最終話『導く者』

「はぁ……」

 チキチキと小鳥が鳴き、首をかしげる。
 まるで悩み事などないような能天気な瞳に、首をかしげたいのは自分だと悪態を吐きたい気分だ。
 そんな恨みがましい視線を送っていたら、「うちには関係ないもんね」と言わんばかりに尾を見せて、軽快に飛び去ってしまった。

「……すっかり置いてけぼりじゃん、私」
「こんなところにいましたのね」

 独り言に続いて、耳慣れた声。
 果たしてそこには、自らの行いに微塵の疑いも持たない、仁王立ちの魔女の姿があった。

 レストリア・ウィルストングス。
 私のマスター。になったバカ。

「膝を立てて顔をうずめて。泣いているのかと思いましたが……」
「何よ」
「あなたはそんな繊細な心の持ち主ではありませんでしたわね」
「失礼な。心で泣いてんのよ。大泣きよ。人の感情を失った魔女には分からないかもしれないけれどね!」
「それこそ失礼な。わたくしにだって花を愛で、小動物の死を悼む心が」
「いやだからそれを人にも向けてんのかって」

 そう突っ込む言葉にも覇気がない。それは自分が一番分かっている。
 元気がない。疲れている。およそ落ち込んだ人間に当てはまるであろう外観を踏襲した私は、誰もいないこの場所だからこそこんな姿を晒している。

「もうなんていうか、訳分かんないわ」
「何がですの」
「あんたの行動。あんな脅迫犯紛いの真似してさ」
「あら、脅迫犯のつもりでしたけれど」
「あんたね……」

 疲れている理由の半分は、先の謁見のこと。
 私としては、「心強い味方を連れてきたよ!」てなもんで、皆と一致団結して戦おう、という予定だったのだけれど。
 何をとち狂ったのか、この魔女は私を人質にして、「力を貸してほしければ娘を寄越せぐはは」などと迫ったのだ。

「ぐははとは言っていませんわ」
「同じようなもんでしょ……。はぁ」
「ため息ばかりついていると幸せが逃げますわよ」
「誰のせいよ誰の」

 忙しそうに走り回る兵士たちを遠くから眺めながら、ぞんざいに文句を垂れる。

 眼下に広がるのは、我がグレイドウィン皇国から北に幾何か離れたエスクーニ平原。普段は行商が往来する程度の、ただ開けた何もない場所。数日の行軍によってグレイドウィン軍はここに陣を構え、相手を迎え撃つ準備を進めていた。

「あんたがおかしなこと言うから、あの後説明するのにすごい苦労したんだからね」
「嘘は言っていませんわ」
「言い方ってもんがあるでしょうが」

 視界の中に、お父様たちの姿はない。城に待機してもらっているからだ。
 お母様は精神的な疲労から。お父様は元々病気で療養中の身だ。アイリィもまだ子どもだし、そんな人たちを戦場に連れてくるわけにはいかなかった。
 精神的な疲労度で言えば、私も負けてはいないのだけれど。

「だいたい、何であんな風に言っちゃうわけ」
「あんな風、とは?」
「何というか、その、あれよ。わざと悪役になるような言い方」

 レストリアがお父様たちと謁見した、あの日。
 その会話の全てを、私は聞いていた。慇懃無礼なその物言いから、相手にケンカを売るような不遜な言葉まで。
 ただ単純に、力を貸すと言っていれば。レストリアは救いの魔女として手厚くもてなされていただろうに。
 実際は、相手の足元を見て脅すようなやり口で、強引に客将の位に収まったのだけれど。

「エン王は理解されたようでしたわね」
「まぁね。おかげでお母様たちとは違う意味で怒られたし」

 意地悪な魔女からの挑発。その最後の最後で。
 剣を抜いたお父様は、その魔女に向かって、ではなく、傍で揺らめいていた陽炎を斬り払った。
 それは、意志表明だったのかもしれない。敵国の兵士の幻たちが霧散する中、本当に呆れた顔と心配する親の目を私に向けて。レストリアを客将に迎え入れたのだ。

「てっきりお父様の病気のことを交渉材料にするのかと思ってたけれど」
「『龍破呪』のことですわね」
「そうそれ」
「……知性ある王は、自らの利のためでは動かないものですわ」
「そう」

 私が、望んでここに在るのだと。そのことを理解したうえで、その無茶と、無謀と、向こう見ずな決断を怒られて。
 運命の皺寄せを私が背負うことになったことへの、謝罪を受けて。

