「一人暮らしだし気楽にして。……ああ、ちょっとまって。家に上がる前に肘と膝、タオルで拭かせてね」
ここは、なんだか高そうなマンションの最上階の一室。
そこの玄関で私は四つ足の先を拭われていた。
とりようによってはすごく惨めだけど、このまま上がってお部屋を汚すわけにもいかないし……。
なんて優等生な事を思ってみる。
まぁなにより、反抗する術がないよね。
というわけで素直にされるがままになっているのでした。
「よかったわね、誰とも出会わなくて」
「ん……」
本当にそうだ。
確かにいくら人気のない深夜だからといって、人と出会う確率はゼロじゃなかった。
エントランスからエレベータまで、コツコツと四つん這いで歩いたのだから。
もしかしたらマンションの住人と……って心配したけど、それも杞憂に終わってホッとしてる。
ただ、防犯カメラに映ってるんじゃないかと、それだけが気になってるんだけど。
「まぁ外はともかく、マンションの中に入っちゃえばこっちのもんだけどね。このマンション、あたしのだし」
「……んん!?」
な、なんですと!?
あまりにもさらっと言うから一瞬理解できなかったけど、何言ってるのこの人!
このマンションが、自分のもの……!
ど、どうやって……。
家が、お金持ち……って事?
「あ、言っとくけど、これ自分で買ったものだから。確かに家はそれなりに裕福だったけどね」
呆けるような私の顔に気付いたんだと思う。
このばつの悪そうな言い方は、嘘を言ってるようにはみえない。
だとしても、やっぱりすごい……な。
こんなに若いのに……。
こんな特異な状況でもなきゃ、一生関わることもできなかっただろうな。
「ま、そんな話はどうでもいいわよね。ほら、上がった上がった」
促されるまま、玄関から廊下をよっちよっちと歩き、居間へと通される。
家という空間に囲まれて、自分の家でもないのに妙に安息感を感じる。
思った以上に、神経を張り詰めていたのかな……。
「とりあえず、一枚いっとこうか。はい、そこでじっとして」
「……ん?」
一枚……?
何のことかわからないけど、ひとまず言われたとおりにじっとしておく。
すると……。
パシャッ。
「……はいOK。じゃあその腕のやつ外すから、ちょっと踏ん張ってて」
いや、あの、今のは……?
どうみても、写真を撮られたような……。
「ほら早く。外したくないの?」
「ん、ん……」
何が起こったのか頭の中が混乱してるんだけど……。
とりあえず『外す』という言葉はスッと頭に入ってきた。
優先事項を考えて、言われるがまま腕を差し出し気味に踏ん張る。
「ん……なかなか固いけど……ふっ! ほっ! ぐぬぬ……! ……だぁっ!」
バチン!
と音が聞こえるくらいの勢いだった。
女性の存外勇ましい声とともに、長く私の右の手首と肩を連結していた磁石が外れる。
そのまま勢いあまって尻餅をつきながらも、何とか右腕が自由になった。
久方ぶりに手首と肩が離れて、思わず安堵した。
「ふぅ……こんなの本当に一人で外せるのかしら……。まぁいいわ、次左ね」
他人にまでそういわれて、今更ながらにぞっとする。
私、本当に何事もなくあのまま日常に戻れたのかな……。
「なかなか面白い自縛だけど……。あのままじゃあなた、ろくなことにならなかったかもね」
「うぅ……」
やっぱりそうですか。
まぁ確かにちょっとどうかな~とは思ったけどね。
でもそれくらいリスクがないと興奮度も薄いわけで……。
「……つぇいっ!」
そんなことを考えている間にも、また勇ましい掛け声と共に左腕が解放された。
そのまま普通の正座のような形になって、腕をぶらぶら。
ああ……腕を伸ばせるって気持ちいい……!
