悟った。

『そばにいられればそれでいい』

 それこそが、こいつの願い。欲求。純粋で、それゆえに強力な原動力。
 そしてそれは、そばにいるという目的、それを達成するためにあらゆる手を尽くすということ。つまり、何をするか分からないということだ。その覚悟が、僅かに伏せられた表情から窺い知れた。

 ……脅迫だ、これは。
 計算して言っているのかどうかは分からない。
 だが、どちらにせよ俺を押し潰すには十分な威力を持っていた。

「大丈夫です。そばにさえいられたら、わたしは他に何も望みません。奥様がいたって……。わたしは、妾……いえ、ペット、物としてでも、いい。あなたを感じられれば、それで」
「……っ」

 ますますもって熱を帯びていく『告白』に、俺はただ圧倒され、飲み込まれていく。
 受け止める気はさらさらない。だが、ここで外に放しては危険だと、本能が告げる。
 もはや焦点の合わない目。虚ろな瞳が、互いを捉える。
 二律背反。絶たれた逃げ道。そんな言葉が脳裏に浮かぶ。

 他人が見れば、きっと鼻で笑うくらいくだらない話だ。
 だが当事者からすれば、ゲロ吐きそうなくらい深刻で。

「……」

 そして俺は、苦肉の策をひねり出した。

 こいつを遠ざけようとするんじゃない。手元に囲い込んでおくんだ。

 それは確かに逆転の発想だった。リードを外して野放しにするよりも、檻に入れておくほうが安心だ。要は、余計なことが出来ない状態にしておけばいい。そんな単純なことなんだ。

 俺はそのひねり出した苦肉の策に飛びついた。これしかないと思った。だから言った。
 例え誘導されていたとしても。言うしかなかった。

「そこまで言うなら、そばにいてもいい」
「本当ですかっ!?」

 予想外だという風に、驚愕と喜びの混ざった表情を浮かべる。その顔に嘘はない。
 だからなおさら性質が悪いと思った。

「だが、条件がある」

 突きつける条件。どこまで効果があるか分からないが、俺が言うからこそ、こいつは聞くだろうという妙な根拠もあった。

 俺に絶対服従すること。俺に、妻に危害を加えないこと。不利益になるようなことをしないこと。
 いっそ調教して性奴隷にでもしてしまえという思いつきもあったが、これまでの経緯からどうしてもこいつ相手にチンコが勃ちそうになかった。

「それと……。愛なんて生まれると思うなよ」
「分かっています」
「ただの物として置いておくだけだ」
「それだけで十分です」
「人間らしい生活なんて与えない」
「構いません」

 ……条件は、全て飲まれた。言いなりだ。彼女は何も主張しない。途中で折れるかもという淡い期待を抱く余地すら無い。人間としての尊厳すら明け渡すのに躊躇ない。望むのは唯一つ、俺のそばにいることだけ。

 正直、狂っている。
 こいつは、悪魔にでも取り付かれているんじゃないか。
 そう思った。

 だが、それを一笑に付すだけで終わるには、俺はあまりにもこいつと関わりすぎた。
 だから手を打たなければならない。
 もはや檻なんかじゃ足りないかもしれない。微動だにできないほどの拘束を。いつか姿を現すかもしれない、隠されているはずの牙を、封じるために。俺の、平穏のために。

 そのために俺は、こいつを……。

「そばに、置いてください」

 弱々しくも、嬉しそうに笑うその顔を見て。俺は、矛盾した覚悟を決めた。
 殺すことも出来ず、法的な対処も出来ない、他人から見れば甘っちょろい覚悟だ。

 それでも、自分の人生のために。
 こいつの人生を喰らうことを決めた。

「そうしたら、いつか――」

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