ポニープレイ『碧の章』前編

 碧は気付いていない。

「菫ちゃん、もしかして本当に気付いてない?」
「……え?」
「さっきからおせんべいこぼしまくってるよ」
「え、わっ、うわわっ!?」

 視線を下にやれば、部屋着のキャミワンピが茶色や白色のカスに絨毯爆撃を喰らっていた。

「あははっ。どんくさーい」
「うっさい! 気付いてたんなら早く言いなさいよ!」
「いやいや、普通自分で気付くって」
「む……」
「どったの菫ちゃん。ここんとこいつもぼーっとしちゃってるよ」
「な、何でもない……」

 探るような気配もない、純粋に「どうしたんだろう」という声色。
 肘をついて手のひらに顎を載せてカクカクしゃべる碧に、ゴミ箱を手繰り寄せながら生返事を返す。

 分かってる。
 最近の自分が、自分でもどうかしちゃってると思うほど上の空なのは。
 そしてその理由も。

 碧は何も言わない。
 これでいて優しいから、言わないんだ。
 あたしが何故ぼーっとしてるのか。
 そしてそれを何故碧に相談しないのか。
 いつも一緒にいるからこそ生じる疑問、それを、あえて聞かない。
 いつも一緒にいるからこその気遣いが、そこにはある。

 だからこそ、碧は気付かない。
 いや、気付かせてはいけない。

 いつものように、「何かあれば言いなよ?」という顔を残してTVに向き直る碧。
 いつものように、その後ろ姿を見つめるあたし。

 じっと、見つめる。
 いつものように。

 碧は、気付いていない。
 気付かれてはいけない。

 それに気付かれた時、あたしは……。

▼

 碧に言わせれば「似合わない」らしいが(失礼な!)、あたしはチマチマと旅行とかの計画を立てるのが好きだ。
 必ず通したいメインを据え、それを引きたてるサブを配置し、全体像と照らし合わせながら妥協点を見付け、諸要因とすり合わせを行う。
 誰が泣いてもいけない。皆が、円満に、「よかった」と思えるように。
 少しずつ、少しずつ、まるでパズルのように組み上がる計画。
 それは一種の作品と言ってもいいかもしれない。
 大学のゼミでの卒業旅行や両親の結婚記念日旅行なんかを組んだ時は、そりゃもう喜ばれたものだ。

 でも、今回は違う。
 今回は、そういった全体のバランスだとか、すり合わせだとかは、二の次だ。
 全てにおいて、自らの欲望が優先する。
 そしてそれを達成することだけに全力を注ぎ、バックアップし、充足する。
 そこに、あたしの望まざる相手の思慮など挟ませない。
 普段からすれば欠陥だらけ、でも、自らの欲望を満たすという意味では、よくできた計画。

 なのに、その欲望が完璧に満たされるかどうかは相手次第、とは何の皮肉か。
 これは、この想いは、なんて言えばいいのだろう。

 ……ああ、そうか。

 我がまま、だ。

▼

「旅行?」
「うん、そう」

 秋も深まり、冬の寒さを予感させる11月のある日。
 ウィンドウショッピングで店を冷やかしまくった昨日とは打って変わって、朝からごろごろとソファに腰掛けTVをぼんやり眺める怠惰な一日を過ごす。

「いいね~。最近遠くまで行けてないし、行きたい。寒くなってきたし、暖かいとことかさ」
「乗り気ってことでOK?」
「全然OKだよ~」

 暖房の効いた床に寝そべり、のべーっと答える碧。行儀が悪い。
 そんな姿に苦笑しながら、少しぬるくなったコーヒーを啜る。
 朝食に食べたフレンチトーストの甘さが中和されて、ほどよい苦みが口に広がる。

