廓と転んで東雲を見ず

 叩きつける雨は止まない。雲を渡る雷撃はゼウスの怒りを想像するに十分で、天の涙はまるで槍だ。
 だがそれを受けてすら変わらず日々を営むヒトのなんと強かなことか。遠くに聞こえる耳障りな騒音は悲鳴を上げる木々の音に勝り、響く。掻き消すように蹴り飛ばされた空き缶の甲高い声はひと時の勝ち鬨をあげ、すぐに消えた。

「……そこにいられると邪魔なんだがな」

 雨により灰を黒に染めたスーツが独り言のようにぼやく。やる気無くしなだれた前髪から覗く双眸は鋭い。鼻筋は通り、口元は軽く歪ませ。精悍な顔立ちは無精髭により尚の事近寄りがたきを演出している。

「……」
「……。とりあえずどけ。風邪を引く」

 それは相手を慮っての言葉でなく、まして我が身を気遣う言葉でもなく。野犬を追い払う動作でもって、男は軒先も無い扉を開くことを達成する。
 対する少女は何も言わない。ただ言われるがまま身体をずらし、男をじっと見つめ。そして男に続くように扉に手を掛けた。

 通る影は、何も無い。
 生まれた音は、雨の中に滲む。

▼

 がらんどうとした玄関。廊下との境も無い。濡れた靴はそのまま歩を進める。すたすたと。とぼとぼと。滴る雫は斑に、味気無きを彩り、二人の歩く軌跡を残す。

「三時、か。思ったより早かったな」

 部屋は静かだ。家電の待機音すらない。男の声がそのままに乱反射する。他にあるとすれば湿っぽい足音か。すぐ傍の喧騒すらこの部屋には届かない。
 視界は暗い。分厚く覆う雲は等しく男の城を暗闇で包む。バチン、と付けられた電灯は申し訳程度に視界をオレンジに染めて、頼りなく揺れる。

「拭いとけ」
「……必要ない」
「部屋が濡れる。カビも生える」

 洗面台に移動した男は、思ってもいないことを口走りながら傍らの少女にタオルを押し付ける。
 ……そう、少女だ。こんな場末の、スラムといっても過言ではないようなゴミの掃き溜めに、一人。
 珍しいこともあるものだ。例外を除いて、と男はそう思った。

「……くさい」
「ほっとけ」

 頭からすっぽりと被せられたそれを引っぺがし、少女は渋々顔を拭った。
 丸々とした目、瞼。ちょこんと乗った鼻、ぷっくりと柔らかそうな唇。頬。時折覗く白く綺麗な歯。さらりと流れる黒髪。造形は完璧だ。男は無遠慮にそれらを眺める。まさに人形のようだと、感想を抱く。
 粗方拭ったか、男の視線に気付いたか。少女はタオルを近くのソファへゴミのように放った。

「座りたければ座れ。……ああ、座るんならタオル敷けよ」
「……いい」
「あっそ」

 興味無さ気に男は二対のソファの片割れに乱暴に腰掛けた。悲鳴を上げるソファに少女は少しだけ同情した。そして他人には五月蝿く言うくせに自分はお構いなしに濡れた身体を放り出す男の図太さに呆れた。

「さて、まずは金だ。信じていないわけじゃないがね」
「……それはこっちの台詞。モノはどこ」
「……。ったく、随分だな。そういうのも嫌いじゃないが」

 背は150を超えるか超えないか。レディと呼ぶにはまだ早い少女。だがその凄烈たるやどうだ。声はしゃがれ、低く、重い。到底子どもの出すプレッシャーではない。見知らぬ人間は十中八九狼狽するだろう。
 世間では可愛らしいと持て囃され、荒事とは無縁『だったであろう』その容姿はしかし、焦燥に焦げ付き人生を何度も往復したような瞳の黒が全てを台無しにしている。
 男は苦く笑った。

「……まぁいい」

 肘掛に両手を掛け、大仰に立ち上がる。その姿を逐一観察する少女の眼差しはまるでハイエナのようだ。男は肩を竦める。煙草を吸いたくなったが、生憎とスーツの内ポケットの中で全てしけっていた。