「この止め具だって……ん! ……一人で外すのにどれくらい時間掛かるのかしら」
グローブを固定する止め具を外してもらいながら、そんなことを言われる。
つまり、野外露出自縛初心者がするには過ぎた拘束だったって事かな……。
ちょっと反省。
「うわ~……あなたよくこんなほっそいグローブ入るわね~……。あたしなんて……」
「?」
「…………若さ、か……」
右腕を包んでいたグローブを手に、急にしょぼくれるお姉さん。
とはいえしゃべれない今の私の状況じゃフォローすることもできないので、とりあえず残っている左腕のグローブを何とか自分で外していく。
まあちょっと時間は掛かるけどこれくらいは自分でできる。
出来ないと自縛として成立してないだろうし。
ともあれどうにか外すことのできた腕の拘束。
スースーする手の中から口枷の鍵が出てくる。
「……あら、それが口枷の鍵ね?」
哀愁の彼方から復活したお姉さんに「そうです」という意味で頷く。
その鍵をうなじのほうへ持っていき、カチリと南京錠を外す。
ゴポリと下着と涎を吐き出しながら、ようやく口が自由になった。
「あく……かは……はぁ……」
「あ、それ貸して? 洗面所に持っていくから」
「ふぁ……ふみまへん……」
涎でベトベトのそれを特に気にするでもなく洗面台へと持っていくお姉さん。
置く場所に困る前に気配りしてくれるところからも、やっぱり慣れてるんだなぁと感じる。
そんなお姉さんの背中を見届けながら、残りのブーツも脱いでいった。
「口枷とか洗っといたからね。帰るころには乾くでしょ」
「すみません。ありがとうございます」
洗面所からもどってきたお姉さんに頭を下げる。
「いいのよ、気にしないで」
「……はい。あ、あと、なんだか結局助けてもらったみたいで……その……」
しゃべれるようになった安心感からか、急に、これまでしていたことがとんでもないことだったんだ、という実感がこみ上げてくる。
全裸での露出に、解けるかどうか怪しかった自縛。
一歩間違えれば強姦、もしくは警察沙汰になっていてもおかしくはなかった。
「助けた……? ああ、確かにちょっとやりすぎだったかもね、あなた」
まだ詳しく話を聞いてないからわからないけど、ここに来るまでの経緯からして完全に助かったとはいえない部分もある。
強姦とかそういう性的なことに関しては、この人もあまり変わらないかもしれないんだ。
なんせ場の流れとはいえ主従関係まで結んでしまったわけだし。
でも、私が感じる限りでは、命を危険に晒すとかお金を要求されるとか、そんなことはされない……と思ってる。
トランス中はともかく、シラフの今の状態で言えばやっぱり助けてもらったというのが正直なところだと思う。
「反省してます……どうもありがとうございました」
「だからいいってば。あなた見た目どおり真面目な子なのね~」
コロコロと笑いながら頭を撫でられる。
やっぱりそういう風に見られるのだろうか。
「んー……じゃあさ、お礼の代わりに、ちょっと付き合って?」
そう言っていそいそとベッドに投げ出されたカメラを持ち出すお姉さん。
「そのまま座ってていいから、ちょっとこっち向いてくれるかな~」
そして、レンズをこちらに向けられた。
「……え?」
「今度は手が使えるから、ピースでもしてみようか?」
言われるがまま、とりあえず普通に写真を撮るようにピースサインを作る。
今度はって、やっぱりさっきも写真撮られたんだよね……?
……。
何で言われるがままピースしてるかな私は。
カシャッ!
「いいわよ~! その裸とピースのアンバランスさが最高!」
そりゃどうも。
お姉さんも写真屋のエロ親父みたいで素敵です。
……じゃなくて。
「な、なんで写真撮ってるんですか?」
よく考えてみよう、私。
こんな状況で写真を撮るということは、どういうことなのか。
それはつまり……?
