白続きの世界は、目が覚めてからも続いた。
「……保健室、か」
ぼやけた頭を軽く振りながら、つぶやく。
視界を埋めるのは、白い天井と、白いカーテン。仰向けに横たわる私を受け止める白いベッド。身体のあちこちには、白い包帯。
「そういえば、あのあ……いつ、つつつ……!」
起き上がろうと手をついたところで、痺れるような痛みがそれを阻止した。諦めて再び横になる。
「はぁ……」
……静か、だ。何も聞こえない。保健室の先生もいないのだろうか。
あるのは薬の匂いと、まっさらなシーツの感触。それくらい。
「……」
気怠く頭を横に倒す。枕の擦れる音が少し。それだけ。
「……」
このまま、横になっていていいのだろうか。動けないのだから仕方ないのだけれど。
治癒魔法を受けた形跡はあるから、あとは疲労と酷使した身体の痛みが抜けるよう、大人しくしているしかない。
それを分かっていても、どこか落ち着かない。
「時間……も分からないし……。まぁゼロ先生もいたから、講義は大丈夫か」
確か夕方頃に一つ講義が入っていたはずだけれど……。まぁいいか。一度休んだくらいで遅れるような内容じゃない。
それにどうせ単位はほぼ取り終えている。ここにはゼロ先生の講義を聞きに来ているようなものだ。
「……そういえば、結果、どうなったんだろう」
たちまちの懸念事項が解消されたので、頭は先の決闘について思考する。
売られた喧嘩。何かと衝突していたレストリアとの戦闘。途中から目の前のことに必死で、ところどころ記憶が曖昧だけれど……。
レストリアは強かった。そのことだけは強烈に脳裏に刻まれている。
無尽蔵の魔力に、ほぼ無詠唱の魔法。高ランクのそれでさえ涼しい顔をして連発する姿は、相手にとって地獄のような恐怖だ。絶対に敵に回したくない、そう思わせる力を持っている。
「そんな相手に勝とうだなんて、ね……」
勝ち目がないことは分かっていた。でも、引き下がれなかった。
私だって、それなりに自負するところはある。才能があるとみんなから褒められたし、それに驕ることなく努力も重ねた。事実、他の誰よりも優秀な結果を収めてきた。母国でだって、この学園でだって。頑張れば、私に出来ないことはないのだと。目の前を遮るものはないのだと。
それは間違いなく自信であり、存在意義だった。
「はは……。あれは反則だわ……」
ただ、世界には『本物』がいるのだ。
結局分かったのは、そんな単純なことだった。
「あら、わたくしは正々堂々と戦いましたわよ」
「っ!? レストリア!」
「お加減はいかがかしら」
突き付けられた事実に自嘲したところで、カーテンの隙間から件の相手が現れた。
間が良いのか悪いのか、意識が急速に覚醒する。
「お加減って。……まぁ、多少あちこちが痛むくらいだけれど」
「そう。ま、それはそのうち抜けますわ。外傷などは治癒済みですから。ノノさんに感謝なさいな」
「ああ、これあの子が……うん、分かった」
治癒魔法が得意なクラスメイトの顔を思い浮かべる。そういえばあの決闘の時来ていたのだろうか。来ていたとしても、荒事が嫌いだから隅で耳塞いでいるだけだろうけれど。
とりあえず次会ったらお礼言わないと。ついでにランチでも奢ろう。
「……で、結果は?」
「せっかちですわね。これからリンゴでも剥いて差し上げるつもりでしたのに」
「うわ、気持ち悪っ。あんたから施しを受けるなんて」
「他人のことを言えた義理ではありませんが、あなたも大概ですわね……」
毒でも塗られているのではと懐疑の眼差しを向ける私を、白い目で見返すレストリア。ベッドそばの椅子に腰掛け、持ってきた果物盛り合わせの中から真っ赤なリンゴを取り出し、土魔法で創りだしたナイフで器用に皮を剥いていく。
あら、意外とお上手。というか剥いてくれるんだ。
「あ、せっかくだしウサギさんにしてね」
「……。わがままな負け犬は黙って『待て』も出来ないようですわね」
「あらあら、箱入りお嬢様には少しばかり難し過ぎましたかしら?」
「……帰りますわ」
「うそうそ! ごめんってば」