▼

「余計なところに触るんじゃねぇぞ。どれもこれも、てめぇの命より高いものばかりだからな」

 言いながら先に歩く男には、後ろに目でも付いているのだろうか。少女にはそんな気は無かったものの、あからさまに子ども扱いするスーツの背中を蹴飛ばしたくはなった。

「なら貴方よりも高いものばかりなのね」
「そうだな。その通りだ」

 ごてごてと訳の分からない機械が並ぶ。少女にはどれ一つとして理解が及ばないが、安い皮肉を飲み込む男の言葉に誇張はないだろうということは何となく分かった。
 
 場所は地下。濡れて冷えた身体には少々辛いが、男は慣れているのか飄々と歩き、少女は何も言えなかった。
 通路は狭い。等間隔に設置された電灯により視界は保てるものの、それでも隅には漆黒が生まれる程度に暗い。ただ、先ほどのリビングより地下のほうが明るいのは、それこそ何の皮肉かと、少女は呆れつつも男に分からないように少し口角を上げた。

「……」
「……」

 しばし無言で歩く。如何にもな通路はそれなりに長く、よく分からない機械は段々と用途の分かる器具に置き換わる。それでもまだ続いていた。

「……ねぇ」
「何だ」
「何人いるの」

 少女は尋ねた。それはどうしても聞きたいことではなく、壁相手に話しかけるような気まぐれだった。視界の横通り過ぎる、容器の中に入れられた老若男女のモルモットたちを眺めながら歩を進める。

「覚えちゃいねぇよ。三桁はいるんじゃねぇか」
「あっそ」
「……」

 しばし無言で歩く。置かれた器具も具体的になってきた。積まれた箱には鑑札が貼り付けられ、所々に紅色が鮮やかに、どす黒く滴る。水槽の中揺れるのは海草ではなくヒトだ。ぶら下がる鳥篭で歌うのはヒトだ。プレス機の下で赤くなっているのは、ヒトだ。

「……」

 そのどれもが、まるで車窓の向こう側だ。少なくとも少女にはそう映った。
 男はどうか。少女は想像する。おそらく自分とは違うだろう。男にとってそれは、店頭か、バックヤードか。そうであれば、違いは対象物であるかそうでないかか。興味の差はその程度だろう。
 どちらが人間味があるだろうか。そんなことを考えながら、少女は歩いた。

「注文は一つだけだったな」
「そう」
「ま、ぱっぱと確認してくれ」

 そして突然訪れる広い空間。それまでの少女の思考も拡散する。陽の光も差さないが、そこは今までのどこよりもマシな明るさだった。
 それがそこにあったからだ。

「あぁ……」

 男を追い越し、少女は前に出る。明かりを発するそれに少しばかり目を細め、しかしすぐに目を見開きそれを見る。目の前のものを網膜に刻み込むように、それを見る。

「注文通り作ってあるはずだ。『皇女のスノードーム』。納期が遅れた分は負けておいてやる」

 それは巨大な球だった。視界を遮らないほどに透明で、軍装備でも手こずる程度には強固な。高さは大人二人分はあるだろうか。膝下程度の高さの台座の上に戴かれ、広い部屋の片隅を埋める。
 中には小さく寸法された城。スケールダウンしているとはいえ、西洋の城を模したそれは精巧で迫力がある。左右の隅に植えられた木々はさすがに模型だろうが、それでも本物と見間違うほどに緻密で、石畳と合わせて、そびえ立つ城を引き立てている。

「えぇ……」

 思わず少女が生返事してしまうほどのものが。幼子が夢見るような御伽の国の光景が、そこにあった。
 現物のように大きくなく、手のひらに乗るほどに小さくなく。リアルと幻想の境。『曖昧』がそこにはあった。

 そして、そこに住むお姫様は、少女を見て微笑んだ。

「……っ」

 それは美しいお姫様だった。少女というほど幼くは無く、かといって女性というほど成熟しているわけでもない。『とびきり可愛い』が、『とびきり美人』に変わる、その寸前。垢抜ける寸前の、危うい魅力に愛された神の造形。
 少女は眺める。煌びやかな純白のドレス。黄金に輝くティアラ。物語でしか見ないような、絵に描いたようなその姿を。微かに手足が震え、笑顔が引き攣っていると認識できるほど近くで。

