キーンコーーン……。と。
校内にチャイムが鳴り響き、今日最後の授業が終わる。
夏服の生徒たちが立ち上がり、礼をするのを眺めながら、ふと我に返り慌てて自分も立ち上がった。
梅雨の気配も薄れ、季節は夏に突入しようとしている。学期末テストも先日終わった。今は、学生にとってご褒美とも言える夏休みを今か今かと待ちわびる、もどかしくも穏やかな時間だ。
今日もまた、いつも以上に解放感に満ちた喧騒が放課後の教室を包みこむ。エリート進学校というわけでもなく、まだ将来のことなんてはっきりと見定めているわけでもない。帰り道にどこに寄ろうかなんて話しているクラスメイトをぼんやり見ていると、何だか平和だなぁと老け込んだ事を考えてしまう。
でも、平和ボケばかりしていられない。私こと、金沢貴子(かなざわきこ)は、とても重要なミッションをこの後に控えているのだ。
「きぃちゃん、きぃちゃんも来る? あそこのさぁ、新作ラテが今日からだって……」
「……」
「……きぃちゃん?」
「ほらー席に着けーHRやるぞー」
「あ、やばっ」
そう、それは大事な、大事なミッション。この日のために、準備もしてきた。
考えるだけで、胸を支配する動悸。思わず手をぐっと握る。周りの景色も目に入らない。怖いけど、悪い気はしない。そんな不思議な感覚。有体に言えばそれは、これから訪れるであろう出来事への、期待と不安。
……ああ、ドキドキする。
バカだな、私。
まだ夜までには時間があるのに。
何人にも分裂した理性が、感情の震えを必死に押しとどめようとする。それは意味のないこと。分かってる。でも、そうせずにはいられない。
大丈夫。まだ。そう、まだ、時間が……。
「……わさん、金沢さん! プリント、いらないの!?」
「ひゃわっ!?……ぁああぷ、ぷプリント! うん、いる! いるいるいります!」
自分の世界に割り込んできた声に驚いて、わたわたと恥ずかしいくらいオーバーリアクションをとってしまう。見ると、前の席の子が半分振り向いてプリントをひらひらさせていた。
「ご、ごめんね」
「いや、別にいいけど」
回ってきたことに、というよりプリントを配っていることに気付かないほど、ぼけっとしていたみたいだった。無視するような形になってしまったその子に謝りながら、震える手でプリントを受け取った。
「なんか、今日一日ぼーっとしてるけど。大丈夫?」
「あ、う、うん……。大丈夫……」
……大丈夫じゃない。
『夜』のことを考えて、頭がいっぱいいっぱいになっている。
どんなに自分に言い聞かせても、どこかで理解しているから。
明日でも、来週でも、来月でもない。今日やるんだって。
『一線』を超えるんだって。分かっているから。
「じゃあ気を付けて帰れよー」
「きりーつ、礼ー」
今までは勇気がなくて出来なかったけど。
絶対に今日するんだって決めたから。
密かに、誰にも知られず、決心したんだ。だから、今日……。
「きぃーちゃーん。……だめ、完全に自分の世界」
「まぁよくあることだし。今日は一段と酷いけど。……とりあえず、そっとしておきましょ」
「そうだね。……きぃちゃん、私たち帰るからね。一応誘ったからね。きぃちゃんも暗くならないうちに帰りなよ」
準備は整っている。朝出てくる前にも確認した。だから、あとは実行するだけ。
本当は怖い。けど、やるって決めたんだから。やるんだ。
どうなるかは分からない。でもきっと、今までとは比べ物にならないくらい、興奮するはず。
だから。
「よし!」
一言。気合を入れて、震えを抑え、意志を固定する。
やる。
やるぞ。
今日。
私は。
外で。
――犬になるんだ!