「もうわかってるでしょ。ネタを作ってるのよ。……あなたが私に逆らえないようにするためのね」
ドクン……。
そう、だよね。
わかってた、つもりではいたけど……。
なんとなくドラマの中の出来事のようで、現実感がなかった。
「ネタ……脅すための……」
そうだよ。
弱みを握られようとしてるんだよ。
こんなことしてる場合じゃないよ。
裸んぼで、顔も丸出しの、人物特定の出来る変態写真。
見られちゃ困る写真を撮られてるんだよ!
抵抗しなきゃいけないのに……!
でも……。
……でも……。
「いいわ……可愛いわよ、あなた」
私は、ピースサインのまま、また一つカシャリとシャッター音を聞いた。
見せられたデジカメの液晶の中には、全裸のまま、嬉しそうにピースサインをする、笑顔の私が映っていた。
「嬉しそうな顔してるわね~。こんなの見せられたら、絶対強制されてるなんて思わないわ。自分が好きでやってます、って顔よ」
「あ……ぅ……」
やってしまった。
弱みを握られた。
これでもう私はこの人に逆らえない。
なのに。
なんで。
それが、嫌じゃない。
むしろ、この人のそばに居ることの、免罪符のような……。
そんな風に思えてしまった。
思い切って飛び込んで、迷いも何もなくなってしまったかのような、そんな不思議な開放感さえ感じていた。
「そんな顔しないの。どうせ思ってるほど絶望なんかしてないんでしょ」
「そんな……」
「大体分かるわよ、あなたがどんなタイプの子かなんて。だからこれはパフォーマンス。こんなので脅さなくたって、どうせあたしのところに来ちゃうでしょ?」
……そう。
すっかり見透かされている。
こんなので脅されなくたって、私はもうこの人から離れられないんだから。
もう二度と出会えないかもしれない、『理解者』に出会えたんだから。
「それにあたしも犯罪者になるつもりはないから安心して。プレイをするのは合意の上。あなたが嫌がればこの写真もすぐに削除するわ。 まぁ開口一番謝ってお礼言ってる時点で、結果は見えてるんだけどね」
あはは、と笑うお姉さん。なんと言っていいかわからなくて、とりあえず「すみません」とだけ言っておいた。
▼
自分の優位性をあえて手放して、より深い信頼を得る。
自分で言うのもなんだけど、優等生相手には効果的な方法だなぁと思う。
少なくとも、私の頭の中からこの人を裏切るという選択肢は消えてしまった。
「それにしても注文にない笑顔までつけてくれるんだから、思ったより楽しんでるわよね」
「そんなこと、ない……です」
意地悪な笑みに思わず目を逸らす。
そんな姿をみたお姉さんはまたクスクスと笑い出した。
もう……。
「そんなことあるわよ、……えーと、……んー、そういえばまだ自己紹介してないんだっけ」
「あ……、はい、そうですね」
そういえばそうだった。
私たちまだお互いの名前も知らないんだもんね。
「じゃあま、尋ねたほうが先に名乗るって事で。あたしは藤代啓子。年は内緒。けどあなたよりはお姉さんかな? あ、あたし妹がいるんだけど、その子がちょうどあなたくらいかも」
頭をポンポンと叩かれる。
包容力がありそうなのも、妹さんがいるからなのかなぁと妙に納得できた。
「仕事は、まぁいろいろやってるけど、最近は学校関係が多いかな。あとは……ここで一人暮らし中、って見ればわかるか。今は独り身なんだよね……うっ」
「あ、あの……」
ちょくちょく自虐ネタ出てくるな、この人……。
「え、ああ……気にしないで。ぐすん。……じゃあどうぞ」
な、なんてやりにくいパス……。
「ええと……あの、貴子、です。金沢貴子。いつもきぃちゃんって呼ばれてます。紫庵院学園に通ってます。3年です。……あとは……犬が、好きです。それと……それと……」
あと何があったかな……。
こんな風に自己紹介するなんていつ以来だろう。
「……あ、私も、彼氏、いません」
「……あなたのその優しさ、染みるわ」
あれ、間違えた……かな?
