第十一話『覚悟』

 コチコチ、コチコチと時計の針の音だけが聞こえる。
 空腹は一周回って治まって、気持ちも大分落ち着いたきた。
 今は冷やりとする鉄柵に背中を預けて、体育座りで膝に顎を埋めていた。

「……」

 考えるのは、今までのこと。そして、これからのこと。

 何故我慢できなかったんだろう。
 泣き出した時のことを思い出す。
 私は、よっぽど嫌だったのだろうか。
 ……いや、違う。
 もしそうなら、もっと前の段階で拒否していたはずだ。
 そもそも、こういったことがしたいからお姉さまと出会ったようなものだし。

 なら何故、と考えても、やっぱり虫の居所が悪かったとしか思えない。
 そしてそれは、私が未熟だったからだろう。
 気持ちの切り替えが上手くいかず、訳が分からなくなってしまった。

 ……弱いなぁ。
 覚悟は、していたつもりなのに。
 結局中途半端だったんだ。
 やることも、心構えも、覚悟も。
 そんな私じゃ、……お姉さまも迷惑かなぁ。

▼

「落ち着いた?」
「……はい。すいませんでした」

 しばらくして、お姉さまが戻ってくる。
 電気は点けず、薄暗闇の中こちらへ歩み寄って、ケージの傍に腰を下ろす。

「謝ることじゃないわ。責任はあたしにあるから」
「そんなこと……!」
「飼い犬の責任は飼い主の責任。……まぁそうでなくても、子どもが泣いたら大体大人が悪いのよ」

 そう言ってお姉さまは笑うけど、どこか力のない笑い方だった。

「お姉さま……」
「まぁ、良い機会ではあるわね。約束の期限、もうそろそろだし」

 言われて、ハッとする。
 この生活を始める前、約束していたこと。
 夏休みが終わるまでに、進路を決めること。
 このままお姉さまについていくのか、それとも普通の生活に戻るのか。

「色々学校の準備とかもあるだろうから、……そうね。明日、返事を聞かせてもらおうかしら」
「え……」
「だから、一晩しっかり考えてね」

 そう捲し立てるように言うお姉さま。
 その様子は何かを諦めたようなようにも見えて、私は戸惑う。

 何でなんですか、お姉さま……?
 わざわざ、こんな、私が癇癪起こしたタイミングで、そんなことを言うなんて。
 そんなまるで、私が『お姉さまから離れる選択を選ぶ』ように誘導するような……。

 意図が掴めず呆ける私に、お姉さまが呟くように言う。

「……人の心なんて、移り気なものよ」
「……お姉、さま?」

 何の話、だろう。
 そう思って、それが今までの私の悩みに対する答えなんじゃないかって、思った。
 少しだけ引っ掛かる感じを覚えたけど……。

『人の心は、移ろうもの』

 言葉としては以前から知っているはずなのに、それはどこか、違う響きを持って聞こえた。

「あなたは、真面目だから。きっと、いろいろ考えて、自分で自分を追い詰めてるんでしょう?」
「……」
「もっと単純に考えたら? ……なんて、言わないわ。それがあなたなんだから。だからね、そうやって考えてしまうことを、自分の悪いところだって、卑下するのは止めなさい」
「……え」
「今の自分が、自分の考える理想像とかけ離れていて、それで悩むのはみんな同じ。あなただけじゃない。しかも、それであたしのために苦しんでいるのなら、それはお門違い。あたしがあなたをどう思うかは、あなたが決めることじゃない。あたしが決めることよ」
「あ……」
「理想を追い求めるのはいいことだと思う。どの道を進もうとも。だけど、そこにたどり着かないからって、苦しむのは違う。今のままだってあなたは魅力的だし、あたしは、今のあなたを気に入ってここに連れてきた。もちろんずっと今のまま成長しないのは困りものだけど、それはあなただけの問題じゃなく、周りの環境、大人の問題でもある。だから、一人で悩みすぎないで」

 お姉さまの言葉が、柵越しに、柔らかく、重く、響く。

 ……ありがたいな。

 素直に、そう思った。

 いつだって、って、言えるほど長く一緒にいるわけじゃないけど。
 お姉さまは、私に、私を、後押ししてくれて。
 真剣に、考えてくれて。
 やってることは、普通とはちょっと違うけれど、私のことを、導いてくれる。

「……覚悟って」
「ん?」
「覚悟したことを貫くって、すごく、大変なことなんですね」

 動機は、不純かもしれないけど。
 やってることは、異常かもしれないけど。
 それでも、自分が決めた、今までで一番大きな覚悟。
 それが揺らぐのは、すごく怖く、情けない。
 揺らぐたびに、自分の弱さを嫌悪したくなる。