「今回は気前よく1ヶ月くらい行こうかなと思ってるんだけど」
「おおう。有休消化率の低さに定評のある日本にあって景気のいい話ですな。でもそんなに休み取れるかなぁ」
「取るのよ。一応年明けてから春先あたりに行こうと思ってるから、今のうちに準備、ね。軽い引き継ぎとかしておいて。なるべくスムースに申請通るように」
「本気ってことかな? まぁそうでもしないと行けないしね。課長が泣きそうだけど」
「知ったこっちゃないわね。他人の足引っ張る天才とか無駄に古株で口だけのババアとか、人員は足りてるんだからそいつらが仕事すればいいだけの話でしょ」
「言うね。その通りなのがまた泣けるよ」
「あたしを切ればどうなるか、課長も知ってるだろうし」
「だから同情してるんだけどさ」
「というわけで安心して身辺整理しときなさい」
「りょーかい。いやはや、菫ちゃんだけは敵に回したくないね」
「それはこっちのセリフ。こないだあんたのチーム一人辞めたの聞いたわよ」

 あはは、と立ち上がりながら笑う碧。

「あ、コーヒー入れるならあたしのもお願い。ぬるくなっちゃったし」
「はいはい。後でね」
「え? って、どこ行くのよ」
「ちょっとお花を摘みに。おほほ」
「……」

 思い切り怪訝な顔して見つめる。

「……沈黙が一番ツライナー」
「さっさと行ってきなさい」
「らじゃー」

 ビシィ! と効果音が聞こえてきそうなくらいしっかりと敬礼してトイレへと消える碧。

「……はぁ」

 その姿が見えなくなって、数秒。
 視界が天井を映し、肺から空気が喉に引っ掛かりつつ外に出る。

 「何てことない日常」を、「何てことない日常」と意識するという異常。
 それは例えば、長くは生きられない病気の人が、
 日々を大事に生きているときに感じる感覚に近いのだろうか。
 何でもない、くだらない、いつもの日々のやり取り。
 それがやけに尊く、貴重に感じられる。
 それが幸せであると歌ったのは誰だったか。

「……」

 全ては自分が望むこと。
 それを分かっていてもなお、感傷に浸ってしまうのは、かろうじてまだ自分が常識ある人間であるからか。

「きっと、許されないだろうな……」

 禁じられたものを破る背徳感が、無いとは言わない。
 だけど、あくまであたしが主張するのは、自分の望むものがたまたま禁じられていただけ、ということ。
 それを望むこと、そのことを根底から否定はしたくない。
 これだけは、貫き通す。何を言われようとも。

「ほい、コーヒー」

 いつの間に戻ってきてたのか、碧がカップをあたしに差し出す。
 聞こえるか聞こえないか分からないような声で「ありがと」と返し、湯気の漂うカップを受け取る。
 コーヒーの香りが、少しずつ頭を覚ましていく。

「で、どこに行くかってちょいと考えたんだけどさぁ」

 あたしの後ろ、テーブル横の椅子に腰かける気配がする。
 その行動が、腐りかけたあたしの心に突き刺さり、さらにぐちゃぐちゃにする。

「……まぁ、なんだね。私のことは壁だと思って」

 言っている意味は分からなかったけど、言わんとしている意味は何とか理解できた。
 つまりは、あたしが抱えた悩みを、聞こえないふりをするから吐き出してみなよ、と、そう言っているのだ。

 自分は、自分で思っているより表に出るタイプなのか。
 それとも、碧が特別鋭いだけなのだろうか。

「まだちょっと眠いだけ。気にしないで」
「……そう?」

 こういうとき、TVの雑音がありがたい。
 その場が必要以上にシリアスになるのを防いでくれる、気がする。

 だから言えた。

「……ありがと。……ごめん」
「ん」

 計画はまだ始まったばかり。
 覚悟を決めろ、自分。
 喝を入れる。

 それ以来碧はこのことに関して何も言わなくなった。

▼

 計画の実行には、自分ひとりの力ではどうにもならない部分がある。
 だから、以前お世話になった人に内密に連絡を取った。

「お久しぶりです。夏以来ですね」
「お久しぶりです、千歳さん」

 7月ごろ、あたしがポニープレイをお願いした時に担当だった、千歳さん。
 あのときは、結局1日延長して、碧含め二人ともえらい目にあわされた。
 まぁあたし自身も楽しんだから、そのことについてはいいんだけど。
 ともかく、そのときに密かに千歳さんと連絡先を交換していた。

