第四話『細道散歩の舞』

「彼女は、まだここに来て浅いけど。とても優秀よ。適性があったんでしょうね。すぐに自分がヒトイヌであるということを受け入れたわ。今のあなたがどう思うか分からないけど、それは彼女にとってとても幸せなことなのよ」
「……」
「もうすぐ彼女はここを卒業するわ。貰い手が決まったの。行き先はとある風俗店……、ああ、もちろん表の人間は入れないような、ね。そこで看板犬として働くことになるのよ。お給料の代わりに、ドッグフードをもらいながら。……ふふ、彼女、背負わされた借金があるのよね。まぁ一生働いても返せないだろうから、言うなれば『寿命が尽きるまでヒトイヌプレイ』ってとこね」

　プレイと聞くと、どこか軽く聞こえる。
　例えば幾ばくかのお金を払って、ひとときの非日常を楽しむような。仮初のロールでもって、一時的で刹那的な快楽を得るような。
　実際、彼女を求めてお店に来るであろう客からすれば、それは正しい。

　でも、彼女はそうじゃない。この表現は正しくない。
　何故なら、これはどこまでも現実だから。

　世間知らずな私でも分かる。
　彼女はあくまでヒトイヌとして貰われていく。人間としての彼女は必要とされていない。だから、きっと人間に戻ることはない。いや、もう戻れない。
　『寿命が尽きるまで』というのは、そういうことだ。

　プレイなんかじゃない。
　本当に、ヒトイヌという存在として生きていかなくてはいけないのだ。

「……っ」

　それはとても残酷な現実だった。会ったこともないどこかの誰かが決めた常識だった。
　だけど本当に恐ろしいのは、彼女は『未来の自分』かもしれないということだった。

「ここは基本的にふたなり処分場よ。あなたみたいなね。でも、たまに彼女のように、ふたなりじゃないけど連れてこられる子もいる。お金絡みが多いわねやっぱり。あとは怨恨とか、単純に調教依頼みたいなのとか。どこにでも好事家はいるものね」

　歩き出した女性。その後ろについて歩く。
　辺りを見渡せば、そこかしこで黒い物体が蠢いている。赤やピンク、茶色のものもいる。けど形は決まって同じ。短い手足に不格好なフォルム。

　その画一的な蠢きをいくつも見るうちに、ここが牛や馬と同じような、ヒトイヌという家畜を飼育する牧場のようにも思えてくる。
　そしてそのどれもが、かつては人間だったものだ。社会に、お金に、誰かに負けて、ここに連れてこられた。その結果がこれだ。

　皆、どんな気持ちを抱いてここに来たんだろう。ここにいるんだろう。
　怒り、悲しみ、諦め。一言では言い表せられない感情。そんな人間らしい感情を表現することすら奪われて、押し込められて。
　それらは、誰かの享楽のために消費されるのだ。そうして人生すら食い潰されるのだ。

「……」

　だとしたら、私は。これからをどう生きればいいのだろう。
　全てを奪われ、捧げることを決められた私たちは。

「ここで働いているとね。弱肉強食、という言葉の意味が、よく分かるわ」

　何もない。
　あるのは新しく押し付けられた、ヒトイヌという生き方だけ。

▼

　施設にある庭はとても広い。
　一面に広がる青々とした芝生。スポーツはよく知らないけど、サッカーの試合くらいなら余裕でできると思う。これだけ広ければ整備も大変そうだけど、いつ来てもここは綺麗だ。

　そしてさらに驚くべきは、同じような広さの庭がいくつもあること。建物を含めて、ここの土地関係はいったいどうなっているのか、溜息すら飽いてくる。目的からするに、大口のパトロンが大勢いるのだろう。

　ただ、そんなことは今の私にはあまり関係ない。
　ヒトイヌにとって大事なのは、ここを散歩する際に歩きやすいかどうか。
　そしてそのことに関して言えば、この庭はありがたいことに文句のつけようがなかった。

「は……は……っ」

　前足を出して、後足を引き寄せて。初めの頃に習った四つ足の歩き方で、芝生の上を行く。コンクリートの廊下に比べれば、手足の負担も少しはマシだ。あくまでマシなだけだけど。
　マスクに僅かに空いた鼻の穴が、青臭い匂いを拾う。それはどこか安心する匂いで、無機質な日常にほんの少し色を置いてくれるようだった。

