第七話『寄り添うからこそ手は届き』

「あれ、さっき五月女さん来てた?」
「ああ」

 トイレから戻ってきた久織が、そう問いながら俺の隣に腰かける。
 えらく長いトイレだったな、大きいほうか。そう言おうとしたが、後の報復が怖いので黙っておいた。

「『いい女』でしょ、五月女さん」
「ああ」
「美人で性格もよくて、身体もエロいし、尽くすタイプだから、前の旦那様もきっと骨抜きだったよね」
「そうだな」
「惚れたでしょ?」
「惚れた」
「……」
「いって!?」
「口は災いの元だよ」
「お前が誘導したんだろうが!」

 理不尽な暴力を受け止めながら、そっと久織の顔を覗く。
 いつも通りの表情だ。怒って、笑って、むすっとしたり、焼きもちを焼いたり。
 これまでと、何も変わらない。
 そう判断していた。少し前までの俺ならば。

 だから、行動した。

「それより先生、お風呂入らない? この部屋にも備え付けがあるけど、下に大きい浴場が」
「久織」
「あって……。って、どうしたの、先せうわっと!?」
「話がある」

 しな垂れかかってくる久織の心情を考えると無性に悲しくなって。
 俺は話を断ち切るように言葉を差し込みながら、軽いその身体を抱き上げ、向かい合わせに座らせる。

「びっくりした。何、エロい話?」
「違う」
「じゃあ、真面目な話?」
「そうだ」
「……」

 図りかねているのだろう。久織は表情を迷わせながら、質問を重ねる。
 それに対し返答する俺の雰囲気。逃げずに見つめる視線。
 やがてそれを察したようで、目の前の彼女は一拍押し黙り。

「分かった」

 決意を固めた。

▼

 まずは『能力』について知ってもらわなければ話が進まない。
 そう判断した俺は、なるべく分かりやすく久織へ説明していった。

「……。えーと。つまり先生は、自分の頭の中で考えていることを相手にも共有できて」
「まぁそうだな。共有、というより強制的な置き換えではあるが」
「それを利用して、相手の考えていることを操作して……、悪戯してたってこと?」
「悪戯……。でもまぁ、そうだな。自分勝手な事に使ったという意味ではそうだ」

 相手に思考を流し込む能力。曖昧で抽象的な話であるがゆえに、すっきりと説明することが難しいが、何とかニュアンスは伝わったようだった。

「はぇー。不思議な力だね。それってようするに、何て言うの? 洗脳とか催眠術……みたいなことかな?」
「似ているように思うが、そこまで強いものじゃない。あくまで思考を置き換えるだけで、その後の行動への強制力はないからな」
「ふーん。便利なんだか不便なんだか」

 かつての俺が抱いた感想と同じことを口にする久織に苦笑する。
 いっそそれだけ強力な能力であったなら、こうして悩まずに済んだのだろうか。
 そんなことを考えて、今更詮無きことだとすぐに頭から消し去った。

「で、それをボクに使ったんだよね。先生」
「……まぁ、そうだ」
「そっか。うん。なるほどね」

 そして肝心の本題。……の、はずなのに。
 何度か頷き、数回独り言のように納得の言葉を口にするだけで。妙にあっさり飲み込んでしまう久織に、少々面食らう。

「あー、その……。何か無いのか、こう……」
「何かって? 泣いたり、怒ったりってこと?」
「そう、だな。そういうやつだ」
「ん……。思うところがないわけじゃないよ。というより、まだ話を聞いたばかりで頭が混乱してる。噛み砕けてないから、感情の出しようがないのかも」

 そりゃそうか、と思う。
 自分ならどうか。突然こんな話を聞かされて。
 まず信憑性を疑うだろう。そして相手の頭を心配するだろう。

「でも、そうだね。あえて出すなら、疑問、かな」
「疑問、か」
「うん。例えば……、『好きって気持ちは本当なのかな』、とか」
「……」

 内容に対して平坦な口調。取り乱すことがなかったのは幸いか、それとも……。
 だがどちらにせよ、それはあくまで久織の強さであって。事態が軽くなっているわけではない。
 そこを間違えないよう注意しながら、久織の言葉を受け止める。

「ひとまず、先生の想いが聞きたい。先生が抱えてるものを知りたい。ボクの想像や、一般論に当てはめた虚像じゃなくて。先生の言葉で」

 そうして俺は、チャンスを与えてもらった。
 情けなく愚かしい、自分勝手な告白。独白。

「俺は……」

 それを、ぶつける。

▼

 久織が好きだ。
 その感情は、もはや疑いようもない。
 だがそれ以上に湧き上がる自責の念。好きになればなるほど膨れ上がる後悔。
 真っ当な好いた惚れたではない。卑怯な手段を使った。
 無理矢理に、自分に好意を抱くよう仕向ける。それは相手の感情を無視する行為だ。
 無防備で無抵抗な相手に、プロボクサーが殴り掛かるが如く。
 正当性を欠いた、フェアじゃないやり口。