「とりあえずどこか入りましょうか」

 パンツスーツなのはこれを仕事と思って来てくれているのか。
 近くの喫茶店に向け歩きだす千歳さんの後姿を追いながら、そんなことを思う。
 一歩一歩モデルのようなきれいな足取りで、あたしに見せつけるようにポニーテールが左右に揺れる。
 ……わざとか。わざとなのか。

「ここでいいですか」
「さすが千歳さん、……渋いですね」

 そこはまさに知る人ぞ知る、というような、ちょっと薄汚れた感じが雰囲気のある、というか、ぶっちゃけやってるのかやってないのか分からないお店だった。
 看板もないし、案内されなければ確実に素通りする自信がある。

「あんまりおばさんにそういうこと言っちゃダメですよ」

 こちらに笑顔を向けながらドアを押し開ける千歳さん。
 ……失言だっただろうか。

「そ、そういう意味では……」
「うふふ、わかってますよ」

 怖い。

▼

「ミックスベリーのタルト。あとミルクティーをホットで」
「あ、あたしは、……どーしようかな。あ、このクラシックショコラ、にします。それとホットコーヒー」
「かしこまりました。少々お待ち下さい」

 店員さんがカウンターの奥へ引っ込んでいく。
 店の中は、年季の入った感じがまさにイメージ通りで、内心ちょっと笑った。

「なにか面白いものでもありましたか?」

 内心どころか外に出てた。

「い、いえ、ずいぶん雰囲気のあるお店だなぁと」
「性格もあるんでしょうが、若い子向けの賑やかなお店は性に合わないんですよ」
「千歳さんは十分若いです。それに注文したのだって若い感じしますし」
「好きなものは好き、ってだけです。逆にお子様舌でからかわれますよ。お恥ずかしながらブラックとかは飲めませんし」
「え、意外……」

 朝新聞を読みながらブラックを啜る千歳さん、すごく絵になりそうなのに。

「だから菫さんのほうが大人かもしれませんね」
「あ、いや、いやいや、そんなことは……」

 にこりと笑う千歳さんにドギマギする。
 大人の女性が子供っぽい笑顔を見せるのは卑怯だ。
 主にギャップ萌え的な意味で。
 その魅力はあたしにも碧にも無い。

「お待たせいたしました」

 にこにこしている千歳さんから視線をきょろきょろ逃がしていると、店員さんが注文したものを運んできた。

 お、おいしそー……。
 いつも並んでるケーキ屋さんと比べても遜色ない見た目。
 小腹がすいていることもあってテンションが上がる。

「ひとまず頂きましょう。味は保証しますよ」
「いただきます。……これは、お、おいし……!」
「よかった」
「グルメリポーターじゃないんで上手く言えないですけど、おいしいです。すごく。……へー、こんなお店あったんだ」

 今度また碧と来よう。
 無意識にそう考えて、一瞬フォークを持つ手が止まった。

「……菫さん?」
「あ、いや、……ごめんなさい」
「……」

 何でもないです、とは言えなかった。
 だって、まさにそのことで千歳さんを呼び出したんだから。
 それを感じ取ったのか、千歳さんも何も言わなかった。
 しばらく黙々と目の前のショコラを口に運ぶ。

 おいしいのが救いだった。
 ただショコラとコーヒーの味に没頭した。

▼

 そうしてお互いに半分くらい皿を空けたところで、カップを口に寄せ、おもむろに千歳さんが口を開いた。

「……たまにいらっしゃいますよ。そういう方」
「……!」

 ドクン! と強く心臓が暴れた。

 皿とフォークの接地面がカチャカチャとうるさいので、手を離す。

「そう、……ですか」

 ひどく喉が渇いたけど、今カップを持てば絶対こぼす自信があったのでやめた。

「私共はさまざまな『プレイサービス』を提供する組織。そこに属していれば、やはりさまざまな嗜好をお持ちの方と出会います。……そして、『プレイ』から逸脱する方も」

 カチャリ、とカップをソーサーに戻し、真っ直ぐにこちらを見つめる瞳は今日初めて見るもので、あの日見たそれと似ていて、ああ、これが仕事の時の千歳さんなのかな、と、ふと思った。

