「そういえばさぁ」
今日も今日とて調教三昧。
経緯が経緯だけにペットプレイ(って言うのかな)が多いのだけれど、最近は結構普通にスタンダードなSMプレイもしたりする。
今も珍しく緊縛プレイなんかして、その縄を片付けているところ。
最初は綿だったのに、この頃は麻縄なんか使いだしたりして、正直スイッチ入るまでは結構辛い。
ただまぁ裏で手入れをしているお姉さまを知っているので、なるべく早く慣れたいところだ。
「この間の話憶えてる?」
「何ですか? あと片付け手伝っていただけると嬉しいなぁ。ちらっ」
「そのよく動く口だけで片付けする? 貴子」
「わんわん(ごめんなさい)」
床にペタンと座って縄を束ねている私に、少し含みのある笑みを投げかけるお姉さま。
ソファに腰掛け肘をつきながらこちらを見る視線は、調教中と違って純粋に優しげだ。
その視線が何だかこそばゆくて、何となく身体に残った縄の跡をさする。
「で、よ。したじゃない。本当に犬として育てたらって話」
「ああ、何かしてましたね、そんな話」
お姉さまの言葉に、記憶を手繰り寄せる。
確か小さい時から犬として躾けたらどうなんだろう、とか、そんな感じの話。
「狼少女とか、そういうのですよね」
「まぁ今言いたいのはそこまで極端な話でもないんだけどさ。あの時も、割とまんざらでもなさそうな感じだったじゃない、話してて」
「あー……、まぁ、興味がないと言えば嘘になります」
自分が今、ペットプレイで楽しんでいるからこそ。
『本気』でペットにされる話は、興味深い。
私としては、ほぼフィクションに近い感覚ではいるのだけど、もしかしたら……、という思いが妄想に火を点ける。
自分がそうなるかはともかくとして、ね。
「やっぱりそう? ま、そりゃそうよね。こんなことしてるんだし。……つーわけで、出かけましょ」
「そうですね、プレイとはいえこうして……って、へ?」
……今何と?
「とりあえず今日はもうきぃちゃんのままでいいわ。車回してくるから、服着て表出てきてね」
「は、え……はい? ちょ、ちょっと、どういう……」
「これから、見に行こうと思ってね」
普通に会話をしていたと思ったら、出かけることになっていた。
何を言っているのか……状態のまま困惑した表情を浮かべていると、すでに着替えを終えた(一枚羽織っただけだけど)お姉さまは身を翻しながら。
「わんちゃん。勉強になるかもよ」
と言って、部屋から出て行った。
「……」
嵐が過ぎ去った部屋にポツンと残された私。
「……え、と」
急なことに頭がついていかない。
……わんちゃん?
かろうじて唯一引っ掛かったワードが、頭の中踊る。
「……とりあえず着替えよう」
お姉さまの出て行った先をぼけっと眺めながら、私は縄を仕舞い服を取りに行くのだった。
▼
慌てて服を着て戸締りをして、玄関を出て鍵を掛けていると、急げとばかりにクラクションを鳴らされた。
……理不尽だ。
「あたしの連れに、ブリーダーの子がいるのよ。まぁ売らずに飼育専門らしいけど」
「はぁ……」
乗り込んだ車中。
慌てて着替えたからか息を切らしながら助手席に座りこむ私を確認し、お姉さまがアクセルを踏みながらそう口にする。
というか、ほんの十数分前まで縄で吊るされてたんですけど、私。
そんな訴えるような視線も、微笑み一つで流されてしまう。
「いつでも来て良いって言われてたんだけど、すっかり忘れててね」
「もしかして、それを思い出したから急に?」
「うん。この間話しながら何か引っ掛かってて、今日ふと、ね。そういえば実際にそんなやついたな~っと」
何気に酷い。
「……お友達なんですよね?」
「一応ね」
「一応……」
うん、あんまり聞かないでおこう。
とりあえず、思い出してすぐに出発するくらいには大事なお友達なんだ。
「悪い子じゃないんだけどさ……。ちょっと面倒なのよ。苦手なタイプというか。今回も何ですぐに来なかったのかグチグチ言うに決まってるわ」
「ならこっちに来たときにすぐお伺いしていれば……」
「まぁそうなんだけど……。疲れるのよね。何て言うか、ほら、夏休みの宿題みたいなものよ」
「そんなに後回しにしたいような方なんですか……」
ブリーダーって言ってたっけ。
ということは、やっぱりその、そういうことをしている人だよね。
なおかつお姉さまがこんなことを言うほどの人。
何だか会う前から恐怖しか感じられないんだけど、大丈夫かな……。
▼
日本と違って広大な領土を持つこの国。
道路以外何もない道をひたすら進み、オアシスのように点在する街をいくつか通り過ぎた頃、外れに家がポツンと建っているのが見えた。
「はい、到着。長旅お疲れ様」
「あはは……。でも、あそこのドーナツ美味しかったです。それだけでも来た甲斐あります」
「そう。たまにはファストフードもいいわね」
適当に停められた車から降り、お姉さまの後を追う。
日本じゃ怒られそうだけど、ここじゃ周りに家もなけりゃ何もない。
目の前にはでんと西洋風の門があって、その奥に1階建てのすごく横広い家が見える。
ただ逆にそれだけしかなくて、あとは牧草地帯というか、ただ野原が延々と広がっている、という感じ。
ちらほら木はあるけど、森というほどでもないし。
「いらっしゃ~~~いっ!」
「あ~はいは……ってくっつくな鬱陶しい!」
「……」
周りを観察していると、家のある方からよく響くソプラノボイスが。
そして門が開いたかと思うと、一人の女性がお姉さまに抱きついていた。
それはまるで死に別れたと思っていた恋人に再会したようなハグ。
場所が場所なら映画のワンシーンにも見えそうだ。
お姉さまの言葉通り鬱陶しそうな表情がなければ。
あと、まだ呼び鈴も鳴らしてない気がするんだけど……。
「ったく、ほら、お土産。ドーナツ。あんた好きでしょ」
「え~! 本当!? 嬉しいなぁっ。ケイちゃん大好き~!」
「だから止めんか!」
お姉さまがドーナツの入ったボックスを渡すと、またもや感激して抱きつく女性。
何かもうついていくことを諦めた私は、ただ茫然とその光景を眺めていた。
感情表現豊かな人だなぁ……。
「あのね。言っとくけどあたしらは客よ。早くお招きやがってくれない? いつまでも抱き合うほど暇じゃないの」
「お姉さま、日本語おかしいです」
「はいはい、せっかちなんだから~。……あら、この子は?」
「説明する。説明するから早く上がらせなさい。ここらは結構冷えるんだから」
「もう! 分かったわ、とりあえず上がって~。あ、貴女も。ようこそいらっしゃい」
「あ、はい、お邪魔します」
勝手知ったるといった様子で家に上がり込むお姉さまと、それをニコニコと眺めながら私を招いてくれる女性。
会いに来たの、この人なんだよね。
何かイメージと違うなぁ。
見た目はすごく優しそうな人なんだけど。
何だかんだでお姉さまと仲良さそうだし。
「顔に何か付いてる~?」
「え…‥あ、いえ! すみません……!」
まぁとりあえず上がらせてもらおう。
お姉さまはすでに家の中へ消えていた。
……何だか今日は振り回されっぱなしだ。
▼
「そう! きぃちゃんね! 私は結城有紀(ゆうきゆうき)。ゆうゆうとかダブルゆうきとか好きに呼んでね~」
「は、はぁ……」
「騙されちゃダメよきぃちゃん。有紀って書いて『あき』って読むんだからね」
「じ、じゃあ有紀(あき)さんで……」
「もうケイちゃん余計なこと言わない!」
「あんたが嘘教えるからでしょうが!」
「ぶー!」
「子どもか!」
中へ通されてから。
外見通り広いリビングに、モデルルームのような内装に感嘆しながら、勧められたソファに腰掛ける。
すぐにここの主、有紀さんがコーヒーを入れてくれ、お土産のドーナツも広げられた。
お姉さまと有紀さんは何だかんだと言い合っていたけど、傍目にはまるで漫才を見ているようだった。
きっと私が一番年下だけど、何だか二人が微笑ましく映った。
「ほら、きぃちゃん? 私の秘蔵のクッキーも食べてね~」
「は、はい、頂きます」