「は……ふ……」
「今日もいい天気ね～」
「はふ……あうっ……」

　上から声が掛けられたので、それに応える。
　午前の空は碧く、気温もそれほど高くない。散歩するにはいい日和だ。視線の先、私の首輪からのびるリードを握るアキさんは、ほんわかとした表情で微笑んでいた。

　対する私は、拘束された不自由な身体で必死に後を追う。ご主人様に遅れないように、息を切らしながら。ぴたりと足元に付き従いながら。
　遅れるわけにはいかない。遅れれば首輪を引かれて苦しいし、それが何度も続くようだとお仕置きが待っている。だから必死だ。

　もちろん、肘と膝の四足歩行が、二足歩行の速度についていけるわけがない。いくらヒトイヌといっても、本物の犬ではないから。
　でも、関係ない。歩けと言われたら歩く。ついて来いと言われたらついていく。それが命令に従うということ。

　慣れれば慣れるもので、最初は頻繁にお仕置きを受けていたものの、最近ではコツを掴んだのかその頻度は減ってきている。すぐに息が切れるし、そもそもマウスピースや拘束の圧迫で呼吸しづらいから、つらいことには変わりないけど。
　それでも、芝の匂いで情緒を感じられる程度には余裕ができた。どんどん適した身体に変化していっているのだと思う。

「みんなやってるわね～」

　アキさんの声に、視線を前に戻す。眼前に広がる庭の、あちこちに人影と黒い影が見える。
　私以外のヒトイヌたちだ。

「……」

　庭を使うのは私だけじゃない。最初に『先輩』たちを見せられたし、それは分かっていた。
　だけど、実際に私以外にも同じようにヒトイヌとして調教されている人を見ていると、目眩がする。
　これがフィクションではなく、本当に公共事業として社会に存在しているという事実。そんな逃れようのないリアリティが、より私を追い詰めていくようで。

「ルキナ、いくわよ～」
「あ、あぅっ」

　立ち止まって少しボーッとしていた私を急かすように、アキさんがリードを引く。慌てて足を動かす。

「ひゃっ!?」
「ん～？　ルキナ、どうしたの～？」
「ひ……ぅ……」

　途端に痛みが襲う。発生源は下腹部。ペニスだった。
　散歩に集中していなかったせいで、萎えて垂れ下がり、地面と擦れたのだ。

「ああ～。もう、早く大きくしちゃいなさい～」
「あう……ん……んっ……！」

　怪訝そうだったアキさんも、理由に感づいて「仕方ないわね」と言わんばかりに苦笑した。それが異様に恥ずかしくて、私は慌ててペニスを芝生に擦り始める。
　さらさらと、ちくちくと。芝生は床オナとはまた違った刺激。望むようなそれではなくて物足りないけど、逆にそのもどかしさが新鮮でいい。外でオナニーをするという背徳感も手伝って、次第にペニスに硬度が戻る。

「ふ……ん、ん……っ」

　……今、両手で思いっきり擦ったら、どれだけ気持ちいいんだろう。

　ついそんなことを考えてしまって、僅かに頭を横に振る。それは叶わない夢だ。実際はぎこちない動きで芝生におねだりするしかない。
　その姿は何て惨めなものなんだろう。人並みにオナニーもできず、それどころか犬にも劣る格好で地を這ってヘコヘコと腰を振って。その情けなさが悔しくて、でもいつからか、そんな自分のことを……。

「は……はふっ……ん……は！」

　心臓がしんどいくらいに高鳴って、どんどん神経が敏感になっていく。後で痛い思いをしないため。そう分かっているのに。そのために必要なことで、それ以上でも以下でもないと、割り切っているはずなのに。
　まるで自分が、今の境遇をおかずにしてオナニーをしているような。惨めな自分に興奮を覚えているような。そんな錯覚さえしてしまう。
　こんなこと、初めの頃はなかったのに。