「なまじ理想のプレイが体験できる分、妄想が現実になる、その手段がすぐそこにある、と歓喜されるようです。大抵の方はさまざまな理由でそれらを諦めながら生きてきた方々ですから、その想いは私にも理解できます」
「……」

 一切視線のぶれない千歳さんの瞳に耐えきれず、ほんの少しだけ周囲を見渡した。
 そこで気付いた。

 来店時に少しだけだけどいた他のお客さんが一人もいない。

 一気に冷や汗が吹き出た。
 そして急速に理解した。

『今ここには確実に境界が存在する』

 その恐怖にまみれた歓喜の事実に。

「……一応お聞きしますが、『どちらですか』?」

 一言一言が重くのしかかる。
 粘っこい唾液を強引に飲み下し、言葉をひねり出す。

「……あの子です」

 碧です、とは言えなかった。
 キュウッ、と千歳さんの目が細められたのがすごく怖かった。
 それだけであたしは泣きそうだった。

「これは個人的な意見ですが……」

 間を置くようにもう一度カップに口を付ける千歳さん。
 あたしはといえば、情けないことに指がまともに動きそうになかった。

 そして、決定的な言葉が、その艶やかな口から聞こえた。

「お勧めはできません」

 それであたしは決心した。

「……ありがとうございます。千歳さん」

 悩んで、悩んで、そして悩んだ。
 何よりも、孤独になることを恐れた。
 だから、千歳さんのその一言で決心できた。

 それを、伝えた。

「碧をあたしのものにするため、力を貸して下さい」

 そう言って頭を下げた。
 千歳さんの息をのむ声が聞こえた。

「……私は、引きとめる発言をしたはずですが」
「ええ。だから踏ん切りがつきました。ありがとうございます」
「……そうですか」

 そう言って千歳さんは目を閉じ、「失言でしたね」という一言とともに苦い笑みをこぼした。
 その姿を見てあたしはようやく金縛りが解けたように身体が動き、ようやくぬるくなったコーヒーを啜ることに成功する。

 千歳さんは、あたしが一番恐れていた問題を解決してくれた。

 孤独は、つらい。
 逆に誰か一人でも自分を見てくれていると分かれば、それは強さに変わる。

「結論から言えば、菫さんの要望を叶える手段は、あります。そして、組織としては、依頼された以上はビジネスとしてそれを達成します」
「はい」
「私個人としては、……組織に身を置くものとして、その決定に従うのみです。……ただ」
「……」
「せめて、あらゆるものを拒絶せず、あらゆるものの味方であれ。そういうスタンスをとっています。無論、菫さんに対しても。……こんな私は、醜いですか?」

 その言葉に、あたしは精一杯の誠意をこめて応えた。

「いえ。あたしより、はるかに眩しいです」
「……そうですか」

 一瞬、垣間見えた自嘲と本音は、見たことのないくらい深く濁った表情を感じさせた。

▼

 年が明けてしばらくして、あたしたちは長期休暇を取った。
 もちろんいい顔などされないが、口八丁手八丁で丸めこんだ。
 どうせそれほど愛着も未練もない。
 あまりにうるさければ辞めるだけだ。
 課長にそう言ったら青い顔をしていたから、こちらから言わない限りもうしばらくは大丈夫なのだろうと思う。
 実際有休を使ったのは保険で、内心ほとんど辞めるつもりでいたから、一応引き継ぎ用の書類は作っておいた。あとは知らん。

 そういえば、碧は少し揉めていたように思う。
 でも、それも仕方ない。
 あたしと違い、碧は社内でも人気者だ。
 仕事ができるのはもちろん、マスコット的な可愛らしさもある(毒もあるが)。
 その割に恨み妬みを買いにくいという奇跡的なバランス感覚を持っている。
 たとえ1ヶ月2ヶ月程度の休みでも、引きとめらるのはある程度予想できた。

 そんなわけで、碧が離脱する理由があたしとの旅行だと知れれば、あたしの社内での立場は一気に悪化するだろう。
 そういう立ち位置なのだ。お互い。
 そして、耳聡い者が多く閉鎖空間に閉じ込められた事務職連中の間に今回のことが知れ渡らないはずはなく、十中八九懸念通りの展開が待っていることだろう。
 あたしに味方がいないわけではないが、それを覆すほどではない。