「……くふっ」

 誰もが羨むような容姿。装飾。城を背景に、それは恐ろしく似合っていた。
 だが、視野を広げ無味乾燥とした室内においては恐ろしく不釣合いな姿だった。それはいっそ滑稽なほど。
 井の中の蛙が己の美しさを顕示するように。勘違いしたアイドルが世界に弄ばれるように。
 そしてお姫様は、舞台の上のそれのように、銀幕の中のそれのように。閉ざされたスノードームの真ん中で、優雅に礼をして見せるのだ。

「……くふふっ」

 それを見て少女は身体を折る。腹を押さえ、何かを堪えるように。それはまるで頭を下げるようでいて。その実、正反対の感情でもって。

「くはははっ! あっはっはっはっは!」

 そしてそれを爆発させた。溢れるがままに爆発させた。少女は笑った。嗤った。哂った。その目に涙さえ浮かべて。あらゆる感情すら置き去りにして。
 男はそれを黙って見ていた。

「素敵よ! 素敵だわ! ねぇ、お姫様! こんな素敵なことってあるかしら! ねぇ、ねぇ! あははははは!」

 大きくなった声は部屋中に満ちる。お姫様の『世界』を除いて。
 だが声は聞こえずとも、姿は見える。少女の嘲りはお姫様にも届いて。ただそっと唇を噛むその仕草さえ、火に油を注ぐ愚でしかなくて。
 一人笑い続ける少女。それでも、この場においてはそれが全てだった。

「……。……いいか? 説明は一度だ。面倒くさいからな」

 やがて、部屋は静けさを取り戻す。少女の笑いが収まるのを待って、男は話しかけた。
 顧客の事情など知ったことではないが、商売である以上、やることはきっちりやる。それが男の、数少ない自分の中のルールだった。
 愛想の無い男に少しばかり興を削がれ、顔を顰めた少女だったが、別段文句を言うでもなく、それを聞く。

「基本的にこれをどうしようがてめぇの勝手だが、長持ちさせたいならしっかり管理しろ。食事、排泄、その他諸々。楽しみたければ、匙加減に気を付けるんだな」
「ええ、ええ、分かってるわ」
「……じゃあ説明するぞ」

 先ほどまでの不発弾のような危うさはどこへ行ったのか。ニヤニヤと不愉快を誘う笑みを隠そうともせず、少女は頷きを繰り返す。
 聞いているのかいないのか。その不遜な態度に構わず男は言葉を紡ぎ出した。どうせ注意したところで同じだと判断して。
 何故なら、少女は絶対に真面目に聞くと知っているからだ。例え感情を醜く顕わにしていようとも。
 何故なら、それは少女にとって学校の授業よりも勉強する価値のあるものだからだ。

「まず第一に、このドームは密閉式だ。外からも内からも干渉は出来ない。あとハンドガン程度じゃ傷一つ付かない。つまり、お姫様が外に出ることは、一生無い」

 男がそう言い、少女は感心しつつも愉しげにコンコンとそれを叩いた。強化ガラスか、それとも別の何かか。少女には材質までは詳しく分からなかったが、どちらにせよ容易に破壊できるものではなく、囚われのお姫様にどうこうできるものではないと分かっただけで十分だった。

「そういうわけだから、食事にしろ排泄にしろ、通常の手段では満足にこなせない。だからこいつを使う」

 そう言って男は手元のスイッチを操作する。するとお姫様の足元に拳大程度の穴が二つ、小指が通る程度の穴が一つ開き、それぞれから棒のようなものがせり上がった。
 それを見て、お姫様の顔は青ざめ、少女の顔は愉悦に染まった。
 せり上がったものは、御伽の風景に似つかわしくない、細部まで精巧に作られた張形だった。

「あれは?」
「それぞれ、排泄物を吸引する機能が付いている。細いものは尿道、あと二つは膣と肛門だな」

 男が説明する間に、お姫様はドレスの裾をたくし上げ、静々と秘所を二人に晒す。
 それはあらかじめ決められた動作だったのだろう。どのように躾けたのかは少女の知るところではないが、お姫様は従順に、それをこなす。
 決して唯々諾々とした表情ではないが、それはむしろ少女の望むところだった。