▼
「何で誰もいないかな~……」
右手でカバンをぶらぶら。口から愚痴をグチグチ。
みんなして先に帰っちゃうなんて酷い。そう不貞腐れつつも、本当はまた自分がぼーっとしていたんだろうなと分かっているのでポーズだけ。
「うー……、なんか、暑いのに寒い……」
誰もいない路地に呟く。寂しさと滑稽さを揶揄する意味もあったけど。本音はそっちじゃなくて。
今日一日、別に寒くもないのに震えていた。
理由は一つしかない。
「友情っていうのはこんなにも儚いものなんだー。世知辛いなー」
「貴子ちゃん!おかえり!」
「え、あ、千佳ちゃんのおば……えふんえふん、千佳ちゃんのお母さん!ただいま!」
道すがら「裏切りの報復」計画を練っているところに、声を掛けられる。
誰かと思えば、家の近所に住む同じクラスの友達―唐貫千佳ちゃん、のお母さんだ。
面倒見が良くて私も小さい時からお世話になった、すごくいい人なんだけど、『おばさん』って言ったら何されるかわからないのが玉に瑕。
確かに体型というか見た目が恰幅の良い近所のおばさんって感じだから、ついついおばさんって言ってしまいそうになるけど……。
この前地蔵盆の時に町内の小学生の男の子がふざけて「おばさん」と連呼したあと、真っ赤なお尻丸出しで気絶していたことがあったから、私は絶対に言わないようにしようと心に決めている。
「そういや千佳はさっき帰ってきたけど、一緒じゃなかったのかい?」
「あ……はい、ちょっと私、用事があって、先に帰ってもらったんです」
千佳ちゃんに裏切られました、なんて、冗談だけどとても言えない。
さっきは報復がどうこうって考えてたけど、実際のところ、私が勝手に妄想トリップしていて、せっかくのお誘いを無視しちゃったんだろう、と思ってる。
だから、明日顔を合わせたら私が「なんで置いていったのこの裏切り者!」と言うのはパフォーマンスだし、その後に「ちゃんと声掛けたもん!なのにそんなこと言うなんてもう知らない!」と言うのもパフォーマンスだ。
それくらいの信頼関係はあるつもり。
そして最後にみんなで甘いものでも食べに行って、どっちが払う、なんて言いながら、結局割り勘になって、「これでおあいこにしよう」となるのだ。
「そうなのかい?千佳も今日は部活がないって言ってたから、てっきりね。……でも、大変だねぇ、将来有望な委員長さんは。千佳も少しは見習って欲しいもんだよ」
「いえ、そんな……」
私をカテゴライズする単語に、思わず身を固める。
でも、それは一瞬のこと。自分以外に気付く人はいない。いつもの通り、謙遜気味の苦笑を顔に張り付ける。
私の心を無遠慮に抉る、言葉の切っ先。
ただ、この人の言葉には裏表がない。本当にそう思ってるから口に出す。そのことが言葉の切れ味を大きく鈍らせる。
私が人並みにこの唐貫家に信を置いているのは、ひとえにこの人が母親をしているからだろうなと思う。
「ばぅっ!」
「きゃ!」
「あ、こら、ミキヒコ!」
ドスン、と身体中に衝撃が走る。
「あいたたた……」
少し暗い思考に陥りかけたときだった。
不意に横から圧力がかかり、耐え切れずに尻餅をつく。
でも、身体の反応とは裏腹に、頭の中は「よくある事態」に冷静になる。
そこには果たして、私に思いっきりタックルを喰らわせた唐貫家の飼い犬、ミキヒコがマウントポジションをとりながら「ハッハッ」と舌を出していた。
「だ、大丈夫かい!?」
「ごめんなさい、ちょっと、驚いただけ、です」
こら、とミキヒコの頭をはたく千佳ちゃんのお母さんに、無事をアピールする。
いたた……。
本当はお尻がめちゃくちゃ痛い。
ミキヒコは大型犬だ。それなりに体重もある。のしかかられると私なんかでは太刀打ちできない。
まぁだからといって千切れんばかりに尻尾を振るミキヒコを怒れないけど。
「ミキヒコも大きくなったね……」
目の前にアップで迫るゴールデンレトリバーを見やる。
小学生くらいのときに、千佳ちゃんが急に「犬を飼うんだ!」なんて言い出したことを思い出す。
あのときはびっくりしたなぁ。
家にお邪魔して見せてもらったときには、ぬいぐるみのような本当に可愛らしい赤ちゃんわんこで、私もよく抱っこさせてもらっていたのに。
今じゃすっかり大きくたくましくなって、私を押し倒してしまうほどだ。
これじゃあ抱っこするなんてとてもじゃないけど無理。
まるで中に人が入っているみたいだとみんなで笑いあったことを思い出す。
「ペロッペロッ」