 私はその時に、ようやく少しだけ涙を流した。

「あんたなら治せるんでしょう?」
「そうですわね」
「簡単に言ってくれるわね。誰も治せなかったのに」
「もちろん簡単なはずありませんわ。それ相応の報酬はいただきます」
「……それは別にいいけれど、今度こそ脅迫はやめてね」
「ええ。正々堂々とスティラを辱める皇族グッズを接収しますわ」
「やめんか。それと皇族グッズ言うな」

 しょうもないことを言い出すレストリアに合わせるうちに、少しずつ言葉に力が戻ってくるのを感じる。
 まぁ、お父様の病気が治るなら、安いものかもしれない。
 そんな殊勝な考え事をしていたら、レストリアが妙にニコニコしていたので、なんとなく気恥ずかしくなってそっぽを向いた。

「この国は、平和ですわ」
「……そうね」
「だからこそ、危機感が足りないのですわ」
「それであんな焚きつけるような芝居?」
「まぁ、後付けですけれど」

 空気を換えるように、風が一つ吹く。

 戦争。
 それは、いつかは来ると覚悟していたもの。
 世界の基準で見れば、こんなのは子ども同士の小競り合いのように映るかもしれないけれど。
 それでも、この国にとっては一大事だ。
 何せ、ずっとずっと、他国との争いなんてなかったのだから。

「はぁ……」

 もう何度目になるのか、数えるのも億劫になった溜息を吐く。
 分かってはいても、実際に目の前に迫ってくると、気の一つや二つ、重くもなってしまう。
 それを誤魔化すように、口が勝手に恨み節を探し出す。

「そういや、私あんな姿で家族の前に出るなんて了承した覚えないんだけど……!」
「第一印象が肝心ですもの。娘が人犬の姿で現れたら、衝撃的でしょう?」
「限度があるでしょうが! お母様も泣いてたし!」

 四肢欠損した人犬。久しぶりに再会した娘がそんな姿で現れれば、そりゃあ衝撃でしょうけれど。当事者にしてみればたまったものじゃない。

「あんなに可愛らしいですのに。また定期的にあの姿にして差し上げますわ」
「……くそう、何でこんな奴の下僕になってしまったんだ」

 幸いにして、と言うべきか、今は手もあれば足もある。五体満足の状態だ。手品でもまやかしでもない。これこそが、この身体が魔力体である証左だ。
 通常人を構成する物質群ではなく、レストリアの魔力でできた身体。だから、身体の一部が欠損するのも、姿自体が見えなくなるのも、レストリアの意思一つ。お父様たちが見た人犬の私は、レストリアが作り上げた型の一つに過ぎない。

「まんざらでもなかったでしょう」
「は?」
「級友に傅き、隷属する姿を家族に見られるのは」
「ぐ……」
「あまつさえ犬畜生の姿で裸体を晒して地べたを這いずり、使い魔の存在に堕ちたことを存分に――」
「わああああああああっ!」

 何てことを言うのかこの魔女は。
 張り倒してやろうかと思ったのも束の間、気付けば『おすわり』の姿勢から身体が動かなくなっていた。
 改めて使い魔という存在、魔力体という身体でもって支配されているのだと痛感する。

「わたくしとしては、スティラのその強い自尊心からくる被虐症とも言うべき性的嗜好を尊重して――」
「うっさい! うっさいうっさいうっさい!」
「あら、あらあら」
「ちょ、こら顔を覗くな! 離れろ!」

 そう、言葉にすれば簡単だけれど。実際、それを実現できる魔女が世界に何人いるのか。
 そもそも前例のない、人を使い魔にするという荒業。そして魔力体を常時形成し続ける無尽蔵な魔力量。馬鹿げているとしか言いようがない。今更だけれど。

「そういえば、あなたの妹君でしたかしら。あなたの人犬の姿について、やけに熱心に尋ねられましたわね」
「……お願いだからアイリィに詳しく説明しないで。あの子時々とんでもない暴走するんだから」

 それに、だ。この魔力体には、しっかりと「私」が存在している。考え、意志を持ち、言葉を発するスティラという人間がいる。もはや私の知る理屈では理解できない。
 召喚……、いや、ゴーレムに近いか。ともかく、レストリアが怪しげな古文書を読み漁っていたことだけはよく覚えている。