「ん、まあこんなもんでしょ。貴子ちゃん、ね。金沢貴子なんて、いかにもお金もってそうな名前ね」
「……たまに言われます」
実際は全然そんなことないんだけどな。
「あ、嫌味で言ったんじゃないからね。えー……と、それじゃあ、あたしもきぃちゃんって呼んでいいかな?」
「はい、構いません」
「代わりにあたしのことはけいちゃんっ、て……。あなたの性格じゃ、呼べないかしら」
「そう……ですね。目上の方に、あまり馴れ馴れしくは……」
相手方がいいって言ってくれてるんだから、そう呼んだって構わないんだろうけど……。
なんとなく、自分の中で許せない部分がある。千佳ちゃんならそんなのお構いなしだろうけどね。
「じゃあ普通に啓子さん、か。それだとなんか他人行儀な感じがするわよねぇ……」
「啓子さんではだめですか?」
「んー……それでもいいんだけど、せっかくだし他に何かないかな……」
「……あの、普段はなんて呼ばれてるんですか?」
「ん?……そうねえ、仕事なんかだと藤代さんって呼ばれることが多いけど……。それ以外だと……」
「それ以外だと?」
ふと何かに思い至ったような顔になり、また意地悪そうな表情を作って私の顔を覗き込む。
「『啓子様』……かな?」
「け、けい……!」
「そ。主に奴隷ちゃんたちから……ね?」
舌なめずりするその顔にゾクッとする。
……やっぱり、ソッチ側の人……なんだ。
驚きはしたけど、どちらかといえばやっぱり、という思いがした。
「あはは、っても割と昔の話だけどねぇ。今はそう呼んでくれる子もほとんどいないし。……でも、今日から一人、増えちゃうかも」
じっと見つめられてしまう。
瞳を突き抜けて脳を優しく撫で回す様な視線に、思わず鳥肌が立った。
と、とりあえずなにか返事しないと……!
「あ……け、けい……こ、さ」
「あーいいわよ、無理に言わなくて。あなたにはそういうの求めてないし。昔は誰に対してもそう言わせるのが好きでたまらなかったんだけどね」
ふっと視線を外し、少し懐かしむように笑う啓子、さん。
なんとなく「助かった」という思いが頭の中を支配していた。
「そうねぇ……あたし割とお堅い女子校だったから、よく『お姉さまー』なんて言われてたな。そういうのはどう? 抵抗ある? さまって言うほど敬ってくれるのか分かんないけどね」
「あ……はい」
それも、いいかも知れない。
私にはお姉ちゃんがいないから、お姉ちゃんって存在にちょっと憧れもあったし。
それにこの人には、お姉ちゃん、よりも、お姉さま、って言葉がよく似合う。
フレンドリーなんだけど、どこか世界が違う感じ。
こんなに近くにいるのに、本当はずっと遠くにいるような。
高嶺の花? ……それよりはもっと手が届きそうで。
うーん、あんまり上手く説明できないけれど。
女子校だって言ってたけど、きっと後輩からもすごく慕われてたんだろうな……。
「ではそうお呼びします、お姉さま」
「うん。何か妹がもう一人できた感じね。……じゃあ自己紹介はもういいか。これからよろしくね、きぃちゃん?」
「は、はい、よろしく、お願いします」
またなでなでと頭を撫でられる。
なんだか本当にこの人の妹になったみたいだ。
優しそうな人だし、理想のお姉ちゃんを手に入れた気持ち。
その部分は少しほっこりする。
でも、一歩裏側に回れば、そこにはしっかりと主従関係が結ばれている。
飼い主と、飼い犬。
日常を彩る交友関係の裏に潜む、淫靡なる世界。
多分に危うさを含んだこの関係は、私が生きてきた中で出会った今までのどの人とも持ち得なかった禁断の果実。
この先どうなるのか、どうされるのか、どうさせられるのか、それはわからないけど。
今は少しでも長く、締め付けられるような苦しさに潜む胸の高鳴りを感じていたい。
そう思いながら撫でられる心地よさに身をゆだねた。
▼