「あ……あっ……！」

　違う。これは仕方のないこと。こうしなければ、痛い目を見るのは自分だから。そのためには興奮する材料が必要で、たまたま『それ』をおかずに選んでしまっただけ。そう自分に言い聞かせる。
　理性はまだ理屈を手放していない。快楽に溺れているわけじゃない。ちゃんと理由を持っている。
　それを言い訳にして、私はオナニーをする。歩くためのオナニー。ペニスを大きくするためだけのオナニー。ただそれだけ。

「大きくなった～？　なら行きましょうか～」
「はぁ……はぁ……あう……」

　膨らんだペニスがぐぐっと持ち上がり、お腹につく。これで地面に擦れることはない。
　でも、油断すればすぐに今みたいなことになる。だから、ペニスを萎えさせないように、常にエッチなことを頭に思い浮かべ続ける。

　萎えないように、ずっと、ずっと。発情し続ける。気持ちよくなることしか考えなくなる訓練。
　それもまた、この散歩の目的の一つだった。

「でもルキナも、だんだん『ちんちんこしゅこしゅ』の回数減ってきたわね～」

　ただ、最近は『普通の』エッチな妄想もネタが尽きてきて。
　さっきみたいに、今の自分を客観視するような。こんなにも酷い目に遭っている自分にドキドキすることが増えてきた。

　それをネタにすれば、長持ちするのだ。ずっとドキドキしていられる。きっとそれは、現在進行形だからなんだろう。現実に終わりがない限り、妄想にも終わりはないから。興奮がいつまでも終わらない。
　この惨めな調教が終わらないおかげで、私は興奮し続けることができ、ペニスも萎えず、ご主人様の足を止めることが少なくなるのだ。

「……っ！」

　そこまで考えて、慌てて思考を消した。
　どうかしている。何でこんなことを考えたのか。こんなの、おかしい……。

　お仕置きを避けようとするあまり、時折思考が捻じ曲がってしまう。
　誤解しちゃいけない。劇薬を与えられて、それで痛みがマシになったところで、感謝なんてしちゃいけない。元々その痛みすら与えられたものなのだから。

「はっ……はっ……」

　余計なことを考えず、無心になって歩く。
　右前足。左後足。左前足。右後足。
　動かす順番はもう身体に染み付いている。染み付いてなきゃいけない。探り探り歩いていてはご主人様についていけないし、動かす順番に気を取られていたら命令を見逃す危険がある。
　視線と注意は常にご主人様へ。それが安全に散歩をするために大事なこと。

「はっ……はっ……」

　そしてもう一つ大事なこと。
　私が散歩に連れてこられる大きな理由。目的。

「はっ……あ……あぅっ！」

　『それ』を見つけて、私は鳴き声を上げながら立ち止まった。

「ルキナ～？」
「あぅあぅ！」
「……？　……ああ～、『ここ』だったのね～」

　初めは不思議そうな顔をしていたアキさんだったけど、私の様子と地面のそれを見て得心したようだった。

「ちゃんと覚えてたのね～。『おトイレ』の場所」

　視線の先にあるのは、長方形にくり抜かれた小さな砂場。
　芝生の緑の中にぽっかりと浮かぶ白い四角は、この庭のいたるところに配置されていて、それぞれがヒトイヌたちのトイレだ。
　当然『私のトイレ』も用意されていて、それがここだった。

「え～と……」

　散歩の途中でトイレを済ますよう躾けるのも、調教の一環なんだろう。
　砂場は基本的に散歩コース上にあって、ヒトイヌたちは散歩をしながら、自分に割り当てられたトイレで立ち止まり排泄する決まりになっていた。

「うんうん、ここで合ってるわ～。偉いわね～」

　アキさんが情報端末を取り出し、場所を照合して褒めてくれる。頭を撫でられ、合っていたことにホッと安堵する。
　散歩は毎回同じ人がパートナーとは限らない。運が悪いと、施設見学に来た外部の人がリードを持つなんてこともある。だからこそきちんと場所を覚えなきゃいけないし、自分で知らせないといけない。
　何故なら、ここがお前のトイレだって教えてなんてもらえないから。そして間違えたらお仕置きされるから。だからみんな必死で自分のトイレを覚える。