「まぁ、基本的には良い事尽くめなので受け入れてほしいですわね」
「……そりゃ怪我もしないし姿は自由自在だし、『レストリアからの魔力が途切れない限り』は不老不死なのは便利なのかもしれないけれど」
「それと『原物である元のスティラの身体』が死なない限り、ですわ。そちらに関してはわたくしが責任をもって厳重に保管してありますので心配はいりませんけれど」
「変なことしてないでしょうね」
「……ええもちろん」
「……」
「……」
「……」
「……さあて、そろそろ敵襲ですわね」
「ねぇほんとやめてね私本当の自分の身体に戻った時傷物になってるとか嫌だからねおいこらこっち見ろ変態」

 便利、ではある。魔力体が消滅したとしても、私の意識はレストリアが保管している元の身体に戻るだけ。再びレストリアが魔力体を拵え、そこに『私』を転送すれば、何度だって『使い魔スティラ』は蘇る。
 それはもはや道具だ。魔女にとって使い勝手のいい道具。好きな時に召喚し、使い、壊れれば捨て、また新しく召喚する。
 レストリアに、魔女に自分の全てを捧げるというのは、そういうことだ。

 ただ。
 私の額に刻まれたはずの、裏切りの紋章。禁を破り秘匿を話した私への罰の証は、この身にはなかった。
 それはこの魔力体で再現できなかったのか。それとも優しさか、はたまた気まぐれか。
 いずれであろうとも、そのことに私は感謝していた。口にはしないけれど。

「あ、姫様……!」
「スティラ様!」
「姫様。もう、よろしいのですか」
「……。何が?」
「いえ。……では、只今より指揮権をお返しいたします」
「ん」

 先に歩きだしていたレストリアに追いつき、連れ添いながら、兵士たちの集団に近づく。
 声を掛けてきた部隊長の訳知り顔を無視しながら、軽く頷きを返した。

「……」
「……。心配しなくても大丈夫ですわ。わたくしがいるのですから」
「……そうね。今だけは、珍しくあんたが頼もしく見える」
「軽口を叩けるなら平気そうですわね」

 擦れる金属音。飛び交う伝令。足音、砂埃。はためく旗に、青い空。
 ざわざわと、けれど統率のとれた協和音は、まるで遠足にでも来たようだと現実逃避しそうになる私のお尻を叩いて激励する。
 これからこの人たちは戦うんだ。そして私も。レストリアも。
 負ける気はしない。それでも、不安が消えることはない。それはこの戦だけじゃない。これから先、国を守っていく、その重責がのしかかって。

「ほら、大勢の兵士たちがあなたをチラチラと伺い見てますわ」
「そう? どちらかというと魔女のあんたのほうが珍獣を見る目で見られてると思うけれど」
「お馬鹿さん。あなた、今の自分の恰好覚えてますの?」

 未来を考え頭を抱えそうになるより先に、レストリアが面白そう、というより意地悪そうに笑いながら私の恰好を指摘してくる。

「恰好って……。普通に軽装の上からローブを羽織って……はっ!」

 そして思い出す。今の私の恰好。
 見た目は普通だ。だけれど、これは『着ていながらも着ていない』、紛い物の衣装なのだ。

「あなたが纏うその装備も、わたくしの魔力で構成されている。それがどういうことか分かりますわね?」
「う……」
「同じ魔力体である以上、あなたの意識下では、着ている服も身体の一部として認識されている。つまり感覚としては、あなたは今、素っ裸で外を出歩いているも同然なのですわ!」
「わあああああ意識しないようにしてたのにぃいいい!」

 思わず自らの身体をかき抱いて蹲る私。
 そこに追い打ちをかけるように悪魔の囁きが続く。

「それに忘れてもらっては困りますわ。わたくしの魔力である以上、このように……」
「あっ……!?」

 キィンという音とともに、僅かばかりの熱を感じる。それに戸惑う私に構わずレストリアが身体を抱き上げるように起こし上げ、無理矢理に立たされる。

「ひ、姫様……」
「可憐だ……」
「スティラ様……なんと、……煽情的な……」
「ひっ!?」

 訳も分からず混乱する頭に流れてくる周囲の声。それに反応して見回してみると、作業をしていたはずの兵士たちの目線が私の身体に注がれていた。
 嫌な予感がして、恐る恐る視線を下に向けると、そこには薄絹でできた、まるで服の役割を果たしていないような透け透けのドレスが、ひらりと風に舞って……。

「ひゃあああああっ!?」
「うふふふ。恥ずかしがるスティラも可愛いですわ」
「笑ってないで元に戻せ! 今すぐ! あんたらも作業に戻る!」
「は、はいっ!」

 ただでさえ、感覚的には裸を晒しているのと変わりないというのに。唯一救いだったまともな見た目が失われたら、ただの露出狂じゃない!