「いいじゃない。無理に貫かなくたって」

 お姉さまは、そんな私を否定しない。
 いつだって含みを持ったその言葉は、私を、やさしく包む。

「何回でも、覚悟すればいいじゃない。一つの覚悟ですべてを乗り越えないといけないなんて、そんなことだれも決めてないわ」

 今の自分を、弱いと思ってる自分を、否定しない。
 お姉さまの言葉は、そう言ってるのだと、私は思った。
 自分は自分。他人は他人。
 私には、私のやり方。

「……なんて、ちょっと説教臭かったかな?」
「いえ、そんな……」

 一転しておどけた風の言葉に神妙な空気が薄れ、部屋に少しだけ笑い声が響く。
 ……そう、だよね。
 私は、この私を、受け入れていいんだ。

 いつも悩んだり、考えたり、心配になったり、揺れたりするこの私を。
 それを、否定しないこと。それが、大事なんだ。
 何度だって壁に当たるだろうし、そのたびくよくよしてしまうだろうけど、情けないなんて思わずに、ただ乗り越える方法を考えればいい。

「だからこそ、いろんな選択肢があることを覚えておいてほしいし、自分から選択肢を狭めることはしないでほしいのよ」
「こんなことをさせてるお姉さまが言っても説得力無いですけどね」
「言うわね。そのうち考えたって身体が逆らえないような、根っからのペットにしてあげるわ」
「ちょ……そんなこと、言われたら……」
「あはは、興奮しちゃう?」
「もうっ!」

 お姉さまを恨みがましく見つめながら、
 早くそうならないかな、と、考える自分もいる。
 きっとそうなったら、私は、何の心配もなくお姉さまのペットになって。
 そんな自分が、哀れで、滑稽で、とても愛おしくて。
 今以上にお股をグチョグチョに濡らしながら、そこにある幸せに感謝するんだ。

「……お姉さま」
「なに?」
「私、面倒くさい子じゃないですか?」
「……どうして?」
「だって、私、すぐいろいろ考えこんじゃうし……。もっと、何も考えず、無邪気なほうが、かわいいのかなって……」
「きぃちゃん……あなた」
「わかってます。自分を、否定する意味で言ったんじゃないんです。ただ、お姉さまの気持ちを聞きたくて。……それだけなんです」

 本当に、それだけ。
 そんな私の言葉にお姉さまは、少しだけ考えて、少しだけ逡巡して、でも、少しだけ大げさに、明るく言葉を紡いだ。

「……というか、そもそもあなたペットにされてるのよ? 普通もっと躊躇というか……後ろ向きであってもいいと思うんだけど。そんなに真剣に、前向きに悩んでくれてるの、あなたが初めてよ」
「そ、それもそうなんですけど……」
「本当に、一途というか融通が利かないというか。その実直さは、並みの飼い主じゃ手に負えないわ」
「そう……なのかな……」
「ふふ……」

 小さく笑うお姉さまも、すぐにその顔を引き締める。
 柵越しに白く細い指が私の頬をなぞる。
 やがて掌がそれを包み、温かさに身体が弛緩する。

 ……でもきっと、この温かさを、この人は知らない。
 何故だか分らないけど、そう思った。

「強引にケージに閉じ込めてごめんね。……怖いのよ。あなたを、失うのが。あなたじゃないと、だめ」
「……お姉、さ、ま」
「……愛してる」

 ちゅ、と、ほんの数瞬だけ、唇を奪われる。

「……私も、です……」
「……ありがと」

 そう言って、静かに部屋を出るお姉さま。
 暗闇の中閉じられた扉を、私は、ずっと、ずっと、見つめていた。
 ……まだ届かない、その距離を。

▼

 そして、朝。
 案外、深く眠れてしまった。
 自分ってこんなに肝の据わった人間だったっけ。
 そんなことを思いながらひとつ欠伸をして、寝ぼけ眼を擦る。

「……わ! ……そういえば犬足のグローブ着けられたままだった……。まぁいいや、出来る範囲で擦ってやろう」

 予期せぬモサモサの感触に驚くけど、ここは無視。
 肉厚なグローブが殺人的に邪魔だけど、目がしょぼしょぼするのが耐えられないので構わず続行。

 ……こうやってごいごいやってる姿は、他人が見ると今どんな風に映るんだろう。

「ふぁあ……。うん、身体も起きてきた……かな」

 目の周辺と頬がパリパリする以外は、比較的いつもどおりの睡眠だったようだ。
 私のどこでも寝れるスキルが存分に発揮されている。

「今何時だろう……」

 昨日のこともあって『人』のままだから、つい人の習慣が出てくる。
 そんなことを思いながら部屋を見渡してみるけど、どうやら時間の分かるものは置いてないようだ。
 でもまぁカーテンの隙間から差し込む陽の光の具合からして、いつも起きる時間とそう変わりはないだろうと判断。

