私、高鈴佳奈は、平々凡々とした学生だ。
「冷めてるよね」とは友人の談だけど、あまりそれを自分の特徴にはしたくない。
両親が”先生”と呼ばれるような社会的地位にあるせいで、それなりに裕福ではあるけど。そんな外的要因で測られたくもない。
強いて言えば……そう、読書が好きな文学少女。これだ。
図書委員ではなく生徒会役員だし、部活も運動部だし、眼鏡もしてなければおさげでもないけど、そうだと言ったらそうなのだ。
「お前はクラスのまとめ役だから」なんて担任の先生は言うけど、そんなものやりたくてやっているわけじゃない。
誰もが私を表の一面でしか見ない。
世間の目はとかく人を型に嵌めたがって困る。
勉強ができるからしっかり者だなんて、誰が決めた?
人付き合いが上手い、その理由には種類があると考えたことはある?
親が偉いと、家が裕福だと、絶対に幸せなの?
外様用にこしらえた仮面の裏で、日々もやもやとした感情を溜める日々。
だけどそれは、毎日を過ごしやすいように、私が私のために創り上げた棘のある仮面。自ら始めたミスリード。求めた対価に振り回されるなんて、未熟もいいところ。
そんなことをひっくるめて、私という人間は平凡だと思う。
相対的な違いを血眼で探し、羨み、妬み、排除し、平均を尊ぶ社会を、少しだけ「冷めてる」目で眺めるだけの人間。
観察者を気取った臆病者。
私が思う”私”は、その程度のものだった。
だけど”私”は、私が思う以上に運がない人間のようで。
それが私の仮面を外すものだったのだと考えるならば、それは随分と根深く、そして手厳しい荒療治だと思った。
――緑香る五月、私は”死んだ”。
▼
「それにしても酷い話ですね」
気が付けば作業中の男が話しかけてきたので、意識をそちらに向けた。
「具体的にはどの辺りが?」
「おや、皮肉ですか、ニエ様? ……そうですね。例えば、その身体とか」
ニエ様、とはきっと私のことだろう。
それがどんな意味を持つのかは知らないけど、どうせろくなものじゃない。声のニュアンスからして蔑称には聞こえないから、別にどうでもいい。
これからの私にとっては、単純に記号でしかない。
隠すもののない、一糸纏わぬ姿の身体を無遠慮に眺めながら言葉を発するこの男に、自分の名前を呼ばれなくてむしろありがたく思う。
「手足切られたこと? 勝手にやっておいてよく言うわ。抵抗させずに円滑に事を進めるためには、これほど分かりやすいやり方はないでしょうけど」
「……なんとまぁ冷静なお嬢さんですね」
両肩、両腿の根元から断たれ、今は亡き手足を幻視しながら、男を睨みつける。
対する男からの視線は、四肢を欠損した異形への奇異の感情ではなく。まして、年頃の女性の裸体を見て悦ぶそれでもなく。
例えるならベルトコンベアで流れてきた製品をチェックするライン工のような、何の感情も乗っていない無の視線。
私はそれを煩わしくなくていいと受け入れながら、根源的な部分で微かに恐怖を抱いた。
「まぁ、手足だけでもないようですが。弄った場所は」
言いながら男はぐるりと辺りを見渡す。
何かを振り切るように自然と私の視線もそれに追従する。
ここは人の気配もない、山深い森の中。
山深いとはいえ、例えばアマゾンの奥地のような、そんな秘境然とはしていない。
適度に間引かれ悠々と生い茂る木々は暗闇をもたらすほどではなく、むしろ日の光を柔らかな木漏れ日に変え、清浄な雰囲気を醸し出している。
森林浴をするにはいいかもしれない。そう思えるほどには空気も澄んでいる。
ただ、恐ろしく静かなこの空間は、ある種の畏れを抱かせる。
全方位どこまでも続く森林風景は果てがない。勝手に抱いている「ここは国内だろう」という価値観すら否定されそうなほどだ。
微かに鳥や小動物達の気配はするものの、それはどこか遠い世界のもののように感じる。 ここだけ世界から置き去りにされているような、どこか隔離された印象を受ける場所。
いや、事実隔離されているのだ。
男の言葉を借りればここは、”神に人柱を捧げる、神聖なる場所”なのだから。
「それはそうと、こんなところに連れてきて、何をさせるつもりなの?」
思った通りの強さで声を出せて、少しホッとする。
実際、こんなところまで人が入ってくることはほぼ無いらしい。目の前の男は別段隠すこともなくそう教えてくれた。
目隠しをされたままではあったけど、結構な距離を進んできたことは分かったから、特に疑うでもなくそれを受け入れた。
私がどれだけ喚き叫んだところで助けなんて来ないことも、理解した。
伊達に「冷めてる」と言われていない。
心外だと撥ねつけていた特徴に縋ろうなんてとんだ皮肉だと思いながら、それ以外に”私”を保つ手段が見当たらなかった。
「ああ、ニエ様は特に何もしなくて結構です。主に作業するのは私ですから。ただいつもどおり、食べて寝て呼吸して、生き続けて頂ければそれで、ね」
「……」
少し含みのある笑みを浮かべながら、男は言う。
正しいけど一面的な、あえて芯を外した答え。
舞台上の役者のような立ち振る舞い方と合わせて、その物言いは男の持つ雰囲気にとても似合っていた。
今のところ私の第一印象を裏切らない、どうにも捉え所のない男。
だからこそ、その余裕のある態度が気に入らない。
そんな感情を押し殺した私の無言に応えるでもなく、男は話題を変える。
「それにしても、いい所ですね。空気もいい。なにより静かだ。のんびりするにはうってつけです」
「……ええ、そうね」
余裕を演出しつつ、あくまで冷静に対応する。
確かに、この場所だとのんびりできそうだ。それに異論はない。趣味の読書もはかどりそうだ。くそったれなことに。
カバンの中に入れっぱなしの、読みかけの文庫本を思い出す。
そういえば中盤のいいところで止まっていたんだった。癖のある文体だけど独特な描写をするお気に入りの作者の新作。早く帰してくれないかしら。続きが気になる。もっとも、もう一人では本も読めない身体になってしまったけど。
「こんなところなら、さぞかし浸れるでしょうね」
本を読み終え閉じた後の読了感を思い出しながら。この男には読み取れないだろうその思いをすぐにしまい、目を伏せた。
さっきから鼻につく男のお株を奪うつもりはないけど、せめてものと言わんばかりに真意を隠したミスリード。