「……さてと。とりあえず何か飲む? お酒……はダメだろうから、コーヒーか紅茶かな。あとは出がらしくらいならあったかな……」
自己紹介が済んだところで席を立つお姉さま。
私も手伝います、と言おうと思ったけど、気配を察したのか「いいよいいよ」とやんわり断られた。
「じ、じゃあ紅茶で……すみません」
「おっけー。ちょっと待っててね」
「はい」
カチャカチャとコップを物色する後姿が見える。
それだけでなんだか様になってるのは生来のものなんだろうか。
そんなことを考えながらも意識せずボーっと眺めてたら、こちらに振り向いたお姉さまと目線が合って慌てて目を伏せた。
「ミルクと砂糖いる人~?」
「あ、欲しいですー。ちょっと多めで……」
「……いいわよね。気にせず多めに入れられる人種は……」
「え? ……あ、いや、そんなつもりでは……」
そんな自虐トークをフォローしつつも、少しだけ足を崩させてもらう。
改めて思うけど、今の私は完全にすっぽんぽんだ。
相手が女性ということもあってそこまで意識してなかったけど、やっぱり私だけ裸なのはなんとなく居心地が悪い。
部屋に一人にされて、余計にそう感じる
でも、もともとが裸で出てきたから、服があるわけでもないし……。
なにか毛布でも貸してもらえるよう言ってみようか。
「お待たせ~。……ってあれ、そういえば尻尾は?」
「きゃあっ!?」
すっかり忘れてた!
クスクス聞こえる笑い声に顔を赤くしながらゆっくり引き抜いていく。
ずっと付けっぱなしだったから違和感がなくなってたんだよぅ……。
「ほら、貸しなさい。綺麗にしないと」
「あ、すみません……」
紅茶の入ったカップを載せたトレイをテーブルに置いたお姉さまに尻尾付きアナルプラグを渡す。
口枷といい手間を掛けさせてばかりで申し訳ない。
そんなことを思っていたら、受け取ったプラグの先端部分をこちらに向けて、お姉さまは笑いかけてきた。
「じゃあ、はい」
「……はい?」
「さぁ、舐めなさいな」
「!?」
きゅうっと胸が締め付けられた。
いきなりマゾの思考回路にスイッチが入る。
楽しいお茶会でも始まるのかと思ったら、急にこんな……。
すっかり毛布の要望を言い出すタイミングを逸しながら、目の前に突きつけらたプラグを見る。
「あの……これ……」
「それとも、あたしの『お願い』、聞けない?」
「う……」
ああ、そうか……。
これが相手を虐めるときの顔なんだな……。
しかも『命令』じゃなく『お願い』ときたもんだ。
「で……も……」
「……」
「……ぅ……」
「……」
「…………舐め、ます……」
……負けた。
本当はやりたくないけど、……やらなくちゃ。
そんな気持ちになってくる。
お姉さまに見つめられると、お姉さまの前だと、自分が守ろうとしているプライドとか、尊厳とか、何もかも無意味なように思えてくる。
自分が正しいはずなのに、果たしてそれが本当に正しいことなのか、わからなくなる。 どんなに自分がおかしいと思っても、お姉さまが言うことのほうが正しい。
そんな気持ちさえ湧いてくる。
「そう、えらいわね」
そして、笑顔。
無条件で私を受け入れてくれるような、優しい笑顔。
それでいいんだよ、それが正しいことなんだよ、と諭すかのように。
包まれる。
自分が、薄められる。
わからなくなる。
染め、られる。
「そんなあなたに免じてひと舐めで許してあげる」
「あ、ありがとうございます……」
「素直に、あたしのことを信じてくれたから。わかるわね」
「……はい。ありがとうございます」
「ん。じゃ、はいどうぞ」
本当は、私が感謝の言葉を口にするのはおかしいことだと思う。
でも、この場においては、それが正しいのだと思える。
そう思わせる力が、お姉さまから感じられた。
そして目の前に出される、尻尾プラグの、プラグ側。
その丸みを帯びたピンク色の樹脂素材には、ぱっと見異物が付着しているようには見えない。