「とりあえず朝ごはんを作……らなくてもいいんだ、もう。なんだか落ち着かないな……」

 寝ぼけた頭で日課のことを思い出すけど、そもそも自由のない私に何が出来るわけでもない。
 ここ最近忘れていた日課を思い出すあたり、この一ヶ月の中では大分シラフに近い状態に戻っている気がする。

「とりあえずお姉さまを待ってよう」

 よいしょ、と檻にもたれかかる。
 鉄の柵がひんやりして気持ちいい。
 空調が効いているとはいえ季節は夏真っ盛りだ。

「きぃちゃんおはよ~……って、なんだ、もう起きてるの」
「あ、おはようございます」

 5分くらい経った後、部屋のドアを開けてお姉さまが顔を覗かせる。
 このときばかりは『きぃちゃん』として接してくれて、嬉しいというか、ほっとした。

「まだ寝てるかなーって思ってたのに」

 部屋に入ってきたお姉さまは、昨日と変わらずラフな格好。
 メイクはしてないけど寝起きって感じでもない。
 ……関係ないけどすっぴんでも綺麗な人だなぁ。

「朝は割と強いんです。早いと5時くらいに起きたりしますし」
「へー。爪の垢煎じて飲ませてやりたいわね。自分に」
「……。朝、弱いんですか?」

 カーテンを開け放つお姉さまの後姿を目で追う。
 部屋の中が一気に明るくなる。
 朝日に輝くお姉さまはどこか浮世離れして見えて、寝坊とかそんなこととは無縁のように思えた。

「自慢じゃないけどね。どうしても夜型の生活だし。だいたい起きるのが毎日9時とか10時とか」
「じゃあ今の時間は……」
「あ、心配しなくても今は7時ちょっと過ぎたあたりよ。まぁそれでもきぃちゃんからしたら寝坊なのかもだけど」
「いえそんな……。それに早いって言っても両親が早出の時だけですし」
「それでも十分。朝早く起きれるって、 それだけですごい特技だと思うわ。あたしからしたら」
「そう……ですか?」

 特に意識したことないけど、そう言われて悪い気はしない。
 今日になって初めて両親の仕事に感謝した。……少しだけね。

「……ふふ」
「どうしたの?」
「いや、こんな状況で世間話してるのが少し可笑しくて……」
「あはは、それもそうね」

 柔らかく、二人で笑い合う。
 その後も少しの間取り留めのない会話をして。

 一瞬、会話の『間』が生まれる。
 特に気まずい間ではなく、穏やかな、間。

 何とはなしに眺めたお姉さまは、静かに優しい笑みだけ浮かべていて。
視線に気づいたのか、少し困ったような笑顔を見せる。

「きぃちゃん」

 会話のそれよりも、少しだけ強めに、注意を集める声。
 同時に、お姉さまがケージの近くに座り込む。
 表情は、さっきのまま。
 ただその場の空気が、少し硬さを帯びた。

「……はい?」
「…………帰りたい?」
「……っ」

 ポロッと、こぼれるように漏れた一言。
 急と言えば急な言葉に、一瞬息が詰まる。
 それは、まさかお姉さまに言われるとは思ってなかったから。
 『そういう』ニュアンスで言われるとは思ってなかったから。

「……どうしたんですか、急に……」
「ん……」

 あさっての方向を向くお姉さまの顔からは、その表情とは裏腹に、喜や楽の感情は感じ取れなかった。
 だからなおさら、抱いた不安が心を弄ぶ。

 だけどその不安の持ち主は、実は私ではなかったことに、後で気づく。

「……ふふ、ダメね、あたし……」
「お姉さま……?」
「きぃちゃん、あたしね……」

 やれやれ、と、どこか自嘲するような溜息を置いて。

「あなたの主人でいる、自信がない」

 想いが、吐露される。

 それは、懺悔にも似た、お姉さまの想い。
 いつもの毅然とした『お姉さま』とは違う、剥き身の……。

「……ああもう。なんであたし……。ごめん! 今のは……その、…………。……ん、ちょっと、もう一度顔洗ってくるわねっ」
「ま、待って!」

 少しだけ表情を苦く歪ませて、おどけるように髪をくしゃくしゃと掻き乱して、部屋を出て行こうとするお姉さまを、私は慌てて呼び止めた。

 無意識に出た声だった。
 ここで行ってしまったら、ここで断ち切れてしまったら、もう二度と胸の内を聞けないかもしれない。
 そんな危機感がこのときにはあった。
 そういった空気を読み取れるほどには、私はこの人と時間を共有してきた。

「聞かせて、下さい……。どんな話でもいいですから、お姉さまの、思ってること。私のために、お姉さまが我慢していることがあるなら、そんなの、私、嫌です」
「……」

 その背中は、振り向かない。
 細い、細い糸を身長に手繰り寄せるような、そんな感覚。
 今までの私は、この糸を引っ張ることができたろうか?

