第八話『国のため』

 辺境の国、グレイドウィン皇国。
 人口は1万を少し超えるくらい。大陸でも南東の端に位置し、国土の殆どが海に面している。半島と複数の離島群からなる小国だ。
 気候は通年温暖で過ごしやすい。年に数度雨季があるが、それも先日過ぎ去った。今は風も涼しく、陽が照ればうとうとするような、心地よい陽気に包まれている。

「あー……」

 そんな昼寝日和の昼下がり。
 執務室の一角で、第二皇女アイリィ・グレイドウィンは一人汗を滴らせていた。

「うー……」

 机の上に高く積まれた書類の山。それらから意識的に視線を外し、だらけきった表情で怪音を発する。
 いつも快活でしっかり者。アイリィにそんな印象を持っている国民にはとても見せられない姿だ。

 けれど、それも仕方のない事。
 そう、これは仕方のない事。

 まだ少し他人行儀のする椅子に身を預けながら、アイリィは独りごちる。

「頑張ってる、よね……?」

 朝から今まで、慣れない仕事が荒れた海の波のように押し寄せているのだ。少しは気を抜かないと爆発してしまう。
 ただでさえ普段の仕事も厄介事が増えているのに。
 そう考えれば、今手を止めている罪悪感も少しは薄れる。

「……。あー……」

 気どころか魂まで抜けてしまいそうに口を開けて、アイリィはもう一度お腹から空気を吐いた。

「……」

 だから、気が付かなくても仕方ないのだ。
 いつの間にか呆れた顔で自分を見下ろす存在がいることに。

「はぇー……」
「……なんですかだらしのない顔をして」
「えぅー……え、お、おか……っ! いえ、皇后様!」

 妙齢の女性が発した苦言に、アイリィの血の気が引く。そしてガタガタと椅子の脚を打ち鳴らし、慌てて居住まいを正した。

 グレイドウィン皇国の皇后、アリアリア・グレイドウィン。
 国を裏から支える女傑が、元々細い糸目をさらに細めて、いつの間にかそこに立っていた。

「あ、いえ、これは……!」
「これは?」
「あの、あの……すみませんでした」

 わたわたと手を振りながら、しかし何も言葉が出ずしゅんとして謝るアイリィ。
 まったく、皇女としての自覚が足りない。そう思いながらも、言い訳せず謝る娘にアリアリアは「仕方ありませんね」と小さく呟き、優しく溜息を吐いた。

「大変なのは分かります。ですが、公務中に気を抜いてはいけません」
「はい……」

 娘の気持ちは理解している。痛いほど。
 必死に慣れない公務をこなすアイリィを、その荒れた手を見ながら、アリアリアは思った。

 本来ならこれは、姉であり第一皇女であるスティラ・グレイドウィンの仕事である。
 しかし、当の本人は先の宝玉結晶脈発見の件、ひいては国防力強化対策のため、国を離れている。その分の皺寄せがアイリィへと向かっているのだ。

 もちろん他の事務官に任せられるものは任せている。しかし、それでも手が回らないのが実情だった。ただでさえ皇族が『二人』欠けた状態で、万年人手不足とあっては、それも致し方ないこととアリアリアは半ば諦めにも似た気持ちでいたが。

「分かればいいのです。……さて、どこか不明なところはありましたか?」
「あ、その、ユリ地区の予算のことでいくつか……」

 だが、今は言わばただの上司と部下。
 ほんの少し見せた母親の顔をすぐに隠し、アリアリアはアイリィが処理した書類を片手に残りの仕事を詰めていく。

「その件は後ほどこちらでも確認しましょう。他には?」
「あとは、ここの……」

 アリアリアが加わり、加速度的に増えていく処理済みの書類。
 しかし、武官が上げてきた書類を前に、二人の手が止まる。

「残りは、軍備関係で……」
「それは……。頭が痛いですね」

 目下この国を取り巻く問題。先日発見された『宝玉結晶脈』と、それに関連して発生した事案に上層部は皆が皆頭を悩ませていた。

「幸いにして現在も情報統制は機能している。万が一に備えて、周辺国を刺激しない程度に軍備も拡張している。けれど……いえ、そもそも、それにどれほどの意味があるのか。ただでさえ限られた予算で、割ける人員もいないというのに」
「最近では、結晶脈付近での魔物の目撃情報が増えています。いくつか警備隊との衝突もあったようです」