「ええ、存分に浸ってください」
果たしてどんな反応が返るかと思ったら、そんなオウム返し。こんなことを平気でするような野蛮人には、やっぱり理解できないのね。
物理的に抵抗できない私にできる数少ないささやかな反抗。
秘めた思いに届かない男の言葉に安堵しながら、作り出した齟齬にどこか違和感を感じる。
男から感じる、悪戯を仕掛ける前の少年のような雰囲気。それが私にどうしようもなく不安を抱かせる。
「これから、ここの景色は、全てニエ様の独り占めに出来るんですよ?」
「……え?」
男の言葉に思わず反応し、そっと口を噛む。だけどその痛みも感じないほどに、嫌な予感が胸に満ちる。
嫌な予感なんて今さらだけど、でもそれは止まない。
男は男で、まるでプレゼントをもらえた子どもに言うように、「よかったですね」と、私に微笑む。
「……ごめんなさい。意味がよく分からないのだけど」
「そうですか? ……そうですね、では、少し言い方を変えましょうか」
男の言葉一つひとつに、私の心は感情を滲ませる。
今は、怒りだろうか。暗にバカにされたような気がして。心がざわつく。
そんな私の心境を知ってか知らずか、男は一旦言葉を止め、一拍置き、それから。
「……貴女、まだここから”帰れる”と思っているのですか?」
ここに来て初めて聞く脅すような低い声で私を貫いた。
▼
……身体が震える。一度。二度。
今まで飄々としていた男が、一瞬だけ纏ったそのオーラ。
一言で言えば”優男”と言える風貌の男が見せた、”敵”の顔。別に、こいつを味方だと思ったことは一度だってないけど。
改めてここには私の味方は誰もいないのだと認識する。
全部、全部、分かっていたのに。今、もう一度分からされた。
目の前には、先程と同じ、優しげな笑みの男。
だけど、これから間違いなく私に害を為す人間。
いくら相手がこの男一人とはいえ、力で劣る女の私ではきっと抵抗も虚しい。何より手足を失った今では、話にもならない。
考えるまでもない。子どもだって分かる。
この場の支配者は、あくまで彼。これは明確な事実。
考えないようにしていた現実に、私の心はとうとう揺らぎ、少しずつひしゃげていくのを感じた。
「なぜ……なの……?」
出たのは自分でも驚くほどか弱い声。
それは、虚勢というメッキが剥がれていく音にも聞こえた。
それは、”私”という仮面にヒビが入る音にも聞こえた。
不安は、少しずつ恐怖へと変化する。
私の顔は、せめてそれを隠せているだろうか。
相対する男の顔は、優しげなままで。
「それは貴女が”人柱”に選ばれたからです」
言葉は、残酷なままで。
私の頭は静かに混乱を始める。
「何のためにそのような姿にされたかお教えします」
身体がピクリと反応する。一人では、何もできない身体。
自分の手で一糸纏わぬ身体を隠すことも。自分の足で走ってこの場から逃げようとすることも。
この男が近づいてくることを防ぐことも、できない。
何のために?
それは自分でも言った。
抵抗させないため。円滑に事を進めるため。
私の意志など無視するため。
……それは何のために?
「具体的に言いましょう。 今、貴女が寝そべっている台座。それは、貴女を”収納”するための入れ物です。貴女はそこに入り、その命尽きるまで、延々と”人柱”として人生を送り続けるのですよ」
淡々とした男の言葉が、事実が、私を嘲笑するように襲ってくる。
「ぇ…………っ」
「……さすが、喚き散らしたりはしませんね。聞き分けがいいとこちらとしても助かります」
聞き分けがいいわけじゃ、ない。
かろうじてそれだけ頭の中で反論し、だけどそれ以上男に注意を向けられない。
「”先輩たち”の姿でも見せておきましょうか。そうすればより現実感があるでしょう」
心臓が、うるさい。
見なければいいのに、男がこちらに向けてきたタブレット端末に目をやる。
そこには管理画面のようなものがあって、LIVEと書かれた枠内にいくつかの動画が流れていた。
「貴女が決して特別ではなく、いくつもある”人柱”の中の一つでしかないと」
ここではない、また別の山林に置かれた台座の映像。それがいくつも並んでいる。
その映像と対になるように、四肢のない人間が狭い空間に設置されている映像も並んでいた。
「中は当然暗いのですが、最近の暗視カメラは本当に綺麗なカラーで映せるようになりましたね」
そして画面をスクロールした最後。見覚えのある景色と、動く人が映った映像が出てくる。
その対には、誰も入っていない空っぽの空間を映す映像。
それはもしかしなくても、私がこれから入る場所のもので。
映っているのは、まさに今現在の私とこの男だった。
「ああ、これはメンテナンス用のものなので、見せたことは内緒にしていてください」
混乱する。視界が意味を為さなくなる。
ともすれば無様に声を荒げてしまいそうな頭に、必死に理性が待ったをかける。
”人柱”……と、男は言った。
命尽きるまで、とも男は言った。
荒れ狂う困惑の中、その言葉がいくつも旋回する。
とにかく冷静になれという戯言が頭の中ガンガンと響く。
(それはつまり、死ぬまでここで……?)
至った結論に少しだけ怒りの火がともる。
冷静になんてなれるかくそったれ。
この男はこう言っているんだ。「ここで死ね」と。
理不尽に自分の死を決められて、誰が冷静になんてなれるものか。
暴れまわる感情を理性が押さえつけたのは、奇跡的だったかもしれない。
「なぜ、私なの? それは中止には出来ないの?」
でも、堤防決壊ギリギリの頭はそんなバカみたいな言葉しか紡げなくて。
「何を今更。一度決まれば後戻りなど出来ませんよ。あと、貴女が何故こうなったかは私にはわかりません。ですが、結果は何も変わらない。それがいかに成金のお嬢様で、将来有望なエリート学生だったとしてもね」
「そん、な……」
「それに、ご両親にもご了承頂いています。多少強引な手段ではあったようですが。あ、そうそう、貴女が術後に寝込んでいる間、貴女の葬儀が行われたようですよ。もう貴女という存在は社会的にこの世から消え去っているわけです。残念ですが」
饒舌な男のその舌を引き千切りたい。
でも手がない。腕もない。その股間を蹴り上げる足もない。
冷静な私、冷静な私はどこだ。……見つけた。冷静な私は思考に沈む。
両親が、了承済み?