「はぁ……。何だか今まで突っ張っていたわたくしが馬鹿みたいですわ」
剥きかけのリンゴを手に、ことさら強調して溜息を吐くレストリア。
普段ほとんど見たことのないその表情。怒っているようで、気の抜けた感じもする、「まったくもう」と言わんばかりの顔。その自然な雰囲気が何だかこそばゆくて、さすがに私も茶化すのをやめた。
「……あの後、あなたは意識を失いましたので、先生が結果をお決めになりましたわ」
「ということは、私の負け、か……」
「……。思ったより、冷静ですわね」
「ま、あれだけ見せつけられると、ね……」
確定した結果に、不思議と感情は波立たなかった。
それはすでに受け入れていたからなのか。納得していたからなのか。
……ぐぅの音も出ないほど、身に沁みたからだろうか。
どちらにせよ、この場の空気を少しも変えずに、私は静かに納得した。
「それで? 負けた方は勝った方の命令を聞くんだっけ」
「ええ。よかったですわ。負けたショックで記憶が飛んでいないか心配でしたの」
「あのね。……で、あんたの命令が……何だっけ?」
「『わたくしのものになりなさい、スティラ』」
「そう、それ」
あの時。決闘の前に交わした誓約。最中に言われた、その言葉。
いくつもある受け取り方から、どれを選べばいいのか。それを今更になって疑問に思う。
「具体的にどういうことなのか、説明がほしいのだけれど」
「具体的も何も、言葉通りの意味ですわ」
「言葉通りって……。何、パシリでもすればいいの?」
「ふふふ。それも面白いかもしれませんわね」
「私は面白くないけれどね」
だからこそ、その抽象的な言葉の濁し方が妙に不安を誘って。あの時は学生同士のおふざけというか、先輩が後輩にするそれのように顎で使われる舎弟になるとかそういう意味で捉えていたのだけれど。
レストリアの笑みがどこか意味深で、詳しく聞きたいような、聞きたくないような、どうにも変な感じだった。
「まぁ、それについては追々説明いたしますわ。それより先に、一つ提案がございますの」
「……提案?」
「わたくしの別荘に来ませんこと?」
追々、というはぐらかしに追撃を出そうとしたところで、予想もしない方面から先手を打たれる。
「別荘って……。また何で……?」
「あなたはまだ知らないでしょうけれど、わたくしたち、学園から謹慎処分を頂きましたの」
「……へ?」
「わたくしは最後のあれを危険行為とみなされて。あなたは器物破損とのことですわ」
「えええええええええええええ何それ!?」
思いもよらない顛末に、ここが保健室だということを忘れて大声を出してしまった。
謹慎処分って何!? 器物破損って何!?
……器物破損は若干思い当たるフシもあるけれど……。いや、でも!
「あんただって地面とかボコボコにしていたじゃない!」
「わたくしはあの後きちんと修復しましたわ」
「ぐっ。そういえば土魔法使えるんだったか……卑怯な」
「なので、あなたが目覚めたら本日は即時帰宅。その後1ヶ月の謹慎だと伺ってますわ」
「いいいいい1ヶ月!? いや、いやいや! おかしいでしょそれ!」
「わたくしに言われましても。文句があるなら学園長におっしゃいなさいな」
「ぐ、ぐぬぬ……」
想像以上に厳しい処分に、ついレストリアに当たってしまう。でも彼女の言い分はもっともなので、すぐに黙らされてしまった。
「なので別荘に来ないかとお誘いしたのですわ。せっかくの機会ですし、1ヶ月お休みを頂いたと考えて、羽を伸ばそうかと」
「前向きね……。でも、それなら何で私を……? あんなに嫌っていたのに」
「別に嫌っていたわけではありませんわ。今だから白状しますけれど、大部分は嫉妬ですの。突然のことに、感情のやり場がありませんでしたので」
「レストリア……」
「それに、先の決闘で思うところもあったということですわ」
立て続けに聞かされる事実に、翻弄されっぱなしになる。あのレストリアがそんなことを思っていたなんて。
「それで、どうですの? まぁ行かないとおっしゃっても、来なさいと『命令』いたしますけれど」