「あなたに気付かれないように衣装替えするのはなかなか緊張感があって楽しいですわ」
「近頃変な目で見られることが多かったのはそれか! ちくしょう!」

 憤慨する私の怒りの鉄拳をひらりひらりと躱しながら、レストリアはうふふと笑い続ける。
 結局、いよいよ泣いてやろうかと思ったところで元に戻してもらった。
 でもやっぱり家に帰ってから泣こう。うん。

「まったく、とんでもない変態ねあんたは。十回くらい天に召されなきゃ治らないわ」
「あら、その程度で済むならわたくしも大したことありませんわね」
「反省しろ反省を」

 まったく、とんだ辱めを受けてしまった。
 ただ、今の自分はレストリアの気持ち一つでどうにでもなってしまう存在なのだと、改めて知らしめられたようで。
 それに関しては、その……。

「いいんですのよ。自分の性癖に素直になって」
「あんたは素直になり過ぎなのよ」

 思考を読まれたようで、ドキッとする。
 照れ隠しというわけじゃないけれど、突っ込み代わりにグーを見舞った。

「素直なのはいいことですわ。自分を押し殺して辛い思いをするくらいなら。……痛いですわ」
「他人に迷惑をかけない範囲でならね」
「ふふ……」

 どこまでも自分を曲げないレストリア。その姿勢は、正直羨ましくもあるけれど。

「さて、そろそろ行きますわ」

 周囲を顧みないその歩みは、横に並ぶものを必要としない孤独の道を行くように見えて。

「……」

 それまでのふざけた振舞いはどこへやら。
 表情は変えず、けれど纏う雰囲気だけを変えて。
 レストリアは陣営の中央付近、高台になっている場所へ移動する。

「……部隊長」
「はっ」
「準備して」
「は、はぁ……」

 けれど、もう独りにはさせないと、決めたから。
 レストリアに聞こえるように、私も指示を飛ばす。

 それは紛れもなく開戦準備。
 いまだ見えぬ敵との邂逅の合図。

「し、しかし、接敵の知らせはまだ……」
「スティラ! 風を!」
「了解! ま、見てなさいって」

 位置についたマスターからの命令。
 疑問符を浮かべる部隊長を尻目に、私も適度に高さのある場所へ。

 そして見る。

 レストリアが構えた、ウィルストングス家の宝杖『轟炎のベスタ』。
 その切っ先が空へと向かい、詠唱。唱える術式はつつがなく、なめらかに。

「あ、あれは……」
「おお……!」

 次第に肥大する熱球。周囲のどよめきに混じり、バチバチと空気が燃える音。猛り、猛る炎。
 それらは周囲に熱を伝え、じりじりと肌を焦がすようだ。

「……っ!」

 ゾクッとする。背筋が。細胞が。レストリアという魔女に恐れ戦く。
 私という設計図を紐解き、術式の繊細さを獲得しつつあるレストリアの成長は目覚ましい。学園を卒業し、魔女として巣立ってからも、なおとどまることのない力の向上に寒気すら覚える。

 それに加え、宝杖『轟炎のベスタ』の存在。
 星すら撃ち落とすと言われる破壊の宝杖、『落星の玖杖』シリーズに名を連ねるそれは、単純な魔力の増幅力だけなら他の追随を許さない。
 家にあるのを持ってきた、とレストリアは言っていたけれど、正直家の人は怒っているような気がする。それだけ価値のある希少品だ。

「けれど、うちだって歴史の古さだけなら負けないんだから……っ」

 身震いを、武者震いに変える。
 強くなったのはレストリアだけじゃない。膨大な魔力が流れ込むこの身体であれば、私の魔法は二つも三つも階段を上ることができる。

「私も他人のことどうこう言えないんだけれど……!」

 取り出し、構える。
 グレイドウィン皇国国宝『アストラエア=ゲイザー』。
 宝玉部から絶え間なく湧き出すのは濃縮された暴風。絶えず注ぎ込まれる魔力がボコボコと泡のように発生し、弾けては再び宝玉部に還っていく。解放の時を今か今かと待ちわびる様はまさにじゃじゃ馬で、なればこそ繊細な術式制御でなければ瞬く間に暴走してしまう。

「よし、いつでもイケる!」
「行きますわよ!」

 それらを御すのは、誰だ。そう自分に問いかける。
 他でもない。自分だ。自分たちだ。だから、失敗はない。
 奮い立たせる。目を見開く。杖を持つ手に力を籠める。

 そして放つ。
 今!