葬儀も執り行われた?
私はもう、この世に存在していないの?
話が急すぎて、全くついていけない。
確かに忙しそうにして一緒にいる時間も少ない両親だったけど。
……いや、違う。何を考えているんだろう。今それは関係ない。
そう、両親だ。両親は無事だろうか。私がこんな目に遭っているんだ。
きっと脅されている。男に仲間がいることも知っている。
何かされていないだろうか。心配だ。
私を差し出さなくてはいけないくらいの、何かを……。
「さて、あまり長々と話していても仕方ありませんから……」
「ま、まって……!」
「……はい?」
思考は未だ纏まらず、めまいがするほど混乱しているけど。
今これから起きようとしていることは。その恐怖は、明確に感じることができた。
生き埋めにされる。
”人柱”として生かされ、そして死ぬ。
その事実が事実として身に降りかかった時、もはや虚勢など何の足しにもなりはしなかった。
とにかく時間が欲しい。
それすら何の役にも立ちはしないけど。
無意味なことだと分かっていても、それを稼ぐために必死になった。
「ご、ご飯は……? こんなところに放っておかれたら、すぐに飢え死にするわ……!」
「ご心配なく。貴女の生命活動に必要なものは、全て私が面倒を見ます。メンテナンスはお任せください。下のお世話だってさせていただきますよ」
「そ、んな……あっ、こんなこと、犯罪でしょう!? すぐに警察が……!」
「ハァ……。貴女は何を期待しているのです? そもそも、ご両親がこちらの味方である時点で、理解できそうなものですが」
「そんなの、信じられない!」
「まぁ……貴女がどう思おうと勝手ですけどね」
やれやれといった様子の男に苛立ちを覚える余裕さえない。
男が言ったことは、全部本当のことなのだろうか?
もしそうなら……私は……それこそ、本当に……。
「さて、もういいでしょう。貴女との会話は新鮮で楽しいものですが、時間にも限りがあります。……では、始めますよ」
私はこれから、誰も来ることがない、何もないこの森の中で、ただ生きているだけの存在になるのだろうか。
誰も、助けに来ることもなく。
不自由な身体で。
延々と。
「ぁあ……あ……」
怖い。とにかく怖い。感情を爆発させたい。
けど、今まで必死で築きあげてきたバカな理性がそれの邪魔をする。
思いっきり暴れたい。駆け出したい。
けど、こんな身体で何ができるというの。
自分の意思を通せない。何も自由に出来ない。
もどかしい。歯がゆい。平静が、行方不明になる。
「……美しい」
男の声が耳に届く。
それが日本語だと認識する頃には、それは終わっていた。
「ん、やはり美人の流す涙は素晴らしいスパイスですね」
「~~~っ!?」
涙を拭うように目元を舐められたのだと気付いたのは、男がそう言って舌を見せてからだった。
左目に感じる熱と、噛みつき損ねたという後悔。そしてとてつもない屈辱感に任せ睨み付ける顔すら、男は嬉しそうに笑って。
「そんな顔をしないでください。…………たくなる」
自らの身体を抱えながら、呟かれたその言葉は私に届く前に消えて。
でもきっとろくなことじゃない。そう決めつけて。
敵意を隠さない私の前で、男は何かを振り切るようにお辞儀をして見せた。
「……始めます」
近付いて来る男は、もうさっきの男だった。
▼
「失礼」
男にしては細く白く、骨ばった手がこちらに伸びる。対する私は萎縮か、諦観か。身体は強張るばかりで、ろくに動かない。
横たえられた背中に感じる、ひやりと冷たく硬い感触。それと対照的な、温かな手のひらがお腹の上を撫でる。こんな状況でもセクハラだとか考えてしまう自分が滑稽で。肌感覚から恥毛が全て剃られていることも今更なんだと妙にあっさり受け入れた。
「まずは貴女の下の準備からしていきましょうか」
取り出される道具をなるべく見たくない今の心境は、歯医者のそれに近いと思う。
煽るためにわざとなんじゃないかと思うほど、道具同士が擦れる音が響く。それを敏感に拾う耳を塞ぎたい。できることなら。
「これら自体は別段変なものではありませんよ」
透明の細い管と太い管が数本ずつ。これはたぶんカテーテル。それに、よく分からない液体が入った容器類。スプレー。ちらりと横目で確認できたのはそれくらい。
それらは私に対して用いられるのに違いなくて。だからこそよく確認したいのに、私の瞳は逃げるように空を映した。
「緊張する必要はありません。ただ受け入れてもらえればそれで」
「そんなこと……!」
できるわけがないし、受け入れるつもりもないし、そもそも開放してくれれば済む話だし。
それらの言葉を汚くアレンジして吐き出してしまいそうになって、口をつぐむ。
「まぁ思考まで強制はしません。身体は明け渡していただきますが」
そんな私の自制を知ることもなく、そしてこれまでと態度を変えることもなく、男が言う。
実質私に拒否権がないのは男も知っている。私も知っている。こんな話を私にする必要がないことも、分かっている。
そして、強制されなくともいずれそうなることも。
だけどあえて言葉にするのは、言外に私に諭しているのだ。「強制はしない代わりに、自分で転がり落ちろ」と。
「と、その前に……。少し風情に欠けますが、これを使います」
「……そ、れは」
「媚薬です」
いつか見た薬物乱用防止啓発ビデオにでてくる薬物依存者の姿が脳裏をよぎる。