「うふふ~」
勧められるがまま手を伸ばし、クッキーを齧る私を、ニコニコして眺める視線。
机を挟んで向かいに座る女性、有紀さん。
言動は元気いっぱいの子どものようで、コロコロ変わる表情が可愛らしい。
「……」
「……ん? 何かな~? おかわり?」
「あ、いえ……」
「そう? 遠慮なく言ってね~」
でもその見た目や、ふとした時に見える仕草、物腰は、お姉さまとはまた違う、大人の女性を感じさせる。
見ているこっちが温かくなる笑顔と雰囲気。
ホワイティアッシュのロングヘアーと、お姉さまに負けない長身。
嫉妬しそうな二つの膨らみ。どことなく上品な色気漂う身体。
日本人離れした見た目に目を奪われていると、ご本人から「クォーターなのよ」と教えてくれた。
全てを包みこんでくれそうな、それは強烈な母性とでも言えそうなオーラが、この人からは感じ取れた。
「急に悪かったわね、アキ」
「全然。それより、何ですぐ来てくれなかったの! ずっと待ってたのに~!」
「あー、ごめんごめん。いろいろ忙しくてさ」
「だめ。許さない。今日は泊まっていってね。これ決定事項だから。帰さないから。絶対!」
「……はいはい、分かったわよ」
ただ、お姉さまの前では、子どもの有紀さんになるようだ。
駄々っ子のように頬を膨らませながら詰め寄る姿は、見た目からはすごいギャップを感じる。主に可愛い方向で。
溜め息をついたお姉さまが小声でこっそり「面倒でしょ」と耳打ちしてきて、車の中で聞いていた話を少しだけ理解した。
でもきっと最初から泊まるつもりで来ているであろうことは出発時間からも分かるし、素直じゃないお姉さまが微笑ましい。
「でも、本当に急にどうしたの? こんな可愛い子まで連れて」
「いやさ、ちょっとアキの子たちを、見せてもらいたいな、と」
「うちの子を? いいけど~……。『そういうこと』なの?」
お姉さまの話に了承しながらも、有紀さんが私に視線をくれる。
その視線に少し居心地悪くもじもじする私。
何となく、お母さんに似てる気がする。
落ち着かないのは、そのせいだろうか。
「『そういうこと』」
そんな私を安心させるかのように、私の頭にポンと手を載せ答えるお姉さま。
そして思い出す。ここに来た意味。
それと、この人も、『そういう趣味』を持っている人だということ。
ここに来る前、お姉さまは、「今日はきぃちゃんのままでいい」って言っていた。
だから、少なくとも今日はもう調教はない。
なのに、何故かさっきからドキドキが止まらない。
静かに変わっていく空気が、私だけ圧迫しているようだ。
「そうなの。じゃあとりあえず、今一番可愛がってる子呼ぶわね~」
お姉さまがこの話を振ったとき、有紀さんは私の方を見た。
その時、それまで純粋にティータイムを楽しんでいた心が、馴染みあるざわつき方をした。
何故ならその視線は、調教中に私を見るお姉さまと同じものだったから。
対等な人を見る目とは違う、それこそペットを見るような、飼い主の慈愛に溢れた視線だったから。
「おいで~! ユイ~!」
「あん!」
部屋に響く有紀さんの声。そして、廊下から響く甲高い鳴き声。
部屋に通された時から気になりながらも、あえて目に入れようとしなかったもの。
それは、ドアの下部にあるペット用のくぐり穴。
それが今役割を果たす。
「ああ……」
誰にも聞こえないように、小さく声が漏れる。
それを見たとき私は、どんな顔をしていたのだろう。
「紹介するわ。ユイよ~」
「あん!」
有紀さんの声を合図にドアをくぐって入ってきたのは、白い身体に一糸纏わず、四つん這いで歩を進める小さな女の子だった。
▼
「あら、可愛い子ね」
「そうでしょう? うちの子の中ではまだ新米なんだけど、物覚えもよくって~」
「アキが気に入るのも分かるわ。……ほら、おいでおいで」
「あんあんっ!」
ユイ、と呼ばれた女の子は、小柄だと言われる私よりももう一回り小さな身体をしていた。
日焼けとは無縁そうな白い肌、細い手足、控え目な肉付き。
それでも不健康そうに見えないのは、彼女の明るい表情のおかげだろうか。
また、この国では珍しく、でも私たちの国では一般的な黒髪。
左右に括られた髪の束が歩くたびポフポフと揺れ、耳の垂れた犬を連想させる。
今も、その髪を揺らしながらお姉さまの足下へ近づき、頭を撫でられてくすぐったそうにしている。
あと、裸でいるのに全然違和感を感じない。
えっちな目線で見るより先に愛らしさを感じてしまうのは、仕草一つとっても迷いなく堂に入っているからだろう。
お尻から生えた尻尾も、とてもよく似合っていた。
「この子はまたいつも通り?」
「そう。何年経っても変わらないのよ~。どこも一緒ねぇ」
「……?」
ユイちゃんのあごをさすりながら言うお姉さまに、有紀さんが苦笑交じりに答える。
いつも通り……とはどういうことだろう。
疑問を抱きつつお姉さまを見ると、視線が合ったお姉さまが「あー……」と前置きして教えてくれた。
「つまり、『そういうとこ』で売られてたのよ、この子は。それをアキが買ったってわけ」
「あ……」
そしてある意味分かりやすい答えをもらって、思わずユイちゃんを見る。
私より明らかに幼い外見のユイちゃんは、外見相応の屈託のない笑顔のまま犬のように座っている。
「お偉いさんが立派なこと言ってても、需要があるものは無くならないのよ、きぃちゃん」
「まぁ日本人の子はまだ少ないけどね~。他と比べると。だったらいいのか、と言われると困っちゃうけど~」
「はぁ……」
「私も、これでも一応日本人だから、同郷の子を飼うようにしてるの。この家にいる子はみんなそうよ~。……きぃちゃん、幻滅した?」
「え、と……その……」
これまでと変わらない優しい笑みを浮かべて訊いてくる有紀さん。
その問いに、とっさに答えが用意できない。
……私は、私の答えは、どうなんだろう。
話を聞く限り、この国では(多分他の国でも)未だに人身売買が行われていて、ユイちゃんも、ここにいると言っていた子たちも、そこで買われたものだという。
目の前にいる、とても優しそうな女性、有紀さんによって。
それは一般的な考えからすれば、唾棄すべきものなんだろうと思う。
人が人を買う、その愚かさは歴史を紐解いても明らかで、奨励されるものでは断じてない。
でも、未だにそれらは無くならず、存在し続けている。
「それと、先に言っておくわね~。私は日本人ばかり買っているけど、それは同じ民族の人間を助けようと思ってやっているのではないの。ただ単に、ほかの民族よりも『好み』なだけ。やることに変わりはないのよ~。そこにいるユイのようにね」
あえて『買う』という手段を取って、救済しているのでは、という思いは、他ならぬ有紀さんの言葉によって否定される。
単純に自分が欲しいからという主張。
ユイちゃんに目をやる有紀さんの表情に、嘘は見えない。
「きぃちゃんは、どうなのかな~?」
「わた、し……は、その……」
自分のことについて考える。
私の場合、お姉さまとは買った買われたという関係じゃない。
結果的に飼われているような関係ではあるけれど、きっかけはただお互いの趣味が合ったというだけだ。
私としては今の境遇に不満があるわけでもない。
ユイちゃんはどうだろう。
見た感じ、特に嫌がっているようには見えない。
内心でどう思っているかは分からないけれど……。
でも、仮に不満を抱いていないとしたら、現在の境遇は私とそう変りない。
そうであれば、ユイちゃんと私は同じような気持ちを抱いていてもおかしくない。
つまり、有紀さんを恨んではいない。
だとすれば、有紀さんが悪い人であるとは、一概に言えなくなってしまう。
「……」
「勘違いしないでほしいのはね~、きぃちゃん。私は、この子たちに感謝してほしいわけではないの。恨んでくれたっていいし、自由にしてほしいと言われればそうするわ」
「え……」