「『インビジブル・フライ』!」
「『ル・フェの溜息』!」

 初めに、熱。小型の太陽と見紛うほどの質量が、上空を滑る。
 続いて、風。荒れ狂う嵐が極限まで圧縮された状態で、熱を追う。
 雷鳴轟くが如く、莫大な魔力の塊が空気を引き裂き、空間を捻じ曲げ、ここにいる者全てがたたらを踏む。
 別々の場所から生まれたそれらは、やがて出会い。そして衝突する。眩いばかりの閃光を伴って融合し、爆散した。

「ぐ、おお……っ」
「なに、が……!?」
「これはっ!」

 ゴオオウウウウン、と。
 遅れて轟音が響く。大気が激しく揺らぎ、自分が立つ地面すら揺れる。
 砕け散った熱の粒子が流星の如く煌めき、四方八方へ飛び去って行く。
 その光景はまさに大規模な自然現象と変わらない。そこにいる兵士たちも度肝を抜いたようだった。
 でも、真に驚くべきはその先だ。

「お、おい、あれ……」
「あれ見ろ!」
「まさか、敵兵か!?」

 兵士たちが目にしたのは、空に浮かぶ敵兵の群れ。
 けれど、本当に敵兵が空に浮かんでいるわけじゃない。

「姫様、あれは……」
「蜃気楼。細かい理屈は置いておくけれど、あの下に敵兵がいるのは間違いないわね」

 大気の密度や光の屈折を説いたところで、この場は混乱するだけだ。

「ま、迎え囃子としちゃ上等でしょ」

 ならば結果は分かりやすく。
 先制威嚇は成功。敵兵との邂逅は間もなく。以上!

「さあ、開戦準備!」

 声を張る。ありったけの声で。
 もう後戻りはない。きっかけは降って湧いたような不慮の事故のようなものだけれど。
 それでも、起こった以上は仕方ない。自分の身は自分で守らないと。
 そして、この国の人たちも、私が。
 私たちが。

「『この国を守らんとする勇敢な者達に、祝福を』!」

 思考術式に、規模を補うための詠唱を加えて。自軍全てを覆い尽くすように、風が私の声を届け、静かに兵士たちの身体を撫でていく。

「私の祝福は、ちょっとやそっとでは破れない」

 それは余すところなく明瞭に響き渡り、魔力を帯びた加護が皆の全身を包んでいく。

「大丈夫。私がみんなを死なせない」

 上手くできたか分からないけれど、笑顔を一つ。

「私がみんなを守る。だから、力を貸して」

『うおおおおおおおおおおおおおおっ!!』

 轟く。兵士たちの雄叫びだ。掲げられた剣は、槍は、弓は、その一つひとつがこの国の礎だ。
 ビリビリと空気を裂くそれを全身に受け止め、噛み締める。
 私はぐっと拳を握った。

「行くわよ」
「ええ、いつでも」

 いつの間にか私の隣に降りてきていたレストリアに目配せする。

「やっぱり、可愛いお姫様が身を挺して国を救うほうが、格好がつきますわね」
「……あんた、そういう意味もあったわけ?」
「さぁて、わたくしはただ娘を人質にお仕事を押し売りしただけですわ」
「あんたのそういう回りくどいところ嫌いだわ……」
「魔女っぽくてよかったでしょう?」

 この魔女は本当に、変なところで気を遣うというか……。
 呆れた顔を見せながら、胸にじんわりと広がる熱を感じる。

「うちのマスターは独り善がりだし、変態だし、寂しがり屋のくせに意地っ張りだし、どうしようもない魔女ね」
「酷い言われようですわ……」
「でも」

 そんなレストリアだからこそ、私は、全てを預けたのかもしれない。

「……うん。だから、私が横で見張っててあげるわよ」
「……ふふ。それは光栄ですわね」

 力の奔流が結晶化する。キン、キン、と金属音に似た音。
 周囲にいた兵士たちが私たちの様子に気付き、慌てて前を開ける。

「さぁ、行くわよ!」
「ええ、行きますわ!」

 二人の魔力は、まるで同一人物のように減衰なく混ざり合い、結合し、大いなる力を呼ぶ。
 高揚。
 恍惚。
 迫りくる敵。
 それらをすべて飲み込むように、炎は猛り、風は舞う。
 神々しささえ感じる炎風を道しるべに、皆が前へと進み始める。

「全軍、突撃!!」

 吹き荒れる炎風は、戦場を引き裂き、困難を薙ぎ払い。
 皆を導いていく。

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