だけど、てらてらと蛍光灯の光を反射しているのは、まぎれもなく今までお尻の粘膜に触れていたからだ。
その今の今まで自分のお尻に挿していたという事実が、見た目以上に不浄のものとしてそれを脚色する。
「……」
ひ、ひと舐め、だけだもん……。
ひと舐めさえすれば許してもらえるんだから……。
そんなことを必死に言い聞かせる。
お姉さまは相変わらずニコニコと私を見つめているだけ。
あまり躊躇っていては、ひと舐めでは済まされないかもしれない。
そんな思いもあって、震える身体を押し込めながら、私は舌を伸ばし、
「……ん…………」
ぺろ、と、プラグに舌を這わせた。
「……あ……ぅぅぅぅっ……!」
味わったのは、ほのかな苦味と温もり。
それと、舐めてしまったという事実からくる背徳感と鳥肌。
かすかに吐き気を催しながら震えていると、私よりもひと回り大きいお姉さまにキュッと抱きしめられた。
「よくできました。お願い聞いてくれてありがとうね」
「あ……」
そうやって抱きしめられていると、不思議と身体の震えも収まってくる。
何故こんな汚いものを舐めてしまったのか、そんな答えようの無い疑問も、お姉さまのお願いを叶えてあげられたんだ、と思うとなんだか納得できた。
「ふふふ……ごめんね、ちょっと意地悪したくなっちゃって」
お茶目に笑いながら、身体が離される。
どちらかといえば美人タイプのお姉さまだけど、こうして笑うと悔しいくらい可愛い。
「さてさて、せっかくの紅茶が冷めちゃうわね。……はい、こっちがきぃちゃんの」
「あ、すみません、いただきます……」
「ってそのままの格好じゃあれか。気が利かなくてごめんね。ちょっと待ってて」
またバタバタと奥に引っ込んでいくお姉さま。
結局自分から言えずに気を使ってもらっちゃった。
冬でもないし、部屋の中は適温だから風邪をひくことはないと思うけど。
いただいた紅茶をすすりながら待っていると、白いタオルのようなものを持ってお姉さまが戻ってきた。
「これでいいかしら。あたしが普段使ってるバスローブなんだけど……」
「あ、はい、十分です。ありがとうございます」
「ちょっとあなたには大きいかもしれないけど」
渡されたバスローブを羽織る。
ああ、お姉さまの香りが……とか言うと変態っぽいかな。今さらだけど。
でもバスローブごと自分の身体を抱くと、なんだか本当にお姉さまに包まれている感じがする。
気づかれないようにギュッとバスローブごと身体を抱きしめると、なんともいえない心地よさが広がった。
……でも、確かに私には少し大きいかも。
手とか、このままだと出てこないし。
「やっぱり大きいわね。あなたが小さいということもあるけど」
「……クラスでも一番前ですし。並ぶ順番とか」
「……でしょうね」
べ、別にコンプレックスに思っているわけじゃないけど、そりゃできるなら私だってモデルさんみたいに…………はぁ。
「ま、まぁ、とりあえずどうぞ」
「……いただきます」
しばし部屋の中にズズズ、と紅茶をすする音が響く。
さっきも少し飲んだけど、やっぱり美味しい。
甘さもちょうどいい具合だし。
「……おいしいです」
「そう?ならよかった」
お姉さまの顔がほころび、またカップの陰へと隠れる。
私も、また一口すする。
なんというか、のんびりした時間だな……。
部屋の中が静かなのを苦痛に思うときもあるけど、お姉さま相手だと気にならない。
ずっとこうしていられるような、こうしていたいような。
「……あのさ」
「……?」
急に、お姉さまの声が聞こえた。
「……きぃちゃんは、良い子だね」
「……なんですか、いきなり」
なんともしみじみと言われたので、どう返していいかも分からず生返事気味にそう言った。
「あは、脈絡が無さ過ぎるか、うん」
「そ、そうですよ。いきなりそんなこと言われても……」
「そうだよね。あはは……」
どうしたんだろう。