「ただ私は、自分勝手にこの子たちを手元に置いて、世話をして、愛している。自分がそうしたいからそうするの。義務とか善悪とか関係ないのよ~。だから私はこの子たちから恨まれてもそれを受け入れるし、愛してくれるというのならそれも受け入れる。だってそれは、この子たちがそうしたいと思った結果だから」
有紀さんの言葉は、淀みない。
聞いている私が、圧倒されるほど。
「もし……ユイちゃんが、自由になりたいって、言ったら……」
だから、とっさに出たこの言葉は、ほとんど無意識だった。
それでも、有紀さんはそれまで何も変わらない口調で、私に答えてくれる。
「もちろん尊重するわよ~。学校に行きたいと言えば転入手続きを取るし、私から離れたいと言えば里親を探す。自立したいと言えば仕事の斡旋もするし、家も探してあげる。離れるのは寂しいけどね~」
あくまで自己を尊重するという有紀さん。
だからこそ、少し意地悪な考えが頭に浮かぶ。
ならば、買われてきて精神的に余裕もなく、選択する余地がない(と思っている)ときに、有紀さんの趣味を押し付けてこんなことをしているのは、その子の未来の選択肢を狭めることにならないのか、と。
おそらく有紀さんの性格からして、この家に来たときに懇切丁寧に説明をしているのだろうとは思う。
でもどうしても思わずにはいられなかった。
『初めから刷り込んでおけば、他の選択肢を選ばないのではないか』
それを問うと、有紀さんは少し困ったような顔をして言った。
「親はね、子どもに理想を押し付けちゃうものなのよ」
その言葉を聞いて、モヤついた心が少し晴れた気がした。
結局、一緒なんだ。みんな。
支配者と被支配者、保護者と被保護者。
主人と奴隷も。飼い主とペットも。親と子も。聖職者と孤児たちも。
見え方は違っても、人を背負うということに変わりはない。
幸せな奴隷もいれば、不幸せな子どももいる。
全ては背負う側の覚悟と、背負われる側の捉え方なんだ。
「有紀さん、あのっ――」
「言っておくけど」
吐き出そうとした言葉は、有紀さんの人差し指によって防がれる。
そして面食らった私に、微笑み一つ。
「私は決して『良い人』ではないのよ~。貴女たちとは違って、私のしていることはれっきとした悪。ただ、私では社会のシステムをどうこうする力はないから、次善の策を取っているだけ。自分のわがままも含めてね~。仮に善いことだと思われたとしても、こういうのは偽善と言うのよ~」
偽善。その言葉で妙に納得する。
確かに有紀さんの言うこと、やっていることは、その言葉で片付くのだろう。
解放運動をするでもなく、社会に一石投じるでもない。
ただ自分の欲望を満たし、副産物として幸せが達成されているだけ。
でも、と思う。
悪を悪と批判しながら、特に何もしない偽善よりは、よほど善に近い偽善なのではないかと、ユイちゃんの楽しそうな顔を見ていて思う。
だって、少なくとも一人、ここでこうして笑顔を見せているのだから。
「有紀さん……」
「きぃちゃんは、私のこと悪く言わないのね~」
「……私は、その、人に買われるとか、そういう辛さは、分かりません。人並みにこれまで生きてきましたし、ここにいるのだって自分の意志です。だから、本当に奴隷として売買される人の辛さは、分かりません」
「きぃちゃん……」
「だけど、今のユイちゃんの気持ちは、少しは分かります。わんちゃんとして過ごすのが好きかどうかは聞かないと分かりませんけど、でも、有紀さんのこと、好きなのは分かります。恥ずかしいことも、有紀さんのためなら頑張ろう、って、そう思ってるのが、分かります。だから、有紀さんのこと、悪く言えません」
「……そう」
こんがらがった頭の中から、素直に出てきた言葉を話す。
そこには、少しだけ自分の気持ちも入っている。
部外者が分かったようなことを言って怒られるかなと思ったけど、有紀さんはただ黙って私の言葉を聞いてくれていた。
「……ねぇ、ケイちゃん」
「何?」
「良い子見つけたね~」
「でしょ? あげないわよ」
「ケチ」
「いや、あんたたくさん可愛い子いるでしょうが。あたしはきぃちゃんだけなのよ」
「あはは……」
お姉さまと有紀さんのやりとりに、穏やかな空気が戻ってくる。
私は、有紀さんの望む答えを示せたのだろうか。
有紀さんの変わらない笑顔からは読み取れない。
ただ。
「この世界には色んなことがあるわ。良いことも悪いことも。どっちか分からないことも。人の数だけ答えはある。だから人と違ってもいい。どう考えていてもいい。ただ、どんなことに対しても、自分なりの答えを持っておくの。見える部分だけで判断してはダメ。見えない部分だけを想像して断定してもダメ。……難しいけど、お姉さんとの約束ね~」
「……はい」
少なくとも、私にとってはありがたい時間であったのは確かだ。
つくづくもって『お母さん』のような人だと思った。
▼
「さてさて、すっかり私の自己紹介になっちゃったね~」
「そうね。ユイちゃんの話が聞きたかったのに。おばさんの話はまた今度にしてよね」
「ちょっと! 酷くない!? おばさんってケイちゃん私と歳変わらないじゃない! うえ~んきぃちゃんケイちゃんが苛める~! 慰めて~っ!」
「え、え、あの……」
「放っておきなさい。いつものことよ」
「はぁ……。え、と、よしよし?」
「あああ癒されるわぁ~。きぃちゃんは優しいねぇ。ケイちゃんみたいに冷血鬼女になっちゃダメよ~?」
「だれが鬼女よ!」
「あんあん!」
「ほら、喧嘩しないでください。ユイちゃんに笑われてますよ」
「あははっ。ケイちゃん笑われてやんの~」
「あんたよあんた! あたしじゃないわよ! ……ね~ユイ?」
「お二人ともだと思いますけど……」
「……きぃちゃん何気にきついよね」
一同連れだって家の中を移動中。
有紀さんが明るいからか、家の中は姦しく、笑いが絶えない。
それと、お姉さまがこんなに声を荒げて言い合いしている姿は初めて見る。
普段がつまらなそうというわけじゃないけど、何だかすごく活き活きとして楽しそうに見える。
やっぱりそれだけ有紀さんと親しい関係だということかな。
ちょっとうらやましい。
「次の子はどんな子なの?」
「え~とね~……」
先頭を歩くのは有紀さん。
その後隣にお姉さまがついて、二人で楽しげに会話している。
その後を私と、私の持つリードに繋がれたユイちゃんが歩いている。
歩いているといっても、ユイちゃんは四つん這いでだけど。
「ユイちゃん寒くない?」
「? あんあんっ」
黙っているのも寂しいのでユイちゃんに振ると、予想通りの答えが返ってくる。
家の中は全て床暖房が敷かれていて、廊下に出ても暖かい。
ユイちゃんは裸だし、と思ったけど、その笑顔を見る限り問題ないようだ。
「広いね、お家」
「あん」
横に広いと思っていた家は上から見るとカタカナの『ロ』の形をしているみたいで、四隅に広いお部屋があって、それを廊下が繋げている。
真ん中にはお庭があって、そこだけでも家が一軒建つくらい広い。
一階建てとはいえ、10人家族でも持て余してしまいそうなほどで、いくら土地が安そうとはいえやっぱりお姉さまのお友達だな、と思った。
「ユイちゃんはいつからここにいるの?」
「あん……」
「こらこら、その質問はユイには答えられないでしょ」
ついつい普通の友達感覚で質問したら、お姉さまからツッコミを頂いた。
そっか、ユイちゃんはしゃべれないんだった。
「ユイはね、3年くらいかなぁ~。ここに来たときから小さい子で、今もあんまり成長はしてないけど」
「あんっ!」
「ごめんごめん! ……で、3年ずっと犬として過ごしてるから、ほら、結構様になってるでしょう?一つひとつの仕草とか。歩き方とか。叩きこんだからねぇ。最初はぎこちなかったけど、今はとっても可愛いわ」
「『意識』はあるのよね?」
「人としての? あるわ。完全に一からってわけじゃないから。人らしい動きとかはいくつか忘れてるかもしれないけど」
『人らしい動きを忘れている』
有紀さんとお姉さまの話を聞きながら、ドクンと心臓が躍る音を聞いた。
3年。ユイちゃんは犬として生活している。