 そんな手段を使ったという負い目があるからこそ、疑念は止まなかった。

 能力がなければ、きっと久織は……。

「こうしてここにはいなかった。そんな思いがずっと胸の中にある」
「……」

 そして、久織の将来について。
 彼女は部活動でも輝かしい成績を残した。その道を歩み続ける未来もあっただろう。
 そうでなくても、これだけの器量だ。どんな仕事だってきっと上手くいく。そういえば将来の夢を聞いたことがなかったが、それもきっと叶えただろう。さらに言えば、理想の異性とだって……。

 そんな眩しい未来を、俺が閉ざしたのだ。
 変態性欲の捌け口として使い、縛りつけたことで、彼女の未来を制限してしまった。

「それなのに、久織は今も俺のそばにいて。そのことが嬉しくて、辛くて。いっそ『お前のせいで』って、憎悪してくれたら、こんな風に悩まなくてもいいのかもしれない。そう考えてしまう自分の虫の良さにまた嫌気がさして」
「……」
「取り返しのつかない『嘘』で塗り固めてしまったんじゃないかと。そんな後悔が、ずっとあるんだ」

 どうしようもなく自分に甘い。そう分かってはいても、自分から離れる勇気がない。
 それがまた自己嫌悪に繋がる負のスパイラルの中、久織の優しさに甘えて。

「……先生って、やっぱり、何ていうか、先生だよね」
「……?」

 だからこそ、なんだろうか。

「ねぇ先生」

 その言葉が、やけに反響して。

「ボク、ほんとに悩んでたんだ。あの頃」
「……」

 久織の告白が、苦しいほど胸に突き刺さって。

「中学でたまたま良い記録が出せて。皆から期待されて高校に入って。でも、上手く結果が出せなくて……。色んなこと言われたよ。陰口もいっぱい叩かれた。だから、すごく苦しかった。悲しかった。いっぱいいっぱい悩んでたんだ。それこそ、もう死んじゃったほうが楽かな、なんて思うほど。先生が気付いていたかは分からないけど」
「……」
「誰も助けてなんてくれなかった。それどころか、『もっと頑張れよ』って、言うばかりで。味方なんていない。誰もいない。だって、いらない子だもん。エースじゃない小鳥遊久織なんて。誰も望んでいなかったんだから。部活の子も。顧問も。学校も。……両親も」

 どうしようもなく、視界が滲む。

「先生だけだよ。出来損ないの、ただの小鳥遊久織とお話してくれたの。『好きなだけここで休んでいけばいい』って、居場所を作ってくれたの」

 ……ああ、俺は。

「先生が、先生の言葉が、先生の存在が。ボクにとっての、前に進む原動力だったんだ。力をくれてた。まるで魔法みたいに。それはボクにとって、とても、とても大事な思い出。それがボクの。ボクにとっての」

 俺は。

「背中を押す魔法だったんだ」

 俺は、こんな風に孤独で寂しそうに笑う彼女を。

「先生」

 抱きしめてやりたかったんじゃなかったのか。

「あの言葉も、嘘だったの?」
「嘘なものかっ!」

 思わず激昂する。

「何となく生きてきて、熱意も何もない仕事で、それでも何とか食っていた。そんな何もない人間だったのに!」

 言葉に。

「初めてだったんだ。突然で、理由も分からない。何ができるわけでもない。それでも、力になってやりたい。そう思ったのは」

 己自身に。

「小鳥遊久織という人間を認識して、俺の人生は動き出した。ああ、そうさ。綺麗事なんかじゃない。欲しいと思った。手に入れたいと思ったんだ。その身体を貪り、心を染め上げ、俺のものにしたいと、心底願ってしまった」
「えへへ、随分と明け透けだ」
「それくらい惚れたんだ。だからそうした。そうするだけの力があったから。躊躇なく使った。卑怯だと自分で気づきながら。抑えられないくらい気持ちが先走っていた」
「うん」
「だが、駄目だった。実際に久織が大事なものになるにつれ、罪悪感が邪魔をした。こんな方法で久織を手に入れて、果たしてそれは正解なのか、と。悩んで、悩んで、それでも『コウイ』は止められなくて。答えは出ないままで、俺は……っ!?」