 社内でのあたしの立ち位置がどうなろうが知ったことではないけど、碧との間にそういった雑音が入るのが煩わしくなった、というのは、今回の件の理由の一つに数えてもいいと思う。

「楽しみだねぇ。地酒が美味しいんだよね。あと温泉も」

 横の座席から聞こえる楽しげな声に、我に返る。
 なんとなく碧が仲のいい子とおしゃべりしている姿がダブる。
 一種の走馬燈だろうか。

「しかも菫ちゃん厳選プラン! 内容は着いてからのお楽しみってのが憎いじゃない。菫ちゃんの旅行計画は間違いないからね」

 そう言ってあたしに笑いかける碧。
 その顔を見て、あたしは一瞬、ほんの一瞬だけ、「何だろうこの茶番は」と思ってしまった。
 そしてそのことを死ぬほど後悔した。

「……どったの、菫ちゃん」

 それが顔に出ていたのかもしれない。
 キョトンとした表情で席から乗り出し気味に覗き込む碧の頭に、こつんと軽いげんこつを落とした。

「あいたっ」
「あたしが飛行機だめなの知ってるでしょ」
「……あー」

 ウソは言ってない。
 だからか、碧は「そういやそうだった」と何度も頷きながら自分の席に戻った。

「……でもさ、ならなんで飛行機移動?」
「船はもっと嫌いなの知ってるでしょ」
「……あー」

 ウソは言ってない。
 碧は「可哀想な子、不憫な子じゃ」と、よよよ泣きを始めた。
 ……ほっとけ。

 やがて、空港に着く。
 嬉々としてゲートをくぐり、あたしを急かす碧。

 あたしたちの住む街とは違う空気。暖かな気候。
 旅行特有の高揚感を胸にはしゃぎまわる小動物の首根っこを捕まえ、旅客ターミナルに到着したバンに二人して乗り込んだ。

 『碧』の人生は、ここで途切れた。

▼

 ブウゥゥ……ン。

 仄暗い8畳ほどの休憩スペースに、自販機の稼働音が響く。
 存外に座り心地の良い椅子に居心地悪く腰掛け、まるで垂らされた蜘蛛の糸のようにコーヒー缶を両手で握りしめる。

 自分でもどこを見ているのか分からない。
 油断すれば息をするのも忘れ、慌てて呼吸を繰り返す有様だ。

「ここでしたか」

 コツ、コツ、と、リノリウムを叩く靴の音。そして声。

「終わりましたよ。あとはしばらく経過観察の時間をとります」
「……」
「組織の仕事はそこまでです。その後はお約束通り私の持つ別荘をお貸しします」
「……お世話になります」

 かろうじて声だけは応えた。

「何かあれば私個人宛にご連絡を。……それと」

 そう言って、でも、それきり黙ったままの千歳さん。
 無言の彼女は、静かに、真っ直ぐ、あたしを見続ける。
 責めるでもなく、憐れむでもなく、ただ、待っていてくれる。
 そのことで、あたしは少しだけ心が浮上する感覚を得た。

「……朝までには。すみません」

 自分に言い聞かせるように、そう宣言する。
 千歳さんの纏う空気が、なんとなく優しくなったような気がした。

「ある意味羨ましいくらい、ちぐはぐですね。菫さんは」
「……え?」

 一瞬よく意味が分からず、思わず千歳さんを見てしまう。
 そこには、想像していたとおりの笑みを浮かべた千歳さんがいた。

「悩んで下さい。決めて下さい。そして、また悩んで下さい。どのような決断をしても、私は貴女に手を貸しますよ」

 それは本当に、母からもらう無償の愛のように、そっとあたしに寄り添う、そんな優しさだった。

「何、で……千歳さんは、そこまで……」
「さぁ、何ででしょうね。私がもう少しちぐはぐだったなら、あるいは理由がわかったかもしれません」

 その答えは、今のあたしには少し難しい。
 でも、何となく分かる気がした。
 きっと、千歳さんもあたしと同じように『欠陥』を持ってるんだろう。
 そして、それがもう答えでもあるように思った。