確かにそれだけあれば、目の前の『前肢』で目を擦る動作などが染み付くのも頷ける。
ただそれは、人として生活する上で行う動作を忘れるのにも充分な時間でもある。
もちろん本能的に必要なことを忘れるということはないだろう。
でもきっとユイちゃんは、お箸どころかスプーンも使えない。
缶ジュースも開けられない。ドライヤーも使えない。電話も使えない。
もしかしたら、立って走ることも、文字を読むことすらできないかもしれない。
「まぁ別にそれでも困らないからね~。だって、必要なことは私が世話をするんだもの」
有紀さんが言うそれは、まさに愛玩犬。
犬が缶ジュースを呑む必要もなければ、電話をする必要もない。
必要ないことは忘れていく。ただそれだけ。
そう結論付ければ、理解はできる。
それでも、ユイちゃんは人としての意識がある。
多少愛玩犬としての思考に染まっている部分もあるかもしれないけど、人として生まれた以上そう簡単に思考なんて切り替わらない。
だから気になる。
人としてのユイちゃんは、どう思っているのかが。
内容としては同じようなことをしている私とユイちゃん。
私だって生半可な気持ちでやっているわけじゃないけれど、ユイちゃんのそれはまさしく人生を『犬であること』に費やしている。
似ているけれど、埋めがたい違いのあるお互い。
その差、その壁とも言えるものに、これまで以上に興味を持った。
▼
「ココア~! マナ~!」
「きゅ~ん!」
「はっ……はっ……!」
廊下を渡った先、リビングとは違い、ものが散乱した部屋に入る。
あちこちに散らばるのはおもちゃだろうか。
小さなぬいぐるみや噛みごたえのありそうなロープ、骨の形をしたゴムなど、一般的に犬に与えそうなものが転がっている。
そんな部屋の中、有紀さんの呼びかけに応えて寄ってきたのは……。
「この子たち……」
「さっき話してて分かったと思うけど、アキは遠慮はしないわよ」
ユイちゃんと同じく裸で、明らかに『短い』四つ足の女の子と、全身を黒光りする革拘束で身を包み、肘と膝をついてよちよちと歩く女の子。
目指す先はほとんど同じなのに、両極端な二人の少女だった。
「さて、どっちから紹介する?」
「……え、と、どっちもインパクト強すぎて……」
「そう? ならココアからにしましょうか。おいで~、ココア」
「きゅ~ん! きゅ~ん!」
「わぷ! こ、こら、ココア!」
ココアと呼ばれた少女が、嬉しさを全身で表現しながら有紀さんに飛びかかり、顔を舐めている。
その姿は本当の犬のようで、その姿が人のものでなければ、いや、むしろ人の姿であることに違和感を感じるくらい、犬そのものに感じた。
もちろん、ユイちゃんの完成度もすごいのだけど。
何というか、ユイちゃんはプロのモノマネ芸で、
ココアちゃんはご本人登場! みたいな感じ。
我ながらよく分からない例えだけど、そんな微妙で大きな違いがあるように思えた。
「それ、元から?」
「うん、そう。というか、引き取る時にそうせざるを得なかった、って感じね~」
そして何より目を引くのが、ココアちゃんの両手足。
肘から先、膝から先が切断されているのは、有紀さんによれば引き取る時にはすでにどれもが凍傷で壊死していて、切り取らないと命にかかわる状態だったそうだ。
「こっちはここに来てしばらくしてから付けてもらったのよ~」
それと、有紀さんが手に取った『尻尾』。
ココアちゃんのお尻の割れ目の上辺りから、ビロンと伸びる肌色のそれ。
本物の犬のようにふさふさと毛が生えているわけじゃないけれど、作りものなんかじゃないというのは『動いている』から分かる。
何でもココアちゃんの細胞を培養して作ったそうで、ココアちゃんもある程度は自分で動かせるのだそう。
今も有紀さんにじゃれつきながら、細いソーセージのような尻尾がブンブンと左右に揺れている。
「そこまでして、耳とか鼻は弄らなかったの?」
「別にそっくりそのまま犬を作りたかったわけじゃないからね~。そのつもりなら肌から骨格から全部やらないと気が済まないし。今のままでも十分可愛いから。ねぇ~ここあ?」
「きゅ~ん!」
「……すごい世界ですね」
「そういうやつなのよ、アキは」
言いながらじゃれあう有紀さんとココアちゃんを見つめる。
両手両足がない状態で、ちょこちょこと残った二の腕や太ももを動かし、楽しそうに走り回るココアちゃん。
何となくダックスフントを思い出した。
「この子は長いの?」
「ん~、そうね~。この子が物心つく前からだから。ユイより年下だけど、ココアの方が先輩ね~」
「そんな小さな頃から、ずっとこのままですか?」
「そうよ~。だからユイと違って、この子はきっと自分のこと人間だとは思ってないわ。私以上に、お母さん犬と一緒にいたからね~」
「お、お母さん犬……?」
「うん。何年か前に死んじゃったんだけど……。あ、そのお母さんは本当の犬よ。生物学的にも。まぁだから、うちの子の中では一番犬の習性を受け継いでるわね~」
で、でた、リアル狼少女だ……。
有紀さんの話を聞きながら、そんなことを思ってしまった。
もちろん有紀さんも一緒だし、家の中だし、野生の暮らしをしていたわけじゃないから厳密に同じというわけじゃないけど。
でも、ここに来る前お姉さまと話していた、
『犬として育てられたら』どうなるか、の、一例が目の前に存在している。
知らずゴクリと生唾を飲み込んだ。
「もちろんこんな身体だし、人としての品を失ってほしくはないから、適度に方向修正はしたけどね~。……ココア、お手~」
「きゃんっ」
短い手を精一杯伸ばして、有紀さんの手のひらに肘の先を載せるココアちゃん。
その一生懸命な姿だけでも可愛いのに、千切れんばかりに振られた尻尾を見て鼻血が出そうになった。
「それで、こっちの子は?」
「あ、そうそう! マナも、おいで~」
「はっ……は……!」
お姉さまの言葉に我に返ったのか、ココアちゃんとのじゃれあいながら、私たちより少し離れたところで健気に待っていたマナちゃんを呼ぶ有紀さん。
呼ばれたマナちゃんは元気なココアちゃんとは違って、よっちよっちとゆっくりその身体をこちらへ運んでくる。
きっと、気持ちは急いて、いち早く有紀さんの元へ駆け寄りたいんだろう。
開口具によって円形に広げられた口。ベロンとはみ出した舌。
そこから出る荒い息が、それを教えてくれる。
ただ、その身体は窮屈そうなレザースーツを着せられている。
それに両手両足を折り畳むように幾重にもベルトが巻き付けられた状態だ。
これではどんなに急いでも子どもが歩くより遅いスピードしか出ないはず。
それは、私も身をもって体験している。
「よ~しよし。マナ偉いねぇ。頑張ったねぇ」
「はっ……はっ……はっ……!」
そしてようやくたどり着いた有紀さんの足下。
革に覆われた頭を撫で撫でされて、マナちゃんはその手に擦り寄るように喜びを表していた。
「これはきぃちゃんもやったことあるんだっけ?」
「あ、はい。一応……」
「一応も何も、お気に入りでしょ?」
「お、お姉さまっ!?」
「あら、そうなの? 今度見てみたいなぁ。いいかな?」
「あ、あの、……はい、また」
「うふふ。やったっ。……ま、でも今日のところは、この子を可愛がってあげてね~」
「はっ……はっ……」
「そう、ですね」
そうですね、なんて言ってるけど、内心穏やかじゃない。
あの状態でお姉さまに加えて有紀さんまで加わったら、一体どんなことをされるんだろう。
優しそうな顔して、結構鬼畜そうだしなぁ有紀さん。
めいっぱい可愛がってはくれそうだけど、身体が持たないかもしれない。
そんな私の苦悩をよそに、お姉さまたちは話を続ける。
「でもこの子、ただ着せてるだけじゃないんでしょ」
「よく分かったね~。と言ってもココアみたいに切ったり張ったりしてるわけじゃないんだけどね~。ただマナは、小さい時からずっとこのまんま」
「……え?」
聞こえてきた不穏な単語に、意識を持っていかれる。
ずっとこのまんま?