 そして、今の私は……。

「何が、足りないんですか? 覚悟もしました。言われたことも、頑張って……。今のままの私でいいと、言ってもらって。でも、違ったんですか? 私に求めていたものは……。そうだとしたら、今からではもう遅いんですか……?」

 なんだろう?
 何が怖い?
 胸の内が聞けないこと?
 心が離れてしまうこと?

 ……いや、そうじゃない。
 離れれば、また近づけばいい。
 怖いのは、『壁』ができることなんだ。
 どんなに近づいても、どれだけ交わり合っていったとしても、最後の最後を許さない、『壁』。
 なまじ近づくことができるからこそ質の悪い、それが築かれてしまうことを何よりも恐れてる。

 そしてそれはきっと、一度出来ると容易には崩せない。

「足りないものがあれば、努力しますから。だから、見捨てられるのは、嫌です……」

 なんで言葉に出るのは、こうも安っぽいセリフなんだろう。
 こんな浅い言葉を言いたいわけじゃない。
 でも、上手く言葉が見つからない。
 それに、突き詰めた意味は、間違ってはいない。
 少ない語彙の中から必死でそれらしい言葉に変換する。
 それが今の私の精一杯だった。

「……」

 その背中は、振り返らない。
 朝特有の澄んだ空気が、肌の上を踊る感覚を得る。
 視界の焦点は、鉄格子の先。

 糸を見失った気がした。

「……………………逆よ」

 ただ。

 背中越しの腕が、ノアノブにかけた手が。
 するりと下に落ちる。

「あ……」

 そのことにひどく安堵する。
 知らず知らず握り締めていた拳を、ほどく。

「……」

 ふわりと、まるで楽しげに髪が踊る。
 でも、振り返りこちらを向いた顔は、苦いまま。
 どうして、そんな顔するんだろう。
 何が、そんな顔にさせるんだろう。
 見上げたお姉さまは、どこか泣きそうで。

 スッと。
 再びケージのそばに腰を下ろす。
 そして。
 その細くて白い右手が私の顔へと伸びる。

 私は、動けない。

 ただ目前の指を、その向こうの無表情を、呆然と見つめて。

 私は、動けない。

 ただ目前の指を。
 近づく指を。

 動けない。

 ……そして。

「……ふがっ?」
「……ぷっ」

 鼻をつままれた。

「ふぉへえひゃは?」
「あっははははっ!!」

 まるで殻を突き破るほどの、笑い声。
 音量の割に何故か耳障りのいい笑い声が、部屋を包む。
 私の鼻声に、別人かと思うほど爆笑するお姉さま。

「ふえ……?」

 ……あれ、なんだろうこの状況?
 どこか重大なスイッチを押し間違えてしまったのかな。

「あははっ……はーっ、ひー……」

 喘息でも患ったかのように肩で息をしながら呼吸を貪る笑い袋。
 結局お姉さまが息切れするほど笑い、収まった頃には、窓の外のスズメが3羽から1羽に減っていた。

「くっくっ、ふぅ、……ああー笑った」
「……な、なんで……?」

 戸惑う私の鼻頭が、つんと人差し指で突かれる。

「あなたが思った以上におバカさんだからよ」
「……へ?」

 ば、バカ……?
 きょとんとする私を見て、お姉さまは子供のような笑顔を見せる。

「監禁されて、こんな仕打ち受けて、なんでまだ自分のせいだなんて考えが持てるのよ。ほんとお人好しというかなんというか」
「はぁ……」
「いや、もともとお人好しではあるのよね。それをこんな状況でも発揮できることが……。……いろいろと、先を越されちゃったのかな」

 どこかしみじみと呟くお姉さまの目線は喜でも哀でもなく。
 でも優しさだけは読み取ることができた。

「あーあ。結局敵わないのかぁ。分かってはいたけど、今ので完膚なきまでに叩きのめされたって感じ。やっぱりあなた本物だわ」
「?」
「もういいわ。全部話す。弱いところも、全部見せるわ。……そうよね。だって、あたしは全部見せてもらったんだもの。あたしだけ見せないのも、フェアじゃないわよね。それから、また判断してちょうだい」
「……えーと」

 ……結局、いい方向に転がったのだろうか?
 よく、わからないけど……。
 吹っ切れたように一人でうんうん頷くお姉さまを見ていると、うん、きっと思っていたような心配は無用になったんだって、そう思えたから、つられて私も笑い返していた。

 ただ、問題は未だ純然とそこにあって。
 数分後、私はようやくそれと対峙する。

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