男の手にするそれはよく飲んでいたビタミン剤にも似ていて、それ以外にもカプセル型のものが2,3あって、見た目にはサプリと変わりない。
だからといって、はいそうですかと素直に飲むわけもない。
私は近づいてくる男に警戒し、手のひらの上のそれを見つめたまま固く口を閉ざした。
「あらら……。あまり強情にされるのも困るのですが」
「……」
ささやかな抵抗を見せる私に、男が言葉通り困り顔を見せる。ただこのときの私は、内心諦めてもいた。
何故なら、どうせ抵抗できる身体ではないから。
それと、今舌で触れた歯に問題があった。
「どうやらすでに気付いていたようですね。まぁ舌を噛み切ろうとしなかった時点で察しは付いていましたが」
「……」
「なかなかよくできているでしょう? その入れ歯は」
男が入れ歯と口にしたことで、再び怒りの感情が湧き上がる。
舌を噛み切るというのは、意識が戻ってすぐに思い付いたこと。それでも実行できなかったのは、ひとえにこの義歯にある。
歯茎に接する面だけでなく、義歯さえもシリコンでできているとなると、いくら舌を挟もうとも、それはマッサージ程度の刺激にしかならない。
そしてそれ以上に、自分の歯を根こそぎ抜歯され失ったという事実が私に悲しみと怒りをもたらす。
「シリコン床で付け心地もそう悪くないはずです。何せ高いのでね。食事を楽しむのには向きませんが」
「……っ」
「そして、そうやってだんまりを決め込むのにも向いていません」
そういって手を伸ばしてきたと認識したときにはすでに顎を掴まれ、手術に使うような手袋に包まれた人指し指が唇を割って侵入してきた。
あっさりと守りを打ち破られた私の口内は、続いて親指の侵入を許した。思わず噛み千切ろうと反撃する。しかし、おそらく消しゴムくらいの硬さの歯は男の指の前にくにゃりと曲がり、まるで私がその指をしゃぶっているような構図になってしまった。
「あ……っ!」
慌てて私は指を吐き出す。その際に開いた口の中にいくつかの錠剤が放り込まれ、しまったと思う暇もなく水差しで水を流し込まれた。
「……えほっ! ごほっ……!」
「ほら、ちゃんと飲み込もうとしないからですよ。大丈夫ですか」
「さわ……らない……で……!」
恨めしそうな私に構わず、男がとんとんと背中を叩く。むせ返る喉は次第に楽になっても、得体の知れない薬を飲んだという恐怖が違和感を生み続ける。
「心配せずとも、毒や頭がおかしくなるようなものではありませんよ。例えて言えば、楽しいお酒を飲んだときのような高揚感を生むのと、後はまぁ多少神経が過敏になる程度です」
それに副作用もありませんし、と男は言って、自らもその錠剤を飲み込み、ほら、と笑って見せた。
「……」
「さて、では準備しましょうか」
「あ……ちょっと、や……っ!?」
無感動な私の反応に肩をすくめた男は、そう言って仰向けになった私の下半身側に座り込んだ。
今更と分かっているのに。隠すべき場所を、誰とも知らない異性に眺められる羞恥。それを隠すことの出来ない屈辱。私は顔を赤くしながら、それでも身じろぎ以上のことが出来なかった。
「そうして大人しくしていただけると助かります」
暴れようとすれば、暴れられるのかもしれない。実際そうしたい気持ちは山々だ。
でも、しない。できない。諦観もあるし、薬のせいか気怠さもでてきた。
……何より、この段になってもまだ、私は家族の安否を心配していた。
私が大人しく従わないせいで、何かしらの報復があるんじゃないかと、そんなことを。
「少し冷やりとしますよ」
「あ、んっ……」
浮かびかけた両親の顔は、肛門への刺激によって霧散した。冷たい感触は背筋を反らせ、お尻の穴がキュッと窄まる。
「しばらくほぐしますから、なるべく力を抜いてください」
「そんな、こと……言われたって……ひぐっ……!?」
周辺をなぞるだけだった男の指が、ツプリと中へ侵入する。座薬を入れられるときのような強烈な違和感。恥ずべきところを弄くられているおぞましさに全身がざわざわと産毛立つ。
「とりあえず、これを入れてもらわないといけないのでね」
「え……。ひっ!?」
見せられたのは、段々になった瘤がついた黒い筒。男がぶら下がったポンプを操作すると、瘤に空気が入り膨らんだ。それがどんな意味を持つのかよく分からなかったけど、どうやったって私を苛むものであることには変わらない。
「や……めっ……! 壊れる……っ!」
「世の中には腕を飲み込むほどに拡張された人がざらにいますから、大丈夫です」
何が大丈夫なのか。心の中で反論しながら、必死に意識を外に逸らす。
お尻の穴の周りには括約筋という筋肉があると聞いたことがある。それが切れたりしないだろうか。
そんなことを考えている間に指が2本になり。ぐりぐりと刺激されるたび、それが偽の感覚だと分かっていても排泄したくなって。
「は、ひ……ひゃれ……お、おか……し……こん、な……っ!?」
「貴女の意識は未経験かもしれませんが、貴女の身体はもう知っている感覚ですよ、それは」
くちゅくちゅと粘膜を穿り返す音。まるで自慰行為中にそっとクリトリスを撫でた時のような、身体中に響く肛門の甘い痺れ。
おかしい。知らない。こんな感覚は知らない。
「あ……あっ……あ……!」
排泄感は薄れ、次第に快楽が支配する。指は2本から3本に。優し気な音がグポグポと卑猥な音に変わる。ぐんと増える快感の量に、腰が砕けそうになる。これは、薬の影響?