「っぷ! こら、だめ、顔舐めないで……!」
ベロンと温かいミキヒコの舌が油断していた私の顔中を舐めまわす。
懐いてくれてるのは素直に嬉しいけど、ベロンベロンに舐め回されるのはちょっと勘弁。
しかも大きいミキヒコに覆いかぶさられると、私は無抵抗にされるがままになってしまう。
それでも……。
「メッ!」
「……クゥン」
って強く言うと、おとなしく私の上からどいてくれる。
ちゃんと聞き分けのあるおりこうさんだ。
「ハッ……ハッ……ハッ……!」
「はいはい、ただいま、ミキヒコ。おじさんにもちゃんと愛想してる?」
「……お父さんが聞くと泣くわね」
顔周りをわしゃわしゃと撫でてやると、気持ちよさそうに目を細めるのが可愛い。
そんな顔を見つめていると、ふと数時間後の私の未来を想像してしまって、思わず顔が赤くなった。
「ワンッワンッ!!」
「あ、う、うーん……遊んであげたいけど、今日はダメ。また今度ね」
「クゥーン……」
ニュアンスが伝わったのか、なんとなく残念そうにするミキヒコを見て、少し罪悪感を憶える。
(……ごめんね。今日はとても遊んでいられる気分じゃないんだ)
特に、あなた相手だと。
目を覗き込みながらそんなことを思っていると、ミキヒコは自ら私との距離をとり、少し寂しそうな声を出しながらも素直にお家に戻っていった。
今度、思う存分お散歩に連れて行ってあげようと思う。
「じゃあまた!」
「はいよ。お母さんにもよろしくね」
……そろそろ、帰ろう。
立ち上がり埃を払い(千佳ちゃんのお母さんも謝りながら手伝ってくれた)、ミキヒコの散歩の約束を取り付けて別れた。
それからちょっと歩いて、こんどこそお家にただいま。
何の変哲もない、両親二人がローンで買った一戸建て。
玄関の鍵を空け、まず二階に上がって自分の部屋に荷物を置いてから、シンとしている一階のリビングに降りる。
この時間はまだお父さんもお母さんも帰ってないから、私一人ぼっち。
静寂を紛らわせるようにTVの電源ボタンを押す。
適当にザッピングしたけど、特に見るものはない。
「……お夕飯の準備しなくちゃ!」
なんとなく一人で声を張ってみた。
台所へ移動し、冷蔵庫の横に一着だけ掛かっている、私用のエプロンを手に取る。
遅くなるお母さんの代わりに、いつも私がご飯の準備をする。
二人ともへとへとになってお仕事から帰ってくるんだから、私だってこれくらいは当たり前だ。
「今日は何にしようかなー」
つぶやきながら、奏始めるお料理の演奏会。
バタン、バタンと冷蔵庫。
トントン、トントンと包丁。
カタコト、カタコトとお鍋。
お料理は、楽しい。
▼
昔から、勉強はできるほうだったと思う。
テストも周りの子たちより良い点を取っていたし、運動はそれなりだったけど、全体的に成績は良かった。
そして、通信簿に欠かさず書かれるキーワード。
『大人しい』『優等生』『模範』『良い子』『真面目』
判を押したようなその評価を喜んでいたのは、最初のうちだけだ。
いつの頃からだったか、自分の価値を決めるその紙を、私は冷めた目で見ていた。
誰も『本当の私』を見てはいない、そう認識した。
でも、それは不愉快ではあったけど、それほど不満はなかった。
どうせそんなもんだろうと思っていたこともあるし、悪いならともかく、良いのであれば放っておいても害はない。
私が本当に戦慄したのは、その後だ。
気付いた時には自分が、その『評価通りの自分』を演じていた。
ラベリング効果、とでも言うのだろうか。
私は、周りから『良い子』というレッテルを貼られるたび、そうあるように『私』を作り上げていた。
それに気づいた時にはもう手遅れで。
めでたく『優等生の金沢貴子』は誕生し、今に至る。
それは、対外的には悪くない暮らし。
でも、対内的には抑圧された暮らし。
そんな私も、最近ようやく、それが世界の姿だと気付く。
誰もが『本質』を隠し、『仮面』を被って生きてる。
そういうものなのだと。
でも、あるTV番組のインタビューを見ている時、ハッとなった。
仮面を外し、本質だけで生きる人もいるんだということを知った。
その人は、どんなに辛く、異端視されようとも、自分を偽らず、剥き身で生きることを選んでいた。
苦労はしてそうだったけど、その顔は活き活きとしていた。
そして自分に問う。
『どちらが正しい?』
答えは分かってる。それはきっとどちらも正しい。
だっていろんな人がいるから。人にはそれぞれ生き方があるから。
なら、自分はどちらが正しい?