「……ありがとう、ございます」

 自分でもほとんど聞き覚えのないような声で呟いたそれを、千歳さんは黙って受け取ってくれた。

▼

 しばらくは碧の術後経過を見る、ということで、あたしは先に千歳さんの別荘へお邪魔した。
 人気のない山間にポツンと建つそこは、周囲を囲む木々とともに所々雪化粧に覆われていた。

「さすがに山のほうはまだ寒いな」

 季節的にはまだかろうじて冬ではある。
 だけど、南に位置するだけあって街中は春先の空気を感じ取れたし、改めて山間部の季節のズレを知った思いだった。

「とりあえず中に入ろう」

 誰に言うでもなく呟いて、千歳さんから預かった鍵で玄関の扉を開け、中に入る。

「うわぁ」

 自然と声が漏れた。
 外観からして洋式ではあったが、部屋もそれに違わず、広い部屋に豪奢なソファ、高そうなテーブル、
 見たことのないような調度品の数々。
 そして、ひしひしと伝わる生活感の無さが、どこか違う世界にでも来てしまったかのような思いにさせる。

「……しばらくは探索かな」

 かなりよそよそしい動きでソファに荷物を置き、トランクケースを端に寄せて、千歳さんのクスクス笑う顔を想像しながらひとりごちた。

 そして、バカみたいに広い家の中、数日を独りで過ごす。
 食料庫に大量にあった食材の中から、なんとなく安そうなものばかり選んで、当たり障りのない食事を一人黙々と食べる。

 オーディオセットはあったけど、とても高そうだったので弄るのはやめた。
 掃除しようと思ったけど、維持管理は行き届いていたようで必要なかった。
 最低限自分が使ったところだけ掃除する。
 必要なものがあれば連絡してください、というメモ書きもあったけど、別段家の中にあるものだけで間に合いそうだったのでそのまま。
 地下に降りればワインセラーがあって、よく分からないけど高そうなのが所狭しと並んでいた。

「うわ寒っ」

 お約束のように調教部屋みたいなのもあった。
 きっと千歳さんの『お客様』がここで過ごしていたのだろう。
 いや、別荘だしプライベートかもしれない。
 そういえばプライベートでそういう関係の人はいるのだろうか。
 そんな益体の無いことを考えながら、壁から垂れた鎖に繋がれた手枷を持ちあげた。
 とても壊れそうにない、『本物』だった。

「……」

 檻の鉄格子に触れる。
 漫画とかで見たことのある、鉄格子をひん曲げて隙間を作って、なんて脱出の仕方は、所詮漫画の中の話なんだな、と思った。
 こんな山の中に人知れず建つ家の、地下。
 もし監禁されたとして、誰が気付くだろうか。助けなんて来るだろうか。

「……」

 隅に置かれた机に近づく。
 何冊か本が置いてあったので、手にとってパラパラとめくる。

「……『人体の破損を可とするなら、末端部位から破壊することは有効である。腕を落とすなり脚を落とすなりするにしろ、爪を剥ぎ指を潰し、より長く対象を』……」

 拷問教本だった。
 机の引き出しを開けたら、どす黒く染まったペンチや鋏や針が出てきた。
 何も言わず引き出しを戻す。

「……ふーん」

 自分の知っているものより小柄な水車、X字や逆さT字の固定枠、ベルトのたくさんついたベッド。
 どう見ても座り心地の悪そうな椅子。奇妙な形をした金属棒の数々。
 それらを博物館に飾られた展示物のような目で見ながら、
 これ以上体が冷えないように地上に戻った。

 その後はテラスでのんびりしたり、屋上にあった望遠鏡で昼の月を探してみたり、マッサージチェアでごろごろしたり、大して面白くもないTV番組を眺めたりしていた。

 そして、あたし以外誰もいない家に、チャイムの音が響き渡る。
 もう一人の住人、いや、『ペット』が、届いた。

▼

「なにか不都合はありませんか?」
「いえ、いたって快適です。孤独以外は」

 玄関先、あの日と変わらぬパンツスーツ姿で、千歳さんが微笑む。
 人との接触に飢えていたあたしは、表には出さなかったがテンションが上がっていた。

「ふふっ。それも今日までですよ。ようやくお返しできます」

 まるで修理に出していた物を返すような言い方に、曖昧な返事を返す。
 ただ、千歳さんの性格を考えた時、それはどこか違和感を感じる。
 だからあたしは、『仕事熱心な人だな』と思った。