 半分独り言のように状況を確認するアリアリアに、アイリィも持ち得る情報を開示する。
 現在、結晶脈付近は国によって封鎖中だ。名目上は古参貴族の別荘を建てるための土地調査になっており、駆り出された警備隊も真実は知らない。

「やはり魔物たちは鼻が利くようですね。ある程度は警備隊を置く理由になるからいいのだけれど……。あまり増えてしまうとよくない。他にも『鼻の利く連中』はいるから」
「予算、人員、悪目立ちの面でも、これ以上警備隊を増やせませんし……」
「はぁ……。この辺りは引き続きあの人と相談します。……あまり負担を掛けたくはないのだけれど」

 いくら考えようと、妙案は出ない。それはそうだ。絶対的に手札が足りないのだから。
 幾度となく抱いた下向きの考えを、アリアリアは意識的に追い出す。そうしないと、全てを諦めて投げ出してしまいたくなるから。
 今はただ、耐えるしかない。対処できる分だけでも、していかないと。決まって持ち出す代わりの考えは、事態に当たる者たちの共通認識でもあった。

「そういえば帝……、いえ、お父様は……」
「今日は……幾分調子が良いようです」

 加えて二人が憂慮していること。
 それは、グレイドウィン皇国の帝が発病した病。

「後で顔を見せに行ってあげて」
「分かりました」

 発症したのは、スティラが国を立ってからしばらくしてからだったろうか。
 病名は不明。治療法も、不明。分かるのは、身体に浮かび上がる黒い斑点が日に日に増えていくことだけ。初めは軋む身体をおして公務についていたが、やがてそれも叶わなくなり。かつては無類の強さを誇る剣士であった救国の英雄も、忍び寄る病魔に抗えずやがて床に臥せった。
 このことは側近の者達しか知らされていないが、側近であり彼を知るからこそ、皆一様に驚愕し信じられない気持ちでいた。
 それは妻であり、娘であり、家族である二人も例外ではない。

(あなた……)

 独り病と戦うこの国の君主を思うと、いつだってアリアリアは胸が苦しくなる。何もしてあげられない無力感に心が裂けそうになる。国を預かる者としてだけでなく、彼を愛する者として。
 そんな想いを汲み取ったのか、愛娘であるアイリィはそっと唇を噛んだ。

「……。そうだ、お茶にしましょう! 適度に休憩しないと、効率も上がりません!」
「な、何ですか、急に……」
「それに、お仕事も一区切りつきましたし。あ、今日は私が入れますね!」
「あっ……。もう、調子がいいのだから」

 パタパタと子どものように駆けて部屋を出て行くアイリィを見送りながら、アリアリアは二度目の溜息を吐いた。

「……ふぅ」

 近くにあった椅子に腰掛ける。自然と天を見上げるが、視界は何も捉えなかった。
 心労は尽きない。だが、アイリィという存在が、幾度と無く沈みかけた気持ちを引き上げてくれる。アリアリアはそのことをとてもありがたく感じていた。
 だからこそ、自分が弱音を吐く訳にはいかない。絶対に。それだけが今のアリアリアの矜持であり、意地だった。

「スティラ……」

 遠く離れた地で頑張っているであろう、もう一人の愛娘を思う。
 いっそ、自分が魔女の責務を負えたなら。自分が身代わりになって病を背負えたなら。どれだけ楽だったろうか。
 そんなことを考えて、すぐに詮無きことと切り捨てる。自分には素質がなかった。そして、自分には自分の役割がある。理解したはずの事実を、もう一度噛み砕く。

「どうか、無事で……」

 だから、母親として。妻として。何もしてやれない分、家族として。
 祈り、想い、受け入れ、果たさねばと。アリアリアはそう思うのだ。

▼

「……」

 そして、長い廊下の隅で、一人。

「お姉様……」

 アイリィもまた、姉を想う。

「早く帰ってきてください……。お姉様がいないと、アイリィは寂しくて」

 旅立った日から、ずっと、ずっと。
 胸に秘めた感情が、濃さを増し、密度を増していく。
 誰にも見つからない場所で。積み上げて、歪んで、それでも重ね続けて。

「寂しくて、寂しくて寂しくて、早くこの手で触れたい。ぎゅってしたい。お姉様の匂いで頭の中をいっぱいにしたい。その声を聞いて、頭を撫でてもらって、それから、それから、ああ、ああああ、お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様!」

 歪に削れた爪を、さらに噛む。間違えて噛み千切った指から血が出ようが構わない。
 ただただ、耐えていた。あらゆることに。

 アイリィは、ただただ耐えていた。

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