「この子もココアと一緒で、物心ついた時からここにいるんだけど、それからずっとこの恰好のままよ~」
「えええええっ!?」
「またきっついわねそれ」
物心ついた時から、ずっとこのまま!?
ということは、立って歩くことはもちろん、手足を伸ばしてぐ~っと伸びをしたこともないってこと!?
そ、それって……。
「あ、と、ちょっとこっち来て、二人とも。ココアとマナはちょっと待ってて~」
「え、何よ」
私だったら到底耐えられそうにない事実と、目の前にいる現実に混乱する私。
急に立ちあがった有紀さんが、そんな私とお姉さまを連れて一旦部屋を出る。
「マナはあの拘束を解いたことがない。『ということになっている』のよ~」
「……ああ、そういうこと」
「え、え? どういうことです?」
「つまりね……」
話の展開についていけない私に、有紀さんが優しく教えてくれる。
「マナにとってはずっとあのままなんだけど、私にとってはメンテナンスのために脱がせることもあるってことよ~。要は、マナが眠っている間に身体綺麗にしたりほぐしたりしてるの」
「あ、ああ、なるほど……」
「でもさ、当然あの子も成長するわけでしょ。サイズとかどうしてたの」
「もちろんその度に新しいものを用意するの」
「……これだから金持ちは」
「ケイちゃんが言わない。貴女もよっぽど非常識よ~」
「それはそれよ。……でも新調とかメンテとかしてたんなら、気付かれない? 身体がすっきりしたりとか、革の匂いとか」
「それはあれ、魔法よ。マナの飼い主様は魔法が使えるのよって。尊敬されて一石二鳥でしょ~?」
「相変わらずえげつないわね……」
「世話をしてるのは事実だし、マナにとっては真実。それでいいのよ~。……っと、そんなわけだから、きぃちゃん? あの子にとってあの拘束着は『脱いだことがない』。お~け~?」
「お、おーけー、です」
そう頷く私を見て、有紀さんも笑み一つ。
今までずっと革の中。ずっと窮屈な四つ足。ずっと不自由。
そしてきっとこれからも……。
「あと、マナは人一倍身体が小さいのよ~。纏足なんかと同じ原理ね」
「ああ、それで……」
マナちゃんは、人間がこんなにも自由に動き回れるのだと、知らない。
そういう意味ではココアちゃんと同じように、自分を人間とは思っていないかもしれない。
こうやって二足歩行している私たちと同じ生き物だとは、思っていないかもしれない。
「可愛いわよ~。眠った顔しか見れないのは残念だけど。身体もすごくちっちゃくて、真っ白なの。そしてそれを知っているのは私だけ。あの子自身も知らない。自分の身体なのに、黒い革を被った自分しか知らないの。目が覚めたら自由を感じられるのに、それも叶わない。そんなマナを、また革の中へ閉じ込めるの。このときばかりは私も自分の中の嗜虐心を認識せざるを得ないわね~」
そう言って笑う有紀さんのことが、とても恐ろしく感じる。
どこか、マナちゃんに対しては向き合い方が違うような、そんな気さえする。
「……マナちゃんのことは、愛してるんですか?」
聞いてしまったその問いに、有紀さんは笑みを崩さず。
「もちろんよ~。子どもの着替えを世話するのも親の役目ですもの」
そう言って部屋の中へ戻っていった。
「……」
言葉が出ないまま、私も部屋の中へ戻る。
部屋の中では一足先に戻っていたお姉さまと有紀さんがマナちゃんのもとで話を続けている。
「排泄はどうしてるの?」
「お尻にプラグが入ってるでしょ? そこから浣腸液を入れて、30分したら弁が開くの。おしっこは1日2回」
「ちょ、これ膣にも入ってるじゃない。バイブ?」
「そうそう。マナはうちの子の中でも特殊だから。辛い分気持ちいい思いもさせてあげてるの。みんなのご褒美はおやつだけど、マナは『ブルブル』5分間、とかね」
「この開口具は?」
「マナは人一倍熱がこもるから。体温調節用。口内がすぐ乾くからしょっちゅう水飲んでるのよ。まぁそれも体温調節の一環ね。水分補給は大事よ。おしっこつらいけど」
二人の会話は、まるで、というより、まんま飼い主同士の会話だ。
おしっこはちゃんとシートでするのか、とか、おやつは何あげてるの、とか。
そしてそれを聞いているのかいないのか、有紀さんの手元でゴロゴロじゃれつくマナちゃん。
きっとマナちゃんは、何も知らない。
あの窮屈な姿勢が普通だと思ってるだろうし、肘と膝で歩くのが普通だと思ってるだろうし、今の自分の境遇が普通だと思ってるだろう。
でも、もし、マナちゃんが『人としての意識』を持っていたら。
有紀さんが、マナちゃんにそれを教えていたとしたら。
マナちゃんの心境はどんなものなんだろうか。
窮屈な姿勢で閉じ込められて、いいように弄ばれている自分に、『おかしい』と気が付いていながら今の態度を取っているとしたら。
「……」
「どうしたの、きぃちゃん」
「いえ……」
もし、という可能性の話でしかない。
マナちゃんやココアちゃん、ユイちゃんの反応を見る限り、それはないと思ってはいる。
だけど、それでも。
そうだった場合自分はどういう思いを抱くのだろう。
それを考えたからといって何が変わるわけでもないけれど。
たださっきの有紀さんの言葉に従って、私は考え、自分の答えを見つけようとするのを止めなかった。
▼
「そろそろ暗くなってきたわね。アキ、あたしたちの分のご飯ある?」
「もちろんよ~。いつだって来てくれていいようにたくさん備蓄してあります!」
むん!