虚空を見つめるお姉さまの瞳が、やけに寂しく映る。
ベッドの上で壁にもたれるその姿はどこか絵画的で、目を離すとその瞬間にお姉さまが消えてしまうような、そんなあり得ないことを想像させるような儚さがそこにはあった。 さっきまでの明るいお姉さまを見ていた分だけ、今のお姉さまとのギャップがすごくて、相手は女性なのに何故か胸がきゅんとしてしまった。
「きぃちゃんは、あたしのことどう思う?」
視線が私に合わせられた瞬間、今度は心臓がドクンと高鳴る。
「……会ったばかりで何とも言いづらいですけど、……いい人、だと思います。助けてもらったし、今だってこうして、よくしてもらってますから」
「出会ってほんの数時間くらいしか経ってないのに? これから酷いことするかもしれないのに?」
「これからのことは……分かりません。でもお姉さまが悪い人じゃないってことは、この数時間で分かりました。もちろんそれだけでお姉さまの全てが分かったなんて言うつもりは無いですけど」
これは、心からの言葉。
この先いろんなことされちゃうかもしれないけど……。
でも、今まで接した中では、どうしてもこの人が悪い人には見えない。
「そっか……。やっぱり、きぃちゃんは良い子だね。……それに比べて、あたしは、……汚れちゃってるから」
「……お姉さま?」
さっきまでの冗談交じりの自虐とは違う。
本当に一瞬だけ、私には計れない悲しい笑顔が見えて。
言われたくない言葉だったはずの『良い子』という言葉が、不思議とお姉さまが口にするとそれほど嫌悪感を抱かなかった。
「……ねぇきぃちゃん」
さっきから不整脈のようにおかしな鼓動の高鳴りが止まらない。
恐怖でも、興奮でも、ない……と思う。
なんだかよく分からない。
ただ、頭では理解できずに、身体だけ反応している感じ。
そしてその反応は、次の瞬間急にピークを迎えた。
「あたし、あなたの全てが、欲しいな」
▼
「……っ」
ゾクリ、と、言いようの無い寒気を感じた。
恐怖でも興奮でもない、とさっきは思った。
けど、そうじゃない。
恐怖でもあり、興奮でも、あったんだ。
未知のものに触れる恐怖。
後戻りできない感覚。
そして、怖いもの見たさ。
まるで幽霊と話しているような、そんな感覚を覚えた。
「きぃちゃんもまだ学生だし、友達もご両親もいるし、すぐには無理だけどさ。予行演習としてここに通って、いや、なんだったらここに下宿するのもありかな」
「お、お姉さま……?」
「そして、卒業して、みんなとバイバイして、どこか遠くで一緒に暮らすの」
話の展開についていけない。
矢継ぎ早に、まくし立てるように、異論を挟ませないように。
言葉の渦が私を取り囲む。
心臓が、筋肉痛になりそう。
どうしたらいい?
こんなときは、どうしたらいい?
期待と恐怖と望んだものがいっぺんに来たときは。
覚悟する勇気と現実問題と理想と本心の選択を迫られたときは。
「ねぇ、きぃちゃん。……本気で、私のペットになる気はない?」
本気だ、この人。
嘘を言っているようには見えない。
『結婚しないか』
そういってプロポーズするみたいに、真剣で、重さが感じられた。
本身の言葉でもって問いかけられるのは嬉しい。
今までほとんど経験したことがないから。
「私」に向き合ってくれていると思えるから。
そう思いたい、と思えたから。
だからこそ戸惑う。
半端な覚悟では、それに向き合えない。
「人間関係とか、社会とか、煩わしい思いなんかない。必要なものは全てあたしがあげる。……そのかわり、あたしはきぃちゃんの全てをもらう」
「あ、あの、おね……!」
押し付けがましい。自分勝手。
話の内容を客観的に見れば、そういう言葉が口を出る。
……ただ、この人は。
私が覗いていた部屋の、「中」を見せてくれようとしている。
そしてなおかつ、その中へ私を招いてくれるという。
なにが、ただしい?