「どうぞ、こちらへ」

 あたしを連れだって、庭先へ歩きだす千歳さん。
 その先には、比較的大きなトラック。作業着を着た業者さんっぽい人。
 そしてその人が持つリードに繋がれた、肌色の、馬のような『何か』。

「内容は『あの日』のようにお任せでしたので、このような形に」

 目の前の生き物は、確かに碧だった。
 まだまだ寒いこの場所で、服も何も着ないで裸でいるのは寒くないだろうか。
 ……なんて思うことが滑稽なほど、その姿は最後に見た姿とは似ても似つかないものだった。

 一番目につくのは、腕。いや、もう前肢と呼んだほうがしっくりくる。
 それは人間の身体からすれば非常識に長く、膝を伸ばした四つん這いの姿勢で胴体を水平に保つ長さだ。

「前肢は人工骨格で長さを後肢と合わせています。菫さん、こちらへ。岸さん、足を見せて下さい」

 千歳さんの指示で碧の横に移動する。
 岸さんと呼ばれた作業着の男性は、碧の左前肢を持ちあげる。
 手の指が全部なかった。

「手のひらに蹄鉄を固定し、蹄としています。数か所穴を開けたところにボルトを通していますが取り外しもできます。ただ、しばらくは取り外さず隙間から消毒して下さい」

 後肢を見たら、そっちも指が全部なかった。
 きっと同じことになってるんだろう。
 視線に気付いたのか、千歳さんが言う。

「後も同じです。つま先立ちの形で固定はしてありますが」

 ふと、あたしも履いたバレーヒールを思い出した。全然レベルが違うけど。

 この調子でいくと、いろいろ改造されてるんだろうな、と思ったけど、次に目についたのが、髪がなくなっていることだった。

「あの、髪の毛は……」

 菫の髪は、本人も自慢に思っていたくらいきれいなものだった。
 その黒くて艶やかな長い髪は、あたしも羨ましく思ったものだ。
 それが、今はない。

「髪は剃り上げた後こちらに再利用しました。長かったので少し切りそろえましたが」

 その末路が、このお尻から生えた尻尾だった。
 ただ、よくあるアナルプラグの尻尾かと思ったら、違った。

「尾骨を起点にジョイント部を作り、そこに接続しています。ただそのせいで尾骨が肛門を圧迫してますので、かなりいきまないと排泄ができません。そのおかげかコロコロとした糞が出ますので、よりポニーらしいかもしれませんけどね」

 ただでさえ碧は便秘症だった気がする。
 浣腸器の映像が脳裏にちらついた。

「あと頭皮の脱毛処理はしていませんので、また生えてきますよ。尻尾の毛が痛んだ時に使えます」

 それはよかった。
 理由はともかく、もったいないと思ってもらえたようだ。

「あと顔ですが……」

 大人しくじっとしている碧の顔の前に移動する。
 その顔には額や鼻の周り、耳の上下などをベルトが通り、口端から出たハミの端に繋がったベルトとともに後頭部に回り固定されていた。

「元々整った顔立ちでしたので、外見はほとんどそのままです。耳は軟骨などを培養して形を変えて上部へ移動させましたので少し聞こえづらくなっているはずです。なので声による指示より、鞭などによる指示が多くなると思います」

 前より尖った耳がこめかみのあたりから生えていた。
 プルプル震える様子から、しっかり血が通っているのだと知れた。

「首は常に顔が前を向くように補助骨格を入れて矯正しています。もちろん下を向くことは可能ですが、前を向いている状態が一番楽な姿勢です」

 二足歩行が前提の人の骨は、四つん這いで前を向き続けるにはつらい形をしている。
 今の碧は四つん這いを受け入れた形となり、逆に二足歩行がつらいものになるということだ。