 止まらない感情の吐露。
 それを、せき止めるかのように。
 久織の柔らかい身体が、ギュッと俺の身体を包む。

「恋愛は綺麗事じゃない、なんて。よく聞くけどさ。こうしてみると、本当にそうなんだって、思えるね」
「久織……」
「そうまでしてボクを欲しいと思ってくれたこと、嬉しいと思うよ。先生が素直に受け取ってくれるかは分からないけど。でも、嬉しい」
「……」
「卑怯だなって思う。ズルいなって思う。何で、どうしてって、思うよ。でも、それでも、嬉しいなって思うのも、本当。ボクが先生に向ける感情は、全部本当」
「……」
「よかった。『”先生の”好きって気持ちが本当』で」

 ああ。ああ。
 『あれ』は、そういう意味だったのか。

「好きだよ。先生。誰かから強制された感情じゃない。ボクの、ほんとの気持ち」
「くお、り……」
「それでも信じられないっていうなら。この言葉が作り物なんだって疑うなら。『今のボク』を見ることができないなら。こう言ってあげる」

 そうして、久織は悪戯っぽく笑って。

「『ボクは、先生の能力、最初から全部気付いてたよ』」
「……っ!」

 この子は、どこまで俺に優しいのだろう。
 被害者である自分のことよりも、加害者である俺の心の平穏を願っている。

 そうまでされて、ようやく気付いた。気付いたのだ。
 そうだ。これこそが、愛情ではないのかと。

 そして、顧みる。
 俺が想像もできないような、この深く、強い、慈しみを。
 そんなものを、果たして俺のちっぽけな能力一つで生み出せるものなのか、と。

「先生」

 視線の先。額がくっつきそうなほど近い距離。
 吐息。温かな体温。少しオレンジ色の混ざった瞳に吸い込まれる。

「答えは、見つかった?」

 それは、先ほどの告白の中では見つかっていなかった、答え。
 けれど、ここに来て。女将さんの一刺しをもらい、感情が決壊し、ここに至って。
 見つけた答えを、伝える。

「覚悟、をした。久織」
「覚悟?」
「ああ」

 失ったものを取り返すことはできない。
 いくら悔やんでも、過去には戻れない。
 ならば、覚悟を決めるしかない。
 『今』という結果に対して、受け止める覚悟を。

「罪だと思うなら。後悔だというのなら。背負っていかなきゃいけない。責任を持たなきゃいけない。自分の過ちに対して、起こったこと、これから起こること、すべてに対して。そういう、覚悟」

 久織はきっと、すでにしていたのだ。
 かつて自分を救ってくれた相手に対して。たとえどんなことが起ころうとも。どんな目に遭おうとも。ずっとそばにいて支えていくのだと。
 かつて自分がそうされたように。俺が悩み立ち止まった時、そっと背中を押してあげられるように。
 そういう自分で居続ける、覚悟を。

「そのうえで、言わせてほしい。今の、俺の素直な気持ちを」
「……うん」

 本当に、俺にはもったいないくらいの、久織の前で。
 俺は、俺だけ、逃げるわけにはいかない。

「愛してる。今までも、これからも。誰が何と言おうと。この気持ちは偽れない」

 そうして、伝える。
 ゼロ距離の視線の先。久織の心に届くように。
 降って湧いた能力じゃない。自分自身の言葉で、伝える。

「……やっと聞けた。先生の本心」

 対して久織は、そう小さく呟いて。

「ボクもだよ、先生。好き。大好き。愛してる。言葉じゃ足りない。全部。ぜーんぶ! 想いを先生に流し込みたいくらい!」
「お前な……んっ!?」
「ん、ふ……ちゅ!」

 騒動の種を逆手を取って笑う久織に文句を言おうとした、その口を口で塞がれる。
 密着した身体はとても熱い。今更のように柑橘系の爽やかな香りと、汗ばんで少し蒸れた匂いが混ざり合ったものが鼻腔を刺激する。頭の芯まで沸騰し、のぼせたような感覚の中、貪るように唾液を交換し合う。

「ふあっ。ふぅ……。えへへ。ボクがその能力を持ってたら、先生うるさくて仕方ないかもね」
「望むところだ。全てを受け止めると決めたからな」
「ピンク色の妄想ばっかり流し込んでも?」
「その時は思う存分久織を虐めて鳴かせるだけだ」
「っ……えへへ、なんか、やっぱり、うん。先生だ。お腹がきゅううってしちゃった……」
「やっぱり変態だな久織」
「誰のせいだよ誰の!」

 本当に久しぶりに、笑い合えた。二人で。心の底から。
 だから、頬を伝ったのは、笑い過ぎたからだ。そういうことにして、また笑った。

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