私だってもう子どもじゃない。
築き上げた評価が私に有利に働くことは知っている。
それをわざわざ捨ててしまうべきではない。それは分かってる。
でも、それは、本当に『良いこと』なの?
損得。世間体。自分。
天秤に乗せられたそれらは、激しく上下する。
歳を重ねるごとに、新たな答えを得、それ以上に疑問が増える。
でも。どうして。それなら。そうじゃない。
ぐるぐる。ぐるぐると。
抜け道のない『輪』の中に迷い込んだ私は、未だ脱出する術を持たない。
その中で唯一救いと言えるのは、『解放されたい』という道しるべ。
そして。
今夜実行するバカげた行為。
それは私が答えを得るために求めた荒療治。
もとより興味はあったのだけれど、実行なんてとてもできなかった。
だからこそ、自分の中に染み込んだ『社会の常識』を打ち破れるか、という自分の意志の強さを測る試金石になると思った。
それを決行すると決断できた自分がいること。
自分を変えようとする『好奇心』が、まだ枯れていなかったこと。
それを証明したい、という気持ちがあったんだ。
▼
「ただいまー」
「帰ったぞー」
「……ふぇ?」
ガチャ、という音とともに、聞きなれた二つの声が玄関から届く。
「……あ、お帰りなさい!」
だ、ダメだダメだ!
うっかりウトウトしてしまってた!
私は慌てて返事を返すとともに、玄関へと出迎えに走る。
「ごめんねー! 今日も遅くなっちゃってー! 寂しかったー!?」
「ふぎゅうぅぅ!?」
やけにテンションの高い女性が私から果汁を搾りとるかのように抱き締めてくる。
ウェーブのかかった暗めの茶髪におっとりとした顔、私の頭を埋没させる凶悪な山脈をぶら下げたグラマラスなこのマダムは、私の母、金沢冴子。
「うう……ごめんな……。こんないい娘に寂しい思いをさせるダメな父親で……」
「あぐぐ……おと……さ……いいか……ら……たすけ……」
だんだんシャレにならなくなってきた私を、グスングスンと言わんばかりの泣き顔で見てるだけ(ここ重要)の男性が、私の父、金沢貴志。
二人とも、一人娘を心配する気持ちは本物で、それ自体はありがたく思ってる。
でもちょっと極端というか、過剰というか。
(あ、意識が……)
ちなみにこれ、毎日やります。
はぁ……。
▼
二人の気が済んだところで、一家揃ってちょっと遅い晩御飯。
「旨すぎて死にそう」「この娘は天才だ!」などとのたまわりながら、食事が終われば即効バタンキューなこの二人は、見ていてどこか微笑ましい。
「……子どもが両親に抱く感情じゃないかもしれないけど」
絶対私に不自由をさせたくないと、二人揃って遅くまで働いている姿を見ていると、ありがたいと思う反面、やっぱり少し寂しくもある。
「一緒にいてくれたら、それだけでいいのにな……」
そう思うだけで、実際に二人の前で口には出来ない。
両親の愛情に、水を差したくない。
でも、これくらいの齟齬は、どの家庭にもあるものだろう。
せめて無理はしないでね、と思いを込めながら、寝室の扉を閉めた。
両親に対して、家のことに関して、不満があるわけじゃない。
ただ、自分の両親にさえ『良い子』を演じている自分に、軽く嫌気がさした。
本当に、それだけなんだ。
▼
二人が、ひいては世間が寝静まった夜中。
私はかねてよりの作戦を実行に移すべく、行動を開始した。
「……うん。さてさて」
ただ、何とはなしにつぶやいた言葉が、白々しいことこの上ない。
今まで時間を潰すために見ていたTVの内容は、ずっとそわそわしていたからか欠片だって頭に入ってきちゃいない。
学校で覚悟を決めたはずなのに、いざという段階でまた迷ってる。
さてもなにもないもんだ。
「うう、緊張するなぁ……」
何しろ、ここまで踏み込むのは初めてだ。
今までなかなか踏ん切りがつかなかったけど、ついに今夜実行してしまう。
想像するだけで胸がぎゅーっと苦しくなる。
それに、寒くもないのにガタガタと身体が震えだしてる。
「ダメダメ、気合だ気合だ!」
小さな声でガッツポーズを繰り返す。
ふと横を見ると窓に思いっきりその姿が映っていて、なんだかいたたまれない気持ちになったけど関係ない。
「怖気づく前に早くやってしまおう……! えーと……これと、これ……それから……」
こういうのは、ある程度勢いも大事。
そう頭の中で唱えて、事前に準備してあった道具を入れた袋を見る。
お小遣いを使ってちょっとづつ集めたものだ。
おかげで結構時間掛かったけど、実はそれも踏ん切りのつかない言い訳にしていたりして……。
「ん……」
下準備のため、服を脱ぐ。
下着も全て脱ぎ、部屋の中で素っ裸になる。
いざというとき躊躇わないように、ここで裸になる練習は何回もした。
今から思うとバカみたいだけど、少しは役に立った……かな?