と言わんばかりに胸を張る有紀さん。
強調された乳房が目に毒です。
「どうせカップ麺ばっかりでしょ」
「し、失礼な! 最近はそうめんとか置いてあるもん!」
「そうめん……」
ココアちゃんにマナちゃんと別れた後、リビングに戻ってきた。
続きは明日ということで、夕ご飯にするみたい。
ただ話を聞いているとどうも有紀さんは料理ができなさそうだった。
呆れるお姉さまに有紀さんが反論しているけど、大体墓穴を掘っていた。
「でもあんたそうめん茹でられるようになったの? それだけでも驚きだけど」
「え? 茹でないわよ? そのままよ」
「そのまま!?」
「ポリポリして程よい塩気で美味しいのよ~」
「……昔からこんな感じなんですか?」
「……昔からこんな感じね」
深いため息をつくお姉さま。
見た目はすごく料理上手に見えるのに……。
というかこの家有紀さん一人じゃないのに、大丈夫なんだろうか。
「ユイちゃんとか、みんな、ご飯どうしてるんですか?」
「ああ、みんなはこれ~」
一抹の不安を抱えつつ訊くと、有紀さんの手には缶詰。
……思いっきりペットフードだった。
「ユイちょっと待ってね~」
「えええそれ大丈夫なんですか!?」
「大丈夫よ~。ちゃんとメーカーは選んでるから」
「お、お姉さま……!」
「まぁモノによっては危ないのもあるけど、アキのことだからちゃんと食品基準満たしたメーカーのものしか手を出してないはず。むしろあたしはアキ自身の栄養状態を心配するけどね。下手したらあの缶詰よりロクなもの食べてないわよ」
「……そうですか」
何だか色んな意味で脱力した。
でも自分よりみんなに良いものを食べさせている辺り、有紀さんらしいといえばらしい。
ただ内容が内容だけに手放しで尊敬はできないけど。
そんな有紀さんはいくつかの餌皿に「えいっ、えいっ」と缶詰を開けて、そのうちの一つをユイちゃんの目の前に置いていた。
「『待て』よ、ユイ。ケイちゃんちょっと外すわね~」
「ああはいはい。お腹空かしてるだろうし早く配ってらっしゃい。人間様の食事はあたしが作っとくから」
「え、ほんと! やったっ! すぐ行ってくるわね~!」
「やれやれ……」
お姉さまの言葉を聞くと有紀さんは子どものようにはしゃぎながら部屋を出て行った。
腕を上手く使いながらいくつも餌皿を持っていったその姿はやり手のウエイトレスにも見えた。
「私も楽しみです。お姉さまのお料理」
「きぃちゃんはいつも食べてるでしょ。って、え、何これ……」
「どうしたんですか? ……え」
腕まくりしながら冷蔵庫を開けるお姉さまに、何か手伝うことはないかと近づく。
だけどすぐにさっきの会話を思い出すこととなった。
「……何にもないわね」
「……何にもないですね」
冷蔵庫の中は店頭ディスプレイのようにすっきりしていた。
「……卵すらないってどういうことよ」
「……あ! お姉さま『ご○んですよ!』がありますよ!」
「肝心のご飯がないでしょうが! ……もうそうめんしかないのかしら」
「……っと、そうめんのつゆありましたよ。他の調味料全然ないのに……。あ、刻みネギ発見。ショウガもあります。でもどれも使った形跡ないですね」
「一応茹でて食べる気だけはあったのね。あいつ形から入るから」
「どうします?」
「さすがに寒いからにゅうめんにしましょ。具がないけどね。……ほんと、よく生きてるわねあいつ。霞でも食べてるのかしら」
「あはは……」
プリプリ怒りながらもしっかり手は動いているお姉さま。
確かに後でお腹空きそうだなぁ……。
ユイちゃんの方を見ると、置かれた餌皿の前でしっかりと『待て』を守っていた。
「この子のご飯の方がよっぽど栄養ありそうだわ」
「それは言いっこなしですお姉さま」
プリプリの次はブツブツ文句を垂れるお姉さまに苦笑しながら、私は私で配膳を整える。
といってもお箸とコップとお椀しかないのだけど。
寂しい食卓だ……。
やがて出来上がったにゅうめんをそれぞれの器によそう。
戻ってきた有紀さんはテーブルの上を見て狂喜乱舞していた。
……本当に普段何食べてるんだろう。
あ、ユイちゃんは私たちが食べ終わるまで待っていました。
えらいねユイちゃん。
▼
夕ご飯を食べて、3人でおしゃべりして、ユイちゃんと遊んだりして。
そして広々とした客室を借りて、一晩経った。
たまには一緒に、とお姉さまと同じベッドにもぐりこませてもらって、ちょっといちゃいちゃしてから寝てしまった。
何だか久しぶりだなぁ、こういう感じ。
最近はお屋敷に閉じこもってたし。
「んん……んあ……」
「あ、目が覚めました?」
「んふ……いま、なんじ……」
「7時過ぎです」
「そ……。じゃ、あと3おくじかんごくらいにおこして」
「永眠しちゃいますよっ!?」
微妙に朝に弱いお姉さまをベッドから引きずり起こす。
外は快晴。窓から見える景色は相変わらず何もない。
普段と違う部屋で目覚めると、旅行にでも来た気分になる。
「ふあああっ。おあよきぃちゃん」
「おはようございます。……髪の毛すごいことになってますよ」
「ほんと? しゃしんとっとこうかしら。きぃちゃんおねがい」
「いや絶対後で私が怒られるパターンじゃないですか。嫌です」
「なによけちね。ほんとにたまたまついてんの?」
「付いてません! いつまで寝ぼけてるんですか!」
その後リビングデッドのように洗面所へ消えていくお姉さまを見送りつつ、着替えもそこそこに有紀さんに挨拶しに行くことにする。
「なぁに、もう行くの? あたしもうちょっと掛かるわよ」
「あ、今度こそおはようございます。まぁ特にやることもないですし。ユイちゃんと遊んでこようかと」
「ああ、なるほど。……しっかしきぃちゃんほとんど化粧しないわよね。これが……これが若さ! くっ!」
「先行ってるのでちゃんと起きてきて下さいね」
呻くお姉さまを無視して部屋を出た。
▼
「あら、おはよう。早いのね」
「あ、おはようございます。少し前まで学校行ってましたから、きっとそのおかげですね」
「なるほどね~。私だったら行かなくてよくなった途端お昼まで寝てるわぁ」
「何となく分かります。……でも今起きてます、よね?」
「まぁ今はこの子たちがいるからねぇ」
「あんあん!」
「そっか。っと、ユイちゃんもおはよう」
「あん!」
リビングに入ると、すでに起きていた有紀さんと出会う。
お姉さまと違って朝が弱いわけではなさそうだ。
足下に駆け寄ってきたユイちゃんにも挨拶する。
この子も朝から元気いっぱいだ。
「あ、ご飯……」
「ん? ああ、この子たちは朝晩の2回ご飯なのよ」
「あ、いや、それはなるほどなんですけど……。私の立場からは言いづらいんですが、……私たちの朝ごはんあります?」
昨日と同じく缶詰を餌皿に開けてユイちゃんの前に置く有紀さん。
その姿を見て昨日の夕ご飯を思い出す。
結局にゅうめんを食べたわけだけど、正直それ以外の選択肢がこの家にあるとは思えない。
「や~ね! きぃちゃん、心配しすぎよ~」
「え、あ、あはは、そうですよね! いくらなんでも」
「ケイちゃんが来てから考えましょ」
「ないんですね」
がっくり肩を落とす。
まぁ別に一食抜いたところでダイエットだと思えば何てことないけど……。
そんな私の様子を『待て』の状態のままユイちゃんが見上げていた。
あ、その苦笑いの顔、ちゃんと『人』だ。ちょっとキュンとする。
「おはよ~」
「あ、ケイちゃんおはよう」
「お姉さま……」
「ど、どうしたの?」
さっきまでと違いばっちり目を覚ましたお姉さまがリビングに入ってくる。
「朝ご飯……」
「朝ご飯? ……ああ、そういえばそうだった……」
私の時と同じようにがっくり肩を落とすお姉さま。
「な、何よ~! カップ麺ならあるわよ~!」
「朝からカップ麺が食えるか!」
お姉さまのツッコミもどことなく力強さに欠けていた。
「はぁ……。アキ、もらいもののクッキーあるでしょ。それ食べましょ」
「あ~! まさに『パンがなければお菓子を食べればいいじゃない』ってことね~!」
「アントワネットも本当にお菓子食べる奴がいるとは思わなかったでしょうね」
クッキーとともに紅茶の茶葉を探しに行く有紀さんの背中に、お姉さまの溜め息交じりの声が零れた。
▼
「……で? あと何頭?」
「3。ちょっと外出るわね~」
「何、外にいるの? うわ、さむっ」
「さすがに朝は冷えますね……」
「あー……きぃちゃん慌てて出てきたから上着ないのね。ごめんね。これ着てていいから」
「うええっ!? い、いいですよ私大丈夫ですからお姉さまこそ寒いですからこれを」
「いいから着ておきなさいって」
「……仲良いわね~」
押し問答の末上着をゲットさせられながら、つっかけを履いて中庭に出る。
というかこの家本当に日本ライクだなぁ。
外国にいるという感覚が全然しない。
まぁ有紀さんのこだわりポイントなのかもしれない。
「あそこよ~」
ちょっとした公園のような中庭に出た後、少し歩くとそれは見えてきた。
見慣れた三角屋根の木でできた小屋。
俗に犬小屋と呼ばれるそれが、3つ。
「セリカ~! アヤカ~! モナカ~!」
「くぅ~ん!」
「おんっ!」
「きゃん! きゃん!」
例によって有紀さんが声を掛けると、犬小屋の中から三者三様の鳴き声が聞こえてくる。
それとともに現れたのは、3つの少し日に焼けた一糸纏わぬ身体。
その傍に立ち有紀さんがこちらに向かって紹介してくれる。
「まずこの子がセリカ」
「くぅ~ん」
初めに紹介されたのは、3人の中でも一番歳を取っているセリカさん。
というか多分お母さんとそんなに歳が変わらない気がする。
身体つきは、なんというかむちむちとしていて、大人の女性という感じ。
私としては間違っても『ちゃん』付けでは呼べない。
ともすれば有紀さんより年上に見えるけど、セリカさんは有紀さんの手に擦り寄って甘い声をあげている。
何というか、これはこれですごい背徳感だ。
「で、この子がアヤカ」
「おんっ」
少し勇ましい鳴き声で応えてくれたのがアヤカ……ちゃん。
私と同じ歳くらいだと思う。ちゃん、でいいのかなぁ。
素直にアヤカちゃんと言えないのは、その顔つきがとても整っていたから。
可愛い、よりも綺麗。
何というか、その筋の女の子に人気がありそうなタイプ。
スポーツ万能な生徒会長って感じ。……どんなだ。
「最後がモナカ」
「きゅ~ん!」
そしてこの中で一番小柄なのが、モナカちゃん。
この子は間違いなく『ちゃん』だなぁ。
ユイちゃんが妹なら、モナカちゃんは後輩タイプ。
3人の中で一番日に焼けている。
「顔見たら何となく分かるかもだけど、セリカがお母さんで、アヤカとモナカが子どもなのよ~」
「え、親子なの?」
さらっと置かれた爆弾にお姉さま共々一瞬頭が真っ白になる。
……て、親子!?