「あれは貞操帯かしら」
「少し細工はしているが、まぁそんな感じだ。これは三つの穴それぞれが、外から張形を挿入できるように空いているんだが……。ああ、もちろん普段は閉じている。現実逃避しようと勝手に盛ってもらっても困るんでな。だから管理上、あの張形を近づけないと開かない。排泄器官については付属の筒が体内に入り込んで栓をしているから、張形を奥まで挿入しないとそのロックが外れないようになっている。張形無しでは絶対に排泄できない。……そこらで垂れ流されると見た目にも美しくないだろう?」
「そうね。確かに」

 羞恥に震えるお姫様にとって、二人の会話が聞こえないのは幸か不幸か。どちらにせよ、嘲るような少女の視線は耐え難く、されど不服従を犯して蹲ることは許されず。諦観と共にその腰を張形めがけて下ろしていく。

「ああして挿入が終われば、吸引ボタンを押せばいい。出が悪ければ浣腸液を出す機能もある。膣の張形は……まぁ好みだな。バイブレーションも出来るから、よければ使ってやったらどうだ。排泄管理も喜んで受け入れるようになるかもな」
「考えておくわ」
「もちろん全部にその機能はあるから、排泄器官を開発しようと思えば出来る。するかどうかは自由だが」

 唇を噛み締め、耐えるように目を瞑るお姫様。それは他人の視線がある中で排泄物を処理される羞恥からか、男がバイブレーション機能を作動させたせいか。
 その姿は、少女に堪らない優越感を与える。根源的な欲求の権利を握り弄ぶ、支配感に酔う。

「で、食事だが……」

 やがて排泄が終わったのか、お姫様は腰を上げる。そしてそのままその場に跪き、今まで自分を貫いていた張形を舐め清める。その光景に少女はますます下腹部が熱くなるのを感じた。
 お姫様はまさに屈辱といった瞳でそれを行う。しかしそう教えられているからか、丁寧に、丁寧に、こびりついた自らの糞便すらこそぎ落とすように張形に尽くしている。すぐにでも離れてしまいたいそれに、恍惚とした表情を『作って』奉仕している。
 それを十分に鑑賞した後、男はまた手元を操作する。僅かな間の後、今までお姫様が舐め清めていた肛門用の張形からドロドロとした液体が溢れ出した。

「ああしてあらかじめ補充しておいたものを与えることになる。見れば分かるが液状でないと駄目だぞ。通らないからな」
「うふふっ。まるで精液や小便を飲んでいるみたいね」
「ああでしか食事を得られないからな。まぁ排泄後に直接腸内に流し込んでもいいし、実際に精液や小便をくれてやってもいい。その辺りは好きにしろ」
「ええ。ええ」

 次々と説明される仕様。取り扱い説明。悪魔の装置。
 目の前のお姫様を辱める手段が転がり込むたび、少女の鼻息は荒くなる。
 お姫様は、一体いつ以来食事を与えられていないのか。そんなことを勘繰りたくなるほど、その光景は必死で、滑稽だった。生きるために跪き、男性器を嘗め回し、貪り、使う当ても無い性戯が浅ましく磨かれていく。それは見るものを楽しませるためだけのショーだ。生きる必死すら、観衆の娯楽だ。
 最後に、食事の排泄を終えた張形を舐り尽くして、三つ指突いて頭を垂れる。外に声は聞こえないが、きっとこう言っているのだ。「ありがとうございました」と。少女は堪えきれずに噴き出した。

「水分も同じようにして与えろ。身体を洗わせたい場合も同じだ。何しろ外界との唯一の接点だからな。お姫様も精々大事にするだろう」

 男性器により食事を得、喉を潤し、排泄をし、身体を清める。麗しきお姫様にとって、それがどれだけ自尊心を破壊するものなのか。それを想像するに、これほど愉快なことはないと、少女は飽くことなく口元を悦に歪める。

「そういえば、空気はどうなっているの? 密閉されていると言っていたけど」
「地面に無数に開いた穴から酸素を送り込んでいる。その辺りの装置も全部台座の中に納まっているから後で確認しとけ」
「操作すれば止められる?」
「無論止めることもできる。……が、あんまりそこを弄るのは薦めない」
「どうして?」
「てめぇは加減を間違えそうだ」