「手足を切るだけ、なわけないでしょう。どこをとっても取り返しのつかない身体ですよ、”これ”は」
「だめええっ……や、っ! ほじらな……ぃひいいいぃ……っ!」
声がまったく我慢できない。そしてそれを取り繕う余裕もない。
指が4本から5本に。そして拳に。スライムでも殴っているのかと思うくらい、ぐっちゃぐっちゃと粘っこい音が股間から聞こえる。それが往復するたび背筋に電流が走り、腰が跳ね背中が浮き上がる。
私とて聖人君子じゃない。自慰の一つや二つしたこともある。だけど、どれも偽物だ。この快楽に比べたら。それくらい気持ちいい。快楽を得る場所じゃないのに。腕を突っ込まれるという、尋常じゃない仕打ちを受けているというのに。
「あ……い……っ!」
「おっと、イクのはまだお預けで。先に支度しますから」
「あ……っ」
もうすぐで絶頂してしまう。その寸前で男の腕が穴からいなくなる。
ものすごい喪失感。イケなかった無念と、未だ止まぬ火照り。そしてそんな痴態を晒してしまった羞恥心。
「一応力を抜いていてください」
「あぎっ!?」
そんな私の葛藤を無視して、男は先ほどのバルーンに軟膏を塗りたくりながら言う。そして解れきって閉じなくなった肛門にねじ込んだ。
「あっあっあっ……!」
無遠慮に侵入してくる異物。ぞわぞわと走るのは悪寒であり、快感でもあった。デコボコの部分が腸管を擦るたび、身を捩るような圧迫感と耐え難い快楽が津波のように襲い来る。それでもイクにはまだ足りなくて。そのうちに全て飲み込んだ肛門はしくしくと辛い異物感を私に訴える。
「膨らませます」
「ひ、あああああっ!?」
男がポンプを握るたび、肛門を挟み込むように内側と外側が膨らみ、逃げ場がなくなったところで肛門自体を引き延ばすように真ん中の瘤も膨らむ。
急速に増していく排泄欲。出そうで出ない焦燥感。実際には排泄物は出ていないと知ってはいても。身体が上げる悲鳴に脳が警告を出し続ける。
「出したいですか? 排泄自体はアナルプラグの中心に排泄管が通っているので、それで処理しますが……。その排泄欲自体は、無くなりません。何せ広がりっぱなしですから」
そう言って男はポンプを外して大きな注射器のようなものを管に接続した。得体のしれない液体が注入されるにつれて、股間がズシリと重みを増していくように感じる。
「今入れたのは接着剤としても使われている樹脂です。熱さは我慢してください。硬化時間は早いので」
転げ落ちそうなほど暴れる私の身体を男が抑える。熱はやがて引いていったけど、ジンジンと痺れるような痛みは治まらない。
「今のうちに尿道も処理しますね」
「あ、づ……っ!」
私が肛門に気を取られているうちに、マドラーのような棒がおしっこの穴を抉り出す。
肛門と違って、こちらはさすがに痛みが強い。けど、とても入らなそうな太さの管がズルズルと飲み込まれていくところを見ると、どうせ何かしら弄られたのは確定だ。
こちらも膀胱内に入ったバルーンが膨らみ、同じように樹脂を入れられた。
「外科手術をすれば取れるでしょうが、逆に言えばそうでもしないと取れません。そして貴女が今後まともな医者にかかることはない」
「なんで……こんな、……ひっく……ひっく……」
ただでさえ取り返しのつかない処置をされたのに。排泄器官まで奪われて、私は無性に悲しくなった。
どうして私がこんな目に遭うんだろう。私が何をしたのだろう。
自分ではどうしようもない排泄。一向に消えない排泄欲。人間としての尊厳を奪うような仕打ちに、怒りよりもやるせなさがこみ上げてきて。
「理性的な貴女はそうおっしゃいますが、本音の貴女は違う意見のようですよ」
「あ、え……?」
だけど悲嘆にくれる私を、”わたし”は裏切って。
「ひゃあっ!?」
「ほら、ヴァギナはこんなにも濡れそぼって、物欲しげにヒクついています」
イキそびれて不満げな身体は、こんな残酷な仕打ちですら快楽に変えようと必死で。その浅ましさと惨めさに思わず乾いた笑いが出た。
「種明かしをすれば、”組織”では人を人工的にマゾヒストに仕立て上げる研究もしてましてね。まぁまだ途上の技術でどれだけの効果を生むかは不明ですが」
「はぁ……はぁ……」
「貴女のその反応、施術の効果か生来のものか。興味はありますが、どちらにせよ些末なことですね」
怪しげな手術のせいに決まっている。私が、こんな、酷い目に遭って興奮する変態だなんて、そんな……。
反論の思考が生まれるたびに、今の状況が、肛門の悲鳴が、脳の深いところを痺れさせて。男の指が性器をなぞるたびにまともな思考が吹き飛んで。自信がなくなる。確信が揺らいでいく。
「ヴァギナにはこれをあげます。あ、処女膜は施術の際に除去してますので」
「なっ、あっ? ぎ! ……っと、ふと……! むり、いい、い、いぃいっ!」
とんでもないことをさらっと流され、抗議する間もなくディルドーが秘所を貫き膣内を侵略していく。
意識とは裏腹に身体は待ちかねたと言わんばかりにそれを飲み込んで、バチバチとスパークするような快感を叩き込んでくる。
少しカーブした先端が子宮口を押し込み、根本付近に付いた幾つかの瘤がGスポットをちょうど抉る場所に来たところで、挿入が止まった。
「はっ……はっ……はっ……!」
その上から金属製の下着のようなものを履かされる。先の肛門のプラグもろとも抜けないよう押さえつけながら、股間部を覆っていく。内側に付いた小さな器具がクリトリスの包皮を捲り上げ、剥き出しになった肉芽を四方から突起が挟み込む。まるでずっと甘噛みされているような感覚に腰が引けるのにも構わず、そのまま固定するように鍵を掛けられてしまった。
「これは貞操帯ですが、今回は単にプラグ等を固定する意味合いのものです。クリトリスはおまけです。ディルドーも、自分で締め付けない限りは……」
「はひっ……はひっ、はひっ……!」
「……。まぁ、しばらくは無理でしょうね」
一気に与えられた直接的な刺激に、頭の処理が追い付かない。
自分で締め付けない限りは、なんて。無理に決まってる。ただでさえ快楽に飢えた身体が、ようやく与えられたそれを我慢できるはずがない。下腹部を埋め尽くす愉悦に、喜び勇んで膣は抱擁を繰り返す。そのたびディルドーの瘤がGスポットをゴリゴリと抉って、全身が飛び跳ねるほどの快感をぶち込んでくる。
それは意識せず肛門も締め付けようとして、でもできなくて、排泄できない苦しさを思い出して、身を捩るとクリトリスがギュッと潰されて、反射的に力を入れるとまたディルドーを締め付けてしまって。
終わりのない快楽の無限ループ。しかもそれを取り外す術はない。治まるのを待つしかない。でも、それはいつまで?