「あれ、こんなことで『命令』使っちゃっていいの?」
「ええ。『一度きり』とは決めていませんでしたので」
「あ、ズルい! 何その子供みたいな屁理屈!」
「契約とはそういうものですわ」
軽口を叩き合って、笑う。今までにも同じようなことをしてきたはずなのに、何故か嫌な感じはしない。
「そろそろ行きますわよ。支度なさいな」
「あ、私身体痛くて動けない。運んでくれる?」
「……全く、我がままなお姫様ですわね」
「……っ! ……はは、そうかもね」
とにもかくにも、仲直り出来た、ということでいいのかな。
少し軽くなった心とともに、私は彼女の別荘にお邪魔することになった。
彼女の本当の意図を知ったのは、もう戻れないところまで追い詰められてからだった。
▼
「そ……んな……。うそ、でしょ……?」
別荘にお呼ばれしたその日。友人たちに事の顛末を伝えて、そそくさと準備をして。すぐにレストリアの従者が迎えに来て。
訪れた馬鹿みたいに大きなお屋敷。明らかに良いところのお嬢様を演出するそれらに圧倒されて。たくさんの従者に出迎えられて。すっかり暗くなったのでディナーを頂いて。あまりの美味しさに感動して。食後のお茶を頂いて。
めまぐるしい一日。いろんなことが起こった一日。そんな今日も、もう終わる。
ようやくひと心地ついた、そのはずだったのに。
「嘘でも冗談でもありませんわ。わたくしは本気です」
「なら、なおさらおかしいじゃない! 狂ってる!」
ふと保健室での会話の続きを切り出したところで、私は激昂せざるを得なくなった。
「狂っていても構いませんわ。そこに乗せる感情は変化したかもしれませんが、初めからそのつもりでしたもの」
「ありえない! いくらあんたが膨大な魔力を持っていたって、そんなの一人だけで世界中の国と戦うようなものよ!」
「それくらいの覚悟はあるということですわ」
静かな部屋の中で、私の声だけが響く。何人かいる給仕係のメイドさんも口を挟むことはせず、ただ隅で待機するだけ。落ち着き払った様子でカップに口をつけるレストリアに、私は荒げた声を叩きつけるのを止めない。
だって。……だって!
「『魔女を使い魔にする』だなんて!」
彼女は確かにそう言ったのだ。使い魔を従えるための契約の魔法。支配の魔法を、魔女に使うのだと。
「厳密にはまだ魔女ではないので、魔女の卵を、ですけれど」
「そんな形式上の話をしているんじゃない!」
『深淵の魔女』に限らず、一般の魔女でも大抵は所有する、使い魔。
用途は魔女によって様々だけれど、主に戦闘や研究の補佐から、果ては愛玩用まで幅広い。並の兵士では手に負えないような魔獣や、普段はなかなか接触できない精霊など、対象も多種多様だ。
そんな彼らを己の使い魔とする。それが契約の魔法。強力な拘束力、強制力を持つため、支配の魔法とも揶揄される。
それだけに、望む対象を使い魔に出来るかは術者の力量やセンスによる。当然対象のランクが上がれば難易度も跳ね上がる。それに先生の言葉じゃないけれど、出来ない人はとことん出来ない。魔女の実力を見る判断材料の一つにもなるくらいだ。
成功すれば、対象を支配し思うがままに操ることができる。存在を縛る契約の魔法。
それを精霊や動物にではなく、『私』に使うと、彼女は言うのだ。
「馬鹿げてる! そんなの受け入れられるわけないじゃない!」
「あら、『負けた方は勝った方の命令を聞く』のでは?」
「それとこれとは話が違うでしょう!?」
人間を使い魔として従える例はまったくのゼロじゃない。歴史を紐解けば、いくつかの記述はある。
だけど、それだけだ。前例など、ほぼお伽話の類で。ほとんど成功例を聞かないほど、人間を使い魔として従えるのは難しい。魔力そのもので構成される魔獣や精霊と比べ、肉体を持つ人間には魔法の効力が伝わる魔導率が低いのだ。
それに加え、抗魔の術を知る魔女相手となれば、その困難さは語るべくもない。わざわざそんな苦労をする必要も。
「そもそも、倫理に反するわ。犯罪者にでもなるつもり?」