「あと目には見えませんが……」

 千歳さんが碧の背中を撫ぜる。
 2回、3回、なんてことのない動作。

「ヒ……ヒッ……」

 それだけで、碧は身体を震わせ、息を漏らした。

「皮膚を特殊なピーリング処理により通常より数倍敏感かつ強靱な状態にしてあります。今みたいな寒空の下裸でいても耐えられますし、鞭で打たれてもそうそう怪我はしません。病気にも強くなってます。それにこうして撫でるだけで秘部をかき回されているような快感を味わっているはずですよ」

 千歳さんの言うとおり、撫で続けられる碧の顔は虚ろで、口の端から涎が垂れていた。

「ヒ……ヒヒュ……」
「……気持ちいいの? 碧」
「ヒヒ……」

 あたしの声に若干正気を取り戻したのか、視線をこちらへ向けて碧が口を開く。
 ただその口からは、言葉が出てこなかった。
 そういえば碧はこんなひどい目に遭っているというのに、ここに来て一度も文句を言うどころか誰かに助けを求める声すら上げていない。
 最初はハミのせいかと思ったけど……。

「あの……、これ、まさか……」
「はい? ……ああ、言葉はろくにしゃべれないでしょう。舌を肥大化、長大化させてありますので、喉や口腔内を圧迫しますし。息を漏らす音くらいでしょうか」

 すると辛抱できなくなったのか、碧の口からベロンと舌が出てきて垂れ下がった。
 およそ人間の基準からすれば2倍も3倍もある長さと大きさで、まさしく口の中に何とか収納出来るか、といった感じだった。

「ハ……ハヘ……」
「慣れればちゃんと自分の意思で自在に動かせますよ。人間のそれに比べれば強靱ですし、自分で噛み切ることもできません。あ、歯は虫歯もなく健康でしたのでそのままです。ちゃんと磨いてあげて下さいね」

 そっか、自分で磨けないもんな。
 そんな今さらなことを思った。

「主なところはこれくらいでしょうか。処理内容はお任せということでしたが、お二人の関係等に配慮して馬頭整形処理はしていません。同様の理由で体毛植毛や入れ墨なども今回見送りました」

 「それでよろしかったですか?」という千歳さんに、「ありがとうございます」という意味を込めて頷きを返した。
 きっと、完全に改造を施せばそこには、多少の違和感はありつつもまさしく『ポニー』が誕生するのだろう。

 そしてそうならなかったのは、ひとえにあたしの覚悟と気持ちの問題だろう。
 どちらが取り返しのつかないことかは、一目瞭然だから。

「個体認証用と懲罰用にマイクロチップを2つ首筋に埋め込んでいます。ハンディ型リーダーとリモコンをお渡ししておきますね。まぁコードはあくまで非合法ですけど、実在はしますのでご安心を」

 それは安心なんだろうか。
 そう思ったけど、千歳さんのバックの組織のことを思い出して、よくは知らないけどきっと組織内での奴隷管理コードか何かなんだろうなと脳内変換した。

 そうなると、所有者が誰か分かって横取りされないってことかな。
 そういう意味での安心なのかも。

「あと細々した物はこの仕様書の中に。分からないことがあれば私にご連絡ください。お望みであれば、いつでも……というわけにはいきませんがこちらにも寄らせていただきます」
「……ありがとうございます」

 目の前の碧の姿を見て何と言っていいか分からなかったけど、その言葉の最後の部分だけ捉えて感謝を告げた。

 ……いや、全ては自分が望んだこと。
 それを叶えてくれた千歳さんには、やはり感謝を告げるのが正しい。
 善悪や倫理観なんてものは、あたしが背負うべきものなんだから。

「では、これを」

 それまでじっと黙して控えていた作業着の男性(確か岸さんだっけ)が、ハミに繋がった手綱と鞭をあたしに渡してくれた。

「それでは私たちはこれで。何も無ければまた1ヶ月後に」
「ええ」
「……。岸さん、行きましょう」

 最後に微笑みをひとつ。
 千歳さんと岸さんはトラックに乗り込み、去って行った。

 あとには、もう後には引けないあたしと。

「ヒャ……ヒ……」

 悲しげな顔をした人馬が一頭。

 こうして、あたしたちの旅行のメインイベントの一つは無事に終了した。
 ふと空を見れば、雲の無い晴天がやけに皮肉っぽく映った。

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