「頭がパーになっているうちに残りも済ませてあげますね」
「あ、がっ」
口を開かされ、喉奥に何かを吹きかけられる。目を白黒させる私に構わず、ジェルにまみれた管が2本、両方の鼻の穴からズルズルと入り込む。
「げほっ! ごほっ! あご、えっ、うえっ、げえええっ!」
「飲み込んでください」
激しい嘔吐反射も虚しい抵抗でしかなく、管は喉を通過していく。
「それぞれ食道と気管に通しました。あとはこれを咥えてください」
「おごっ!?」
聞いた言葉の意味も分からず、ただ口内に侵入してきた異物に抵抗する。けどそれはまさしく無駄なあがきで、弾力のあるペニスの形をしたそれは口内を超え喉奥にまで埋め尽くしてしまった。
「……っ、……っ!?」
「ああ、最後の言葉を聞くのを忘れていましたね。今更ですが」
えづきが止まらない。喉が詰まって死んでしまいそう。なのに何とか呼吸はできていて、でも息苦しさは収まらなくて。
「これは餞別です」
耳の穴にイヤホンのようなものが入れられる。途端に周囲の音が聞こえなくなる。聞こえるのは自分の鼓動の音だけ。パニックになりかけた私に向かって、男はマイクらしきものを見せつけ、声を発する。
『聞こえますか』
私がかろうじて頷くと、男は『素直ですね』と言って笑った。
もはや反抗する気力もない。未だに身体中が恍惚に溺れ、泣き喚きそうな焦燥感に焦がされている。
だけど次に目にしたものの前では、それもほんの一瞬だけ忘れてしまった。
『これは貴女を守るケースであり、……一生を過ごす檻です』
コンコン、と硬い音を響かせる透明のケース。アクリルか何かでできた、”私の形をした”檻。
『失礼します』
事ここに至って、私の身体は暴れることもしなかった。ただ男の手が、指が肌を触れるたび、もっと強く、もっと慰めてほしいと泣いていた。そんな身体の裏切りに心は疲れ、理性は現状を嘆くことすら諦めだして。ただただ、これからこの身に起こる取り返しのつかない事態を上の空で想像していた。
誰も来ない森の中で、自由にならない身体にされて、モノのようにケースに入れられて、台座の中に閉じ込められて。
ずっと独りで。
「……っ」
すっぽりと、寸分の狂い無く収まる背面。今の私はまるでピーナッツのようだ。男が身体から伸びる管の類をまとめて外に出し、前面部分のケースを上から被せてくる。私と世界を断絶していく。
『……』
しばらく男はしゃべらなくなった。
本来の男はこちらなんだろうと、なんとなく思った。集中した様子で、ケースの淵の隙間を埋め、管を処理している。私は私で、尖った乳首がケースの内側についた点字のような凸凹に押し潰されて、微かに身を捩って擦れて生まれる切ない刺激を必死で集めようとしていた。
『……ふう。あとは潤滑剤を入れます。今のままだとケースと直に当たって痛むでしょうし』
頭部に開いた穴からドロリとした液体がケース内に入り、充満する。僅かな隙間が毛細管現象で埋められ、やがて全身を浸す。目に入ったときはどうしようかと思ったけど、何度か瞬きをすればプールのように目を開けていられた。透明度も高く、見た目はほとんど変わらない。肌がケースに貼り付く感覚が消え、変な言い方だけど滑りがよくなった。
『それは老廃物の処理も兼ねてますので、定期的に交換します。まぁ貴女が気にすることでもないですが』
そして、ケースに梱包された私という達磨人形を、男はひょいと持ち上げ抱き抱える。お姫様抱っこなんてロマンチックなものではなく、むしろ赤子のようだ。でも、荷物のように、ではないだけマシなのかもしれない。なんていったって、私は神様に捧げる人柱らしいから。
『さて、それではさよならです。といっても、メンテナンスがありますので、定期的には来ますが』
さっきまで寝そべっていた台座の側面が開く。そこには確かに空間があった。人間の頭と胴体だけなら何とか入りそうなだけの空間が。
壁は、扉は銀行にある金庫のそれのように分厚い。多少の衝撃や風化ではびくともしないだろうことを思わせる。たとえ五体満足で元気いっぱいであろうとも、ここに入れられて内側から脱出できる気はしない。
ちらりとレンズが見えたので、さっき見た映像は埋め込まれたカメラのものだったようだ。今頃管理画面には哀れな人柱がもう一基増える様子が流れているのだろう。
『貴女が狂うのが先か、私の首が飛ぶのが先か』
いよいよもって高鈴佳奈という存在はこの世から消えてしまうのだ。
そう思うと、メンテナンス目的だとしても、誰かが自分を見ていてくれるというのは救いなのだろうか。
そんなことを考えて、何をバカなことを、と自分を叱責する。
これはただの監視だ。それと、見せしめだ。これから私は、人間らしさの欠片もない給餌も、排泄管理に悶え苦しむ様も、極限の不自由に発狂する様も、……それらをひっくるめて植え付けられたマゾ性が悦虐の涙を流す様も。世界がつつがなく日常を送る隅っこで、誰にも知られることなくただひっそりと藻掻き狂っていく様子を。
きっとこの男にだけは、晒してしまうのだ。
『もしもすべてが上手くいったなら、私は貴女を……』
悲嘆にくれる達磨人形を台座に収納しながら、男は私に向けているようで、だけど誰に言うでもない風で呟いていた。
『……。せめて、気持ちよく果ててください。惨めに、はしたなく、滑稽に』
扉は閉められ、視界は暗く、昏く。猛烈に襲い来る恐怖。絶望。
だのに。自分という人間の尊厳を無視し、命すら厭わない非道をこの身に受けているのに。毎秒襲い来る強制的な快感と排泄欲と苦痛と圧迫感と。それらから一生逃れられないという破滅感ですら。マゾヒストと化した、あるいは生来持つ浅ましきマゾヒズムによって、この身は甘く痺れ、底なし沼のような快楽ループへと沈み込んでいく。
『それこそが、貴女が貴女でいられる、ただ一つのできることなんですから』
その言葉を最後に、イヤホンからの音が途絶える。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……っ」
誰も来ない場所で、完全に置き去りにされた。
そう実感した途端。
冗談ではなく本当に、私はここで死ぬまで極限状態で放置されるんだと。
そう理解した途端。
「……っ!! ~~っ!!」
知ってはいけない破滅の快楽に身体中の肌が粟立ち、私は狂ったように絶頂を貪った。
▼
目の前に鎮座するこの台座は、これでいてなかなかハイテクです。