た、確かに顔は似てると言えば似てるけど……。
改めて並んだ3人を見渡す。
小屋の前で首輪に繋がれたまま、犬のように座ってこちらを見上げている。
モナカちゃんはニコニコとこちらを見ているけど、セリカさんとアヤカちゃんは恥ずかしそうに目を伏せている。
あ、やっぱり恥ずかしいんだ……。
……いや、それが当然の反応だよね。
恥ずかしがる二人の反応を見て、一般常識を思い出す。
ここにいると忘れそうになるけど、今すごいもの見てるんだよね……。
しかも、親子……。
親子で奴隷に、犬になるのって、どんな気持ちなんだろう。
例えば私なら、お母さんと一緒に。それか、私の子どもと一緒に。
母親の目線に立って考えれば、本当に何もかも捧げることになるよね。
命よりも大事な子どもすら、他人のものに、それも犬にされてしまうなんて。
私は耐えられるだろうか。
子どもができて、それをお姉さまに捧げることができるだろうか。
「誰の子?」
「旦那さん? そこにいるわよ~。カム!」
「ワオン!」
出てきたのは大型犬のグレート・デン。
……おんなじ小屋から出てきたよ?
しかも旦那さんって?
「この子はセリカの旦那さんのチャー」
「ああ、『そういうこと』」
「そう。『そういうこと』」
混乱している私を置いて、お姉さまと有紀さんの間で共通認識を確認している。
また出た『そういうこと』。
首を傾げて有紀さんを見たら、一瞬視線を逸らしてウインクされた。
向こう? 部屋?
あの部屋に何かあったかな。
……あ、ココアちゃんとマナちゃんの部屋か。
……。
……あ、マナちゃん?
『そういうこと』って、ああ、そういうことか。
そういうことにしてるってことね。びっくりした。
人と犬じゃ受精はしても着床しないもんね。
多分このグレート・デンのチャーさんと交尾した後にこっそり人間の受精卵流し込んだとかそういうことかな。
……想像すると嫌だな。少なくとも私は絶対泣いちゃう。
というかその仮定だと犬と交尾する必要が……。
「セリカも身体持て余してるからね~。暇さえあればチャーとイチャついてるの」
「く、くぅ~ん」
有紀さんの明け透けな告白に、セリカさんが顔を真っ赤にして弱々しい抗議の声を上げている
……やってるんだ。交尾。
セリカさんの横ではアヤカちゃんが泣きそうな顔をして俯いている。
モナカちゃんはよく分かっていないのかニコニコしたままだ。
この3人、どうも反応に差がある気がする。
今のところ、どう見てもセリカさんとアヤカちゃんは人としての意識があるとしか思えない。
モナカちゃんはよく分からないけど。
でもそうなると、一番辛いのは……アヤカちゃんだろうか。
もしかしたら本当に自分は犬とのハーフだと思い込んでるかもしれない。
私だったらどうだろう。
突然「貴女は犬との間に生まれた子なのよ」って言われたら。
……かなりきつい。受け止められない気がする。
でもアヤカちゃんは、きっと受け止めざるを得ない。
そんなバカな、と笑い飛ばせない。
だって、今まさに犬のように生活しているんだから。
強烈な説得力が目の前にあるんだから。
「どうでもいいけど、寒くないの、この子たち」
「大丈夫よ~。一年中外にいるから。水浴びもするし」
「外犬ってことね。まぁ旦那さんも暖かそうだし」
今はまだ雪が降るには早いけど、それでも冷え込みはきつい。
長い間外にいると芯から冷えそうな気温。
だけどセリカさんたちは特に体を震わすこともなく、しゃんと座っている。
もう身体が適応してしまっているのかな。
今まで見てきたことを勘案すれば、セリカさんはともかく、アヤカちゃんとモナカちゃんはきっと生まれてからずっと外で暮している。
だから大丈夫、なのかなぁ。
……ん?
だとしたらアヤカちゃんが人としての意識を持っているのは何故?
もしわざわざ教えたのであれば、かなり悪趣味なんじゃないだろうか。
それともアヤカちゃんは別のところで暮していたのかな。
……だめだ、考え出すとキリがない。ほどほどにしておこう。
「セリカに旦那さんがいるのは分かったけど、この子たちにはいないわけ?」
「いるわよ~。チャーの息子なんだけどね。それぞれ番(つが)いにしてあるの」
「その子たちも小屋の中?」
「そう。アヤカの旦那さんの名前はシュー。モナカの方は――」
「ちょっと待って。何となくオチが読めたわ。その流れだとどうせメンでしょ」
「ううん。アンコ」
「ここで何でアンコ!?」
「アンコ美味しいわよね~」
「知らんわ!」
お姉さまと有紀さんが漫才をやっている間に、セリカさんたちに近づいた。
構ってくれると思ったのか、モナカちゃんは尻尾を振る勢いで近寄ってくる。
だけどセリカさんとアヤカちゃんは身体を隠すように身じろぎするだけ。
ただこちらの様子を伺っていた。
「あの……」
モナカちゃんの頭を撫でながら、思い切って声を掛ける。
二人は予想通りビクッと身体を震わせた。
そして、私のつっかけにキスをし始める。
それも羞恥心からか顔を赤らめたまま。
……これはまずい。
まずセリカさんがまずい。
年上の、それもお母さんと同じくらいの大人の女性に、土下座のような形で足に口づけされる申し訳なさといったらない。
あと、アヤカちゃんもまずい。
ちょっと気が強そうだけど綺麗な顔立ちで、間違いなく私よりもモテそうな女の子。
そんな子が地を這うように私の足に服従を誓っている。
それも不安げに揺れる瞳でこちらを伺いながら。
私だって基本はそっち側なのに、何だか目覚めちゃいそうなくらい可愛い。
ただ、ずっとこうしているわけにもいかない。
頃合いを見て「ありがとう」という気持ちを込めながら二人の頭を撫でる。
すると二人ともぱああっと顔を綻ばせて、私の脚に顔を擦りつけてきた。
うあーっ!