「それじゃあ『し～し～』しちゃってね～」
「あぅ」

　とはいえそこには目印も何もない。周囲の風景をあてにするのも限界がある。当てずっぽうで辿り着くには数が多すぎるから、運任せにするのもリスキーだ。

　ならどうするのか。
　最終的に決め手になるのは『臭い』だ。

　各砂場の砂にはそれぞれ違う臭いが付けられていて、それで嗅ぎ分けることができる。というより、できるようにならなくちゃいけない。だからトイレを見かけたら、いちいち砂を嗅いで回る。そしてこれだと思ったらご主人様に知らせるのだ。

「くぅん。くぅん」

　晴れて正解を引いた私は、鼻で鳴きながらその場でくるくると回り出す。
　意味なんかない。ただ犬っぽいという理由だけで義務付けられた所作だ。
　のそのそと円を描き、三回ほど回ったところで砂場を跨いで腰を下ろす。

「ん……あ、あ……っ」

　雌犬がおしっこをするときのポーズ。拘束された身体では、これ以外に姿勢のとりようがない。
　しゃがみこんでしばらくすると、ぷしゃっと飛沫が散る。続いてポトポトと雫が垂れ、じょぼぼぼぼと線になって砂場に吸い込まれていく。
　こんな姿をしていてもなお、ほうと気が抜ける瞬間だ。

「ん……ふ」

　ちなみにふたなりは、睾丸がどこにあるかでおしっこを出す場所が変わる。
　睾丸が体外にある『玉つき』の場合は、男性器から出す。
　睾丸が体内にある『玉なし』の場合は、女性器から出す。
　私は玉なしなので、女性器からおしっこをしている。

　これは生殖機能にも関係していて、玉つきには僅かに生殖能力がある。その気になれば相手を妊娠させることもできる。
　ただ、ふたなりとの間に子どもを作ろうと考える一般女性はいないから、ふたなり同士の子作りになる場合がほとんどだ。ただその場合でも、法律で禁止されていることに加え、自分たちの子どもにまでつらい思いをさせたくないという理由から、ふたなり同士でも子どもを作ることは稀だ。

　万が一子どもが欲しいと思っても、ふたなりの生殖能力は男性のそれと比べて著しく機能が劣る。だから、子孫を残すには延々と性交を続けないと受精できない。
　その姿はまさに色狂いの獣で、ふたなりへの偏見をより助長させている。実際、私も学校の啓発ビデオでその姿を観せられ、ふたなりというのは『年中交尾している獣』という認識を持っていた。
　自分自身がその立場になるまでは。

「は……あ……ぁ……」

　反対に、玉なしに生殖能力はない。睾丸が体内にあるせいで、体熱により精子が死んでしまうからだそうだ。なので私に相手を孕ませる能力はなく、あくまで孕む側ということになる。『女性型』と言い換えてもいい。

　つまるところ、生物的に言えば私にペニスは必要ないということになる。
　なのに、それは股間にぶら下がっている。これは一体何のためなのか。

　それに、後天的にふたなりになるのはとても珍しいらしい。
　また、後天性の場合は例外なく玉なしなのだという。

　そのことが、妙に引っかかる。何が、とは言えないけど。喉に小骨が刺さったような違和感。
　情報が正しいとするならば、どうしてもそこに作為的なものを感じてしまう。
　だけど、そのことについて考え始めると、とたんに、酷い、頭痛が……。

「ん……ぁ、ぐっ！」
「……」

　……。
　生殖能力はない。ただ、射精の快楽はある。
　厳密には精子がないし、ただの分泌液だから、正しくは射液だけど。快楽だけはあるのだ。

　そのことが余計に私を苦しめる。ふたなりは『快楽に支配された悪魔の忌子』だと、そう言われる理由も少し分かってしまう。
　本来は排泄器官であり生殖器官であるはずのペニスの使い道が、快感を得る目的にしか使えないのだから。

「ふ、ん……はぁ……」

　ふたなりという存在を憂う間に、線状のおしっこは雫に変わっていた。
　初めの頃は、ここでしなくちゃと意気込んでもなかなか出なかった。『個室に篭って便座に座って排泄する』という常識は、思った以上に心身に深く刻まれていたようで。野外で、人前で、獣のように垂れ流すという羞恥と屈辱は今でも顔を紅くさせる。
　けど、出せるようになってしまった。それが調教なんだろう。この場合はトイレトレーニングといったほうが適切かもしれない。人間として生きるための躾を、ヒトイヌとして生きるための躾が上書きしていく。
　今ではもうすっかり、こうして排泄することが普通になっていた。