 失礼ね、と少女は憮然としたが、男には何となくその光景が浮かんでいた。
 酸素の供給を止められ、息苦しさに悶え、そこらじゅうを掻き毟り、汚濁を撒き散らして懇願するお姫様を、それでも愉しそうに嗤って許さない少女の姿が。

「まぁ、いいわ。つまりこの哀れなお姫様は、この箱庭の中で、この滑稽な作り物、紛い物だけを全世界として。私のために生き、私によって生かされ、私の愉悦のためだけにその生を浪費するのね」
「そうだ」
「私が許さなければ、施しを与えなければ。食事も、排泄も、息すら出来ない。性欲を貪り発散することも!」
「そうだ。このお姫様の『世界』全てがてめぇのモノだ」
「あっははははは! くふっ! くふふふっ! ひゃはっ! はははははははははははははははははははははははははははははははっ!」

 とろんとした目で、朗々と少女が謳い。男の言葉が終わるか終わらないか。その言葉尻を踏みつけるように、少女は笑った。
 愉快で愉快で堪らなくて笑った。
 笑った。
 笑った。
 そして震えて、縮こまるように震えて、また笑った。

「あはっ! ねぇ、私、今イっちゃった! あそこ触ってないのに! あはは! あははははははははははははははは! 良い気持ちよ! 何回でも飛んで逝っちゃいそうなほど!」

 その場でくるくると回りだしそうなほど、浮かれきった少女の愉快。いや、実際それくらいの大仰な身振り手振り。身体も、精神も、全てを使って、表される。
 男はそれを黙って見ている。少女のそれを、奇行だと思うほど青臭くはない。その程度には男もこの世界で長く生きてきたし、自分の中の数少ない職業倫理の一つだと思っていた。

「そうだ、そうね。お金だったわね。いいわ、すぐに払う。何なら少し色を付けてもいいわ」
「そいつはどうも」
「場所は前に伝えてあるわよね。なるべく早く送っておいて頂戴」
「了解。まいどあり」

 少女が情報端末を操作し、続いて男も自らの端末を操作する。果たしてそこには男の口座に振込みがあった旨のポップアップが踊っていた。金額を確認すれば、少女の言葉通り、契約よりも少し多く振り込まれているようだった。

「楽しみね。楽しみ。本当に。うふふ。うふふふふふ!」

 少女は、まさに舞い上がり支配者となった。
 男は、これだけあれば今日の晩飯は予定よりもう少し美味い飯が食えるか、と無感動に適当なことを考えた。

▼

「じゃ、私はこれで帰るわ。あと、よろしくね」
「ああ。襲われないように帰れよ」
「気を付けるわ。もう襲われ飽きたし」

 玄関ともいえないような玄関先。金が入って多少気の利く言葉を発した男の見送りに、少女も数時間前とは別人のように愛想を振りまいて応えた。
 実際、傍目にはか弱く格好の餌食然とした少女は、しかしこの界隈で襲われることは無いだろう。そのくらいは男も分かっていた。だから口にしたのは営業トークというやつだ。少女もそれを分かっていて、それでも悪い気はしなかった。

「あれに飽きたら、また来るといい」
「あら。なら当分は来ないわ」
「そうか。まぁそうでなくてもあれが弱ったら来い。樹脂封入して飾るなら腐る前がいい」
「分かったわ」

 そして去っていく小さな後姿を男は見送る。男の口調は荒いが、それなりに目を掛けているからこそ、あんな小娘でも客として受け入れている。そんな自分に男は少しばかりこそばゆくなる。

 かつて、最下層の奴隷として泥水を啜り続けた少女。タブーなど無くて、糞も食えば両親すら食らったと聞く。犬畜生にも頭を垂れ、豚や馬のペニスを懇願し、生死を彷徨う拷問を何度も受けた。あの髪も、歯も、臓器の大部分も、少女本来のものではない。
 ……その心も、また。

「世知辛ぇなぁ」

 それでも生き続けた。そして笑っている。その哀れな生命力にこそ、男は敬意を抱いている。ある種の権利を持っているのではと、夢想している。それを口に出すことは決して無いが、もしかしたら手には出ていたのかもしれない。
 そこまで考えて、男は自嘲気味に笑った。

「……止まねぇな」

 傘も差さず立ち去った少女の姿は、雨の中に飲まれた。

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