何だこれ! 萌え死にする!
「あら、すっかりご主人様ね、きぃちゃん」
「あ、いや、その、これは……!」
「この子たちも徹底的にヒエラルキーを叩きこまれてるからね~。強者に拒絶されるのが怖いのよ~。だから今きぃちゃんに受け入れてもらえてホッとしてるの」
「そ、そうなんですか……?」
「そうよ~。この子たちにとって、『どちらか分からない』相手が一番怖いの。自分より下だったら威張ればいいし、上だったら媚びればいいからね~」
確かに、ヒエラルキー云々の話は分からなくはない。
どこでも『虎の威を借る狐』とか『腰ぎんちゃく』とか言われる人はいるし、社会に出れば目に見えないパワーバランスを読む力は必要だ。
でも、こうして誰彼構わず顔色を伺うのは少し異常だと思う。
これは明らかに『自分たちが一番下』だと叩きこまれている。
そう考えると、二人のさっきの態度も理解できる。
主人でもない、ただの子どもである私に対して、媚びへつらうことが二人には必要なんだろう。
でもそれは、人の意識を残す二人にとって、どれほどの屈辱なんだろうか。
「セリカ……アヤカ……」
「くぅ~ん」
「おん」
呼び捨てで呼んでみる。
それをどういう風に解釈したのか、二人はごろんと背中を地面に預けた。
お腹を見せる、服従の姿勢。
裸だからアソコも含め全てが曝け出されている。
嫌がるような素振りはない。ただ必要だからしているだけ。
こうしないと生きていけないから。そんな顔にも見えた。
こんな、屈辱……。
……いや、それはもう数あるうちの一つでしかないのかもしれない。
ただでさえ外で、粗末な犬小屋で暮らし、寒空の下裸でいる。
犬と番いになり、犬と交尾し、私みたいな年下(あるいは同年代)に媚を売る。
そうやって、これからも一生を過ごすんだ……。
「……幸せ?」
「?」
「くぅ~ん?」
思わず零れた呟き。
私から放たれた問いに、一瞬理解が追いつかなかったのだろう、二人は揃って首を傾げる。
でも、もう一度聞こうとするより前に、二人は答えを返してきた。
羞恥を押し殺した顔ではあったけど、確かに、笑顔を。
どろり、と思考が融けそうになる。
『人間の私』は、とても耐えられないと言う。
人としての尊厳を、ここまで失うことはできないと言う。
でも、『犬の私』は……?
『プレイ』と『本物』の壁に興味を持った『私』は、どう思う?
「きぃちゃん?」
「……何でもないです」
『それは、幸せですか……?』
確かめるように。もう一度念を押すように。
声に出さず問いかけた先には、三者三様の笑顔だけがあった。
▼
「さて、そろそろお暇しようかな」
「え~! もう帰るの~!?」
「あたしも暇じゃないの! 誰かさんのせいでお腹も空いたし」
「あ、カップ麺あるわよ~」
「いらない!」
リビングに戻ってきた頃にはお昼前になっていた。
セリカさんたちと別れた後。
やけに広い牧草地帯を「あ、これ全部私の」とカミングアウトされて驚いたり、よく餌をあげている鳥が来る木を紹介されたり、
芝の上に寝転がったり、ただ流れる雲を眺めてみたりしていた。
というか有紀さんがお姉さまを引き留めたがっているのがバレバレだった。
そしてお姉さまは心底面倒くさそうな顔をしながら、何だかんだで付き合ってあげていた。
結局仲良いんだ、この二人。
「ほら、きぃちゃん帰るわよ」
「あ、はい……」
「もう、絶対また来てよ? 約束よ~? いやむしろ私が行くわ! 明日にでも! よろしくね~!」
「来なくていいから! 黙って見送りなさいよあんた!」
「ぶー!」
「子どもネタももういい!」
でもお姉さまがこんなにツッコミキャラだったなんて知らなかった。
お屋敷じゃどちらかと言えば私がその立場だったしなぁ。
それだけ有紀さんが強烈だっていうのもあるけど。
「ユイちゃん、またね」
「あんあんっ!」
「ほらほら、行くわよ」
有紀さんとともに見送りに出てきてくれたユイちゃんにも挨拶する。
結局あまり遊んであげられなかった。
また来たときにはいっぱい遊べたらいいな。
そんなことを思いながらお姉さまに背を押され車に向かう。
「じゃ、またね」
「絶対ね! またドーナツよろしくね~」
「あーはいはい。憶えてたらね」
「有紀さん、お邪魔しました」
「きぃちゃんもまた来てね」
「はい。またいつか」
「あ、そうだ。あのね、きぃちゃん――」
「……? 何しゃべってるの、出すわよ」
有紀さんの耳打ちが終わると慌てて車に乗り込む。
窓を開けて手を振る横で、お姉さまがエンジンを吹かす。
そうして遠ざかっていく有紀さんとユイちゃんと、みんなの家。
何だか不思議な体験だった。いや、体験というか見学だった。
きっかけは唐突だったけど、自分なりに得るものがあったように思う。
何より、また会いたいと思える人たちに出会えた。
それが何よりの収穫かな。
そんなことを思いながら、乗り出していた窓を閉めた。
▼
「はーっ! つっかれたーっ!!」
「お茶入れますか?」
「おねがいー!」
お屋敷に帰った頃には、もう日も傾いていた。
お昼はさすがに我慢できなかったのでロードサイドのファミレスに入った。
お姉さまがやけにお肉を食べていたのが気になる。
いや、私も食べたけど。
「で、どうだった?」
「どうって、……有紀さんのところへお邪魔したことですか?」
「それしかないでしょ。まぁ色々刺激もあったんじゃないの」
「そう、ですね。良くも悪くも、いろいろ考えさせられました」
私と似た、でも現状では決定的に違うユイちゃん。
物心ついた時から、愛玩犬として暮らしているココアちゃん。
同じく物心ついた時から、革に包まれ窮屈なまま生きているマナちゃん。
犬の旦那さんと番いになって、外で犬として暮らすセリカさん親子。
そして、みんなの『お母さん』である有紀さん。
ある意味あそこは有紀さんの箱庭なんだと思う。
外へ出れば社会からの批判は免れない。
でもあの中だけで言えば有紀さんが絶対だ。
そしてそれを守るのは、有紀さんが『考えて』作り上げた城塞。
有紀さんが有紀さんのために作り上げた理論武装で、あの家は守られている。
それをただ悪だと罵るだけでは、あの世界は崩れない。
こちらも確固たるものを持って挑まなければ、弾かれてしまう。
そんな、有紀さんの世界。
「そういえば、最後あいつ何て言ってたの?」
「……? 何のことですか」
「……。ま、いいけど。どうせロクなことじゃないし」
「酷い……。お友達なんですよね?」
「一応ね」
「やっぱり一応なんだ……」
今のところ私はそれを手にしていない。
すぐにどうこうできるものだとも思っていない。
だから、ゆっくり『考えて』いこうと思う。
そして作り上げていこうと思う。
この人の、隣で。
▼
「考えることは大事よ。同じことをしても、考えが違えば得るものも違う。この世界はとかく溺れやすいわ。考えて考えて考えないと、すぐに引きずり込まれてしまう。だから考えるの。それがどんな答えでもいい。まずは考えるという癖をつけるだけでもいい。そして最後は自分の答えを持つの。これだと思うもの。他人の横槍にも揺らがないもの。そうしたらきっと道は見えてくる。進むべきか、捨てるべきか、それも含めて。今はまだ無用な話かもしれないけど、でも、頭の片隅でいいから、憶えていて。きっとあなたにとって役に立つ時が来るわ」
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