「あ……」
寒いわけではないけれど、一度ぶるっと身体が震えた。
脱ぐのは平気になってきたけど、やっぱり脱衣所以外で裸になるのは落ち着かないなぁ。
自分の部屋なんだけど、なんだか変な感じだ。
「あとはこれを持って、と……」
机に置かれた道具袋……私を犬へと貶める道具たちが入ってる。
温度以上にひんやりするそれらを抱える。
必要以上に音を立てないよう慎重に持ち上げる。
そして、そっとドアノブへと手を掛けた。
「はぁ……、はぁ……」
いざとなると、やっぱり怖い……。
まだ何もしてないのに息が荒くなる。
未だ家の中なんだけど、安全地帯である自分の部屋から、両親という『他人』に見られる危険性のある空間へ出るのは、全然違う。
そしてその違いが、私にとてつもない臆病風を吹かせる。
「はぁ……ふ、……!」
ガチャ……!
このままこうしていても仕方がない。
私は気合一閃、ドアノブを回し廊下へと、出た。
「っ! ……はぁ……はぁ、はぁ……っ」
途端に呼吸が苦しさを増した。
フローリングが冷たい。
ドアを閉める手が震えている。
暗闇が怖い。
けど、姿が見えづらいという点では少しだけ安心する。
「とうとう……やるんだ……私……」
今はもう夏も始まり、熱帯夜と言っても良いくらいなのに、何故か寒く感じる。
しんとした廊下を見渡すけど、当然の事ながら人の気配は、ない。
ただ暗闇が続くだけ。
「はやく、いかなきゃ……」
疲れて泥のように眠っている両親が起きてくるとは思えないけど、万が一トイレに行かないとも限らない。
部屋の電気を消し、開けた時と同じようにそっとドアを閉じた。
真っ暗になったフローリングの廊下にペタペタと微かに足音を残しながら、
一心不乱に勝手口へと急ぐ。
「いつも見慣れてる家の中なのに……。裸になるだけで、こんなに心細いんだ……」
途中両親の寝室の前を、心臓が破裂しそうなくらいドキドキしながら通過する。
次第に目も慣れてきて、どうやら電気を点けることなく行けそうだ。
階段を音を立てないよう慎重に降り、普段食事を取るダイニングを抜ける。
冷蔵庫のブーンという音にビクつき、テレビのスタンバイ状態を表す赤いランプに驚きながら、やっとの思いで勝手口まで辿り着いた。
よくぞ荷物を取り落とさなかったなと自分を褒めてあげたい。
「はふ……ふぅ……」
たったここにくるだけで、すでにマラソン後のように息が上がっていた。
だけど、身体はあったまるどころか、最悪の事態を想像して萎縮しきっている。
ただ、もじもじした股の中心部だけは、早くも熱くぬめり始めていた。
「いかなきゃ……」
もう、ここまできたら止められない。
勝手口のドアノブに手を掛ける。
玄関じゃなくて勝手口を選んだのは、こっちのほうが音を立てずに済むから。
それと、少しでも人目に触れるリスクを減らすため。
「……はぁ……ふ、くっ……ぇ、えいっ!」
外界へと続くドア。
やけに重く感じたそれを、掛け声とは裏腹にチビチビと開けていく。
隙間から漏れ出す外の風と匂いに、否が応にも緊張が高まる。
「~~~!! ……っふわ!」
ついにドアを開ききった。
身体中に外の湿った空気がまとわりつく。
目の前に広がるのは、暗闇により黒く変色して見える芝生の緑。
それと十三夜がもたらすどこか神秘的な世界。
散歩すれば良い気分転換になりそうな、そんな夜の風景だ。
「あ……ふ……」
でも、そんな清々しい散歩は、私には似合わない。
なにせこれから私は、卑しい畜生へとその身を貶めるのだから。
自ら望んで、破滅のリスクを伴う不自由な散歩に繰り出すのだから。
「ああ……私、裸んぼで、お外に、出ちゃった……」
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