原理は詳しく知らないですが、光学迷彩によりある程度周囲の風景に溶け込むことができるとのこと。近くまでいけば流石に違和感を感じますが、遠目には本当に分かりません。技術の進歩というのは凄まじいものです。おかげでメンテナンスに向かう際は、GPSを頼りに探さなければならないわけですが。
そもそも、ヒト一人を長期間生かすだけの装置が格納されているわけで、そんなものが森の中に転がっていること自体が不自然極まりない話です。一帯の山林は組織が所有しているとはいえ、カモフラージュが必要だという理論も理解できなくはありません。
また、中の構造も外見に反して精密機器の塊です。
一定期間を賄う食料や下水設備、”ニエ様”の健康状態をチェックする医療機器。ある程度は太陽光で賄うとはいえ、諸々の電気設備を稼働させる補助バッテリ。多くは台座の下の地中に埋まっていますが、メンテナンス効率の面から台座部に格納された機器も多くあります。
”ニエ様”が生涯を過ごす格納部は、一体入れるとほぼ隙間が無くなるほどの狭さ。その格納部は台座の中で独立していて、宇宙飛行士の訓練施設のそれとまでは言いませんが、ある程度自由に回転できます。
万が一にもそれらが傷つけられれば、中にいる”ニエ様”の生命は簡単に脅かされます。いざというときは、人柱としては代わりを見つければいいだけの話ですが、見せしめとしてはあまり早く死なれると都合が悪いので、組織としても生命維持に関しては”ある程度”やる気を見せているようです。
また何より、”ニエ様”という存在自体が、組織の関連団体である宗教法人のご神体として設置されています。組織としても見せしめとしての体をなしていればいいので、宗教法人の意向を容認している形です。どちらにせよ不憫な存在であることに変わりはないですね。人間を潰して人柱にしたものがご神体だなんて、薄気味悪い話です。
「まぁ、有難がる気持ちも分からなくはないですが」
中を映す映像を通してその姿を眺めながら思います。
多少緑がかりぼやけた画ではあるものの、そこに見えるのは確かに、”今回のニエ様”。
手足を落とし、狭い台座の中でただ生かされ続けるだけの、哀れな達磨人形。
けれどそれが、どうしようもなく美しく愛おしい。
有名な美術品に見る欠損の美をこれに求めるのは失礼なのかもしれません。
ただ、これから長い時間を掛けて創り続けるという意味では、ある意味で作品であり、愛すべき結晶とも言えます。
それは、これまでに何度も道半ばで廃棄処分された”先輩たち”にも言えること。
ですが、今回は少し違いました。
どうしても耳から離れないあの声。脳裏に焼き付いたあの表情。抱き上げたときのあの温もり。
胸のあたりがざわつく。これまでになかった感覚。そんな複雑な何かが、新たに混じり合っていました。
それらに対して明確な答えは出せないまま。ただ明確に感じる美と、仄暗い嗜虐の悦び、そして吹けば消えそうな義務感でもって、仕事をこなすだけ。
そこに疑問など、ありはしなかったのです。
……少なくとも、これまでは。
▼
ずっとまどろみの中を漂っている。
気付けば胃袋が重くなり、知らぬ間に膀胱は軽くなり、不定期に訪れる快楽のスパイラルに心の嬌声を上げる。
すべてがオートマチックに、私を生かし続ける。逃れようのない、生の強制。
自由になるものは何もなく、私はイかされ続ける。終わることのない、性の地獄。
気持ちいいだけならよかったのに。身動きの取れないこの身体、このケースの中では、”動けない”ということが何よりの苦痛だ。いっそ床ずれが酷くなって死んでしまえればいいのに。でも、身体とケースの間の潤滑剤はとても優秀なようだった。たまに訪れる熱かったり冷たかったりするそれのせいで、またどういう理屈か全身があちらこちらへ傾いたりするせいで、必然と身体が緊張し、最低限の筋肉的な運動は賄っているようだった。
それに、押し広げられた肛門が叫ぶ排泄欲と、呼吸管理による息苦しさが、快楽と快楽の間、シラフの時間を地獄に変える。せっかくマゾヒズムを植え付けられたというのに、24時間ずっと苦痛を快楽に変えられるわけじゃないなんて詐欺もいいところだ。
それでも、イヤホンから延々流れている音、それが心療的なものかはたまた催眠、洗脳かは分からないけど、耳に心地いい音が流れているのが救いだった。これはあらゆる苦痛を少しだけ和らげてくれるものだと男は言っていた。
『メンテナンスに来ました』
例外があるとすれば、これだ。
『元気でしたか。まぁバイタルはモニターしているので身体的に元気なのは分かっているのですが』
細身で長身、掴みどころのない表情を顔に貼り付けたスーツ姿の男。私を”殺した”元凶。
男が来ている間だけは、心地いい音も消え、その声だけが聞こえる。
『最近は組織も頭でっかちが増えましてね。色々と融通が利かないことも増えました』
……いや、元凶というのは筋違いだということは、うっすらと察してしまっていた。きっとこの男はただの作業員でしかなくて。命令を下した上司がいて、それらが所属する組織があって。そこと両親の間に何らかのトラブルがあって。きっと怒るべきはそこなんだろう。恨むべきはそこなんだろう。
でも、仕方ないじゃない。こうなった原因たちの中で、私はこの男しか出会っていない。矛先を向けさせてくれるのは、この男しかいないのだから。
『そういえば、そろそろ紅葉の季節ですね。この辺りは広葉樹が多いので、結構綺麗なんですよ』
苦痛を和らげる音が消えると、苦痛がぶり返す。理屈で言えばそのはず。
『今年はサンマが不漁なようでして。スーパーに行っても高いったらない』
なのに。何故かそんな様子はなくて。
『貴女は野球とか興味あります? ……まぁ無さそうですね。とはいえ、私も若い女性が好みそうなゴシップなどはあまり明るくなくて』
その声が憎いのに、もっと聞きたくて。
『……おや、イってますね。構いませんよ。快感を感じるのはとてもいいことです』
人との”会話”に飢えすぎて。ただ声が聞けるだけで嬉しくて。
”高鈴佳奈”として接してくれるのが、涙が出るくらい切なくて。
いつしか男が来ることを待ち詫びてしまっている自分が隠し切れなくて。
『ひょっとして挨拶してくれてるんでしょうか。なんて、怒られますね、こんなジョーク。……と、また数値が上がりましたね。随分気持ちよさそうで何よりです』
見ないで、私のイッてるとこ、見ないで……!
