「冬華、お疲れ様」
「はぁ……ふ、ぐ……、あ、ありがと……ござい、ま……」
繭子の手を借りながら、何日か振りに床下から這い出る。
無理な姿勢で長時間固定されていたせいか、身体中が痺れて動かない。
手足の関節がまるで頼りない小枝になってしまったようにポキポキと鳴り、ロクに力が入らない身体にそれでも鞭を入れて、なんとか湿度の高い空間から抜け出せた。
「どうしたの、畏まっちゃって」
「……え? あ、いや、……なんと、なく」
ペタリとフローリングの床に足跡が残る。あたしの足跡だ。
それはあたしがほんの今まで『暮らしていた』空間の底に溜まっていたもの。
汗と、涙と、おしっこと、……愛液が混ざりあったジュース。
それはくっきりと床に残り、収納底のそれと合わせて、あたしのこの空間での生活振りを端的に表し、また晒し者にしているように感じた。
「んじゃ、お風呂入ろっか」
「……はい」
依然としてぼやけたままの頭で、繭子の言葉に何とか反応する。
いつのころからか、こうしてプレイが終わった直後の、意識が朦朧としている時。
あたしは繭子に対して敬語というか、畏まった態度をとるようになっていた。
それは人心地つくと収まるのだけど、この限られた時間では、何というか、「この人が助けてくれた」とか、「この人のために生きてるんだ」とか、そういう『繭子を神格化』したような気持になってしまっていた。
「そんな冬華もかわいいね」
それは今までのあたしと繭子の関係からすれば、違和感を覚えるもの。
だけど、それでも繭子はいつも通りだった。あたしが、どう変わろうとも。
冷静に考えればそれは単に思い込みというか、今のこの状況がそうさせていて、狭く暗い空間の中閉じ込められて、正常な判断ができなくなったころに、思考が辛さから逃れる先が繭子に向いているという、ただそれだけだと思う。
乱暴に言えばそれはストックホルム症候群にも似ていて、さらにあたしの場合は繭子が『助けて』くれて、なおかつ快感を得ている。
そもそもの原因はどこかへ消え去ってしまって、ただ目の前の事実だけを、都合のいい解釈だけを繭子に当てはめている。
「……前からやってみたかったこと、やっていい?」
「ん、……どんな、こと……?」
「息、止めてね」
「へ? ……わ、ぶっ!?」
湯船から上る湯気に彩られ、ゾクっとするような妖艶さを感じさせる繭子の笑み。
そして反応を待つこともなく、繭子があたしの身体を押し倒す。
大量の水泡と、ゴポゴポという音が、あたしの視覚と聴覚を支配する。
とっさに息ができなくて、そこでようやく自分が湯船の底に沈められたのだと気付いた。
「……!? ……っ!」
慌てて身体を起こそうとして、できない。繭子がしっかりマウントをとっていた。
二の腕を押さえられ、身じろぎすらできない。
そもそもさっきまでの閉じ込め責めで、あたしの身体はロクに力も入らない状態だ。
なすすべもなく、逃れようのないお湯の中に縫い付けられる。
「……っ。が、ほ……」
だんだん息が苦しくなる。何度か抜け出そうと身体を捻ったけど、やっぱり抜けない。
何で、繭子は、何で、こんなことを……?
そう思いかけて、……やめた。
何で……なんて。繭子はただ、そうしたいからしただけだ。
そしてそれを拒む理由も、権利も、今のあたしにはない。
……ただ、それだけのことなんだ。
そう思うと、心がすっと楽になって、あたしは身体から力を抜いた。
「……ご、はっ!? はぁっ! はぁっ! ……は、あっ!」
「大丈夫? 冬華」
そうして繭子を深いところで受け入れ、視界が暗くなり始めた頃。
あたしは繭子に引っ張られて湯船から掬い上げられた。
身体は正直なもので、供給不足に陥っていた酸素を急速に取り込もうとする。
「途中から動かないから、どうしたのかと思っちゃった」
「はぁ……! は……、ん、はっ……!」
「じゃあもう一回」
「ふ、ひ……、え? ぶ!?」
息が整いかけたところで、またもや湯船の底に引きずり込まれる。
抵抗しようとした腕が湯船の縁に当たって痛い。
もちろん上に乗っかった繭子を押しのけることもできず、さっきと同じように息のできない空間へと閉じ込められる。
「……はい、1分。1分でも結構苦しいよね」
「ごふっ!? はっ……! はぁっ、ま、まゆ……」
「ちょっとずつ増やしていこうね。はい次」
しばらくして、引き揚げられたかと思ったら、また沈められる。
それを、何度も、何度も。
そして沈められている時間も、繭子の言葉通り伸ばされていって、あたしは3回目くらいからなるべく抵抗せずに堪えることに全力を注いだ。
「はい、10秒休憩。だんだん呼吸が鬼気迫るものになってきたね」
「はぁっ! はっ! ……はっ! も、もう、ゆるし……!」
「はい休憩終わり」
「てぶっ!?」
俄然嬉々としてあたしを責める繭子に、弱々しく懇願することしかできない。
だけどそんなものは聞き届けられなくて、ひたすらに窒息責めは続いた。
「ぶはっ!? ごほっ! ごほっ!」
「はい、次」
もっともらしい理由をくっつけて、受け入れたつもりになっていた。
けどだんだん息苦しさが我慢できないくらい辛くなってきて、もう命の危険さえ感じるほどになって、そんな余裕もなくなってきた。
何で……?
あたし、何か悪いことした?
許して、繭子……。どうしたら、許してくれる……?
あまりの辛さに、あまりの理不尽さに、あまりの困惑に。
ただでさえ弱っていた思考は、ひたすら幼稚な泣き言を繰り返し始めた。
繭子が何でこんなことをするのかわからない。そしてわからないことが怖い。
何か理由がほしい。あたしがこんな辛い目に遭わなければいけない、理由が。
でもそんなのいくら考えたって思い当たることなんてない。でも、現に繭子は……。
「はい2分。……あれ、冬華、泣いてるの?」
「ご、ごべ……、ごめん、なざ……! ご、めんな、さい……!」
そうしてあたしは、唯一見つかった答えに縋った。
きっと、あたしは悪いことをした。だから繭子はあたしにお仕置きしてるんだ。
冷静に考えれば、何の根拠もない、滑稽な答えだった。
だけど今のあたしには、それに縋ることでしか、自我を保つ術がなかった。
理由もなくいたぶられるなんて、そんな理不尽を受け入れられなかった。
「何で謝るの?」
「あ、あた、し……! なに、か……わるい、こと……」
「……ああ、そういうこと」
心身ともにボロボロになったあたしの言葉に、繭子が微笑みながら目を細める。
それはすっかり板についた、『支配する側』の人間がする目つきだった。
だからなおさらに、全てはあたしに問題があるのだという思いを強くさせた。
「でも、大丈夫だよ。そんな冬華も好き。だって、冬華はわたしの『もの』だから」
そしてその決定的な言葉とともに、あたしの心と身体は深く深く沈んでいった。
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