「大きい方もしてしまってね～」
「……あう」

　おしっこが出終わる辺りで、アキさんからの命令。
　百歩譲っておしっこはできても、大きい方なんて……。少し前まではそう思っていた。だから私は、過去に出ない振りをして、そして便秘になったことがあった。
　すると、確かに一時的な辱めは逃れられた。だけどその後、吐気がするほど大量に浣腸され、見せしめとしてみんなに排泄を見られるというお仕置きが連日続いた。
　それを受けてからは、素直にトイレで出すようになった。

「ん……！　ん、ん、ん……」

　腰を下ろしたまま力む。そう経たないうちにうんちの頭が出た。ミチミチと押し出される音が聞こえる。息む声が周りに響く。
　すごく恥ずかしい。でも、もう公開排泄は嫌だ。それに後でお腹が痛くなっても、誰も助けてくれない。大きい方はここでしか出すことを許されていない。
　部屋にあるトイレシートはおしっこ専用で、うんちを出すと怒られて酷いお仕置きを受ける。自分の体調のためにも、ここで出す必要がある。

「んぁっ！　は……ぁ……」

　ぞりゅ、とうんちが肛門を擦りながら落下する。野外で出してしまっているという背徳感。絶望感。それをすぐに開放感が包んで、羞恥が全てをうやむやにする。
　ぼと、ぼとと落ちる便はそれほど多くない。ただ臭いだけはしっかりと漂ってくる。なるべく嗅ぎたくないけど、拘束された身体では鼻も摘めない。

「はふ……ぅ……」

　やがて出し切った私は、思わず気の抜けた声を漏らした。茶色の塊が数個、白い砂場に転がっている。そこから目を逸らすように数歩離れて、アキさんに向けてお尻を差し出した。

「すっきりした～？」
「あ……う。ひゃぅっ」

　アキさんは臭いに嫌な顔ひとつせず、ウェットティッシュを手にお尻を拭いてくれる。冷やりとしたそれに変な声を上げて恥ずかしい思いをしても、首輪コルセットのせいで顔を俯けることもできない。
　それでもアキさんはよしよしと頭を撫でてくれるから、消えてしまいたくなる気持ちも少し薄れるような気がした。

「……よし。さ、行きましょうか～」
「あう」

　砂場に積み重なった排泄物をスコップで拾って袋に入れて、アキさんがリードを引く。意地悪な調教師がパートナーだと、その袋を咥えさせられたまま歩いたりするけど、アキさんはそういうことはしない。
　ただ純粋に散歩を楽しむ。そういうスタンスのようだった。

「ふんふ～ん♪」

　上機嫌に歩くアキさん。遅れないように必死の歩み。はぁはぁと漏れる荒い息、だらだらと垂れる涎。なりふりなんて構っていられない。

「は……ぁ、はふ……んっ」

　排泄を終え、次第に別の感情が私を支配し始める。それから逃れるように、軽く視線を周囲に向けた。
　同じように散歩をしている子。おもちゃを使って『とってこい』を教え込まれている子。本物の犬と交尾をしている子。お仕置きだろう、電気ショックでのたうち回っている子。
　すっかり見慣れてしまった風景。

「あ、せっかくだしルキナも『とってこい』しよっか～」
「はぁ……はぁ……、あんっ」

　そこまでして生きていたいのか。そんなことを考えてしまう。
　でもすぐにそれを掻き消す。

「今日はこれ～」

　近くのベンチに腰掛けたアキさんは、手提げ袋から骨のおもちゃを取り出した。
　私は目の色を変えてそれをじっと見つめる。

「あ、そのままじゃ取れないわね～」

　私の首輪に気付いたようで、外してくれた。首と頭を固定していたものがなくなり楽になる。少し頼りない気がして、首を振る。大きく動く首が嬉しくて、痛めない程度にぐるぐる回した。

「うふふ～。ルキナ嬉しそうね～」
「あ、あぅ……」

　久しぶりの解放感に浮かれていたようで、アキさんの微笑ましそうな視線に気付かなかった。バツが悪くなりながらも、身体が軽くなったような気がしてテンションが上がる。
　無理やり付けられたものが、気まぐれにただ外されただけなのに。心の中で、ありがとうございます、と感謝していた。