羞恥で死にたくなりながら、肌を粟立ててイク。がくがくと痙攣しながらイク。
そして無意識に締め付けた膣の中のディルドーが良いところをゴリゴリ削ってイク。そんな動きすら何一つ制御できなくて、惨めで、無力で、イク。
その様子を余すところなく観察されながら、イク。
「~~っ!!」
嬉しくて、憎らしくて、恥ずかしくて、気持ちよくて。
ぐちゃぐちゃになった感情。そんな人間らしい感情。
それは何もない空白が残りの人生のほとんどになってしまった私にとって、まさに麻薬のように危険な刺激で。どうしたってそれを渇望してしまう。
まるで主人の帰りを待ちわびた飼い犬が尻尾を振るように。無条件に身体が反応するようになってしまった。
『そのまま快楽に浸っていて構いませんよ。作業だけ済ませてしまいますね』
止まらない痙攣を続けながらイッて。でも頭の中はどこかクリアで。
いつからか、絶頂しても前後不覚になるほどでもなくなったのは、単純に慣れなのか。
だけどだからこそ、ある程度客観的に見えてしまう自分の姿がまた惨めで。
『そういえば、何回か前のメンテナンス時に言いましたっけ。膣内のディルドーを5秒以上締め付けると”はい”、それを2回続けると”いいえ”のランプが点くと』
ああ、そういえば何となく覚えている。
私は私の知らないところで、台座をピカピカ光らせていたのだと。
『これまでは断続的にランプが点いていたので、おそらく身体が制御できずに絶頂するがまま締め付けていたと思いますが。これができるようになると、意思の疎通ができるんですけどね』
聞いたときは、こんな屈辱的な意思疎通手段があってたまるかと怒り心頭だった。
だけど時間が経つにつれ。今の自分があまりに何もできず、どれだけ外界と隔絶されているのか思い知るにつれ。どんな方法であっても、誰かと意思疎通ができる、その魅力はとても抗い難いものだった。
『どうでしょう、トレーニングしてくれていますか?』
何でこんな恥ずかしいことをトレーニングしなければいけないのか。
そう怒鳴り散らしたくなる段階はとうに過ぎていた。
これから起こることに少し躊躇いを覚えながら、震える下腹部に力を込め、ディルドーを締め付ける。
「……~~っ!」
ディルドーの瘤がGスポットを抉ってくるのを懸命に堪え、締め付ける。
3秒、4秒、5秒。数えた後、力を抜こうとして失敗する。極小のスペースの中で腰が何度も跳ね、制御できない痙攣が続く。身体はすでにイッていた。自分の意志では止められない絶頂のループに突入してしまう。
『おや、”はい”ですか。どうやらある程度コントロールできるようになったのですね。えらいですよ』
出会った当初なら罵倒とともに跳ね除けていたであろう褒め言葉。
なのに今は、不思議なほど素直にその言葉を聞いていた。
だって、頑張ったのだ。
何もない、本当に何もない無限の時間の中で、必死に自分を伝える手段を手に入れようとして。
屈辱も羞恥も、苦痛も快楽も、全て飲み込んで、できるようになったのだ。
褒められて嬉しいと思ってしまった自分がいたって、仕方ないじゃないか。
『返事の後、絶頂が続いているところを見るに、まだ”いいえ”をするのは難しそうですね。ですが、これは大きな進歩です。次も頑張ってください』
これは調教だ。できなかったことをできるようにする。目的に応じて訓練する。
その対象が動物ではなく、人間で。人間ではなく、人柱で。対象を辱めるものではあるけど。
頑張ろうと思ってしまうのは、自分が変えられつつある何よりの証拠なんだろう。
『さて、メンテナンスももうすぐ終わります』
完全閉じ込め症候群の患者は、時が経つにつれ自発的な思考をしなくなるという。
昔読んだ本の内容をふと思い出す。
精神だけが正常で身体的な自由が一切利かないその病気にかかれば、何か欲求があっても実現する手段がないから、そういった目的指向の思考をしなくなる。その気持ちが、少しだけ分かる。
いくら考える時間があっても、考えるだけ無駄なことを考え続けるのは辛い。そうであるなら、与えられた実現可能な目的に飛びつくのは自明の理だと思う。少なくとも私は、その誘惑を無視できるほど強くはなかった。
『もう少し上手にできるようになったら、会話してみましょうか』
この状況は、いつまで続くだろう。
私の意識は、命は、いつまで持つのだろう。
きっと、長くは持たないだろう。
いくらメンテナンスとやらが完璧だったとしても、犬の寿命ほどもあるかどうか。
だけど、何でだろう。
そのことがちっとも悲しくなくて。
ただただ、身体から怒涛のように流れ込む苦痛や快楽に意識が流されていくのもあるけど。
むしろそれが、自分を曝け出す、いや、曝け出さざるを得ない状況を作っていて。
そうして初めて、私は不自由の中の自由を感じている。
滑稽な話だと分かってはいても。洗脳のせいだと。調教のせいだと。状況のせいだと。
……この男のせいだと。分かってはいても。
もう、誰かの顔色を窺わなくてもいいのだと。
もう、仮面を付けて生きなくていいのだと。
そんなことを思わされてしまったから。
『楽しみですね、”佳奈”』
私は産声を上げるように、「はい」と泣いた。
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