「今の協定には魔女を使い魔にすることに対して罰則は設けられておりませんわ」
だけど、現在それを禁止する法がないことも事実だ。そんなことは知っている。彼女の言う通りだということは。
ただそれは、使い魔の対象に人間が想定されていないというだけ。天に浮かぶ星を破壊したら罰則、なんて法はないのと同じだ。
なので、私の問い詰めはただの感情論でしかない。そんなことは私も分かっている。そしてレストリアも。
それでも、言わずにはいられない。
「そういう問題じゃない!」
「では、どういう問題ですの?」
だからこれは、単純に私の感情の発露だ。懇願にも似た怒声。少しでも思い直すように。微かな期待を込めて。恐怖を遠ざけるように。
使い魔となれば、その扱いは魔獣たちと同じになる。『人間』ではいられない。当然だ。使い魔とは、等しく魔女の『所有物』なのだから。いくつかの国には未だ奴隷制度が残るけれど、そういった境遇の人達よりも、身分としては下だろう。『人間』と見なされなくなるのだから。
仮に私がそうなったとして、そのことに対し、倫理的に疑問を抱く人も出てくるかもしれない。人間を物のように扱うことに憤慨する正義感もあるかもしれない。
だけどそれらは、きっとすぐに沈静化する。何だそういうことかと、手の平を返す。何故なら、契約の魔法を成立させるために必要な制約が、特殊な性質を持つからだ。
「……あんたも、知っているでしょう? 契約の魔法は、使い魔側の絶対的な服従心がなければ成立しない」
「ええ。存じていますわ」
契約の魔法は、決して一方的には成立しない。そこには、お互いに理解し、納得し、同意した上での信頼関係がなければいけない。
だからこそ、契約の魔法が成されたということは、使い魔になったということは、『そういうこと』なのだ。どんな惨めな境遇に堕ちようとも、自ら望んで身を捧げた者に、同情する余地などない。至極当然の摂理。
例えば魔獣は、己よりも強い者に惹かれ、本能的に従う。精霊は、永遠ともいえる寿命の中で、好奇心を満たすため気まぐれに従う。
それぞれが了承した結果なのだ。そこに他人が口を挟む余地はない。
「まさか、今の私にそんなものがあると思っているの……!?」
「思っていませんわ」
「なら、何で!」
でも、私は、違う。使い魔になるために魔女になったわけじゃない。誰かに支配されこの身を捧げるために、生きてきたわけじゃ、ない。
だから、こんな魔法、成功するはずないのに。馬鹿なことを、と、鼻で笑えば済む話なのに。私がただ、「なりたくない」と、強く意思を持ち続ければいいだけなのに。
私は喚いていた。底知れぬ恐怖に飲み込まれまいとするように。霧に包まれ、我が身を見失うのを恐れるように。
ただ、おかしいと、ありえないと喚く私に対して、彼女は。
「……スティラ」
レストリアは、静かに言うのだ。子供に対して言い聞かせるように。対戦相手に対して宣戦布告するように。
「わたくしは、本気で。あなたを『わたくしのものにする』ために、ここまで連れてきましたのよ」
……想い人に、告白するように。
それは激昂する私と対照的に、ひどく穏やかで。
「……そのために、手段は選びません」
芯の通った、宣言だった。
「……っ!? なに、これ……!」
言葉尻を掴むか掴まないか。私の視界は斜めに傾き、身体ごと床へと落ちる。
「古典的ですが、お茶にお薬を入れておきましたの。魔力や身体能力の低下、つまりは対象の戦闘能力を奪うものですわ。中毒性はないので安心なさい」
「あん、た……。そのつも、り、で……」
「ええ。ですから、初めから、と申しましたわ」
迂闊、という言葉が脳裏に浮かぶ。何故、という言葉が音もなく消える。
「エーヴリル」
「はい」
「彼女を地下に。丁重に扱いなさい」
「かしこまりました」
彼女の無機質な声と。近寄ってくるメイドさんの靴音を最後に。
私の意識は闇に沈んだ。
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