「う……うぅ……っ」

　そして何より、これはたくさんご褒美をもらう貴重なチャンスなのだ。それほど多くないその機会を、私は心待ちにしていた。散歩が楽しみな理由でもあった。
　我慢できず、急かすように身震いしてしまう。そんな私を宥めるアキさん。
　やがて少し離れたところへそれが投げられ、号令がかかる。

「……はい、『とってこい』～！」
「わふ！」

　威勢のいい鳴き声と心とは裏腹に、歩みはとてもたどたどしい。窮屈に固められた全身を精一杯くねるように使いながら、焦る気持ちを必死で抑えて四つの足を前に出していく。

「ろ～く、な～な、は～ち……」
「はふっ……ふ、……あっ……はぁっ……！」

　よちよちと、黒い芋虫が這っているように見えるかもしれない。これでも慣れたほうなのだ。転げなくなったし、スピードも出るようになった。子どもが走るよりも遅いけど。
　それでも成長しているのだ。立派なヒトイヌとして。

「じゅうさ～ん。ほらルキナ、おいで～」
「はぐ……はふ……ふう……！」

　骨のおもちゃにたどり着く。前足を左右に広げ、頭を落としてそれを咥える。口いっぱいに骨。閉じられない口からは荒れた息が漏れ、唾液を飲み込むこともできず、垂れ流しだ。
　反転してアキさんの元へ急ぐ。人が投げたものを口で咥えて拾ってくるなんて、人としてこんな屈辱的なことはないと思う。けど、今の私は犬を模したヒトイヌで。そして息を切らし急ぐ私にそれを嘆く余裕はない。

「にじゅうは～ち。すご～い、ルキナ、三十秒以内で取ってこれるようになったのね～」
「はっ……はっ……はう……」

　ここでの生活は不自由だ。調教によって常に追い立てられている。考えても考えても、瞬く間に流されていく。
　でも、ヒトイヌとしての私は、次第に自由を獲得していっている。前よりも早く歩けるようになったし、トイレも覚えた。ご主人様を楽しませる芸もできるようになった。

「よしよし～」
「あ、あっ！　あふっ……！　んんひぃ……！」

　そして上手くできればご褒美がもらえる。これこそが私の心を縛る鎖だった。鎖になってしまっていた。
　調教師の中でも恐ろしく繊細な指使いをするアキさん。そのアキさんに、ずっとお預けにされたままのペニスを撫でてもらえるのだ。

「はひ……っ！　あ、んあっ！　あ……！」

　その幸福感は、何物にも代えがたい。その細い指が近づく気配がするだけで、私の心臓はうるさいくらいに暴れ出す。触れるか触れないかのフェザータッチで、ガチガチのペニスがぼろぼろと涙を零す。
　それは自分の力でイクことのできない私ができる唯一のおねだり。必死の懇願。

「あう……！　あん、あ……んっ！」

　どうかイカせてください。つらいんです。我慢できないんです。

　今なら、ギュッと握ってもらえるだけで射精してしまえる。きっと。
　だというのに。いや、だからこそ。アキさんはそれをせず、ただギリギリ達してしまわない範囲で快楽に悶えるようペニスを撫でていく。

「あぅ！　あん、あん！　あううう！」

　我慢できずに、狂ったように懇願する。私には、それ以外に何もできないから。
　私の性欲、排泄、生殺与奪まで支配する、目の前のご主人様に媚を売ることしか。

「はあ……っ！　はぐ……！　う、うぅ！」
「ルキナったら、そんな必死になって～」

　ただでさえずっと生殺しの状態で、それでも自分で自分を追い詰めるように発情を強制され続けて。
　でも拘束された身体では発情するまでが限界で、絶対に絶頂へと辿りつけない無力感に発狂しそうになって。
　平気なフリをしていても、延々とお預けされ続けている心と身体はもうおかしくなっていて。
　少し小突けば、簡単に奈落の底へ転がり落ちてしまう状態。