「どうかしら。言っておくけど、あたしは本気よ? それを実行する経済力もある」
それは、分かって、ます。
その心配は、していません。
「だから、今度はあなた自身の言葉で聞かせて欲しい。あのときのように快楽に惚けた頭じゃなくて、あたしの言葉の重さが理解できる今の頭で出した答えを」
「わ、私は……でも……その……」
言いよどむ。
当然、だと思う。
だって、まだ話をよく噛み砕けていない。
内容は、分かるけど、実感が、追いつかない。
出会ったばかりだ。まだこの人を何も分かっていない。
でも、迫られてる。委ねられてる。
目の前の選択肢は、私の答えを待っている。
受けるか、受けないか。
受け入れるか、受け入れないか。
どうしたい?
私は、どうしたい?
どちらを選びたい?
私の。
私の、意志は……。
「……なるほど、拒否は、しないんだ」
「……っ!?」
その一言に、ぶち壊された。
心臓を、文字通り鷲掴みされた気分だった。
『拒否は、しないんだ』
その一言が、頭の中をリフレインする。
何故か、やられたという思いが頭をよぎる。
もしかしたら急なこの言葉も、私の反応を試すものだったのかもしれない。
そう考えれば、これはまさに「まんまと」な状況だろう。
どちらにしろ、出会ってから今まで、私が主導権を握ったことはないけど。
だけどそれにしたって、これは確定的だと思うわけで。
考えれば考えるほど、当たり前の話だ。
嫌なら嫌と言えばいい。
じゃあ何故言わないの?
嫌じゃ、ないから?
私は、やっぱり望んでいるの?
「やめて……」
こんなとき。
無駄に理解力のあるこの頭が恨めしい。
考えるな。考えないで。
理解しないで。
そこに、辿り着かないで。
「い……や……」
望む?
望まない?
拒否しなかった。
望んでいる?
現実問題。
生きるうえで不便なし。
好きなこと?
嬉しいこと?
そうだと、思う。
そう、両親は?
説得、可能?
……出来る、と思う。
今までの行い。
多少の我侭は聞いてもらえる。
では、良心は?
「いやああっ!?」
頭がおかしくなりそう。
重すぎる。
皮肉だ。
今まで守ってきてくれたものは、今までぶち壊したかったもので。
今邪魔をするそれは、揺さぶられても何とか私を踏みとどまらせている。
理解できない。
壊したかったものに、すがりたい気持ちがある。
今更になって、大事なもののように感じる。
どっち?
いいの?
わるいの?
もうそんなのは、かんけいないの?
理解できない。
いや、折り合いがつけられない?
いや、覚悟が出来ない?
いや、単純に怖い?
身体が震える。
でもしばらくして、身体の震えが、止まった。
「ごめんね。会ったばかりで急にこんなこと」
抱きしめられていた。
「あたし、ずるい女だから」
それは、どの意味での謝罪だったのか。
自分の我侭に付き合わせることか。
人生を奪うことか。
一方的な問いかけのことか。
単なる自己嫌悪か。
自己擁護の積み重ねか。
「だけど、本気よ」
これからのことか。
視線は、天井を向いたまま。
白く光る蛍光灯だけ見つめて。
近くから聞こえる声で頭の中はだんだんと澄み渡り。
「しばらく、あたしと遊びましょう。今の答えは、また今度聞くから。……存分に、染まってから、ね」
「……はい」
自分の返事だけは、やけにはっきりと頭の中に響いた。
楔を打ち込まれた。それもお姉さまの望む効果を持つものを。
私はそれを結果的に受け入れていた。
1か10かを曖昧にしたところで、7を選んでしまった私の答えは、つまりはそういうことだったんだ。
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