「うふふ～。じゃあ、次よ～」

　そんな私に、アキさんはただ微笑みかけるだけ。
　最後に少しだけ強くスッと一撫ですると、次の『とってこい』の準備をする。

「あ、あう、あうっ!?　……うぅ」

　得られるはずだったものを目の前で取り上げられる、とてつもない切なさ。哀しみ。もどかしさ。噛み締めた歯がガチガチと震えるほど。

　だけどそれが当たり前なのだ。この世界は。
　家畜に奉仕する調教師はいない。そんなにご褒美は安くない。

　アキさんはたくさん褒めてくれるし優しいけど。決して甘くはない。
　愛情を持っているからこそ、飴と鞭がはっきりしている。

　だから、考える。分を弁えなきゃいけない。この程度で射精の快楽を得ようなんて甘えだ。もっと、もっと良い子になって、ご主人様に認めてもらわないと。そのためには、芸の一つひとつを一所懸命に。より上手に、より惨めに、こなしてみせなきゃ。

「ほら、『とってこ～い』」
「あうあうっ！」

　上手くできればできるほど、ここでの待遇は良くなる。実際、命令を上手くこなせるようになってからは、ご飯や寝床の質は初めの頃と比べて良くなった。
　そのために毎日様々な調教を受けているし、そうやって私は『私』を築き上げていっている。

「は……はっ……はふ……！」

　だけど、違うのだ。
　最近は、そんなことに興味を抱かなくなってきている自分がいる。

　ただただ、射精がしたい。それだけ。
　私が欲しいのは、今望んでいるのは、それだけ。

　美味しいご飯や、寝心地の良い毛布も嬉しいけど。
　そんなことより、ペニスからドクドクと汚い汁を吐き出して快楽を貪りたいのだ。

「じゅうく～。にじゅう～」
「んぁ、あはっ……！　はひ……ひぐ……！」

　こんなことを考えるようになった自分が、酷く矮小な存在に思える。
　それでも、もう今の気持ちに嘘はつけなかった。

　何のためにこんなつらいことをしているのか。させられているのか。
　ただその理由が欲しかったのかもしれない。
　そしてそれは、能動的な射精管理という見え透いた煽りによって捻じ曲げられ、私はいともたやすく蜘蛛の糸に絡め取られてしまった。

　きっと私はもう、何でもする。欲しい快楽が得られるなら。何でも。
　射精のためという、用意された惨めすぎる免罪符を大事に握りしめて。仕方ないという魔法の言葉を嘯きながら。

「にじゅうろ～く。ルキナ、さっきよりはやいはやい～」
「ひ……ひふ……ん、んあっ！」

　自分が浅ましすぎて泣きそうになる。
　もっともらしいことで理論武装した気になりながら、その実、ただ快楽を得たいがために目の前の餌に飛びついているのだ。

　もう自分が分からない。本当の感情はどこへ行ったのだろう。そもそも本当の感情ってなんだろう。今抱いている感情は、本当のものじゃないのだろうか。こんなにも心の底から思っているのに。
　だけどそれらをじっくりと確かめる時間は与えられず、ただ強烈な欲望が私を飲み込んでいく。そしてまた自己嫌悪に溺れていく。出口の見えない負の螺旋。

「はい、ご褒美～」
「はふ……は、あぅっ！　あ、あ、ひふっ！」

　それでも。
　そんな私を褒めてくれる人がいる。そのままでいいのだと、全てを包み込んでくれる。
　脳の細胞がブチブチと一つずつ潰されていくような、承認の幸福と背水の絶望。それを受け入れれば、生きる幸せと死ぬ恐怖が同時にやってくる。
　そしてそれはもはや逃れようがないのだ。
　目の前に迫った天獄が、私を抱き締めようと両手を広げて待っている。

「ルキナは偉いわね～」

　この闘いはあまりにも孤独で。
　清々しいほどに勝ち目がなかった。

「ん、じゃあもう一回ね～」
「わふ！」

　私はどうすればいいの。どうすることが正解なの。
　正解の定義すら失った私に、答えが出るはずもない。

　それでも心はそれを求めて。
　目の前のできることをただただ必死でこなす。

「はっ……はっ……はひっ！」

　逃れるように、振り切るように。私はただただ走った。
　放り投げられた骨のおもちゃだけを視界に捉えて。
　次はもっと強く撫でてくれるかな、なんて考えながら。